デジタル大辞泉 「木津川」の意味・読み・例文・類語
きづ‐がわ〔‐がは〕【木津川】
京都府南端にある市。が東西に流れる。1980年代に京都府・大阪府・奈良県にまたがる関西文化学術研究都市の一部として開発が進み、平成19年(2007)3月、山城町・木津町・加茂町が合併して市制施行。官民の研究機関が多い。人口7.0万(2010)。
淀川の支流。主として京都府南部を流れる大河川。源は伊賀・伊勢の国境にそびえる
川名は流域によって
「古事記」崇神天皇の段に「是に山代の和訶羅河に到りし時、其の建波邇安王、軍を興して待ち遮り、各河を中に挟みて、対ひ立ちて相挑みき、故、其地を号けて
木津川は古くより近江・山城・大和を結ぶ水上交通路として開かれていたことは、「日本書紀」仁徳天皇三〇年秋九月の条に、
とあり、皇后が宇治川を下り、山背川をさかのぼり大和に至っている記事からもうかがえる。
平安時代になると権門勢家の重要な交通機関となり、日記などに散見される。寛弘四年(一〇〇七)八月
また下流宇治川との合流点辺りの
現在の木津川は、上流の伊賀地方では呼称が変化する。阿山郡
河道の変遷ははなはだしい。現流路との相違を大略すると、まず阿保川は阿保盆地で南を流れ、阿保の町並は旧河道の自然堤防上に形成されたと考えられる。峡隘の塚原下流八〇〇メートル辺りからは左方へ浸食し、
旧淀川本流の流末における分流の一。指定流路延長八・八キロ。
江戸時代の木津川は土佐堀川との分岐点
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都府南端の市。2007年3月加茂(かも),木津(きづ),山城(やましろ)の3町が合体して成立した。人口6万9761(2010)。
木津川市東部の旧町。旧相楽郡所属。人口1万5607(2005)。笠置山地に連なる丘陵が大部分を占め,西流する木津川沿いに低地が広がり,盆地状をなす。米作を中心に茶,蔬菜,ブドウ,シイタケの栽培が盛んであり,ふすま紙,壁紙の生産は,全国生産高の3割を占める。伝統産業として加茂焼もある。740-744年(天平12-16)に聖武天皇の恭仁京(くにきよう)が置かれた地で,山城国分寺もあり,その東の銭司(ぜず)は和同開珎を鋳造した鋳銭場のあった所とされる。浄瑠璃寺,岩船寺,海住山寺などがあり,訪れる人も多い。JR関西本線,国道163号線が通じる。
木津川市南西部の旧町。旧相楽郡所属。人口3万9129(2005)。北縁を淀川の支流木津川が流れ,南は奈良市に接する。京都と奈良を結ぶ交通の要所にあり,古代から木津川の津が設けられていた。舟運は大正期には衰えたが,現在もJR関西本線と奈良線,片町線が分岐し,近鉄京都線,国道24号,163号線が走る交通の要地である。農業は稲作を中心とし,蔬菜,イチゴの栽培,酪農などが行われ,鹿背山地区の富有柿も有名である。工業では特に市坂地区のボタン製造が盛んで,海外にまで市場を広げている。南部の丘陵地では奈良県にまたがる平城ニュータウンが造成された。相良(さがなか)神社,大智寺,法泉寺など古社寺も多い。
執筆者:松原 宏
木津川の南岸に臨み,古代において奈良へ運ばれる木材は,宇治津から巨椋(おぐら)池を経て木津川をさかのぼり,木津で陸揚げされた。木津川は古代には泉河と呼ばれ,木津は泉津,泉木津と称され,東大寺をはじめ奈良の寺院はこの地に木屋を設けた。北岸には行基によって泉橋寺が建てられ,橋が架けられたが,《三代実録》には,川の流れが急なため橋梁が破壊されやすく,洪水のたびに通行が不能となったと記している。
執筆者:千田 稔
木津川市北西部の旧町。旧相楽郡所属。人口8913(2005)。東部は笠置山地につらなる山地で,西流する木津川が大きく曲流して町域の南と,西を画する。天神川,不動川,鳴子川などが東部山地から西流,平地で天井川となって木津川に注ぐ。木津川東岸の丘陵末端には椿井(つばい)大塚山古墳(大塚山古墳)があり,北岸の上狛(かみこま)には泉川(木津川)架橋のとき行基が建立した泉橋(せんきよう)寺(橋寺(はしでら)),《日本霊異記》に名のみえる高麗(こま)寺跡(史)がある。〈狛野〉〈狛のわたり〉とよばれたこの一帯はやがて興福寺領狛野荘となり,室町時代には狛野南荘に狛氏,北荘に椿井氏がおり,応仁の乱や山城国一揆を経るなかで勢力の消長があった。北西部の綺田(かばた)には綺荘があり,同地の蟹満(かにまん)寺は蟹の報恩説話を伝える。江戸時代には皇室領,公家領,幕府領,津藩領などが錯綜した。農林業が主で,たけのこ,シイタケ,ブドウなどの栽培のほか,上狛を中心に茶の集散・加工が盛んである。平尾の和伎(わき)神社は湧出宮(わきでのみや)ともよばれ,2月には居籠(斎籠)(いごもり)祭が行われる。JR奈良線と国道24号線,国道163号線が走る。
執筆者:松原 宏
三重県の伊賀地方から京都府の南山城地方を流れて淀川に入る川。幹川流路延長89km,全流域面積1663km2。伊勢と伊賀の境界をなす布引山地に源流を発し,前深瀬川,久米川を合わせて上野(伊賀)盆地に入り,柘植(つげ)川,服部川を合わせて西流する。この付近を伊賀川とも呼ぶ。次いで名張川,大和高原から北流する布目川,白砂川,信楽(しがらき)山地からの和束(わつか)川などを合流させ,京都盆地南部に入る。木津川市の旧木津町から河床こう配は緩くなり広いはんらん原を作って北流し,八幡(やわた)市橋本で宇治川,桂川と合流して淀川になる。古くは泉河と呼ばれて歌枕となり,また淀川水運の重要な幹線であった。奈良時代には泉木津に平城京諸大寺の木屋が設けられて木材や貨物輸送の基地となり,恭仁(くに)京が木津川の両岸(現在の木津川市の旧加茂町例幣付近)にまたがって建設された。江戸時代には木津,吐師(はぜ),加茂,笠置が河港として栄え,伏見,淀,大坂,尼崎などと舟運で連絡していた。流域の山地は風化しやすい花コウ岩類の岩石からなるため土砂流入が激しく,下流における河床上昇をまねき,洪水を繰り返してきた。とくに1953年に南山城と上野盆地で多数の死者を出す水害が起こり,これを契機に河道改修工事が進み,名張川水系では高山ダム,室生ダム,青蓮寺(しようれんじ)ダムなど治水・利水を目的とした多目的ダムが建設された。名張川水系上流の山地は室生赤目青山国定公園に属し,赤目四十八滝,香落渓(こおちけい),奥香落高原の景勝地がある。
執筆者:服部 昌之
淀川下流の分流の一つで,大阪市西部を流れる。旧淀川の大川につづく土佐堀川とは中之島西端で分かれて西区を貫流し,道頓堀川を合わせ,尻無川を分岐させ,さらに南流して大阪湾に入る。延長11.8km。江戸時代には安治川とともに大坂に入港する諸国廻船の船着場となり,河口付近では加賀屋,恩加島などの新田開発が進んだ。明治後期から着手された大阪港整備工事に伴って,木津川は大阪港の補助的役割を果たす内港となり,1916年に築港地区と木津川を結ぶ木津川運河が完成すると,これに沿って鉄鋼,機械,化学,セメントなどの工場が立地し,さらに第1次大戦後は多くの造船所が木津川左岸に進出し,臨海工業地区が形成された。1958年に工事が始まった大阪南港は,木津川河口の沖合海面を937ha埋め立てたもの。
執筆者:服部 昌之
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京都府南部にある市。2007年(平成19)相楽(そうらく)郡木津、加茂(かも)、山城(やましろ)の3町が合併して市制施行、木津川市となる。市域は京都・大阪の中心部から30キロメートル圏内にあり、北から東は綴喜(つづき)郡井手(いで)町、相楽郡和束(わづか)町、笠置(かさぎ)町、西は同郡精華(せいか)町、南は奈良県奈良市と接する。北部と南東部に緩やかな山地が連なり、その間を木津川が流れ、流域に平野が広がる。同川は3世紀ごろから交通路として利用され、淀川に合流して瀬戸内と結ばれていた。奈良時代、木津は平城京などの都城建設用木材の陸揚げ港で、水陸交通の接点として栄え、商業地も形成されていた。市名はこの木津に由る。聖武天皇は740年(天平12)、都を平城京から恭仁(くに)京(加茂町地区)に遷し、当地は約4年間都であった。
その後、当地域は奈良と京都、伊勢、伊賀とを結ぶ街道の要衝として発展。また宇治茶やタケノコなどの主産地として名声を高め、京都、大坂ほか諸都市への農産物供給地として栄えた。江戸時代には木津川の治水事業や農地の拡大などが進められ、立地は現在に近い姿となった。明治時代、水運は衰退し、鉄道や道路の整備が進められた。現在、JR奈良線と近鉄京都線、国道24号が南北に通じ、JR関西本線、国道163号が東西に走る。昭和60年代以降、旧木津町において京都・大阪・奈良3府県にまたがる関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)の建設が進められた。JR片町線は学研都市線の愛称が使用され、先進的な研究施設が設けられた。現在、市域は京都、大阪、奈良のベッドタウンとして人口が急増する一方、茶の栽培、集散加工など大都市近郊の立地条件を生かした近郊農業も盛んである。面積85.13平方キロメートル、人口7万7907(2020)。
[編集部]
淀(よど)川の支流で、京都府南部を流れる川。一級河川。上流は鈴鹿(すずか)山脈に発する柘植(つげ)川や、布引(ぬのびき)山地に発する服部(はっとり)川で、上野盆地で合流し、さらに名張(なばり)川、和束(わづか)川などの水を集めながら笠置(かさぎ)山地の断層谷に沿って京都府南部を西流し、木津川市の旧木津町付近で京都盆地に出て流路を直角に転じて北流し、八幡(やわた)市の北部で淀川と合流する。延長約99キロメートル。旧木津町から上流は風化しやすい花崗岩(かこうがん)地帯を流れるため、花崗岩の砂の流入が多く、河川の勾配(こうばい)が減じる京都盆地では河床に砂が堆積(たいせき)する。そのため、しばしば洪水を生じ、1868年(明治1)の大洪水で久御山(くみやま)町下津屋(しもつや)付近から現在の流路に変わった。1897~1910年の淀川改修工事により、木津川、淀川合流点の整理が行われ洪水の被害は減じた。
木津川の水運は藤原京造営に際して木材を木津で陸揚げしたのに始まるといわれるが、江戸時代までは十石船が往来し、木津のほかに、笠置、瓶原(みかのはら)の加茂などの船着き場があり、薪炭(しんたん)や近江(おうみ)(滋賀県)の信楽(しがらき)の陶器なども運ばれたが、鉄道の開通と、改修工事による河水の低下で水運は衰退した。
[織田武雄]
大阪市内を流れる淀川(よどがわ)下流の一分流。北区中之島の西端で西流する安治川(あじがわ)と分かれて南流し、さらに尻無川(しりなしがわ)を分かち大阪湾に注ぐ。延長8.6キロメートル。流路の北半は西区の商業地区を貫流し、沿岸の江之子島には1874年(明治7)から1926年(大正15)まで大阪府庁が置かれた。流路の南半は工業地帯で、右岸の三軒家公園(大正区)付近は、日本最初の近代的紡績工場である大阪紡績会社の跡である。
[前田 昇]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…笠置山地の東部に位置し,村域の大半が山地である。伊賀盆地から西流してきた伊賀川と,大和高原を北流してきた名張川が,中央部の夢絃峡で合して木津川となり,西流して笠置町に入る。近世は大和柳生藩領で,北大河原は木津川舟運の物資集散地であり,京と伊賀を結ぶ街道も通じていた。…
※「木津川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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