桶屋町(読み)おけやまち

日本歴史地名大系 「桶屋町」の解説

桶屋町
おけやまち

[現在地名]長崎市桶屋町

ふる町の西、中島なかしま川右岸にある長崎そと町の一ヵ町で、陸手に属した。町並はほぼ南北に形成され、本紙屋もとかみや町間に一覧いちらん橋が架かる(享和二年長崎絵図など)。近世初頭、町域に耶蘇宗門の寺が建立されていたが(山口家本「長崎根元記」)、慶長一九年(一六一四)幕府が派遣した山口直友が平戸・大村両藩などの士卒を動員して当地などの切支丹寺を破却したとされる(長崎志)。同年浄土真宗の向陽山光永こうえい寺が開創された。元和八年(一六二二)のドミニコ会宛の長崎ロザリオ組中連判書付に「おけや町」の「寿庵」が署名している。寛永長崎港図に「桶屋町」と記される。寛永一九年(一六四二)の平戸町人別生所糺に「桶屋町」とみえ、平戸町の堀喜兵衛の奉公人角兵衛は長崎生れで幼少からキリシタンであったが、寛永六年から同九年まで長崎奉行であった竹中采女正のとき転び、浄土宗大音だいおん寺を請寺としたという。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]甲府市中央ちゆうおう四―五丁目

鍛冶かじ町の東に続く東西の通りの町人地。下府中二三町の一町で、さん土居内どいない町の南端に位置する。東は三ノ堀、北は下連雀しもれんじやく町。通りの中央よりやや東寄りで穴山あなやま町五丁目の南端が接する。町名は桶職人の居住に由来し、寛文四年(一六六四)の府中諸職人改帳(県立図書館蔵)にみえる。享和三年(一八〇三)の小間数書上帳(同館蔵)によると南側一〇六間余・北側九五間余。役引七町の一つで、甲府藩の時代には城下の桶大工役引屋敷四一軒はすべて当町にあり、一軒に一人、一年に二四人ずつ御用を勤め、扶持方として一日に一人米一升八合を支給されていた(享保九年「甲府町方並寺社諸品申送帳」若尾資料)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]博多区上呉服町かみごふくまち

奥堂町上おくのどうまちかみ・奥堂町下の通りから北に延びる両側町。南から桶屋町上・桶屋町下と続き、北はうおノ町、西は小山おやま町、東は金屋小路かなやしようじ町・北船きたふね(福岡博多近隣古図)。戦国時代と推定される高木分坪付帳(田村文書/筥崎宮史料)に、某所の作人として「ヲケヤ小路彦四郎」の名がみえる。元禄三年(一六九〇)の家数は上一三軒・下三〇軒(続風土記)。明和三年(一七六六)の家数・間数は上三四軒・九三間余、下三五軒・八四間余(石城志)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]津山市桶屋町

南北と東西に連なる通りからなる両側町で、北端から東に小川町こがのちよう溝に沿った小川町と称する横町がある鉤形の町。東・南は新魚しんうお町、西・南は南新座みなみしんざの侍屋敷、北・西は妙願みようがん寺・戸川とがわ町、北・東は新職人しんしよくにん町。「武家聞伝記」慶長一二年(一六〇七)条によると桶屋町で万灯会が催されており、同書寛永一五年(一六三八)条には「いいだ町」とある。正保城絵図に町屋が記され、万治町絵図には桶屋町とみえる。「津山誌」は万治年間(一六五八―六一)までは桶の方言である「いいだ」にちなんで飯田いいだ町と称し、のちに改称したとする。元禄一〇年(一六九七)の家数等改帳では桶屋町として家数四四、本役二四軒、町筋南北四七間・通道町幅二間半、関貫二。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]平戸市職人町しよくにんちよう 桶屋町

平戸城の南西、平戸城下の南端にある。西は大工だいく町。職人町五ヵ町の一つで、南北の町並を形成する。町名は桶屋職人の集住に由来する。元禄一〇年(一六九七)当時の諸商職は平鍛冶二・桶屋一九・家大工一〇・主持大工一・同桶屋一・木挽一・日用取一(町方年鑑次第)。同一六年には懸年寄が谷村三右衛門、頭料が安武弥左衛門(「役所手鑑」谷村家文書)


桶屋町
おけやちよう

[現在地名]大津市長等ながら二―三丁目

馬場ばば町の東に位置し、東の船頭せんどう町の東部にも離れて町屋敷がある。当町筋は桶屋町通とよばれ、東は元会所もとかいしよ町、西は中北国なかほつこく町まで。天和二年(一六八二)の本堂奉加帳(九品寺文書)に町名がみえ、元禄八年町絵図では家数一九、これには町会所も含まれる。桶屋仲間の由緒は文禄―慶長期(一五九二―一六一五)京極高次の大津城時代にまでさかのぼり、慶長期の小野貞則・鈴木織部が大津代官のとき桶屋が集住する桶屋町が開かれ、のち同代官所の御用を勤めていたので諸役御免になったという。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]弘前市桶屋町

城の南東に位置し、鍛冶かじ町から大円だいえん(現在の最勝院寺域)に至る道筋の町並。東は銅屋どうや町・新鍛冶しんかじ町、西はほん町と大円寺門前(現在は桶屋町に含まれる)に接する。

「奥富士物語」に、寛文五年(一六六五)六月頃桶屋町派立の記事がある。同一三年の弘前中惣屋敷絵図(市立弘前図書館蔵)には、新派町として町割がされ、現町域には四九軒の屋敷割があり、すべて町屋。しかし空家が多く、居住者は二三名にすぎない。延宝六年(一六七八)の弘前町方屋敷割(八木橋文庫蔵)に「ヲケヤ町」とあり桶屋が二四軒、ただし町内北側は大工だいく町とあり、大工が数多く居住。


桶屋町
おけやちよう

[現在地名]高岡市大町おおまち

立横たつちよこ町の北に直交し、東西に延びる両側町で、北は下桶屋町。町の入口には木戸が二ヵ所あり、一ヵ所は大木戸であった(不歩記)。本町で、町名は桶屋が開いたことによると伝える。正徳三年(一七一三)下桶屋町が分離した(高岡誌)。時割は一時二歩七厘六毛、地子地一千八五七歩四厘(不歩記)。明治六年(一八七三)には役地・地子地を含め二千九三八坪三合(沽券調総計帳)。天明五年(一七八五)の家数四七(家数書上帳)、明治五年の家数五七(高岡史料)。分限者には中野屋又右衛門・中野屋市兵衛・京田屋久左衛門・井波屋宗兵衛・井波屋六兵衛がおり(天保九年分限帳)、文久元年(一八六一)の町頭は小島屋小右衛門・井波屋八兵衛(町頭等交名帳)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]鳥取市桶屋町

鍛冶かじ町の南西、てら町の慶安けいあん寺門前から北西に通る道に沿った両側町。北西は職人しよくにん町に続く。元和五年(一六一九)城下町拡張に伴う町割のとき、町人地四〇町のうち上構二〇町の一町として起立された(因幡志)。町名は、池田光政入国ののち当所に最初に桶屋仁右衛門が居住して桶を作ったことにちなむ(「鳥府志」など)。寛永一一年(一六三四)の竈数三三(因幡志)。安永七年(一七七八)の家数一一二、表口間数合せて一八〇間半、町役負担八五人余、賦課比率の等級は下に定められる。諸役御免の加藤惣右衛門の拝領屋敷、人足役御免の左官棟梁嘉平次・船大工甚四郎の自分屋敷があり、計一四間半を占めていた(町方御定)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]酒田市中町なかまち一丁目

鍛冶かじ町の西にあり、西は大工だいく町。東西に連なる両側町。慶長―元和年間(一五九六―一六二四)中町二丁目として町割された(→中町。御神宿帳甲乙全書(下日枝神社蔵)に慶安元年(一六四八)桶屋小路太良右衛門、同二年桶屋町助五郎の名がみえる。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)に中町二丁目とあり、町の長さ四五間余・屋敷二〇軒。中町二丁目は桶屋渡世の者が多く、桶屋小路・桶屋町とも称されていたが、のち中町から分離して桶屋町と称した。天和三年(一六八三)の酒田町割家数人数書上(鶏肋編)によると町域は一町、家数三二・人数一八二。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]上越市なか町四丁目

杉森すぎのもり町の北に続く西裏町にしうらまち通の両側町。町の長さおよそ六三間余(高田市史)。桶職人が多く居住したためこの名がある。天和期(一六八一―八四)の調では役を負担する町で屋敷数二八、名主がいる(頸城郡誌稿)。正徳年間(一七一一―一六)の高田町各町記録(榊原家文書)によると井戸数四三、籠屋二人が居住。「桶屋細工仕候ニ付、御城廻リ桶細工之儀、桶屋役ニ致来候」とある。寛保二年(一七四二)の調では家数四九、杉森町名主支配(頸城郡誌稿)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]高松市大工町だいくまち通町とおりまち

百間ひやつけん町筋の一本南の通りに面した両側町で、通りの西半は大工町、東半が当町である。東西約一〇〇間・南北約四〇間。東端は通町二丁目と塩屋しおや町一丁目の境、北は東百間町(天保一五年城下図)。生駒氏時代屋敷割図では大工町とされているが、享保(一七一六―三六)頃までに、この大工町東半部のうち西五〇間が桶屋町、東五〇間が野方のがた町となり(享保年間城下図)、さらに文化年間(一八〇四―一八)までに東五〇間分も桶屋町に組込まれたと考えられる(文化年間城下図)


桶屋町
おけやちよう

[現在地名]中区丸の内まるのうち二丁目・にしき二丁目

桑名くわな町の南、西鍛冶にしかじ町の北に位置し、すぎの町とさくらの町との間の一丁をさす。別に桜の町筋の南の三軒、桜の町筋の東西へ半丁ほども支配する(町名起因並町家由緒)。慶長年中(一五九六―一六一五)清須きよすの桶屋町が移った。


桶屋町
おけやちよう

[現在地名]岡山市平和町へいわちよう磨屋町とぎやちよう野田屋町のだやちよう一丁目

外堀と西にし川の間に位置する郭外職人町であるが、下級武家屋敷もあった。南北の通りを挟む両側町で、北は道と水路を隔てて野田屋町、東は細堀を隔て岡山寺・柿屋かきや町、南は細堀を隔てて磨屋町、西は西川。寛永城下絵図では磨屋町の一部で、慶安城下絵図に桶屋町とみえる。桶類の製造業者が多いためにつけられた町名(吉備温故秘録)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]三田市中央町ちゆうおうちよう

しん町の北東、丹波への街道両側に町家が並ぶ町人町。三田十丁町の一つ。武庫むこ(三田川)左岸の三輪みわ村のうち街道沿いが町場化して成立したもの。安政二年(一八五五)模写の寛文(一六六一―七三)初期の古図(児玉家蔵)に桶屋町とみえ、町の長さ五二間。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]本荘市桶屋町

本荘城下町から子吉こよし川の対岸石脇いしわきを経て北方の各地へつながる交通上の要地で、町の北端は鍛冶かじ町を経て大渡おおわたり渡船場となり、のちに由利ゆり橋が架けられた。

万延二年(一八六一)桶屋町の四五兵衛に旅籠屋開業の許可が与えられている(万用記)

町内に神明社があり「羽陰温故誌」は「勧請年月不詳、元禄三年社堂再建ノ事六郷旧記ニ見ユ」と記す。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]徳島市富田町とみだまち二丁目・両国橋りようごくばし

富田町(新鍛冶屋町)の中ほどから東へ向かう通り筋に沿う町人地。職人町であったと伝承される。貞享二年(一六八五)の市中町数並家数(民政資料)によると桶屋町の町筋は東西、間数三九間、家数は二八軒とある。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]近江八幡市為心町上いしんちようかみ為心町中いしんちようなか

上中筋かみなかすじ通に沿う横町で、両側町。西は為心町中・為心町上、東は仲屋町中すわいちようなか・仲屋町上を限る。「輿地志略」にも桶屋町一町とある。八幡城下形成時に桶屋職人の町として成立したと伝える(八幡町史)。元禄期(一六八八―一七〇四)以降の畑屋敷高は一石余(「八幡町屋敷畑高覚帳」近江八幡市共有文書)


桶屋町
おけやまち

[現在地名]彦根市城町しろまち一丁目

連着れんぢやく町の西に続く両側町。元禄八年大洞弁天寄進帳に町名がみえ、軒数三八のうち借家一七、人数一五六(下人九)、諸職諸商は九種二六軒で、桶屋八・大工一〇のほか木挽・材木屋・弓屋・塩屋・蒟蒻屋・元結屋など、町代は桶屋、横目は塩屋が勤めていた。安永七年(一七七八)の万留書(彦根市史)によれば、町家役七軒のほか桶役八軒・研屋役一軒、町代・横目二軒があり、また諸職人の国役負担日数は桶屋内町の家持が一五日、同借家者が七日、桶屋外町の家持一〇日、同借家者五日となっている。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]八代市ほん町一丁目

城の南東に位置する。北はなが丁、東は金屋かなや丁、南および西は本町に接する。この周辺は古寺院の跡とみえ、「応仁三天己丑三月 如印禅定尼」の銘文を有する五輪塔が発見されている。


桶屋町
おけやまち

[現在地名]福山市たから

深津ふかつ町の北、本町ほんまち筋の両側町。城下町形成時、桶屋が多く住んでいたのでこの名がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

プラチナキャリア

年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...

プラチナキャリアの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android