「書紀」には「袴」〔神代上〕と「褌」〔雄略元年三月〕があるが、古訓でいずれも「ハカマ」と読まれる。「新撰字鏡」には「褌」は「志太乃波加万」とあり、下ばきのズボン様のものを指したらしい。
和服の一種で下半身衣である。上下二部で成り立っている衣服の下衣で、股(また)があり両足をそれぞれ通してつける衣を「はかま」といい、股のないものを裳(も)という。日本の古墳時代の男子は衣褌(きぬはかま)、女は衣裳(きぬも)の服装であった。その後、服制により褌から袴に変わった。古代から近世を経て今日までに多様の変遷がみられる。
女子は公家(くげ)社会において、裳の後退により袴が表出し、平安時代以降の女房装束構成要素の一部として、なくてはならないものであった。鎌倉時代以後しだいに裳が脱落し、宮廷の女房は衣(袿)袴の姿を正装とするようになった。武家および一般の女子においては、小袖(こそで)の発達に伴い打掛小袖姿を正装とし、袴を用いることはなかった。これが今日の女子の和服につながる。
[藤本やす]
古墳時代の男子の褌は緩やかな太いズボン形式のものであった。飛鳥(あすか)時代の袴は、『天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)』にある男子の姿によれば、衣と袴の間に褶(ひらみ)を着しているが、その後、褶は着なくなる。これは、漢族の形式によって衣の丈が長くなり、袴が細めになったためである。この袴の形式は前で開き、腰(紐(ひも))は一腰で結ぶようになっている。男子束帯構成の要素となっている大口袴、表袴(うえのはかま)はそれぞれ形態を異にしており、大口袴は下袴で共布引返しに仕立てられた袷(あわせ)である。襠(まち)は角襠、腰は一腰で脇(わき)で結ぶ。表袴は袷であるが、表裏の布地、色ともに異なる。襠は長方形の幅の狭い丈長で、後ろは左右いっしょに縫い付けるが、前は左右それぞれ腰に縫い付けて左右に開く。腰は一腰で前を重ね合わせ脇で結ぶ。684年(天武天皇13)の服制の平服に括緒袴(くくりおばかま)とあり、指貫(さしぬき)は括緒の奴袴(さしぬき)で無位の男子の袴である。これは鷹狩(たかがり)に用いた狩袴でもあったが、公家が用いるようになると絹織物でつくられ、衣冠、布袴(ほうこ)、直衣(のうし)などに広く着用された。指貫は八幅(やの)で丈を長くし、裾口(すそぐち)の紐を引き絞って結ぶと広くなり、座礼に適した。普通は足首で縛るが、足を出さないで袋状にして踏んで歩いたりした。武家の指貫は前四幅、後ろ二幅の六幅で、公家の指貫より幅が狭くなっているから、活動しやすく、また袴の腰(紐)は今日の袴のように前後に分かれて紐がつけられるようになった。この指貫形式の袴は起居動作がしやすくできているところから、一般にも用いられ、奴袴(やっこばかま)ともいわれた。庶民の間では前二幅、後ろ二幅の四幅袴の細身のものが用いられた。
正倉院宝物の袴には袷、単(ひとえ)、襠のあるもの・ないもの、および開股(かいこ)式と閉股(へいこ)式とがある。腰は一腰で脇で結ぶように仕立てられている。この腰の形式は、束帯の大口袴、表袴および女房装束の袴などに伝えられている。襠の形は、正倉院に残っている白麻布の袴の襠は四角である。四角の襠はこれを二つに折って三角形にし、前後の股上に縫い付ける。角襠は束帯の下袴の大口袴、武家の狩衣(かりぎぬ)、直垂(ひたたれ)、大紋(だいもん)、素襖(すおう)、裃(かみしも)の袴に用いられている。束帯の表袴の襠は、長方形の丈長のものを2枚重ね合わせ、後ろは2枚いっしょに縫い付け、前は左右それぞれつけて前を開くように腰をつけ、襠を垂れ下げて襠丈の中央(下方)を2枚重ねてとじる。この襠の形態は表袴だけである。
平安時代には表袴、指貫は上衣の内に着用したが、武家時代になって、上衣の上から袴を着用する形式が行われるようになる。狩衣は前者と同様に袴を内に着用するが、狩衣系の水干(すいかん)は袴を衣の上から着用する。これを、上(かみ)を下(しも)に着込めるといい、直垂、大紋、素襖、裃のいずれも同様に上を下に着込めて着衣する。水干は平安時代には労働着として、鎌倉時代は幕府に出仕するとき、室町時代には礼服として着用することとなった。狩衣、水干、直垂、大紋の袴の腰は白絹を用いる。素襖、裃の袴の腰は共布を用いる。また武家装束の袴は公家装束の袴と仕立てが異なり、前後に紐が分かれ、活動に便利な小袴が用いられた。小袴は指籠(さしこ)(指袴)といい、指貫を略したものである。小袴の後ろ腰の形を整えるために腰板を芯(しん)に入れた。室町時代末ごろ、直垂の小袴も漸次丈が長めになり、殿中用として裾を引く長袴の風がおこった。
江戸時代に入ると長袴は武士の礼服となる。武家の公服で直垂の一種である素襖は、背と両袖の前後の5か所に家紋を染め抜き、この上に菊綴(きくとじ)をする。菊綴は各布の縫い合わせのところにつける。長袴は腰の中央と両脇相引(あいびき)のところの3か所に紋をつけ、脇の家紋の上に菊綴をする。後ろ腰は芯に用いていた腰板が表出し、現在の台形の腰板へと移行して形を整え、後ろ腰の紐は左右に分離し、腰板の両端に付菱(つけびし)とともにつけるようになる。
室町時代に袖のつかない肩衣と袴とが現れ、直垂にかわって素襖が礼服となり、その後素襖にかわって肩衣袴が礼服となる。肩衣袴が礼服化することで、いままで表面から見えなかった小袖が露出するようになる。江戸時代、裃の正装には熨斗目(のしめ)小袖を着用し、その上に麻長裃を着用する。袴の寄襞(よせひだ)は寛永(かんえい)(1624~1644)ごろより始まり、正徳(しょうとく)・享保(きょうほう)(1711~1736)以降袴の中央にとるようになり、形式が整えられた。(かみ)と(しも)とは肩衣と袴のことで、肩衣に長袴を着用すれば長裃といい、肩衣と小袴(半袴)を着用すれば半袴という。半袴が一般化し、肩衣と袴の材質の異なったものを略して着用するようになった。これを継裃(つぎかみしも)という。やがて半袴から袴が分離独立して、小袖の上に着るようになる。この袴を平(ひら)袴(常の袴)という。武家も町人も袴をはくようになるが、襠の低いものは町人仕立てといわれた。初め武士はこの袴をはかなかったが、天明(てんめい)(1781~1789)以後はくようになった。しかしこれをはいた場合は、馬に乗れない。寛文(かんぶん)(1661~1673)のころ、江戸・芝神明町の松葉屋理右衛門(りえもん)が乗馬用に考案して仕立てた特有の袴は、乗馬に便利であるとの好評を得て武士に用いられた。これは襠を高くつけ、馬上でもすねがあらわにならないようになっており、馬乗袴(うまのりばかま)といわれた。馬乗袴の背の上方には薄板を入れた鞍越(くらごし)をつけるが、これは蝉(せみ)の形をしているところから俗に蝉形ともいう。歩行するときにはく袴は、馬乗袴と平袴の中間で、襠の高さを馬乗袴より低く、平袴より高くした。これを半馬乗袴という。襠の高さによって相引の高さが異なる。襠が高い位置にあるものは相引も高い位置まであり、襠の低い平袴は相引寸法が少ない。馬乗袴、半袴には緞子(どんす)、織文などを用いて袷に仕立て、裾に黒ビロードの縁をつける。そのほか唐桟(とうざん)を用いるものも袷にする。粗末なものは小倉木綿の縦縞(たてじま)を主として用い、これは夏冬とも単である。
平袴に裾縁をつけて用いるものを野袴という。緞子、錦(にしき)などの袷の野袴は上輩が用い、下輩の者は縞織のものを用いる。幕府御用達の町人が平日出仕のときに羽織と縞の野袴を着る。また士民ともに火事装束をするときは、野袴を着用する。踏込袴は野袴よりやや狭く、裾の縁布の幅も細いものがつけられている。これを裾細(すそぼそ)ともいい、元文(げんぶん)(1736~1741)に出てはやったもので武士が着用した。裁着(たっつけ)は伊賀袴、軽衫(かるさん)ともいい、南蛮人渡来により南蛮風の影響を受けてつくられた袴で、膝(ひざ)関節より下は脛巾(はばき)風にして膝下と裾を紐で結んでおり、鹿皮(しかがわ)、木綿、繻子(しゅす)、唐織(からおり)などでつくられた。16世紀、織田信長、豊臣(とよとみ)秀吉当時にも用いられた。
裁着は江戸時代の初めに武士が旅行するときや、番匠(ばんしょう)、木こり、狩人(かりゅうど)などが用い、また相撲(すもう)の行司も用いた。その後、民間に移行した。
[藤本やす]
女子の袴は、古くは貴族社会での服装構成上なくてはならないものであったが、室町時代に小袖、帯を用いるようになってから姿を消していた。明治以後、欧米文化の移入とともに学制が発布され、女子も学校へ通うようになる。明治中期ごろ、女生徒の通学に用いられた男子と同様の襠のある袴が改良されて、はきやすい襠のない袴が用いられるようになった。この袴を男子も平常に用いるようになり、これを襠無(まちなし)袴、また行灯(あんどん)袴ともいう。
現在、日常着は洋服化されているが、男子の和服の礼装には襠有(まちあり)袴を欠くことができない。七五三の5歳の男児の祝い着の正装としても襠有袴を用いる。女子は学校の卒業式や琴(こと)の演奏などに着用する程度である。特殊な面では、日本独特の技芸の剣道、弓道、能、仕舞、素踊り、また神官の装束、相撲の呼出し、行司などにおいて、それぞれ伝統のある袴が用いられている。
[藤本やす]
『後藤守一著『服装史概説』(1943・四海書房)』▽『喜田川守貞著『類聚近世風俗志(守貞漫稿)』(1928・文潮書院)』▽『喜多村信節著『改訂嬉遊笑覧』(1927・六合館)』
洋装のズボンやスカートのように,和装の下半身にはき,腰から脚をおおう衣服。前後両部からなり,下部は左右に分かれて筒状に縫い合わされ,ここに両足を通し,上部につけられたひもを結んで着装する。山袴のように布幅の少ないものはズボン状をなすが,襠高(まちだか)袴のように布幅の多いものはきわめて緩やかで,行灯(あんどん)袴のようにスカート状のものもある。〈婆加摩(はかま)〉の語は早く《日本書紀》に見え,また袴,褌の文字もすでに《古事記》《日本書紀》に用いられている。《和名類聚抄》はこの袴の文字を〈八賀万(はかま)〉とよむのに対し,褌の文字を〈須万之毛能(すましもの)〉〈知比佐岐毛乃(ちひさきもの)〉とよみ,また《新撰字鏡》も〈志太乃波加万(したのはかま)〉とよんで,これを肌袴と解しているが,《古事記伝》が〈如此分て呼は後のことにて,本は袴も褌もただ波加麻なるべし〉といっているように,古くは袴も褌も〈はかま〉の語に対して用いられたものであった。〈はかま〉の語義については,古くからいろいろいわれてきたが,現在では《大言海》の〈穿裳(はきも)ノ転〉というのが通説となっている。
袴の起源ないし源流については,まだ十分明らかにされていない。今日,袴類のうちで最も古い姿を残しているものは山袴であるが,この山袴のうち最も原初的なものは宮崎県椎葉山の〈たちあげ〉で,それは台湾高山族のポヨヨ・カチンなど,広くインドネシア諸族の袴と密接な関係をもつものであった。一方,《古事記》《日本書紀》の伝える上古の褌(袴)は,今日,各地発掘の埴輪(はにわ)に見られるところで,その衣褌(きぬはかま)・衣裳(きぬも)の容姿は,明らかに中国魏晋南北朝時代の北方諸族の胡服(こふく)の系統の服装である。
また,奈良時代は中国唐朝の文物制度が盛んに輸入された時であったから,このころには種々の唐朝服飾が採用されている。〈衣服令〉(大宝令)によると,礼服(らいふく),朝服,制服は,いずれも白袴を着用するよう規定されているが,唐朝の制度によると,文武官朝参の服に白布大口袴が行われ,乗馬の服にもまた舞楽の装束にも白袴が用いられ,〈衣服令〉の白袴の規定が唐朝の制度にならったものであることが知られる。しかも白袴着用のことが690年(持統4),706年(慶雲3)などに重ねて令せられていることからすると,唐制にならって白袴の採用されたのは早く天武朝にさかのぼるものと考えられる。
袴は上古の衣褌以来,男子服装において重要な位置を占めてきた。平安時代以降は文化の進展につれて服装のうえにも分化が行われ,たとえば束帯における表袴(うえのはかま),大口など,それぞれの服装に従って着用すべき袴が定められるようになり,また近世以降は,小袖が服装の中心となるに及んで男子の袴は著しい発達をみせた。たとえば腰板の発生,裾幅の拡大,寄せひだの形成など,その形態・材料・着法・機能のうえにも大きな変化を生じ,その種類はようやく増大した。男の袴には次のようなものがある。
(1)表袴 主として束帯に着用する特殊な仕立ての袴で,唐制の白袴から発達したものといわれ,一般に表は白で裏は紅である。ただし三位以上の者は表に窠(か)に霰(あられ)模様あるいは藤丸の模様のある白綾(しろあや),四位以下の者は白絹を用いた。(2)大口袴 略して大口という。束帯の表袴の裏に着装するので下大口とも,また表裏ともに多く紅地なので赤大口ともいう。生絹(すずし),平絹,精好(せいごう)などで作る。能装束の大口は後腰を張った特殊な外容を示す。(3)指貫 奴袴とも書き,ともに〈さしぬき〉と呼んでいる。衣冠(いかん),直衣(のうし),狩衣(かりぎぬ)などに着装する袴で,八布(幅)の仕立てで筒が太く,すそに括(くく)りの緒(お)を通す。華美な色目および模様の織物,綾,絹などを用いる。(4)狩袴 指貫の類であるが,六布の仕立てで,やや筒が細い。布製で狩衣に着装する。奈良時代の括緒褌(くくりおのはかま)から出たものという。(5)指(差)袴(さしこ) 指貫を切袴にした仕立てで,その模様,色目などもほぼ指貫に類し,衣冠,狩衣などに指貫の代用として着装された。(6)小袴 上古の褌の系統のものといわれ,その仕立ては指貫に似て裾に括りのある短小な袴。古く小袴はつねに素襖(すおう)に着用されたが,また直垂(ひたたれ),水干(すいかん)にも用いられた。(7)四幅袴(よのばかま) 前後各二布,計四布をもって仕立てた袴で,丈が短く,ひざから下を露出するので,股(また)はき,脚絆(きやはん)などでこの部分をおおった。鎌倉時代以降,下級武士がこれを着用した。(8)長袴 袴の裾を長くひくように仕立てた袴で,室町時代から直垂・素襖に用いられ,素襖長袴を上下(かみしも)といった。江戸時代には主として肩衣(かたぎぬ)に用い,肩衣長袴を長裃(ながかみしも)といい,上流武家の式服であった。(9)半袴 脚の長さほどに仕立てた袴で,長袴に対して半袴と呼ばれた。これも肩衣とあわせて半裃といい,一般武士をはじめ庶民もこれを式服とした。裃はもともと肩衣と袴とが共布のもので,麻裃などといって上下ともに麻布が用いられたが,肩衣と袴とそれぞれ地質・色目の異なるものも着用され,これを継(つぎ)裃といった。(10)平袴 裃のように肩衣と一対をなさぬ袴で,普通の袴という意味で平袴と呼ばれた。その仕立ては半袴とほぼ同様であるが,一般に襠(まち)が低く,左右の相引(あいびき)も低く,脇から着ている着物が見える。武士のほか庶民もこれを式服として用いた。(11)野袴 江戸時代に武士が旅行などに着用した袴で,襠が高く,緞子(どんす)などで作り,裾にはビロードの縁をつけた。(12)踏込(ふんごみ) 野袴の,裾のごく細いもので,江戸時代に着装された。(13)馬乗(うまのり)袴 馬に乗る必要から襠を高くし,裾をやや広く仕立てた袴で,緞子などで作り,ビロードの裾縁をつけたものや,裾縁をつけない縞の木綿などで仕立てたものもあった。江戸時代に武士が着用したものである。(14)伊賀袴 袴と共布の脚絆を付属したもので幕末に武士が着装したものをこう呼んだ。(15)襠高袴 馬乗袴のように襠を高くした,股下の高い仕立ての袴で,現在,一般に袴といっているのはこれである。襠高袴は江戸時代の末,内外多事の時にあたって現れ,従来の平袴に代わって用いられたが,ついで明治維新以後は式服として羽織とともに広く着用されるようになった。袴地には仙台平,御召,唐桟,小倉,セルなどが用いられた。(16)行灯袴 襠のないまったくスカートのような外見をもつ袴で,襠高袴に対して,これは略式の袴とされている。
平安時代には女子も袴を着用したが,十分な発達を見ずに早くすたれた。しかし明治時代に入り,女子教育などに伴って,再び袴を着用するようになった。女の袴には次のようなものがある。
(1)紅袴(くれないのはかま) 俗に緋袴(ひのはかま)と呼ばれているもので,紅の平絹,生絹,精好などで作る。仕立ては襠のある長袴で,裾を後ろに長くひく。平安時代中期から十二単(じゆうにひとえ)・小袿(こうちき)姿などの女房装束に着用された。打袴も行われたが,晴装束の場合には張袴をもっぱらとした。(2)緋切袴 紅の精好を用いて切袴に仕立てた袴で,宮廷婦人礼服の袿袴(けいこ)に着用された。(3)女袴 1887年,時の皇后の女子服制についての〈思召書〉にもとづき,古制をくんで作られたもので,華族女学校の制服として採用されたのに始まる。襠のない行灯袴の仕立てで,地質には多くカシミヤなどが用いられ,色目は海老茶,紫,紫紺,緑などで,明治時代には海老茶が,また昭和初年には緑が女学生間に流行した。しかし,女袴は今日では洋装の普及とともにほとんどすたれてしまった。
山袴は地方農山村などで仕事着として用いてきた一群の地方的な袴で,〈もんぺ〉〈軽衫(かるさん)〉〈裁付(たつつけ)〉などと呼ばれた。もんぺは第2次世界大戦中には都市でも女子防空着として用いられた。山袴の形態,名称,材料,着法,機能などは特異な点をもっているので,日本の袴の起源ないし源流を考えるうえに,きわめて重要な意義をもつものである。
→山袴
執筆者:宮本 馨太郎
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下半身をおおう衣服の一種。裂地(きれじ)を巻きつける裳(も)に対して,おもに襠(まち)があり両足を包む形式のものを総称する。袴は大化前代から使われていたが,奈良時代に整備され,平安時代に近代に及ぶ多様な袴の原型が確立した。大別すると上袴と下袴,出仕袴と仕事袴など。朝服の束帯(そくたい)の袴は表袴(うえのはかま)とよばれ,下に赤の大口袴を着用。直衣(のうし)や衣冠には指貫(さしぬき)の袴を使用した。狩衣(かりぎぬ)には狩袴を,水干(すいかん)や直垂(ひたたれ)には水干袴・小袴などを用いた。女房の袴は赤の下袴を長大化した緋長袴があり,日常用は生絹(すずし)でしたてた生袴(きのはかま)を用い,行事用には打袴や張袴が用いられた。また天皇だけは日常生活の場で,御引直衣・衵(あこめ)などの下に緋長袴を着用した。
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… 女生徒の場合は,和服に表現される貞淑,従順など婦徳への拘泥から,洋服の採用が男子に比して著しく遅れた。1872年文部省が設立した最初の女学校では,男袴(袴)が着用され女子師範学校にも波及したが,83年には〈異様ノ装〉として文部省から禁止され,次いで86年から男生徒に洋装制服が採用されたのと並行して,女子高等師範学校や一部の尋常師範学校で洋服が制服となった。だがこの洋装化は短期間で終わり,90年代前半には和服に復帰し,体操の必要から独特の女袴が開発され,それが20世紀初頭から高等女学校,女子師範等の制服として普及した。…
…同時に広袖(大袖)となるなど,ゆるやかで長大な衣服となる。公家の男性は上着に盤領(あげくび)・広袖形式を,内着に垂領(たりくび)・広袖形式を,公家の女性は上着,内着とも垂領・広袖形式に長袴をそれぞれ貴族の象徴として着装し,その後長い間続ける。新しい階級である中世の武家は,地方的・庶民的性格を備えながらも古代的意識が残り,公家文化を参考とし,礼装として公家の服装を利用し,彼らの労働着であった直垂(ひたたれ)を広袖化して公服とする。…
※「袴」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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