短歌(文学)(読み)たんか

日本大百科全書(ニッポニカ) 「短歌(文学)」の意味・わかりやすい解説

短歌(文学)
たんか

ほぼ7世紀ころから現在までつくられ続け味わわれ続けている、各句五または七音節で五七五七七の五句からなる、日本固有の叙情詩形。

[藤平春男]

日本人の生活と短歌

短歌は「和歌」に含まれるが、量質ともに和歌の中心をなしており、和歌史はほとんど短歌史といいかえてもいいほどである。短歌定型が成立したとき、それは類型的で非個性的な歌謡から脱皮して、かなり純粋な個人的心情の表現形式となったが、同時に、短詩形であるがゆえに、それが理解される場に依存しつつ詠まれ味わわれる度合いが大きかった。多くの場合その場とは、生活のなかに成り立つさまざまの共同体であって、具体的には各時代の社会構造に応じて変化があるが、歴史的な変化に応じる質的変容を示しながら、短歌は長く日本人の生活のなかに生き続け、現実生活との接触あるいは融合によって生命力をよみがえらせてきている。もちろん、ときには芸術的な純粋化を強く志向した時期もあるが、それが様式的固定化によって成長力を失ったとき、現実生活に根ざして歌うことによって新たな詩的生命を育てている。そのように短歌は日本人の生活と結び付きながら消長を繰り返してきており、多くの人に親しまれるとともに、またしばしば他のジャンルにも影響を及ぼした。連歌(れんが)や俳諧(はいかい)を分化させていくとともに、物語や日記などの散文文学における心情表現や自然描写にその表現方法が吸収されているし、巧緻(こうち)な修辞法はそのままに能の詞章に取り込まれもした。実用性を強めたときには呪歌(じゅか)的機能をもって歌われたり、あるいは道歌や教訓歌などともなったりしている。古典化しすぎたときには、「たはぶれ歌」や「狂歌」として日常生活に密着した笑いによって現代性を回復する試みもしている。日本文学史を貫いて生き続けた唯一のジャンルは短歌であり、それは短詩形ながら多面的な性格をつくりだしえたことによっているといえよう。

[藤平春男]

短歌定型の成立と特性

古代歌謡は非定型が多く、それが定型として固定していくには、文字による書記化が行われ始めたことが媒介となっているであろうが、定型が成立していくなかで最初から優勢だったのは短歌形式であった。定型化は長歌と短歌とが併行しつつ進行しており、定型長歌の末尾五句が独立して短歌定型が生まれたという説は事実に即していないと思われる。古代歌謡における非定型から定型への傾斜のなかに、すでに短歌と長歌との分化は生じていたのであった。定型に共通する問題は、なぜ五音節句と七音節句とが単位になっていくかということであり、短歌については、なぜ五句でまとまるのかであるが、五音節句と七音節句とに固定していく理由は、日本語の拍の特性に基づく音楽的根拠をあげる説が有力と思われる(具体的にはそのなかで諸説が分かれる)。また、五句でまとまるのは、その短歌定型が、焦点をもって凝集した心情を表現する叙情の形式として適しているためだといえる。五・七の繰り返しは単純ながら音数律をつくるが、奇数の五句になるのは、古代歌謡のなかの短歌(完全な定型でないものも含む)にみられるように、物象あるいは事象の表現が偶数句でなされていたところへ叙情部分(しばしば末句に置かれる)が加わって一首を形成するからで、事物に即して生じた心情の凝集は最短の五句体がもっとも純粋に表現するのである。短歌定型は、叙情詩が求められるようになったとき、具体的な事物に結び付いて生じた心情を凝集した形で表現しうる形式であったために、広く行われるようになった、と考えてよいであろう。五句構成の内在的文脈は多様で、さまざまの表現法を生み出している。

[藤平春男]

短歌の歴史――古典短歌

『万葉集』の時代

『古事記』『日本書紀』などの歌にはかなり短歌形式と認めうるものがあるが、すべて説話伝承と結び付けられており、表現も発想も集団の場に根ざして類型的である。『万葉集』の舒明(じょめい)朝(629~641)以前と伝えられる歌も同様に詠作時期や作者自体が説話性をもっているので、所伝の作者をほぼ信じうるようになるのは7世紀前半の舒明朝以降である。『万葉集』所収歌は、その舒明朝以降を四期に分ける。

 第一期は、舒明朝以降、壬申(じんしん)の乱(672)までで、初期万葉と称され、代表歌人に額田王(ぬかたのおおきみ)がいるが、「熟田津(にきたつ)に舟乗りせむと月待てば潮(しほ)もかなひぬ今は漕(こ)ぎ出(い)でな」(巻1)のように宮廷儀礼などの集団的な行事の場で口誦(こうしょう)された歌が多く、まだ呪詞(じゅし)性も濃厚である。第二期は、奈良に都の定まる710年(和銅3)までで、柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の時代ともいえる。政治機構の整備も進んで、人麻呂の作品には、中国詩を媒介としての詩的表現への意識が明確に現れ、口誦性を脱皮しての文学的深まりを鮮やかに認めうる。「近江(あふみ)の海(み)夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ」(巻3)などである。第3期は、733年(天平5)までで、大伴旅人(おおとものたびと)と山上憶良(やまのうえのおくら)との接触がそれぞれの異質性を開花させ、宮廷歌人山部赤人(やまべのあかひと)・笠金村(かさのかなむら)らは、とくに赤人の自然観照に独自の達成を示し、高橋虫麻呂には叙事性と浪漫(ろうまん)性とがみられるなど、個性的な叙情が多彩に結実した。第4期は、『万葉集』所収歌の終末期までで、奈良時代中・後期であるが、中心的存在の大伴家持(やかもち)の叙情は「わが苑(その)に梅の花散るひさかたの天(あめ)より雪の流れくるかも」(巻5)のようにより繊細なものがみられるものの、主要歌人は家持周辺の人々であり、私的な発想の場で詩的生命力の衰退を免れていない。ほかに、民謡性をもつ東歌(あずまうた)や家持の集めた防人(さきもり)歌、また類型的表現が顕著だが集所収歌の半数近い作者不詳歌群など、『万葉集』の世界は多面的であって、和歌史を通じてもっとも豊かな内容をもつのは『万葉集』だといっても過言でない。

[藤平春男]

三代集の時代

平安時代初期は国風暗黒時代と称され、漢文学全盛であったといわれるが、個人の私的生活や芸能の場などに潜んで口誦されていたようである。平安中期の初頭の905年(延喜5)に『古今和歌集』が最初の勅撰(ちょくせん)集として撰進され、短歌が宮廷詩として展開していくことになるが、その叙情表現の方法には前代までの技法が吸収されているし、発想が現実生活に根ざしていて、『万葉集』との連続性も指摘できる。しかし、感動をおこす対象としての事物よりも対象に向かう心の姿を表現しようとし、言語技巧によって意味表現を明確にしながら美的観念の拡充を求めるところに『古今集』(以下集名の「和歌」を略記)の創造があり、後出の『後撰集』(955~958成立)、『拾遺(しゅうい)集』(1005~07成立)を加えて拡充深化されていった美的観念は、様式的に固定化しつつ貴族生活に浸透していったのである。『古今集』の代表歌人紀貫之(きのつらゆき)は「さくら花散りぬる風のなごりには水なき空に浪(なみ)ぞ立ちける」(古今集・巻2)と詠んでいるが、その美意識は、平安時代中期に開花した散文の仮名文学によってより多彩に展開し、その美の伝統は次の時代に明確な伝統意識によって受け止められて、後代の芸術全般に大きな影響を与えることになった。

[藤平春男]

中世詩への道

「もの思へば沢の蛍もわが身よりあくがれいづるたまかとぞ見る」(後(ご)拾遺集・巻20)と詠んだ和泉式部(いずみしきぶ)は、短歌が貴族生活に溶け込んで社交語的役割を果たすようになった平安時代中期の歌人であるが、そのぬぐいえない個性的な叙情の深さは次代になって評価されるようになった。彼女の時代に成立した『拾遺集』から次の『後拾遺集』までの間には80年の勅撰集空白期があるが、その空白は、勅撰を下命する天皇や上皇が権力を独占する摂政(せっしょう)・関白(かんぱく)の保護下に置かれていた結果である。実は空白期は短歌の量的拡大期で、そのかわり叙情の深さを失い、芸術的創造性に乏しくなっていった。それが、後三条(ごさんじょう)天皇(在位1068~72)の即位前後から摂関の権力が衰え、社会の深部に生じている変化に対応する院政が始まるころから、後宮中心の社交界とは異なる官人や遁世(とんせい)者あるいは受領(ずりょう)層の間に、短歌に新たな芸術的生命力を与えようとする試みが生じる。『後拾遺集』(1086成立)が久しぶりに撰進され、以下『金葉集』(1124~26成立)、『詞花(しか)集』(1151成立)、『千載(せんざい)集』(1188成立)と続き、鎌倉時代の初頭に入って、『新古今集』(1205成立)が『古今集』の伝統を受け止めながら『万葉集』とも『古今集』とも異質の短歌を創造するのであるが、それは映像交感による複雑微妙な情趣表現の芸術的創造であった。その新古今への道筋を開いたのは藤原俊成(しゅんぜい)であるが、新たな芸術的生命を探って苦闘した先人源俊頼(としより)は、中世への傾斜の道を歩んだ院政期歌人の象徴ともいえる。『新古今集』は、俊成指導下の藤原定家(ていか)らの新風達成を後鳥羽(ごとば)院が評価し、俊成と同時代の優れた叙情歌人西行(さいぎょう)の作品をも包み込んで結集させた成果であった。定家の「しろたへの袖(そで)の別れに露落ちて身にしむ色の秋風ぞ吹く」(新古今集・巻15)にみられるように、美の伝統の世界のなかで自由に詩的想像力を働かせている点で、三代集までの古代詩とは異なる中世詩がそこに誕生した。

[藤平春男]

中世短歌の広範な普及

鎌倉時代から室町時代中期にかけて勅撰集は第9番目『新勅撰集』から第21番目『新続(しんしょく)古今集』までの十三代集が生まれ、準勅撰集に南朝による『新葉(しんよう)集』がある。室町時代に入っての終末期の4集は足利(あしかが)将軍の発起によるが、将軍の権力衰退とともに命脈を絶つ。勅撰集のなかで『玉葉(ぎょくよう)集』『風雅(ふうが)集』の2集だけ京極(きょうごく)派中心で、印象的な叙景歌や心理描写的な恋歌など、鎌倉時代中・末期に伝統の殻を破った新しい短歌美を示した。室町時代中期には正徹(しょうてつ)が出て、定家に心酔しつつ幻想美を追求する独自性を発揮したが、鎌倉・室町時代から江戸時代初期にかけて正統の二条派を中心として『古今集』回帰の傾向が顕著で、京極派や正徹は異端であった。短歌は連歌とともに古典学を伴いつつしだいに武家階級に広がり、それも上層から中下層へ、都から地方へと拡大していったから、その存在意義は、量的拡大による広範な階層への浸透や他の文学ジャンルとの交流にあるともいえる。日本人の美意識の共通性は室町時代に形成されたともみられるのである。

[藤平春男]

近世短歌の流れ

いわゆる古今伝授(こきんでんじゅ)は、和歌・連歌が随伴した古典解釈学なのであるが、それが学問的合理性を失って神秘化されたために、江戸時代中期以後鋭い批判にさらされた。江戸時代に伝えたのは細川幽斎(ゆうさい)だが、後水尾(ごみずのお)院中心の堂上(どうじょう)歌人らが中世歌学を継承し、江戸初期には中院(なかのいん)家や烏丸家などが栄え、中期以降も堂上和歌は根強く生き残っている。しかし、同じく幽斎の流れではあるが地下(じげ)歌人にやや新鮮な表現がみられ、やがて中期以降は、武士や神官・僧侶(そうりょ)また町人などから歌人が輩出して和歌の生命力をよみがえらせた。大きな流れは二つで、まず国学が盛んになるとともに古典和歌(そこではしばしば長歌も尊重された)を再認識して、叙情の源流をそこに認めようとするもので、とくに『万葉集』に回帰しようとする賀茂真淵(かもまぶち)の県居(あがたい)門が大きな流派をなし、万葉主義はことに地方歌人に個性的な実情歌を生み出さしめた。幕末の橘曙覧(たちばなあけみ)などは近代の享受に堪える作品を示している。もう一つの流れは、堂上和歌の流れを引く都会人的感覚を示す短歌で、これも大きな流派となった香川景樹(かげき)の桂園(けいえん)派が江戸末期に隆盛となって、明治時代にまで受け継がれている。

[藤平春男]

近代短歌の展開

近代短歌の黎明

明治10年(1877)ごろまでの短歌は、江戸時代末期の諸派がそのまま存在し、形骸(けいがい)化し因襲化した旧来の風雅優美な美意識による題詠の作が行われていた。明治維新とともに急激に輸入された西欧文化や制度・文物のなかで、動き始めた散文の世界からも遅れたままの状態だった。ようやく『開化新題歌集』(1878)などによって新制度、外来の事物、風俗などを新題として詠む歌、歴史上の人物を詠む詠史歌にも西欧の人物が登場するなど、新奇な題材に動きをみせるが、内実は旧来のままだった。『新体詩抄』(1882)は、西欧の詩を手本とし、用語の現代化を図り、短小な短歌には複雑な思想は盛り込めない、長大な新体詩をつくるべきだという、短歌否定論でもあった。明治20年代になると、欧化主義的な思潮から素朴な国粋的な風潮がおこり、小中村義象・萩野由之(はぎのよしゆき)合著『国学和歌改良論』(1887)で、由之が題材・歌体など具体的に短歌そのものの改良論を提出し、しばらく多くの短歌改良論が書かれる。落合直文(おちあいなおぶみ)があさ香(か)社を結成(1893)し、鮎貝槐園(あゆかいかいえん)、与謝野鉄幹(よさのてっかん)、久保猪之吉(いのきち)、服部躬治(はっとりもとはる)、尾上柴舟(おのえさいしゅう)、金子薫園(くんえん)らの新鋭が集まった。「緋緘の鎧(ひおどしのよろい)をつけて太刀(たち)はきて見ばやとぞ思ふ山桜花」の作のように、直文は折衷派とよばれる旧派的美意識を付きまとわせるが、ようやく傘下の新鋭は自由に羽ばたこうとする。

武川忠一

革新の二つの流れ

1894年(明治27)鉄幹は「亡国の音(おん)」を書き、激しく旧派歌人を攻撃し、『東西南北』(1894)で「尾上にはいたくも虎の吼(とらのほ)ゆるかな夕(ゆふべ)は風にならむとすらむ」のような国士的慷慨(こうがい)調の作をなし、日清(にっしん)戦争後の国粋的な状況のなかで青年たちの共感を得る。「誰の糟粕(そうこう)を嘗(な)むる」のではなく「小生の詩」であるという革新への自負は、『明星』創刊(1900)によって「自我の詩」主張となり、『明星』は詩歌に心を寄せる青年たちを集め、与謝野晶子(あきこ)、窪田空穂(くぼたうつぼ)、山川登美子(とみこ)、茅野雅子(ちのまさこ)、平出修(ひらいでしゅう)、平野万里(ばんり)、相馬御風(そうまぎょふう)、水野葉舟(ようしゅう)、高村砕雨(さいう)(光太郎)、立野花子らがここから出発し、のちには吉井勇(いさむ)、北原白秋(はくしゅう)、石川啄木(たくぼく)らも参加する。『明星』は晶子の『みだれ髪』(1901)の「やは肌のあつき血潮にふれも見でさびしからずや道を説く君」のような激しい恋の歌をはじめ、優婉(ゆうえん)な、夢幻的な、唯美的な空想とあこがれなどを歌い、『文学界』以来の浪漫主義時代を華やかに開花させた。

 一方正岡子規(まさおかしき)は『歌よみに与ふる書』(1898)によって、桂園派源流の『古今集』を否定し、『万葉集』をよりどころとし、写生・写実を方法とする革新論を提出し、旧派への批判は鉄幹と同じく痛烈をきわめた。晩年の「いちはつの花咲きいでて我目(わがめ)には今年(ことし)ばかりの春ゆかんとす」など描写も自在で心情のにじむ作を残した。その門下から伊藤左千夫(さちお)、長塚節(たかし)、古泉千樫(ちかし)、島木赤彦(あかひこ)、斎藤茂吉(もきち)らの秀英が活躍するのはやや後のことである。また別に佐佐木信綱(のぶつな)は『心の花』(1898)を創刊し、徐々に新派的な歌風に接近していった。

[武川忠一]

「近代」の獲得――自然主義と頽唐派・生活派

小説を中心に自然主義がおこり、詩歌にも、空虚な夢幻的な世界よりも現実感のあるものが求められ、窪田空穂、若山牧水(ぼくすい)、前田夕暮(ゆうぐれ)、石川啄木、土岐哀果(ときあいか)(善麿(ぜんまろ))らはその影響を受け、心情の内実を歌い、自己告白や日常の生活感情の表白に新生面を開拓する。散文優位の時代のなかで、短小な定型詩の限界をつく柴舟の「短歌滅亡私論」(1910)なども書かれ、哀果・啄木の3行書きによる社会意識を歌う歌は生活派の源流となる。また北原白秋、吉井勇らは、自然主義を意識しながら、耽美(たんび)的・頽唐(たいとう)的な世界に自我を陶酔させようとする。子規の系統からは『アララギ』(1908)が創刊され、赤彦、茂吉、千樫、中村憲吉(けんきち)、土屋文明(ぶんめい)らの多くは前記のような動向のなかで、擬古的な作からの脱出が始まり、とくに頽唐派的なものとの交流のあとをみせる時期をくぐる。この明治40年代から大正初期の歌壇の蕩揺(とうよう)期に、『一握(いちあく)の砂』(啄木)、『赤光(しゃっこう)』(茂吉)、『桐(きり)の花』(白秋)など多くの近代短歌の名歌集が残された。

 幾山河(いくやまかは)越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく 牧水
 襟垢(えりあか)のつきし袷(あはせ)と古帽子宿をいでゆくさびしき男 夕暮
 はたらけど/はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり/ぢつと手を見る 啄木
 手の白き労働者こそ哀(かな)しけれ。/国禁の書を、涙して読めり。 哀果
 手にとれば桐(きり)の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ 白秋
 赤茄子(あかなす)の腐れてゐたるところより幾程もなき歩みなりけり 茂吉
 信濃(しなの)路はいつ春にならむ夕づく日入りてしまらく黄なる空のいろ 赤彦
 其(その)子等に捕えられむと母が魂(たま)蛍となりて夜を来たるらし 空穂
[武川忠一]

大正歌壇と結社分立

大正初期には、明治期からの短歌誌『心の花』(信綱)、『創作』(牧水)、『アララギ』、『詩歌』(夕暮)のほか、『生活と芸術』(哀果)、『水甕(みずがめ)』(柴舟系)、『国民文学』(空穂)、『地上巡礼』(白秋)、『潮音』(太田水穂)と、次々に歌誌創刊が始まり、いわゆる流派による結社が分立し、自然主義的傾向を推し進めた境涯詠(空穂)、生活派(哀果)、口語歌運動、象徴(水穂)から、木下利玄(りげん)のような44調の作など種々な傾向に分かれつつ、『アララギ』の写生論深化と歌壇の制覇を明確にし、中期以後はそれぞれの結社に閉じこもり、沈静な作へ推移する。この傾向から自由な窓を開けるべく『日光』(1924)に白秋、夕暮、善麿、釈迢空(しゃくちょうくう)らの中堅歌人が集まった。反アララギとみなされたが大きな運動体にはならなかった。

[武川忠一]

昭和前期の短歌

昭和初期には、既成歌壇に抗して、プロレタリア短歌運動がおこり、口語短歌運動を巻き込み、「新興歌人連盟」(1928)が結成される。離合集散を重ねながら、既成歌壇に与えた影響は小さくなかった。この新興短歌運動から、渡辺順三(じゅんぞう)はプロレタリア文学運動を、前川佐美雄(さみお)は芸術派、坪野哲久(つぼのてっきゅう)は芸術派的でありながら思想を根底に置く方向へ進む。自由律短歌の流行は夕暮などにも及び、経済不況や満州事変などの社会的不安から現実そのものをみつめて歌う「散文化」の傾向、さらにそれに反対する新浪漫主義、新幽玄体を提唱する白秋の『多磨』(1935)の創刊があり、『新風十人』(1940)に参加した佐藤佐太郎、佐美雄らの世代が台頭するが、戦争の暗黒期を迎える。

[武川忠一]

戦後と現代の短歌

敗戦後、日本の伝統的文化への批判、短歌否定論、決別論が行われるなかで、茂吉、空穂、迢空らは優れた達成をみせ、続く世代の木俣修(きまたおさむ)、柴生田稔(しぼうたみのる)、窪田(くぼた)章一郎らも、新しく広い文学的視野のなかで短歌に立ち向かおうとする。続く世代の近藤芳美(よしみ)は戦争体験を踏まえた現実と思想に立ち向かい、宮柊二(しゅうじ)は同じ基盤のもとに人間の孤独に分け入って一時期を画した。さらに昭和20年代後半には、反写実的な美学による虚構を方法とする鋭い文明批評の作をもって登場する塚本邦雄(くにお)、その影響による岡井隆(たかし)らのいわゆる前衛短歌の時代を迎える。

 みづからの行為はすべて逃(のが)る無し行きて名を記す平和宣言に 芳美
 焼跡に溜(たま)れる水と帚草(はうきぐさ)そを囲(めぐ)りつつただよふ不安 柊二
 馬を洗はば馬のたましひ冴(さ)ゆるまで人恋はば人あやむるこころ 邦雄
 海こえてかなしき婚をあせりたる権力のやわらかき部分見ゆ 隆
 このころから、写実を基底とする近代短歌の方法はようやく変貌(へんぼう)あるいは深化し、いわゆる前衛短歌に批判的である人々も、問題意識を深め、現代短歌のあり方を自覚的にしていった。現在は多様な方法による個性的な開花の時期のなかにある。また、結社誌、同人誌は500を超えるといわれ、新聞歌壇等の盛況など、短歌人口はかつてない膨大な数になり、とくに女性の進出が著しい。これは、長い伝統詩型である短歌の根の深さを示しており、現実の変貌とともに、それら層の厚い作者の作も動きをみせている。

[武川忠一]

『和歌文学会編『和歌文学講座』全12巻(1969~70/再版・1984・桜楓社)』『久松潜一・実方清編『日本歌人講座』全7冊(1961~62/増補版・1968・弘文堂)』『久松潜一著『和歌史』全5巻(1960~70・東京堂出版)』『島津忠夫他著『和歌史』(1985・和泉書院)』『木俣修著『大正短歌史』(1971・明治書院)』『木俣修著『昭和短歌史』(1964・明治書院)』『篠弘著『現代短歌史1』(1983・短歌研究社)』『『人と作品――正岡子規』以下24巻(1980~82・桜楓社)』『窪田章一郎・藤平春男・山路平四郎編『和歌鑑賞辞典』(1970・東京堂出版)』『窪田章一郎・武川忠一編『現代短歌鑑賞辞典』(1978・東京堂出版)』

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