改訂新版 世界大百科事典 「カザフスタン」の意味・わかりやすい解説
カザフスタン
Kazakhstan
基本情報
正式名称=カザフスタン共和国Kazakstan Respublikasy/Republic of Kazakhstan
面積=272万4900km2
人口(2011)=1602万人
首都=アスタナAstana(日本との時差=-3時間)
主要言語=カザフ語,ロシア語(ともに公用語)
通貨=テンゲTenge
独立国家共同体(CIS)を構成する中央アジアの共和国の一つ。旧ソ連邦を構成したカザフ・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。中央アジアの北部に位置し,東部は中国と境を接する。東西約3000km,南北1500kmという広大な地域を占め,面積はCISのなかでロシア連邦に次ぐ。首都はアルマトゥイ(旧名アルマ・アタ)であったが,1997年北部のアクモラAkmola(旧名アクモリンスク,ツェリノグラード。1995年の人口28万人)へ移転,98年6月アスタナと改称された。1920年自治共和国として成立し,36年にソ連邦構成共和国となり,91年12月に独立した。
自然,住民
西部はカスピ海沿岸低地とトゥラン低地,中央部はカザフ小死火山地帯,北部は西シベリア低地で,東部と南東部にはアルタイ,タルバガタイ,ジュンガル・アラタウ,天山の山脈がそびえる。おもな河川として,イルティシ,ウラル,シル・ダリヤ,チュー,イリ川など,湖は南西部にアラル海,南東部にバルハシ湖がある。乾燥したきびしい大陸性気候で,主としてステップ,砂漠帯の植物が生育している。
カザフスタンの人口は第2次世界大戦後急増しており,1994年の人口は1939年の3.21倍となっている。ヨーロッパ系諸民族は,革命前に労働者・農民として移住したほか,1950年代北部の処女地開墾と工業化によって大量に流入した。民族構成では中央アジアの他の共和国に比べロシア人の比率が高く,1979年に40.8%を占め,カザフ人の36.0%がこれにつづき,他はずっと少数でドイツ人とウクライナ人が各6.1%,タタール人2.1%,ウズベク人1.8%,ベラルーシ人1.2%などであったが,その後人口の自然増加率の高いカザフ人が増え,ソ連解体後は,ロシア人,ドイツ人の国外移住によって大きく構成が変わり,1994年にはカザフ人44.3%,ロシア人35.6%,ウクライナ人5.1%,ドイツ人3.6%,タタール人2.0%,ウズベク人2.2%などとなった。人口密度はCIS諸国のなかで最低で6.1人/km2(1989)であるが,都市人口の比率は,1939年28%,66年48%,89年57%と急増している。人口は北部(ロシア人が多い)と南部に集まっている。
歴史
18世紀,それまで三つのジューズ(モンゴル語でオルド。一般にオルダともいう)に分かれて遊牧していたカザフ人のうち,シル・ダリヤ以北のステップとアラル海北方の中小二つのオルダがロシアに臣属し,19世紀の60年代大オルダが併合されカザフスタンはすべてロシアの領土となった(ロシア革命以前の歴史については〈カザフ族〉の項を参照されたい)。
1913年には2万人の工場労働者,2万3000人の鉄道労働者を数えたが,まだ大部分のカザフ人は遊牧生活を続けていた。16年後半の中央アジア諸民族の戦争への徴集反対の反乱(中央アジア大反乱)にはカザフ人も加わった。17年の二月革命後は臨時政府のトルキスタン委員会,州・郡委員会とともに,ベールヌイ(現,アルマトゥイ),セミパラチンスク(現,セメイ)等いくつかの都市にソビエトが生まれた。カザフの民族主義者は〈アラシAlash党〉を結成し,社会民主党に対立した。12月,バイ(地主),イスラムの宗教指導者・知識人,ブルジョア民族主義者はオレンブルグで大会を開いて自治を宣言し,カデットのブケイハノフA.Bukeikhanovを代表として政府〈アラシ・オルダ〉を形成した。ウラルとセミレチエ・カザフの〈軍事政府〉も創設された。ソビエト政府の樹立にはオレンブルグ~タシケント鉄道の労働者,1916年に前線に徴集され帰還した〈後方労働者〉,貧農,兵士が大きな役割を果たした。17年10月には最初の赤衛軍が創設され,17年11月~18年1月にアクモリンスク(現,アクモラ)州などでソビエト政府が平和的に樹立された。しかし17年11月,オレンブルグではアタマンのドゥトフA.I.Dutovの反ソ暴動が発生,18年1月バルト艦隊水兵,ペトログラードの赤衛隊によって鎮圧されて,18年1~2月トゥルガイ州,2月セミパラチンスクで武力によりソビエト政府が成立。さらに南東部のセミレチエでは3月にボリシェビキの指導の下にベールヌイの労働者が蜂起し,西部のウラリスクでは1月に農民大会がソビエト政府を宣言した。しかしこの政府は3月末反革命派の〈軍事政府〉と〈アラシ・オルダ〉によって倒され,19年1月に赤軍によって復活される。
カザフ共和国の前身である自治キルギス共和国が,ロシア連邦共和国の一部としてオレンブルグで形成されたのは,国内戦終了後の1920年10月である。21-22年,土地・水利改革によって,帝制政府によって取り上げられていた土地47万haがカザフ人に返還された。24年10月の中央アジアのソビエト共和国間の境界画定によってカザフ人の住むシル・ダリヤ州,セミレチエ州の領域は,自治キルギス共和国に入れられ,25年には首都がオレンブルグから中央部のクジル・オルダKzyl-Ordaへ移された。首都は29年にはアルマ・アタ(現,アルマトゥイ)へ移される。1925年にはまた名称がカザフ自治共和国と改称され,26-29年カザフ人の村のソビエト化が実現され,36年12月,カザフ・ソビエト社会主義共和国が誕生した。
産業,社会
この間,貧・中農は,1926-27年にもとバイがもっていた125万haの耕地と136万haの牧草地を,28年には14万5000頭の家畜を受け取った。つづいて29年から集団化・定住化が行われたが,必ずしも実態に即さない政策と激しい階級闘争のため,カザフ人の人口は30年代に220万(49%に相当)が失われ,家畜頭数は,牛は30年の480万頭から33年165万頭となった。他方,1931年開通のトルクシブ(トルキスタン・シベリア)鉄道などの鉄道網の整備,大工業企業の建設,カラガンダの石炭基地の創設によって,28-40年に工業生産は7.9倍,電力84倍,石炭190倍,石油2.8倍となった。第2次大戦中には,142の企業と100万人以上の労働者がカザフ共和国に疎開して来たほか,アクチュビンスク(アクトベ)の鉄合金工場等も稼働し,工業生産は1.5倍となった。
戦後の工業化は大戦中の建設を土台としてすすめられた。とくに銅,亜鉛,ニッケルなど豊富な鉱物資源を原料とする重工業,冶金,化学,機械工業,および軽工業,食料品工業の発展により,1980年の工業総生産は1940年の32倍となった。カスピ海北東岸のマンギシラクMangyshlak州に天然ガスと石油が発見されるなど,以前の見積りが小さすぎたことも明らかになっている。農業に目を転じると,播種面積は1913年414万5700ha,53年962万5200haであったが,戦後北部でのソホーズ建設による処女地開墾によって飛躍的に増大し,80年3639万haとなり,小麦生産は1861万3000tと,ウクライナに迫る。穀物全体の生産は40年の8.6倍である。
カザフスタンには1996年にアルマトゥイとカラガンダの両国立大学をはじめ,約30の高等教育機関で約29万人の学生が学んでいる。教育水準の向上によってカザフ人の有資格労働者・インテリゲンチャが増大し,《アバイ》のアウエーゾフらの伝統をふまえながら独自の文化が形成されると同時に,ロシア人などヨーロッパ系諸民族との接近も進んでいる。識字率は100%に近い。共和国のラジオ,テレビは多様な民族構成を反映して,カザフ語,ロシア語のほか,朝鮮語(1937年スターリンの指令による強制移住で,極東からこの地に移った朝鮮人が約10万人在住する),ウイグル語,ドイツ語,ウズベク語で放送を行っている。独立後カザフ語を国家言語,ロシア語を民族間言語とした。また20世紀初め,ステップ地方には全部で244人,住民2万3000人に1人しか医者がいなかったが,91年には6万7600人,住民1万人当り40.3人となっている。
独立後の動き
カザフ共和国最高会議は,1991年12月10日国名をカザフスタン共和国に改称,12月16日に〈共和国の国家的独立について〉を,93年1月28日に憲法を採択した。1989年6月以来カザフ共産党第一書記であったN.ナザルバエフが,90年4月に初代大統領となり,市場経済化を進めている。ナザルバエフはソ連解体に際し,独立国家共同体(CIS)結成に主導権をとった。民族的構成が複雑で,特徴をもった多くの地域からなるカザフスタンをまとめていくことは容易でない。1986年12月カザフ共産党第一書記がカザフ人D.クナーエフからロシア人G.コルビンに代えられたとき,アルマ・アタで大規模な抗議のデモが起こり,ソ連社会に衝撃を与えたが(アルマ・アタ事件),独立後の民族政策は穏健である。
独立後は生産の低下が大きく,94年以降回復しつつあるが,原料・燃料の輸出に依存するようになっている。79年に発見された北西部のテンギス油田の開発は,92年にアメリカのシェブロン社との合弁によって着手されている。90年にトルクシブ鉄道のアクトガイと中国の北疆鉄道がつながり,中国との人と物資の交流がいっそう盛んになった。93年11月15日にルーブル圏を離脱し,テンゲTengeという通貨単位を導入している。
95年8月30日には,国民投票によって,大統領の権限を強めた新しい憲法を定めた。大統領は95年9月に中国を訪問し,関係を強化した。日本は93年アルマトゥイに大使館を開設した。
北東部のセミパラチンスク(現,セメイ)近くでは,1949-89年に大気圏内と地下あわせて約500回の核実験が行われたため,放射能汚染が広がっており,多数の住民が被曝している。
→カザフ族
執筆者:木村 英亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報