シルク・ロード(読み)しるくろーど(英語表記)Silk Road

翻訳|Silk Road

日本大百科全書(ニッポニカ) 「シルク・ロード」の意味・わかりやすい解説

シルク・ロード
しるくろーど
Silk Road

中央アジアを横断する古代の東西交通路。「絹の道」と訳される。ドイツの地理学者リヒトホーフェンがザイデンシュトラーセンSeidenstrassen(絹街道)という語を使ったのが始まりで、この道を通って、古代中国特産の絹が西へ運ばれたために名づけられた。歴史的にみれば、中国を漢王朝が支配していた時代に、タリム盆地縁辺のオアシス都市を経由し、パミール高原を越えて、中国と西方とを結んでいた道(オアシスの道)をさすが、東西交通路という意味で拡大解釈して、西アジアから、さらにローマにまで至る道や、ステップ経由の道(草原の道=ステップ・ロード)、海上交通路(海の道)をも、このなかに含める傾向にある。近年では、中央アジア地方を「シルク・ロード」とよぶ、わが国独特の呼称すら生じている。

 西南アジアでは、すでに紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアが、東は西トルキスタンから西は小アジア半島に至るまでの領域を支配し、前4世紀にはアレクサンドロス大王が地中海東部からインダス川までを支配下に収めるなど、早くから政治的統一を経験していた。もちろん、各地域の独自性は保持されていたものの、地域間の交流は、政治的統一と相まって、西南アジア世界ともよべる一つの文化圏を形成していた。この西南アジア文化圏と、それとはまったく異質の中国文化圏とを初めて結んだ道、それがシルク・ロードである。

[堀川 徹]

シルク・ロードの開通

松田寿男(ひさお)は、戦国時代(前403~前221)から盛んに中国へ輸入された、東トルキスタンのホータン特産の玉(ぎょく)が、「禺氏(ぐうし)の玉」とよばれていたことに着目し、これは、当時、甘粛(かんしゅく)省西部に拠(よ)っていた月氏(げっし)(禺氏)が中継貿易に従事していたためであり、玉の代償に、絹が輸出されていたと考えた。中国と西方との交易路は、すでに、史書に正式の記録が残される以前から通じていたのである。もっとも、西方との交通が公式に開始されるのは、漢の武帝の命によって張騫(ちょうけん)が中央アジアに派遣され(前139~前126)てからのちのことである。彼の旅行を契機として、「西域(せいいき)」と称される中央アジアや西方各地との国交が開け、使節団(商人)が中国を訪れて、珍しい品々や文物をもたらすようになった。張騫がシルク・ロードの開通者とされるのは、このような理由による。『漢書(かんじょ)』の西域伝には、当時中国の西の関門であった玉門関・陽関を起点として、そこから西へ向かう道が2本記されている。第一の道は、ロプノール南岸の鄯善(ミーラン)から南山(崑崙(こんろん)山脈)の北を西行して莎車(さしゃ)(ヤルカンド)に至り、葱嶺(そうれい)(パミール高原)を越えて、アフガニスタン北部へと出る道(西域南道)であり、もう一つの道(西域北道)は、車師(後の高昌(こうしょう)。トゥルファン)から、北山(天山山脈)南麓(なんろく)を進み、疏勒(そろく)(カシュガル)からパミールを越えて、大宛(だいえん)(フェルガナ)へと抜けるコースであった。南道には、別に、莎車の東から西南に葱嶺を越え、インドの北へと出るルートもあった。

[堀川 徹]

唐代のシルク・ロード

唐王朝(618~907)は、建国後まもなく、天山山脈西部北麓を根拠地とした西突厥(とっけつ)の勢力を抑えるため、積極的に西域経営に乗り出していった。このころになると、ロプノール一帯の乾燥化が進んで西域南道の利用度が薄れ、また、西域北道は、敦煌(とんこう)から北上し伊吾(ハミ)に出て、高昌から疏勒へと向かうコース(天山南路)と、天山山脈の北麓を進むコース(天山北路)がとられるようになった。唐の征服活動は、北道に沿って行われた。7世紀中ごろに、タリム盆地全域を制圧した唐は、亀茲(きじ)(クチャ)に設置した(一時、高昌)安西都護府(あんせいとごふ)を中心に経営に努めたため、東西貿易も盛んになっていった。そこでは、ソグディアナ(西トルキスタン)を本拠地とするソグド商人が活躍していた。やがて、タラス川の戦い(751)の敗戦や、安史の乱(755~763)の勃発(ぼっぱつ)によって、唐の勢力が後退していくなかで、9世紀中葉に北アジアから移住して、タリム盆地のトルコ化を推進したウイグル人や、西から進出したイスラム商人が、彼らにとってかわっていった。

[堀川 徹]

シルク・ロードの役割

まず第一に、東西を結ぶ貿易路としての役割があげられる。中国からは特産の絹が、西からは、玉や宝石、ガラス製品などが、この道を経由して運ばれていった。また、獅子(しし)や葡萄(ぶどう)・石榴(ざくろ)・胡桃(くるみ)・胡豆(えんどう)・胡麻(ごま)・胡瓜(きゅうり)・苜蓿(うまごやし)・紅藍(べにばな)などの植物類、琵琶(びわ)・箜篌(くご)などの楽器、音楽や舞踊、奇術や曲芸をはじめ、中央アジア・西アジアの産物や風俗が中国にもたらされた。さらに、インドの仏教、イランゾロアスター教(祆(けん)教)やマニ教、ローマで異端とされたネストリウス派のキリスト教(景教)、イスラム教(回教)などの宗教も到来した。一方、中国からは、たとえば、鋳鉄技術や養蚕、製紙法や画法が西方へと伝わっていった。シルク・ロードは、商業路としてだけではなく、東西文化の伝達路としても大きな意義をもっていたのである。このように、中国・西南アジア両文化圏を結び、それぞれに、文化的衝撃を与える役割を果たしたこの道は、やがて、モンゴル帝国が、両文化圏を含むユーラシア大陸の大半を支配下に収めるようになると、おのずから、その歴史的な意義を失っていったのである。

[堀川 徹]

シルク・ロード史観

シルク・ロードの重要性をさらに強調して、この道が中央アジアの死命を制していた、あるいは、中央アジア史は、もっぱら、この道の通商の利益の争奪をめぐって展開していた、とする理論が登場した。たとえば松田寿男は、「孤立性の強いオアシスに活気を吹き込んでいたのが、隊商と隊商路(シルク・ロード)であり、遠国の珍産や貴品を運ぶ中継貿易が、オアシスに富と繁栄とをもたらした。オアシスの農耕は、隊商の弁当づくりといってもよいほどの意味しかもたなくなり、商路がオアシスの死命を制することになる」と説いた。「シルク・ロード史観」ともいえるこの理論は、オアシス内部の生産力や、オアシス間相互の、あるいは、オアシス民と遊牧民との日常的な交易活動を過小評価している。近年、間野英二は、中央アジアの歴史を、シルク・ロードに象徴される、東西関係中心に組み立てようとする考え方を批判して、中央アジア史は、北部の草原地帯で生活する遊牧民と、南部のオアシス定住民との対立・共存という相互関係、つまり、南北関係を基軸として展開していったと主張した。

 シルク・ロード史観は、中央アジア史研究の分野においては、もはや主流ではないものの、NHKの報道番組「シルクロード」の放映(1980~81年、1983~85年)を機に爆発的な高まりをみせたシルク・ロード・ブームを支え、東西交通路のみならず、それが通過していた地域をも「シルク・ロード」とよぶ、独特の呼称を生み出すなど、わが国における中央アジア観の形成に大きな影響を与えている。

[堀川 徹]

織物

シルク・ロードは、その名のとおり中国の絹が西方の諸国、すなわち中央アジアやイラン、メソポタミアのオアシス都市を経て、ローマに運ばれたキャラバン・ルートであった。ローマ帝国では、インドからの海上ルートにより野蚕のシルクが使われており、それに対して、新しい家蚕のシルクが珍重されたといわれる。そして絹は、すでに紀元前6世紀のころにはギリシアで使われていたことや、アレクサンドロス大王の東征は、ペルシア人の独占としていた絹貿易を自らの手に収めようとしたものとの説もあって、このルートが古くから開かれていたといわれる。シルク・ロードは、逆にいえば、西方の諸国や北方アジアの遊牧民が常用してきた毛皮、氈(せん)(フェルト)、じゅうたんなど、各種の毛織物の類が中国へ運ばれた道であった。漢代の絹は中央アジアの楼蘭(ろうらん)などや、シリアのパルミラで出土しており、また隋(ずい)・初唐の代表的な絹は中央アジアのアスターナから出土しており、19世紀の後半からヨーロッパの学者の発掘により、また第二次世界大戦後には中国の研究者により、ぞくぞくと新しい発見がなされている。

 もう一つの絹の道は、中国の明(みん)代において、生糸・絹が、フィリピンのマニラを中継地として太平洋を横断し、アカプルコに達するガレオン船によって、新スペイン(ヌエバ・エスパニア、現在のメキシコ)に運ばれたものである。これはメキシコに絹の流行をもたらし、各地に養蚕がおこるきっかけにもなった。

[角山幸洋]

『松田寿男著『砂漠の文化』(中公新書)』『長澤和俊著『シルクロード』(1962・校倉書房)』『護雅夫「シルクロードと東西文化の交流」(『シルクロード事典』所収・1975・芙蓉書房)』『間野英二著『中央アジアの歴史』(講談社現代新書)』『車慕奇著『シルクロード今と昔』全3巻(1981・小学館)』『並河万里著『隊商都市』(1981・新潮社)』『山辺知行著『シルクロードの染織――ニューデリー国立博物館蔵』(1978・紫紅社)』『新疆維吾爾自治区博物館・出土文物展覧工作隊編『糸綢之路・漢唐織物』(1972・北京・文物出版社)』


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