赤坂(読み)アカサカ

デジタル大辞泉 「赤坂」の意味・読み・例文・類語

あかさか【赤坂】

東京都港区の地名。もと東京市の区名で、青山まで含まれた。大使館が多い。
岐阜県大垣市の地名。中山道の美江寺・垂井間の宿駅として栄えた。
東海道五十三次の宿場の一。現在の愛知県豊川市音羽地区の地名。
大阪府南河内郡千早赤阪村の地名。

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精選版 日本国語大辞典 「赤坂」の意味・読み・例文・類語

あかさか【赤坂】

[一] 東京都港区北部の地名。もと紀州徳川家上屋敷があり、その跡に赤坂離宮(現在の迎賓館)ができた。
[二] 愛知県南東部、音羽町の地名。東海道五十三次の宿駅の一つ。御油(ごゆ)との区間距離は東海道中最も短かった。
[三] 岐阜県大垣市の地名。かつて中山道の美江寺と垂井間の宿駅として栄えた。牛若丸が奥州に下るとき、盗賊熊坂長範を討った所と伝えられる。
[四] 大阪府南河内郡千早赤阪村の地名。奈良県境に近く金剛山西麓にあり、楠木正成の千早・赤坂城址で知られる。
[五] 岡山県の中央部にあった郡。旭川中流左岸一帯を占めていた。明治三三年(一九〇〇)磐梨(いわなし)郡と合併して赤磐(あかいわ)郡となる。

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改訂新版 世界大百科事典 「赤坂」の意味・わかりやすい解説

赤坂 (あかさか)

東京都港区北部一帯の地区名。1878年,東京府15区の一つ(青山方面の一部を含む),1932年には東京市35区の一つとなり,47年,麻布の2区と合併して東京都23区の一つ港区が成立し,その一部となった。武蔵野(山手)洪積台地の一部で,標高20~30mの台地を多くの谷が刻んでいる。江戸時代には,城南地区の典型的な大名・武家屋敷地であった。かつての紀州徳川家上屋敷跡は,迎賓館(かつての赤坂離宮),東宮御所,秩父宮邸,三笠宮邸などとして利用されている。アメリカ大使館など外国の大公使館や高級住宅が多く,落ち着いた地域となっているが,赤坂見附から溜池へかけては,ホテルなどが集中している。地下鉄銀座線赤坂見附駅(1938設置)で丸ノ内線が交差する。東洋美術,漢籍などを集めた大倉集古館,乃木神社,氷川神社豊川稲荷がある。現在,〈赤坂〉のつく行政上の地名は,港区の赤坂,元赤坂に限られているが,より広い範囲で使われている。
執筆者:

近世には江戸城南地域の称で,東は江戸城外堀で限られ,西は青山,南は麻布,北は四谷に隣接する。地名の由来は,紀州屋敷辺を赤根山(茜山)といい,そこへの登り口(紀伊国坂)を赤根山の坂と称したことから転じた赤坂の名が一帯の名称となったという。また赤土の坂のことであるともいう。当地域は江戸城の拡充整備や江戸の中心市街の発展と関連しながら,はじめ寺社地,武家地(旗本屋敷,大名屋敷)として開発が進み,その間隙を埋めるようにして町屋が発達した。1827年(文政10)の調査によれば,当地域内の町数27,総家数約2300軒(地主・家持50,地守・家守223,地借422,店借1586,明店38)であった。また幕末の資料によれば,当地域内に多い問屋商人の業種は舂米(つきごめ)屋,炭薪仲買,両替屋,人宿などである。江戸以前より集落のあった一ッ木村内に赤坂で最初に町屋のできた元赤坂町と,南伝馬町の伝馬役助成地として起立した表伝馬町,裏伝馬町,田町が赤坂門外に一ブロックを形成し,江戸城外郭の整備完了(1636)とも関連してそれぞれ寛永年間(1624-44)までに成立した起源の古い町屋である。ほかに1590年(天正18)伊賀者への給地となり,のちに町屋となった一ッ木町,同じく武家関係者への拝領町屋として1640-95年(寛永17-元禄8)にそれぞれ成立した新町5町,また浄土寺,願性院,専修寺,専福寺,氷川社などの寺社門前町屋があった。氷川社は1729年(享保14)に将軍吉宗の命により今井台の地に造営されたもので,門前には岡場所もできてにぎわった。武家地としては1827年の《武鑑》によれば,大名屋敷17(上屋敷8,中屋敷5,下屋敷4),500石以上の旗本屋敷56があった。そのうち1632年より幕末まで存在した紀州徳川家上屋敷は最も広大なものであった。
執筆者: 明治維新当初,神田雉子町の名主斎藤月岑(げつしん)は,その日記に,溜池を舟で渡って豊川稲荷へ参詣する寂しさを記しているが,それは赤坂から青山へかけての武家屋敷の荒廃によるところが大きかった。〈塀は頽れ家は壊れて寂莫たる有様〉(《太陽》1898)は,女の一人歩きは昼間でも危険だといわれる状況であった。2代東京府知事大木喬任(たかとう)は,窮民授産と殖産興業の見地から旧武家地のうち約100万坪に桑と茶の栽培を奨励し,赤坂・青山の約16万坪がその筆頭であった。その結果,現在はネオンまたたく赤坂一ッ木町,台町付近に大きな桑園,茶園ができることになった。20世紀に入っても赤坂付近の荒涼たる様子は変わらず,国木田独歩は《夜の赤坂》(1902)の中で,〈道はまるで無人の境です。人つ子一人通つて居ません〉と述べている。赤坂付近の様相が一変するのは1910年代から20年代に入ってである。桑・茶園はしだいに高級住宅街となり,さびれていた旧町地も活気を取りもどし,ことに料亭の繁盛がきわだってきた。そこに出入りする赤坂芸妓は新橋・芳町芸妓と姸(けん)を競い,政財界の奥座敷として花柳界赤坂の名が世に喧伝されるようになった。
執筆者:

赤坂 (あかさか)

美濃国不破郡と池田郡の境を流れる杭瀬川の西岸,金生山(赤坂山)のふもとにあった東山道の宿駅。現,岐阜県大垣市赤坂町。中世の文学作品に多く登場する。《平治物語》には源義朝の身がわりとなって佐渡式部大輔重成が赤坂の子安の森で討死したことがみえ,《とはずがたり》では赤坂宿に〈宿の主に若き遊女姉妹あり。琴・琵琶など弾きて〉とあって,隣接する青墓宿と同様に宿の長者が遊女であったことを推測させる。このほか,《覧富士記》《富士紀行》などの紀行文,謡曲《熊坂》《烏帽子折》や《蔭涼軒日録》《言継卿記》などの日記にも登場するが,宿の実態を示す史料は残っていない。1584年(天正12)3月,大垣城主池田恒興は〈赤坂寺内 西円寺〉あてに禁制を発している。この浄土真宗西円寺は,現在杭瀬川の東岸の草道島にある。
執筆者: 江戸時代ははじめ高須藩領,次いで幕府領,1633年(寛永10)以降大垣藩領。関ヶ原の戦に,大垣城の西軍に対して徳川家康が本陣を構えた岡山は,その勝利にちなんで御勝山と改められたといい,供養のための多数の墓石がある。中山道の宿場となり,1605年(慶長10)将軍旅宿の御茶屋屋敷が設けられた。東町に本陣・問屋場,子安町に脇本陣があり,はじめ馬淵家,次いで平田家,谷家,矢橋家が継いで本陣を務めた。杭瀬川に河岸があって舟運の便もあり,町並みが発達した。江戸時代,金生山から矢根石・蠟石・赤土・方解石・寒水石・花紋石などの印材・石細工材が採取されていたが,のち,大理石・石灰・セメントなどの採取・生産が行われている。輸入を含む大理石の加工工場が多く,赤坂大理石としてよく知られている。1901年町制,67年大垣市に合併,JR赤坂線が1919年開通して東海道本線の支線となっている。
執筆者:

赤坂 (あかさか)

三河国(愛知県)宝飯郡の中世以来の宿場町。近世には三河国内の天領を支配する赤坂代官所の所在地でもある。東隣の御油宿とは16町の至近距離にあり,1601年(慶長6)の伝馬朱印状には御油宿と併記して合宿になっているが,その直後に双方とも独自で人馬継立てを行う。小規模な宿駅であるが飯盛女を多く抱え,大田南畝も《改元紀行》(1801成立)のなかで〈遊女多し。同じ宿なれど御油は鄙しく赤坂はよろし〉と赤坂宿の繁栄の様子を記している。1869年(明治2)の調査によれば人口1566人のうち,飯盛女とみられる〈召仕女〉が219人もおり,本陣3,脇本陣1のほかに旅籠屋41,茶屋22,商家31,馬持稼ぎ16,往還稼ぎ14等々の交通関係業者が在住し,典型的な宿場町の様相を呈している。旧東海道の宿駅のなかでは,江戸時代のおもかげを最もよく残している。宿駅の近くには,持統天皇や源頼朝の宿泊跡と伝えられる宮路山がある。1894年町制,1955年音羽町となり,2008年豊川市へ編入。
執筆者:

赤坂(岡山) (あかさか)

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日本歴史地名大系 「赤坂」の解説

赤坂
あかさか

江戸時代は江戸城外郭の北斗郭(赤坂御門)の西南西に隣接して、溜池ためいけ谷から西方に広がる台地へかけての総称。文政町方書上は元赤坂もとあかさか町の町名由来として、同町北方の紀州徳川邸(現迎賓館所在地)辺りを赤根あかね山といい、同所への坂(のちの紀伊国坂)を赤坂と名付けたとする。この説をとる地誌は多く、またほかにも種々の説があるが、同町は旧地(現千代田区永田町二丁目の富士見坂)にあった時代から元赤坂町を称しており、旧地に近い赤坂見付北側に赤坂と記す地図があるので(明暦三年新添江戸之図)、現富士見ふじみ坂の旧名が起源と思われる。

赤坂
あかさか

現中央区に比定される地名。丘陵をなし、土壌は赤色であることから、文字どおり赤い坂に由来すると考えられる。文永一一年(一二七四)一〇月の文永の役でモンゴル軍は「あかさか」に陣を取り、日の大将少弐景資は赤坂は馬の足立が悪いので、博多のおき浜に控えるように指示した(蒙古襲来絵詞)。肥後の御家人竹崎季長はその命に従わず赤坂から鳥飼とりかいに向かい、赤坂では菊池武房の攻撃によりモンゴル軍は後退していた(同絵詞)。「梅松論」建武三年(一三三六)三月条に、九州に下った足利尊氏一行が香椎かしい(現東区)から赤坂を経て多々良たたら(現東区)に至ったとあるが、この場合の赤坂は多々良浜の近隣とされている。

赤坂
あかさか

[現在地名]竜王町竜王新町

かやヶ岳(一七〇四メートル)山麓の登美とみ台地南端で、通称赤坂台地とよばれる傾斜面にある坂。標高約三四三メートル。坂は甲州道中の道筋で、竜王新町から北西に向かって隣接する北巨摩郡双葉ふたば下今井しもいまいに通じる間にある。ローム層土質による赤土のために赤坂と名付けられ、難所の坂道として知られた。坂の東側に竜王新町の氏神諏訪神社と赤坂稲荷神社二社が並ぶ。神社南斜面に岩清水とよぶ湧水地があり、大旱魃でも涸れたことがないといわれ石祠が祀られている。

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百科事典マイペディア 「赤坂」の意味・わかりやすい解説

赤坂【あかさか】

三河国宝飯(ほい)郡の東海道の宿場町。現在の愛知県音羽(おとわ)町(現・豊川市)に属する。中世以来宿として栄え,《海道記》《東関紀行》などに当宿の記事がみられるほか,《源平盛衰記》には赤坂宿の遊女のことが記されている。1591年池田輝政は赤坂宿に馬46匹の常備を命じている。1601年に東海道の宿駅に指定されたときには,東に近接する御油(ごゆ)宿(現愛知県豊川市)とあわせて一宿とされていたが,すぐに独自で人馬継立を行うようになった。江戸時代初頭には東西2町に分かれており,1693年当時の町の長さ8町30間,人数1935。1707年の宿泊者数は10万3076人であった。《宿村大概帳》では本陣3,脇本陣1,旅籠屋62。赤坂宿には飯盛女が多数いたとされ,1801年成立の《改元紀行》には〈遊女多し。同じ宿なれど御油は鄙しく赤坂はよろし〉とみえる。江戸時代の宿駅の景観をよく残しており,宿の西には持統天皇頓宮(とんぐう)跡や源頼朝の宿泊跡と伝える宮路(みやじ)山がある。また当地には三河国内の幕府領を管轄した赤坂代官所も置かれた。

赤坂【あかさか】

東京都港区北部,青山とともに旧赤坂区をなしていた地区。山の手台地にあり坂が多く,表通りに商店街,裏通りに高級住宅,高級料亭,飲食店,ホテルなどが多い。赤坂見附は地下鉄,高速道路が通じる交通の要衝。紀州徳川家の屋敷跡に赤坂離宮,赤坂御所があり,氷川神社,豊川稲荷,東京放送等がある。2007年3月,防衛庁跡地再開発の東京ミッドタウンが完成。
→関連項目港[区]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「赤坂」の意味・わかりやすい解説

赤坂
あかさか

岡山県南東部,赤磐市西部の旧町域。砂川流域の吉備高原南縁にある。 1953年笹岡村,軽部村,鳥取上村の3村が合体して町制。 1956年布都美村の一部を編入。 2005年山陽町,熊山町,吉井町と合体して赤磐市となった。8世紀すでに赤坂郡の中心をなし,鳥取荘や軽部荘が置かれた。現在でも古代の条里制地割が残る。中心集落の町苅田 (まちかんだ) は砂川中流の谷口集落で,江戸時代には綿花と赤坂白木綿の生産地として有名であった。周辺は酒造米の雄町米 (おまちまい) ,モモ,ブドウの生産,近年は造園用花木栽培が盛ん。

赤坂
あかさか

愛知県南東部,豊川市北西部の旧音羽町の中心集落。江戸時代は東海道の宿場町であり,幕府直轄地で代官所,陣屋が置かれて繁盛した。明治維新後,三河県庁が一時置かれた。東海道本線が通らず農業中心の村となったが,1925年名古屋鉄道が開通して以降は豊橋市,岡崎市,名古屋市方面への通勤者が多い。御油との間にある国指定天然記念物のマツ並木と町並は,宿場時代の面影を残して有名。

赤坂
あかさか

岐阜県,大垣市北西部にある地区。旧町名。 1967年大垣市に編入。かつては中山道の宿場町として発展。金生 (きんしょう) 山から採掘される石灰岩と大理石をもとに石灰工業と大理石加工業が発達。石灰工業は江戸時代から興り,初めは肥料に使われていたが,現在では鉄鋼業用が大半を占める。大理石加工業は全国的に有名で,江戸時代の終り頃から興り,明治に入って洋風建築の装飾用材として使用された。最近は原石が減少し外国から輸入。温古焼は特産。史跡に指定されている美濃国分寺跡をはじめ,古墳,遺跡に富む。

赤坂
あかさか

東京都港区北部の地区。山手台地の南東部に位置し,多くの谷が刻まれ,坂が多い。江戸時代は大名屋敷が多かった。北部には東宮御所,迎賓館 (旧赤坂離宮 ) がある。中央を東京地下鉄千代田線,北部に半蔵門線,東部を銀座線,丸の内線が通り,企業やホテルなどの高層ビルが林立する。各国の大使館や放送局がある。港区を構成する旧区名でもある。

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事典・日本の観光資源 「赤坂」の解説

赤坂

(愛知県宝飯郡音羽町)
東海道五十三次」指定の観光名所。

赤坂

(岐阜県大垣市)
中山道六十九次」指定の観光名所。

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