目次 自然 住民,社会 歴史 政治 経済 基本情報 正式名称 =ナイジェリア連邦共和国 Federal Republic of Nigeria 面積 =92万3768km2 人口 (2010)=1億5830万人 首都 =アブジャAbuja(日本との時差=-8時間) 主要言語 =英語,ハウサ語,ヨルバ語,イボ語 通貨 =ナイラNaira
西アフリカの東端に位置し,アフリカ最大の人口をもつ連邦共和国。国土の南はギニア湾の支湾のベニン湾とボニー湾に臨み,西はベニン,北はニジェール ,東はカメルーンと接し,北東端はチャド,ニジェール,カメルーン,ナイジェリアの4国の国境が接するチャド湖に面する。
自然 広大な国土をもつナイジェリアの自然は,きわめて変化に富んでいる。遠くギニアの山地に源を発したニジェール川 は,大きく屈曲しながら西アフリカを貫流し,ニジェールとベニンの国境に沿いながらナイジェリアに流入する。ケッビ川など北部の河川を集めたニジェール川は,ナイジェリア西部を南東流して,ロコジャ付近でベヌエ川Benue Riverと合流する。ベヌエ川はカメルーン中部のアダマワ高原 にその源を発し,カメルーン中北部からナイジェリアに入り,南西流してニジェール川に合流する。大河川となったニジェール川は南流してギニア湾に注ぐ。その河口一帯には広大なデルタが形成され,デルタには乱流するニジェール川の分枝流が無数に走っている。このニジェール・デルタを含め,ナイジェリア最南部のギニア湾海岸線は,幅約80kmにわたって低平な湿地帯をなし,マングローブの茂る浅瀬や礁湖(ラグーン)が複雑に交錯している。
内陸部は,ニジェール川,ベヌエ川流域をはじめ,標高600m前後の緩やかな起伏の丘陵が続いているが,ニジェール,ベヌエ両河川にはさまれた中部と北部は平均標高1000mを超す高原となっており,とくに中部のジョス高原では標高2000m近くに達する。また東部のカメルーンとの国境地帯は,古い褶曲(しゆうきよく)山脈が走り,火山帯となっている。
ナイジェリアの気候は,海洋気団の影響でギニア湾海岸部では,年間4000mmに達する降雨をみるが,内陸を北に向かうほど乾燥する。すなわち南部では一年中降雨があり,熱帯雨林気候に属するが,中部や北部では降雨が雨季に集中して,乾季と雨季との差が明瞭なサバンナ気候となる。それに伴って植生も南部では熱帯雨林が各所に発達しているが,中部以北ではサバンナが卓越する。最北部では乾燥が著しく,半砂漠も出現する。12月半ばから2月半ばにかけてサハラ砂漠 から吹く乾燥した熱風ハルマッタン の影響は,とくに北部に強くみられる。 執筆者:端 信行
住民,社会 1億を超える人口をもつ大国であるが,西部のヨルバ族 ,東部のイボ族 ,北部のハウサ族 およびフルベ族 (フラニ族)の大きな部族が勢力を分けあっている。これらの部族は人口も500万から1000万以上を数え,もはや部族ということばはあてはまらない。そのほか100以上の部族が居住しており,言語,文化の異なる部族の分化傾向が強く,国全体の政情は不安定で,ビアフラ戦争 はその破綻の一例であった。
ヨルバ族はクワ語群に属するヨルバ語を話し,その人口は1000万を超え,隣国のベニンにも居住している。もとは,より北に居住していたが,19世紀に北方からのフルベ族の圧迫で,森林地帯に南下した。イバダン,オヨ,イロリン,アベオクタ など,ヨルバ都市と呼ばれるいくつもの都市を形成し,それを中心にそれぞれ王国を形成した。伝説によれば,ヨルバの祖先は天からイフェに送られたといい,ヨルバ諸王国の王はイフェのオニ(支配者)に忠誠を誓った。ヨルバの都市は城壁で周囲が囲まれ,王宮,市場,モスクなどが中央部に所在し,住居の密集した都市景観を呈した。植民地化される以前,イバダンはアフリカ最大の人口をもつ都市であった。ヨルバ都市の住民は大部分が農民で,今日でも都市住民が鍬を持ってバスや車で郊外の遠方の畑へ通う光景が見られる。ヤムイモ,キャッサバ ,トウモロコシ ,ココヤシ,アブラヤシ などが栽培される。ヨルバは商業的才能にも秀でており,ナイジェリアから広く西アフリカ各地で活動している。
イボ族は人口800万ないし900万を数える。ヨルバと異なり,中央集権的な政治組織は形成せず,村落連合レベルの統合しかもたなかった。イギリス植民地下にあって,官吏や商人としてナイジェリア全土で活躍した。またかつては奴隷交易の仲介人として一役買った。イボ族の有能な活動は,他部族とくに北部の住民の反目を買ったが,それがビアフラ戦争につながる一要因となった。
北部のハウサ族はアフロ・アジア語族(ハム・セム語族)のチャド語派に属するハウサ語 を話す。ハウサ語は共通語としてアフリカ大陸で最大の言語人口をもっており,その数は2000万以上にものぼる。ハウサはモロコシ,ミレット,トウモロコシ,ラッカセイ ,ワタなどを栽培する農耕民であるが,同時に広域に展開する商業活動でも有名である。14世紀後半にはイスラムが入り,イスラム的要素の強い,囲壁をもつ都市を核として,カノ,ダウラ,ラノ,カツィナ,ザリア(ザザウ),ゴビル,ビラナの七つの国家(ハウサ諸国 )を形成した。16世紀初めにはソンガイ帝国 の支配下に置かれたが,16世紀末にはその支配を逃れ,各都市はサハラ砂漠南縁に位置することによって,長距離交易の終結点として商業的繁栄をみせた。ハウサはみずから商人として交易に従事したが,南の森林地帯で産出するコーラ の実交易の独占に特徴があった。コーラの実はサバンナの住民にとってかんで楽しむ嗜好品として貴ばれたが,同時に贈物などに用いられる大事な品であった。ハウサ商人は,今日のガーナの森林地帯へ交易ルートを開き,キャラバンを組織した。また北部の牛を南部に売りさばく交易にも乗り出した。ハウサの社会は,職業に基づく階層が明確である。その頂点には王族,官僚,イスラム教 師などが立ち,富裕な大商人,交易商人や職人,小商人がそれに次ぐ。職人は革細工,機織,染色,仕立て,大工などの職に携わり,さらに下位には奴隷や宦官(かんがん)などの層があった。しかし19世紀にフルベ族による支配を受け,それ以後はフルベの支配者がハウサ諸都市を治めている。
フルベ族(フラニ族)は,13世紀に西方からハウサ地方に移住してきた。その後,本来の遊牧生活から,都市に居住しイスラム化する者が増加した。19世紀に入ると,サハラ南縁の地方にはイスラムの改革運動が続出した。ウスマン・ダン・フォディオ はソコトを拠点として,堕落したムスリムに対しジハード(聖戦)を起こし,ハウサ諸国をつぎつぎと支配し,フルベを首長として置き,カメルーンにまで及ぶ広大な領域の王国を形成した。
ナイジェリアの中央にはヌペ族 ,ティブ族 などの部族も,独自の社会,文化を発達させている。ニジェール川の河口デルタ地域にはイジョーやイビビオ,エフィクなどの部族が,かつては奴隷交易,その後はパーム油の交易で繁栄した歴史をもっている。
今日,ナイジェリアの人口の50%強は農村に居住し,3000万ないし4000万が都市人口と推定される。1974年以降の石油ブームで,ラゴスをはじめとして都市人口が増大し,また失業者も大量に出現し,政府は対策に苦慮している。
イスラム教徒が北部を中心に人口の50%を占め,南部にはキリスト教 徒が多く,34%に及んでいる。公用語は英語であるが,北部でのハウサ語をはじめ,大部族の言語が広く用いられている。 執筆者:赤阪 賢
歴史 西アフリカで最も古いとされる文化遺跡がナイジェリアで発見されている。それはニジェール川流域北部のジョス高原を中心に発掘されたもので約2000年前のものといわれる。この文化は,最初に発見された村の名にちなんで,ノク文化(ノク )と呼ばれており,土偶などの出土品は,今日のヨルバ文化に共通する特色をもっていたと考えられる。
中世以後のナイジェリアの歴史は,北部と南部とでまったく異なる。北部地方は中央スーダン に属し,早くからイスラム化し,14世紀にはハウサ族諸国家(ハウサ諸国)が形成されていた。北部の大都市カノには11世紀に建てられた城壁が残されている。これらの諸国家も19世紀にはフルベ族の支配下に置かれた。一方,ニジェール川以南の南部森林地帯では,10世紀以後ヨルバ族のイフェ王国 やオヨ王国 が形成され,14~17世紀にはビニ族(エド族)のベニン王国 が栄えた。 執筆者:端 信行 1470年にヨーロッパ人としてポルトガル人が初めて,現在のラゴス の地域に渡来し,ベニン王とポルトガル王は使節を交換した。16世紀から19世紀にかけてヨーロッパ商人は,ベニン湾を中心に奴隷貿易を盛んに行い,海岸地帯は奴隷海岸 と呼ばれた。1807年のイギリスの奴隷貿易禁止以後も奴隷貿易は実質的に継続されたが,イギリス系商人は当時イギリスで需要が増大しつつあったパーム油の貿易に転換した。イギリス政府は奴隷貿易の取締り,パーム油貿易確保のため,19世紀半ば以降,ニジェール川デルタ地帯に対する関心をたかめ,奴隷貿易取締りに反対したラゴス王コソコと対立した。1851年イギリスはラゴスを砲撃し,翌52年ジョン・ビークロフト領事はコソコの甥のアキトエ王子を応援して王に即位させ,奴隷貿易廃止の協定を結ぶとともに,ラゴスを勢力下に入れた。さらに61年には再度ラゴスを攻撃し,ラゴスを直轄植民地とした。
19世紀後半ニジェール川デルタ地域では,イギリス系の統一アフリカ会社(UAC)とフランス系商社とが競合していた。84年11月から85年2月にかけて開かれたベルリン会議 で,アフリカ分割のルールがヨーロッパ列強諸国間で決定され,ナイジェリア中部のロコジャより下流のニジェール川流域はイギリスの勢力圏として認められた。86年にはUACの後身のナショナル・アフリカ会社が現地の首長らと締結した協定ならびに貿易独占権がイギリス国王 から認められ,同社は社名を王立ニジェール会社 (RNC)と改めた。RNCは現地の首長,住民の激しい抵抗を受けながらも保護領を拡大していった。98年ルガード に率いられた軍隊が北部ナイジェリアに進出し,イギリス政府は1900年に北部ナイジェリア保護領の成立を宣言した。また同年には南部のRNC領などが改編されて南部ナイジェリア保護領となり,現在のナイジェリア全域がイギリスの支配下に置かれた。当初,北部と南部とは別個の総督の下で統治されていたが,14年に両者は併合され,ルガード(初代北部ナイジェリア保護領高等弁務官)が新総督に就任した。ルガードは北部ナイジェリアで実施していた間接統治制度を全域で施行し,各地の伝統的統治構造を維持することに努め,鉄道,道路の整備によって内陸部の経済・社会開発を進めようとした。
第1次世界大戦終結後,西アフリカにおいても民族運動の萌芽がみられた。20年にイギリス領ゴールド・コーストのアクラでイギリス領西アフリカ国民会議が開催され,ナイジェリアからも6人が参加した。22年の立法審議会設置に伴い,マコーレー Herbert Macaulay(1864-1946)を党首とするナイジェリア国民民主党が結成された。カカオ,ラッカセイ,パーム油,ゴムなどの熱帯農産品の輸出に依存していたナイジェリアは20年代末の世界不況の打撃を受けた。30年代には青年層を中心にしたナイジェリア青年運動が結成され,アメリカ留学から帰国したアジキウェ は《ウェスト・アフリカン・パイロット》紙を基盤にして民族主義,反植民地主義を主唱した。
第2次世界大戦は,ナイジェリアの人々の経済生活ならびに政治意識に対して第1次世界大戦よりもさらに大きな影響を与え,44年にはナイジェリア・カメルーン国民会議(NCNC)がマコーレー,アジキウェを中心に組織され,民族主義的要求を明示した。また45年には戦争による物価高騰に反対する労働者が長期にわたるストライキ を実行した。植民地政府側は,リチャードソン憲法(1947),マクファーソン憲法(1951)によって,西部,東部,北部の3州制への移行,選挙権の拡大を図った。これに対応して,北部州ではハウサ族を中心にした北部人民会議(NPC),西部州ではヨルバ族を中心にした行動党(AG),東部州ではイボ族が強力メンバーであったNCNCが支配的政党となった。イギリスとの独立交渉では,南(西部州,東部州)・北の指導者間の意見がしばしば対立したが,60年10月1日にナイジェリア連邦として独立を達成し,バレワAbubakar Tafawa Balewa(1912-66)(NPC)が連邦首相,アジキウェが総督(1963年の共和制移行後は大統領)に就任した。
政治 独立直後にも,独立交渉中にみられた地域間,部族間,指導者間の対立が継続・再現し,政情は不安定であった。1963年の人口調査(センサス)の実施とその結果の発表,64年12月の総選挙の混乱は政党政治への国民の不信を増大させた。この政治的混乱を背景にして66年1月15日に軍部によるクーデタが起きた。A.ベロ,バレワなど北部系指導者が殺され,イボ族のイロンシ将軍Aguiyi Ironsi(1934-66)が政権を獲得し,統一国家への再編を図った。しかし同年5月の連邦制廃止法公布直後に,北部州に在住するイボ族が大量に殺害され,イロンシも7月29日に殺された。この第2次クーデタによってゴウォン中佐Yakubu Gowon(1934- )が実権を握り,連邦制が復活した。しかし9月末に北部州で再びイボ族への虐殺が始まり,100万人を超えるイボ族が東部州に帰郷し,東部州と北部州および連邦政府との対立は急速に増大した。ゴウォンは北部州の細分化を含む多州化を図り,12州による連邦制度を推進した。東部州軍政長官オジュクEmeka Odumegwu Ojukwu(1933- )はこの案に反対し,67年5月30日に東部州のビアフラBiafra共和国としての独立を宣言,7月6日に内戦(ビアフラ戦争 )が始まった。戦闘開始直後はビアフラ軍が優勢であったが,10月以降,連邦政府軍が反攻を始め,68年9月にはビアフラの石油積出港であるポート・ハーコート を略取した。内戦の進展に伴い,タンザニア ,ガボン,コートジボアール ,フランスがビアフラ共和国 を承認し,アフリカ統一機構(OAU)が調停に乗り出したが,解決をもたらさなかった。70年1月,臨時首都のオウェリが連邦政府軍に占領され,オジュクはコートジボアールに亡命し,2年半にわたる内戦は終結した。
ゴウォンは70年4月に戦後の第2次国家開発復興計画を発表し,民政移管を76年に予定した。急速に増大した石油の輸出収入を基盤に開発計画を進め,近隣西アフリカ諸国との協力関係を促進する西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS )の創設にも積極的に取り組んだ。74年10月に国内体制の不備を理由に民政移管計画の無期延期を発表したが,これは急速に拡大された経済活動による所得の格差増大ともあいまって,国民の政府上層部への不満を高めた。75年7月,ゴウォンがウガンダにおけるOAU首脳会議に出席中,無血クーデタが発生し,ムハンマド将軍Murtala Muhammad(1938-76)が政権を握った。ムハンマドは行政組織の簡素化,12州から19州への細分化,国の中央部のアブジャへの首都移転計画を決め,民政移管を79年10月までに行うと発表した。ムハンマドに対する国民の支持は大きかったが,1976年2月,軍内部の不満分子によって彼は暗殺された。しかしこのクーデタは成功せず,参謀総長オバサンジョ Olusegun Obasanjo(1937- )が国家元首になり,ムハンマドの民政移管計画をそのまま引き継いだ。76年10月に新憲法草案が公表され,翌年には制憲議会が開かれた。そして78年9月に12年ぶりに政党活動禁止令が解除された。
79年7~8月に実施された大統領,上下両院議員,州知事,州議会議員の選挙は,連邦選挙管理委員会によって公認されたナイジェリア国民党(NPN。北部のハウサ族を基盤とするが,ほぼ全国的に支持者をもつ),ナイジェリア統一党(UPN。西部のヨルバ族が基盤),ナイジェリア人民党(NPP。イボ族が基盤),大ナイジェリア人民党(GNPP。北東部のボルノ州が基盤),人民救済党(PRP。北部のカノ州が基盤)の5政党によって争われた。大統領選挙ではNPNの党首シャガリShehu Shagari(1925- )が約1/3の票を獲得し,UPNのアオロオ党首がそれに続いた。上下両院選,州知事選,州議会選でもNPNが勝利し,同年10月にシャガリを大統領として13年ぶりに民政に復帰した。シャガリ新政権下では,世界石油市場の悪化,輸出収入の激減,対外債務の増大によって財政・経済状况が悪くなり,83年1月には,ガーナなど近隣諸国からの不法な出稼労働者約200万を短期間に国外追放する措置をとり,大混乱が生じた。同年8~9月の選挙では,シャガリが全投票の47%を獲得して大統領に再選され,上下両院・州知事選挙ではNPNが60~70%を占めた。しかし選挙に際して不正行為が横行し,一部地域では暴動も起こった。83年12月に再び軍部のクーデタが発生し,ブハリMuhammad Buhari(1942- )が国家元首になり,再び軍政に移行した。
84年1月ブハリを議長とする最高軍事評議会が発足したが,ブハリ政権の極端な経済緊縮政策,言論弾圧政策は国民大衆の支持を弱めた。85年8月,83年のクーデタの協力者で最高軍事評議会議員であり,故ムハンマド将軍政権に協力していたババンギダIbrahim Babangida(1941- )が無血クーデタを実行し,自ら大統領兼軍最高司令官に就任した。ババンギダ政権は政治犯を釈放し,言論統制を撤廃して国民の不満を避け,民政への移行を約束した。88年4月の制憲議会選挙を経て,89年5月に新憲法が公布された。政党活動も解禁されたが,ババンギダは二大政党制を主張し,最終的には,社会民主党(SDP)と全国共和会議(NRC)の2政党だけが認められた。
外交的には非同盟中立を基本とし,アフリカ統一機構などを通じたアフリカ域内外交を重視している。西アフリカ諸国経済共同体(ECOWAS)設立の主導国である。隣国カメルーンとの間に国境問題をかかえている。
経済 1970年代以降,石油生産・輸出の増加,石油価格の急騰によって,石油輸出収入が急増し,経済活動は拡大した。80年代に入ると石油価格が低迷し,経済は大きな打撃を受けた。国内総生産(GDP)平均年成長率は1965-73年に8.3%,73-80年に3.4%であったが,80-88年はマイナス1.7%となった。1人当り国民総生産(GNP)は260ドル(1995年世界銀行推計)。
1960年に独立するまでのナイジェリアは,パーム油・パーム核(世界第1位),ラッカセイ(世界第1位),カカオ(ガーナに次いで第2位)が主要輸出品であり,これら3品目で輸出収入の約70%を占め,天然ゴム,綿花,木材,スズも重要輸出品であった。輸出農作物は,小規模農家によるものが大半であった。しかし全農産物輸出の総輸出収入に占める割合は,70年には44%に,70年代末には約6%にまで低下した。80年代,90年代には,輸出収入の95%を石油が占めた。この低下は,石油輸出収入の急増によるものだけではなく,干ばつ,低生産者価格,労働力不足などによる農業生産の絶対的低落によるものでもある。86年以降,世界銀行および国際通貨基金の勧告による構造調整計画が進められた。各種マーケティング・ボードの廃止,通貨ナイラの切下げ,品質管理の整備などによって,カカオ生産は回復し(年産15万t),ゴム生産は90年に15万tに達してリベリアを抜くアフリカ1位となった。
石油は南東部ニジェール川デルタ地帯とその沖合に産出する。1956年に最初の採掘が行われ,70年代前半にナイジェリア経済の基幹産業となった。86年に石油部門はGDPの18%を占め,総輸出の97%を占めた。89年には日産174万バレル,埋蔵量200億バレルと推定されている。ニジェール川デルタ地帯はまた,2兆8000億m3 と推定される天然ガスを埋蔵し,シェル石油などによる開発が進められている。
貿易構造は石油,農産品などの一次産品を輸出し,工業製品ならびに食糧品を輸入する,という発展途上国型構造である。相手国別にみると,輸出ではアメリカを首位に西ヨーロッパ諸国,輸入では西ヨーロッパ諸国,アメリカが大きな取引国である。近隣アフリカ諸国とはECOWASを結成しているが,域内貿易の比率はきわめて低い。経済活動のナイジェリア化(現地化)を促進するため,〈ナイジェリア企業促進法〉(1972制定,77改正)によって,外国資本の参加がまったく認められない業種,40%まで認められる業種,60%まで認められる業種に分けて規制している。外資の参加率が60%を超える企業はいかなる形態,業種でも認められない。
4次にわたる長期経済開発計画を通じて,工業化が進められている。初期には国内市場向け輸入代替型工業(繊維,ビール,タバコなど)が中心であったが,70年代には乗用車・トラック組立て,家庭電器,石油精製,肥料,セメント工業が誕生した。82年にはベンデル州アラジャにデルタ鉄鋼コンプレクスが完成した(生産能力年間100万t)。
1981年以降の石油市況の悪化は,輸出収入の約95%を石油に依存しているナイジェリア経済に大きな影響を与え,さらに対外債務が肥大化(1987年7月に200億ドル)し,危機的状況に置かれた。ババンギダ政権は,IMF,世界銀行の融資条件に呼応して,1986年6月に構造調整計画を導入し,輸入ライセンスの撤廃,輸出税の撤廃,政府企業の民間移行等が実施された。 執筆者:中村 弘光