小池村(読み)こいけむら

日本歴史地名大系 「小池村」の解説

小池村
こいけむら

[現在地名]鹿島町小池

水無みずなし(上真野川)の流域に開けた村で、南岸に微高地、北岸に水田が広がる。東は寺内てらうち村、南は深野ふこうの(現原町市)、北は牛河内うしこうち村・小山田こやまだ村。天保郷帳に「古者 小池村・大和田新田弐ケ村」と注記される。

延元二年(一三三七)一二月日の国魂行泰軍忠状(国魂文書)に「行方郡小池楯」とみえ、同年三月に南朝方の広橋経泰の供をして小池楯(小池城)に立籠った行泰は、続々と押寄せる敵と戦っている。なおこのときに小池城を経泰が行泰とともに築いたとされるが(関城繹史)、所在地は不明。建武四年(一三三七)四月二〇日、北朝方の相馬朝胤らは「小池城□嶋田原」で戦い、六月二五日には小池城に向かった敵数名を攻撃、さらに同月二七日に同城に夜討をかけて南朝方を追落し、城に火をかけている(同年八月日「相馬朝胤軍忠状」大悲山文書)


小池村
こいけむら

[現在地名]浜松市小池町

市野いちの村の西、馬込まごめ川中流左岸の沖積平野にある。南部を東西に本坂通が通り、江戸から六五里目の一里塚があり、榎の木が植えられていた(青山氏領分絵図)。永禄四年(一五六一)閏三月一〇日、今川氏真は大村綱次・同高信両人に「遠州小池村」のうち五〇貫文を与えた(「今川氏真判物写」御家中諸士先祖書)。同一二年一月一一日には徳川家康が小池村のうち五〇貫文を大村高信に本地として安堵している(「徳川家康判物写」同先祖書)。翌一二日、家康は大村弥十郎に城東きとう郡の本知替地として小池村七五貫文などを与えている(「徳川家康判物写」歴代古案)。天正二年(一五七四)九月九日には武田勝頼が小池村一二五貫文を大村弥兵衛(高信)分も含め、大村弥十郎に与えている(「武田勝頼判物写」新集古案)


小池村
こいけむら

[現在地名]宇都宮市上小池町かみこいけまち下小池町しもこいけまち

東は西にし川を挟んで篠井しのい村、南は石那田いしなた村、西は山口やまぐち村・猪倉いのくら(現今市市)。山林と原野が多い。観応二年(一三五一)八月一八日の重俊置文案(輪王寺文書)の裏に書かれた年月日未詳の常行堂衣服料請取注文案によれば、小池郷分として五貫八一四文が納入されているが、寺用に用いられたのは不審であるとの注記がある。応永二六年(一四一九)四月三日の慶守書下状(同文書)に小池郷とみえ、四本龍しほんりゆう寺に寄進された当郷の支配は中絶していたが、必要が生じたため五ヵ年の間常行堂に寄付された。しかし代官が年貢を進納しなかったため、詳細を報告することが日光山見衆に命じられている。


小池村
こいけむら

[現在地名]高根町小池

八ヶ岳南麓、標高六五〇―六七五メートル付近に位置。東は蔵原くらばら村、西は上黒沢かみくろざわ村、北は村山西割むらやまにしわり村。地名の起りは、享保九年(一七二四)の村明細帳(穴切幼稚園蔵)に「小池壱ヶ所、当郷開祖此池の辺に住て呑水に用い、字小池と唱え郷名を小池と号す」とある。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)二冊のうち残る一冊によれば、上田一町一反余・中田一町一反余・下田一町八反余・下々田二町六反余・上畑七反余・中畑四畝余・下畑六反余・下々畑二町六反余、熊蔵荒田畑二三町一反余・弾正荒田畑七畝余。


小池村
こいけむら

[現在地名]阿見町小池

北は実穀じつこく村、南は岡見おかみ(現牛久町)。岡見との境を鎌倉街道が走る。中世は信太しだ庄に属し、元徳元年(一三二九)一二月四日の常陸国信太庄上条京進絹代結解状(東寺百合文書)

<資料は省略されています>

とあり、名はないが地頭は北条氏の一門と推定されている。

天正期(一五七三―九二)には岡見氏と土岐氏の勢力の接点にあたり、下小池しもこいけには土岐氏築城と推定される城跡がある。慶長六年(一六〇一)内藤修理亮清成が領主となり元和八年(一六二二)内藤清政の代に安房へ移封後、鳥羽藩領となり、延宝八年(一六八〇)まで続く(寛政重修諸家譜、寛文朱印留)


小池村
こいけむら

[現在地名]松代町小池

小貫こつなぎ諏訪峠すわとうげ寺田てらだ石畑いしばたけ仙納平せんのうだいら天屋原あまやつぱらと本村の七集落からなり、鯖石さばいし川源流地帯に位置する。本村は蒲生かもう村に北接、境界は入組んでいる。水に恵まれ水尻夫婦みつちりみようと池・土婦どぶ池などがあり、水田も多い。一方地滑りも多く堤防工事が今も続く。天和三年郷帳では高三七石五斗余、反別田二町一反余・畑屋敷二町六反余・山林三反余・青苧畑三反余で、漆木七一本、家数一四。安永九年(一七八〇)新田検地では高一九石五斗余。明治五年(一八七二)の戸数一二〇。貞享五年(一六八八)の鉄炮無之村々証文帳控(国立史料館蔵)では当村の庄屋一人・組頭一人・百姓一二人・名子一〇人が連印している。


小池村
おいけむら

[現在地名]日高町小池

西にし山の東麓に広がる。南は和田わだ(現美浜町)、北西は志賀しが村。「続風土記」は「村中池多し、其中に寺の上池とて大なる池を土人大池おいけといふ、村名或は是より起りしに訛りて小の字に書き来りしならん」と記す。慶長検地高目録によれば村高五八四石余、小物成四升七合。延宝六年(一六七八)の「日高鑑」では村高は変化なく、田畑四四町六反余、家数七八で内訳は本役二二・半役二五・無役二四・庄屋一・年寄三・桶屋一・大工一・ありき一、人数三二七、牛二八、馬一〇、池二(寺ノ上池・かた山谷池)


小池村
こいけむら

[現在地名]八郎潟町小池

馬場目ばばめ川下流域の沖積平野北部に位置する。北は高岳たかおか山麓の浦大町うらおおまち村、東は岡本恋路おかもとこいじ(現五城目町岡本)野田のだ(現五城目町)、南は川崎かわさき村と接する。萱戸屋かやどやに暦応三年(一三四〇)、康永二年(一三四三)などの紀年銘をもつ板碑があり、中世中期には開村していたことが知れる。

天正一九年(一五九一)の出羽国秋田郡知行目録写(秋田家文書)に、「弐百四拾石八合 こ池村」とみえ、慶長六年(一六〇一)の秋田実季侍分限(秋田家文書)に「弐百七拾石三斗三升九合 湖東通 小池村」とみえる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一八四石、新田とあるが、享保一四年(一七二九)の秋田郡御黒印吟味覚書(秋田県庁蔵)に「正保元禄誤新田出」とみえ、それ以前からの村である。


小池村
こいけむら

[現在地名]浜松市鶴見町つるみちよう

鶴見村の北、鶴見輪中の北端に位置し、東と西および北は天竜川に囲まれる。現在はほとんどが天竜川河川敷にあたる。嘉応三年(一一七一)二月日の池田庄立券状写(松尾大社文書)国吉くによし保のうちに小池里外がみえ、当地にあたると推定される。室町期はかば御厨に属し、明徳二年(一三九一)頃の蒲御厨年貢公事銭注文写(東大寺文書)に小池方とみえ、定麦一石二斗余・定豆九斗余、定役五〇〇文とある。


小池村
おいけむら

[現在地名]大原町小池・大原台おおはらだい

小沢おざわ村の南に位置し、南北に伊南房州通いなんぼうしゆうどおり往還が通る。慶長五年(一六〇〇)の大多喜藩領分高付帳(大木家文書)に小池村とみえ、高二六七石余。寛文四年(一六六四)当時は大多喜藩領と武蔵国岩槻藩領(寛文朱印留)。大多喜藩領は同一一年より武蔵国忍藩領となり、延宝五年(一六七七)旗本阿部領となる(「中滝領分知帳」中村家文書)。一方、岩槻藩領は寛文一一年より大多喜藩領となった(貞享元年「阿部正春領知目録」阿部家文書)。この二給で幕末に至る(旧高旧領取調帳)元禄郷帳では高二七二石余。元禄一六年(一七〇三)の夷隅郡郷村高帳によれば、大多喜藩領分は高一五一石余・新田高二石余。


小池村
こいけむら

[現在地名]下郷町栄富えいとみ

板倉いたくら村の西、阿賀川支流戸石といし川南岸の河岸段丘上に立地。下野街道が通り、南東にはらを経て楢原ならはら村に、北西に戸石川に架かる橋を渡り倉谷くらだに村に通じる。また戸石川沿いに板倉村・萩原はぎわら村・成岡なりおか村へ出て南山松川みなみやままつかわ通に至る道が分岐する。矢ノ原に縄文土器の出る遺跡がある。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に村名がみえ、高一五〇石余。南山御蔵入領楢原組に属する。貞享二年(一六八五)の「楢原郷地下風俗覚書」によれば村の鎮守は天照大神。元禄四年(一六九一)の万覚書帳(下郷町史資料集)によれば高一六七石余、反別田三町八反余・畑二九町七反余、家数一六・竈数二〇、うち水呑・名子五、人数七一、馬一〇、役漆木八九本。


小池村
こいけむら

[現在地名]松本市寿 小池

牛伏うしぶせ川のつくる崖錐状扇状地と、塩尻しおじり方面から北に向かって流れる川の周辺によって構成される地である。村井むらい町から金峰山牛伏ごふく寺に向かう参道は、この村を東西に両断する道によって一直線に内田うちだに向かってのぼる。

小池郷の名は鎌倉時代の弘安九年(一二八六)六月の赤木家文書をはじめ、応永七年(一四〇〇)小笠原長秀安堵状(諏訪大社下社文書)に「小池東西」、宝徳三年(一四五一)の小笠原持長安堵状案(諏訪大社下社文書)にも「小池東西」とみえる。松本藩石川氏による天正検地には小池村二三六石五斗七升八合とあり、元和三年(一六一七)諏訪高島藩に属した。同領寛文九年(一六六九)の検地では四〇八石一升九合六勺と増し、元禄一五年(一七〇二)には二三六石三斗二升と減少しているが、牛伏川や田川の水害による。


小池村
こいけむら

[現在地名]燕市小池

現市域の南西端にあり、柳山やなぎやま村の西に連なる。西は横田よこた(現西蒲原郡分水町)。口碑では斎藤龍興の一族、斎藤五郎兵衛なる者が慶長元年(一五九六)当地に入り、信州の阿部治兵衛、越中の佐藤惣右衛門らとともに開発したという。真宗大谷派浄宮じようぐう寺寺伝によれば、同二年信州高井たかい郡から八王寺はちおうじへ移転、同一八年、五郎兵衛らの了解を得て当村に堂宇を建立したと伝えるところから、近世村落としての形成は一六世紀末頃と推定される。


小池村
こいけむら

[現在地名]芝山町小池

芝山村の北西にある。新井田称名にいだしようみよう寺阿弥陀如来坐像の永禄九年(一五六六)一一月三日の胎内墨書銘に「武射郡小池郷新田称名寺」とみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高八二四石。寛永二年(一六二五)知行宛行状により当村の八二四石余が旗本鎮目領となった。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳によると大台おおだい村・芝山村・新井田村・高田たかだ村と小池組を構成し、旗本杉浦領。杉浦氏は寛永期から寛文三年まで知行したと考えられる(寛政重修諸家譜)。延宝二年(一六七四)には幕府領(「小池村縄打帳」小池区有文書)。元禄一〇年(一六九七)の地方直しにより旗本山内主膳(知行高三千石)領となる。


小池村
おいけむら

[現在地名]益城町小池

東は砥川とがわ村、西は東無田ひがしむた村に接する。慶長国絵図に村名がみえ、正保二年(一六四五)一〇月二八日、上六嘉かみろつか(現嘉島町)などと長尾武左衛門に宛行われている(「細川光尚判物」五条文書)。近世は鯰手永に属した。正保郷帳では田四二六石一斗余で「水損所 はへ山有」とあり、畑四九二石二斗余で「芝山有」と記されている。「国誌」には「飯田村在山上土山村秋永村下原村等小村アリ」とある。


小池村
こいけむら

[現在地名]北上市口内町くちないちよう

北上高地西部の小盆地にあり、小丘陵を隔てて北上盆地中央部に接する。仙台藩領の江刺郡に属し、北は同郡水押みずおし村。天正九年(一五八一)一月の和賀氏分限録(小田島家記録写)に五〇駄を知行する小池丈左衛門がみえる。古館神社南東の山地にある古館跡は小池氏の居館とも伝える。正保郷帳によると田一六貫三六四文・畑四貫九一一文、ほかに新田八七五文。「安永風土記」によれば田一八貫三八文・畑五貫七四三文で、蔵入一四貫六八〇文、ほかは給所。


小池村
こじむら

[現在地名]阿蘇町小池・今町いままち

東は綾野あやの村、西は小里おざと村、南は黒流くろながれ村に接する。東南に今町村がある。中世には小陣と称し、建武三年(一三三六)三月一一日の阿蘇社領郷村注文写(阿蘇家文書)に「一所十町 綾野 小陣郷」とみえる。応永一一年(一四〇四)一一月三日の阿蘇社領宮地居取田并郷々御米田算用状(同文書)に「小陣 田数五反三丈内 除 一反 不作 残定田四反三丈」とある。


小池村
こいけむら

[現在地名]富山市水橋小池みずはしこいけ

上市かみいち川左岸の平地に位置し、北は堅田かただ村、南西は伊勢領いせりよう村。正保郷帳では高四八六石余、田方三一町八反余・畑方六反余。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高三一五石・免四ツ七歩。寛文一〇年(一六七〇)・天保九年(一八三八)の草高・免に変化はない(三箇国高物成帳、「高免等書上帳」折橋家文書)。所属組は狐塚きつねづか村と同じ。灌漑は上市川から引水した下条げじよう用水を利用。


小池村
おいけむら

[現在地名]上越市小池・小池新田おいけしんでん

山寺やまでら村の南、桑取くわとり川の谷に位置。正保国絵図によると高八五石余。天和三年郷帳では小池村三五石一斗余、小池新田一二石八斗余に分けて記されるが、元禄郷帳・天保郷帳では小池村一村として高付されている(高六六石余)。旧高旧領取調帳では小池村五三石七斗余、小池新田一二石八斗余。十二神宮があり村中支配。林泉りんせん寺末長昌ちようしよう寺があり、除地高一四石余(頸城郡誌稿)


小池村
こいけむら

[現在地名]藤岡町大前おおまえ

飯塚いいづか村の北にあり、西は只木ただき村とたたら(只木沼)。集落は西方段丘上の豊城とよきにある。元和八年(一六二二)下総古河藩永井氏により検地が行われた(藤岡町史)。慶安郷帳に村名がみえ、田九〇石余・畑九三石余、古河藩領。


小池村
こいけむら

[現在地名]八千代市小池

神窪いものくぼ村の北に位置。「寛文朱印留」に葛飾かつしか郡として村名がみえ、下野皆川藩領。元禄一一年(一六九八)の村明細帳(浅野家文書)によれば、慶長七年(一六〇二)に検地が行われており、高一三九石余、反別は田二二町余・畑六町四反余、寛文一二年(一六七二)の新田二町五反余。家数三二・人数一九二、馬三〇。


小池村
こいけむら

[現在地名]香々地町堅来かたく

羽根はね村の南西に位置し、北西は周防灘に臨み、国東道が通る。小倉藩元和人畜改帳に村名がみえ、夷忠兵衛手永の御蔵納分として高二〇〇石余で、家数五のうち本百姓一、庭屋・牛屋三、男五・女四、牛一。また加子分として高五八石余とあり、家数一五のうち本百姓・小百姓五、隠居・名子・牛屋一〇、男一七(うち名子一)・女一〇。正保郷帳では香々地庄に属し、田高二一石余・畑高三七石余で、茅山有・柴山有、水損所と注記され、新田があった。


小池村
こいけむら

[現在地名]桜島町小池

桜島西岸、横山よこやま村の北に位置する。寛文四年(一六六四)の郡村高辻帳には記載がなく、横山村に含まれたとみられる。「三州御治世要覧」では延享(一七四四―四八)頃の高二〇八石余。旧高旧領取調帳では高二〇三石余。文化七年(一八一〇)の百姓家数七四(九州東海辺沿海村順)。宝永五年(一七〇八)横山村との間の道が拡張された(「桜島中万控」県立図書館蔵)


小池村
こいけむら

[現在地名]豊橋市小池町

北部の村境に柳生やぎう川が西流する。近世を通じて吉田藩領。三河国吉田領人馬役割帳(島原市本光寺蔵)に載る慶長九年(一六〇四)の検地高は四三一石余。享保一〇年(一七二五)の吉田宿助郷帳によると村高四九四石のうち助郷高三九五石で、吉田よしだ宿まで一八町とある。


小池村
おいけむら

[現在地名]輪島市小池町

鵜入うにゆう村の南西、日本海に臨む山間に立地。正保郷帳に村名がみえ、高八五石余、田方二町三反・畑方三町四反余。承応三年(一六五四)の村御印では同高、免三ツ六歩(能登奥両郡収納帳)。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高九三石、免四ツ五歩、小物成は山役四五匁(三箇国高物成帳)


小池村
こいけむら

[現在地名]湖東町小池

小田苅こたかり村・おさ村の北東に位置する。中世には岸本きしもと庄の一部であったと推定される。慶長五年(一六〇〇)彦根藩領となり、慶長高辻帳に村名があり高三一六石余。


小池村
おいけむら

[現在地名]金沢市小池町

小野この村の東に位置。正保郷帳によれば高一三二石余、田方三町三反・畑方五町五反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一五四石、免四ツ九歩、小物成は山役四〇三匁・野役一八匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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