デジタル大辞泉 「瓦」の意味・読み・例文・類語
が【瓦】[漢字項目]
〈ガ〉粘土を素焼きにしたもの。かわら。「瓦解・
〈かわら(がわら)〉「瓦版/鬼瓦・屋根瓦」
[難読]
かわら〔かはら〕【瓦】
2 値うちのないもの。くだらないもの。
「本書中の人物に玉すくなく―多きは」〈逍遥・当世書生気質〉
粘土を一定の形に固め,焼成したもので,大量生産が可能でまた堅固なため,建物の屋根葺き材の主流を占め,屋根瓦とも呼ばれる。同様のものが世界各地に見られるが,中国,朝鮮,日本において独自の発達をみせた。
瓦(歴史的かなづかいでは〈カハラ〉)の名はサンスクリットのカパーラkapāla(原意は〈皿〉〈鉢〉〈頭蓋〉などの意)からきたとの意見が《箋注和名類聚抄》に見える。近年の学者にもこれを採る者が少なくないが,ほかに亀甲の意の〈カワラ〉あるいは甲冑を表す〈カハラ〉に由来するとか,屋上の〈カハ(皮)〉の義,もしくは〈カハル(変わる)〉(土を焼いて板に変えることから)の転訛とする説などがある。ちなみに《説文》では,〈瓦〉の字は焼成した土器を総称したものとされている。
執筆者:岩松 浅夫
瓦作りの技術は,中国から朝鮮を経て,寺院建築とともに日本に伝えられた。瓦といえば,今日では一般に桟瓦(さんがわら)を連想するが,古くは丸瓦と平瓦を組み合わせて葺き上げていく方法,すなわち本瓦葺きが基本的な葺き方であった。日本では瓦作りが始まった当初から,丸瓦は重なりを考慮して一方を狭く作る行基葺き式のものと,重なりの部分に玉縁のつくものとが混在していた。そして永い歴史を経た末,江戸時代にいたって丸瓦と平瓦を組み合わせて1枚とした形の桟瓦が考案された。これは屋根の重量を軽くする一大発明であった。
中国の瓦は,西周時代(前1050ころ-前770)までさかのぼることができる。陝西省岐山鳳雛村にある西周初期の宮殿遺跡からは,大型の平瓦が出土しており,屋根の棟や谷に使われたと考えられている。また,この南東2.5kmにある召陳村で発見された西周時代の遺跡でも,宮殿遺構に伴う瓦が発見された。ここの瓦によれば,西周中期はすでに瓦の発展期だったようで,丸瓦と平瓦の両者があり,晩期にいたると瓦は薄手になり,瓦当(がとう)も生み出される。以後,2000年以上に及ぶ瓦の変遷を知る手がかりは,丸瓦の先端に取り付けられるようになった瓦当の文様によっている。瓦当は,丸瓦の先端をふさぐために作られた半円形のものから始まり,それが円形瓦当に変化する。円形瓦当は,秦・漢時代から行われるようになったと考えられる。秦始皇帝陵内の建物遺構から円形瓦当が,前漢時代の天津西漢墓から半瓦当が出土しており,このころがちょうど半瓦当から円瓦当への過渡期であったと推定される。瓦当面に飾られる文様は,半瓦当では饕餮(とうてつ)文,動物文,樹木文などが主体であり,秦・漢円形瓦当では瓦当面を4等分して吉祥の文字を飾ったり,蕨手(わらびて)文を飾ったりする。これ以後の瓦当文様には,おおむね蓮華文が用いられるようになるが,その実体はさほど明らかにはなっていない。施釉の瓦は,敦煌壁画などをみれば,隋代には存在したようである。元代にいたると緑釉,褐釉,黄釉,青釉など各種の施釉瓦が作られ,現代でもこれらの施釉瓦を建物の屋根に見ることができる。
朝鮮半島では,楽浪郡時代にすでに瓦が用いられているが,当然のことながら,文様は漢の文様そのままである。楽浪の故地に国を興した高句麗は,その影響を受けながらも,北魏の系統を引く蓮華文を主体とした軒丸瓦を用いている。日本に直接技術をもたらした百済は,漢山城(広州),熊津(ゆうしん)城(公州),泗沘(しひ)城(扶余)と都を移している。漢山城地域からは,いわゆる高句麗系といわれる軒丸瓦が発見されているが,これが漢山城に伴うものであるのかどうかは明瞭でない。一般的に百済瓦当と呼ばれる単弁蓮華文軒丸瓦は,南梁から本格的に技術を学んで作ったものである。熊津城時代の百済瓦当の存在に対しては,必ずしも確実視されてはいないが,公州地域での近年における調査が進むにつれて,百済瓦当の淵源がしだいに明らかにされつつある。たとえば,西穴寺の発掘調査で出土した古式の一瓦当文と,武寧王陵墓室壁面を飾る塼(せん)の蓮華文とはきわめて近似しており,間弁が中房から発せず楔形に配置される構成,そして弁端が強く反転する形態をもつものは熊津城時代瓦当文とも考えられるものである。また,武寧王陵出土の墓誌石はもとより,文字塼〈士壬辰年作〉は,陵の築造年代の手がかりともなり,百済瓦当の初源を推察できるものである。梁との交流が武寧王代(501-523)から行われているところからしても,聖明王(在位523-554)以前からすでに瓦が用いられていたと考える余地はあろう。ただ,次の国都扶余の地と比べると,出土瓦の量は少量であって,蓮華文壁塼が存在したから百済瓦当も存在したと断定するには,いまだ資料不足の感は否めない。泗沘城時代の蓮華文は,これこそ日本で百済瓦当と呼びならわしている姿を示している。それは威徳王代(554-598)を中心としてみられる文様構成である。新羅初期の瓦は百済の影響を受けたものであるが,三国統一以後の軒丸瓦は蓮華文を基調としながらも,鳥や動物などを飾った華麗な文様をもつ新羅独特のものである。軒平瓦も同時に発達し,忍冬文,飛天文,双竜文を瓦当面に飾るだけでなく,顎面にも文様を飾る。7世紀末葉から8世紀にかけて日本に少なからず影響を与えている。また,各種の道具瓦が作られるようになり,鬼瓦が作られるのもこのころのことである。高麗初期のものは新羅の系統を引くものであるが,しだいに簡単な文様に変わる。軒平瓦には下端が舌状に垂れるものが見られるが,これは中国の〈滴水〉の影響を受けたものである。特殊なものとしては,青磁製のものがある。
瓦の製作が初めて行われたのは崇峻天皇元年(588)に奈良県高市郡飛鳥寺の造営が始められてからのことである。《日本書紀》や《元興寺伽藍縁起幷流記資財帳》には,この年に百済から4人の瓦作りの技術者が渡来したと伝える。飛鳥寺の創建時の軒丸瓦は,弁端が桜花状を呈した単弁蓮華文を瓦当面に飾る。この蓮華文は弁数こそ10弁であるが,百済の故地扶余から出土するものと文様構成が同じである。瓦作りの技術者の渡来を裏づけるものにほかならない。いったんこうした文化が伝えられると,その広がりは早く,また文様構成も変化を見せていく。瓦当を飾る文様は,特殊なものを除いてはおおむね蓮華文が用いられる。そして,この蓮華文は基本的には単弁蓮華文と複弁蓮華文とに分けられ,さらに単弁蓮華文は蓮弁中に子葉をおくものとそうでないものに分けられる。蓮華文様のおおまかな変遷は単弁から複弁へ,無子葉から有子葉へ,という一つの図式としてとらえられる。代表的な事例をあげれば,飛鳥寺の無子葉単弁蓮華文,640年代に造営が開始された奈良県桜井市山田寺の有子葉単弁蓮華文,660年代後半造営の奈良県高市郡川原寺の複弁蓮華文などである。一方,蓮弁に鎬をもち弁間に珠点をもつものや,パルメットを配したり,瓦当面を獣面で飾るものも作られ,これらを高句麗系と呼ぶ。高句麗系瓦当は百済系に比べるとあまり広く用いられていない。
7世紀前半の軒瓦で注目しなければならないのは,軒平瓦が一部で作られていることである。もともと,瓦当が製作されても,平瓦の先端を文様で飾ることは行われなかった。中国や朝鮮半島で平瓦の凸面先端にわずかに波形の圧痕を加えたものが見られ,これが軒先に用いられた平瓦であるかもしれないが,とくに文様を加えるということはなかった。こうした幾何学的文様をもつものに対して,奈良県生駒郡法隆寺若草伽藍と同県高市郡坂田寺跡で用いられた忍冬文軒平瓦は,そうした意味では最古のものと言える。それらは,平瓦の先端部を厚く作り焼成以前に忍冬文を手彫りしたものである。若草伽藍では7葉,坂田寺は3葉のパルメットであるが,両者とも高句麗遇賢里中墓の基壇壁面に描かれている忍冬文や,中国の南朝から初唐ころの墓室壁塼の忍冬文に酷似している。若草伽藍では,造営当初から軒丸瓦と組み合わせて軒平瓦が用いられていたことが確認されているので,坂田寺とともに7世紀のごく早いころに,すでに軒平瓦が作られていたことが知られる。ただ,この両寺以外にこのような軒平瓦の例は知られず,本格的に軒平瓦が作られるようになるには,まだ時間を必要とした。7世紀半ばには,蓮弁に子葉をおき,外区に複数の圏線をめぐらす軒丸瓦が生み出される。そうしたものの中で古式の文様構成を示すことと,縁起が明らかな点から山田寺のものが標式とされる。このときから軒平瓦が軒丸瓦の対として一般的に用いられるようになり,全国にしだいに広まっていく。それは重弧文軒平瓦である。
7世紀後半にはさらに,瓦当文様に大きな変化が起こる。複弁蓮華文の採用である。それとともに中房が大きく作られ,蓮子が中央の1個を中心に二重にめぐらされる。川原寺と法隆寺のものが初源的な複弁蓮華文である。7世紀後半もその半ばを過ぎると,本薬師寺や藤原宮に見られるように,軒丸瓦の外区が内縁と外縁の両者に分かれ,それぞれに文様を飾るようになる。軒平瓦も,重弧文,均整忍冬唐草文,変形忍冬唐草文,葡萄唐草文,偏行唐草文,均整唐草文などその種類も増えてくる。8世紀代になると,軒瓦は前代よりひとまわり小さくなり,軒丸瓦は複弁蓮華文,軒平瓦は均整唐草文が瓦当文様の主流を占める。8世紀後半の国分寺造営とともに多くの地方寺院が営まれ,造瓦も各地で盛んに行われる。いきおい,各地でいろいろな瓦当文様が生み出されていくが,そこには,中央との,あるいは各地域隣接地間での関連が強調されたものが目だつようになる。たとえば,平城宮内裏や朝堂院の軒瓦と類似の文様が地方寺院で頻繁に用いられる。また,各地方でそれぞれ関連深い瓦当文様がその地域の特色として形づくられていく。こうした状況は,いずれも国分寺を中核としているように見受けられる。
平安時代前半までの瓦当文様は,おおむね奈良時代と同様な傾向にあったが,11世紀にいたると,急激に様相を異にする文様構成をもつようになる。南都の諸寺においても,京の六勝寺においても期せずして軒瓦の種類が激増する。たとえば,奈良市興福寺食堂地域の発掘調査では,平安時代の軒丸瓦20種,軒平瓦32種が出土し,京都市尊勝寺では軒丸瓦163種,軒平瓦191種が平安時代後期の軒瓦であった。このことは,同一建物に10種以上の軒瓦が混用されていたことを示し,寺院の新造や修造にあたって諸国の国司たちによる成功を背景として各堂舎ごとに造営されたこと,官の瓦窯が同時に多量の瓦を生産するだけの力をすでにもち得なかったことを示す。治承の兵火後再興された東大寺では,各種の資材を各国に求めた。瓦についても備前,周防,三河などで調達している。これは,平安時代にすでに行われていた造寺国の制度を受け継いだものと言えよう。
鎌倉時代になると軒丸瓦の文様構成は蓮華文のほかに文字を飾ったものも見られるようになり,安土桃山時代には家紋を瓦当文としたものも現れるが,主流は巴(ともえ)文となる。軒平瓦には剣頭文,連珠文,文字文なども用いられるが,主流はやはり均整唐草文であり,この状況は江戸時代にいたるまで踏襲される。現代ではごく一部を除いては瓦当面に文様を施すことがない。
丸瓦や平瓦の製作にあたっては,いずれも粘土で円筒を作り,これを2等分して丸瓦を,3等分ないし4等分して平瓦に仕上げるもの,そして平瓦では外湾する台の上で1枚ずつ作るものとがある。いずれの方法でも,形づくった瓦を成形台からはずしやすくするため,台面に布を用いる。こうすると瓦の凹面に布目圧痕が残るため,古代の瓦に布目瓦という名が用いられるようになった。川原寺創建時の平瓦には凸面に布目圧痕が残るものがある。これは内湾する成形台で1枚ずつ製作したことを示すものである。この特殊な1枚作りの例は,畿外でもいくつかの遺跡に見られるが,川原寺式軒瓦の分布とほぼ一致する傾向を見せている。製作技法上,瓦に顕著な変化が見られるのは中世のことである。とくに,室町時代から精整な瓦が作られるようになり,他にはない合理的な瓦が作られた。たとえば,軒平瓦と,次に葺く〈二の平瓦〉にひっかかりをもつ瓦が考案されている。室町時代の瓦大工橘氏が,瓦に〈ハコイタヒラ〉〈カカリ〉と記しているものがこれであろう。軒平瓦両側辺には垂直に立ち上がる〈懸り〉をもち,二の平瓦は重ねのぐあいを考慮して前方を幅狭く作る。また軒丸瓦の凹面にも桟をわたして,葺き上げた瓦が決して滑り落ちないような配慮が加えられる。こうした細工は機能的な効果が大きかったものか,元禄時代に再興された東大寺大仏殿にも使用されている。安土桃山時代,軒平瓦で,瓦当の下端に舌状の水切りをもつものが作られる。それは〈滴水〉によく似ている。明の影響を受けたものであろう。このように,瓦にくふうが加えられる一方,屋根のいろいろな部分に使われる特殊な瓦が作られる。それらを総称して道具瓦と呼んでいる。大棟や降り棟を積み上げる熨斗(のし)瓦,棟の下部で,平瓦の位置にできる空白をうずめる面戸(めんど)瓦,棟の端を飾る鴟尾(しび)や鬼瓦,入母屋造や寄棟造の隅木の先端を保護する隅木蓋瓦,棰(たるき)の先端を飾る棰先瓦などがあるが,時代が下り,屋根の構造が複雑になるにしたがって鳥衾(とりぶすま),雁振(がんぶり)瓦,留め蓋など機能に応じたものが作られるようになる。瓦は一貫して素焼きであったが,8世紀には平城宮や平城京の官寺の屋根を飾るために,緑釉瓦や二彩釉,三彩釉を施したものが作られ,10世紀には平安京で灰釉の瓦が作られた。また,15世紀には大坂城などで瓦当面に金箔を押した瓦が作られた。江戸時代に桟瓦が考案されて以来,一般の民家にも瓦が普及するようになった。
日本では,もともと寺造りとともに瓦作りの技術が伝えられたため,瓦葺き建物は寺の堂塔から始まった。瓦葺き建物は重量感にあふれ,壮大なため宮廷でもその採用をはかったが,実現したのは持統朝の藤原宮からである。奈良時代に,政府が平城京内居住の貴族に対して瓦葺き建物の普及をはかった。これは,瓦葺き建物がまださほど見られなかったことを示している。一方,国衙・郡衙などの地方官衙にもしだいに広まっていくが,権門勢家以外に広く採用されることはなかった。中世以降,豪族の居館や城郭建築に瓦が多用されることになる。江戸幕府が瓦葺き建物を奨励したのは,たび重なる大火にこりて,火事による被害を最小限にくいとめたかったからである。
明治時代以降,瓦作りも機械化されるようになって量産化が進み,フランス瓦やスペイン瓦などの洋風瓦も作られた。また寒冷地用の施釉瓦も考案され,現在では施釉瓦や洋風瓦も広まっている。以上のほか,瓦製のものとして,建物の基壇や床,塀などに使われた塼(せん)がある。ごく一般的なものは直方体で無文であるが,特殊なものに文様を飾ったものや施釉の塼がある。
執筆者:森 郁夫
西洋の瓦は,素材により石瓦,粘土瓦,木瓦の3種に分けられる。(1)石瓦は,地中海地域から北欧まで広く行われた屋根葺き材で,板状にした石の一端に穴をあけ,釘をさして,小舞(こまい)にひっかけるが,ふぞろいな隙間ができるので,かなり急傾斜に葺かねばならない。スレートのように薄板状に割れる石は,体裁よく葺けるので,19世紀には大いに流行した。(2)焼成した粘土瓦は,ギリシア・ローマ時代から広く用いられ,通例,平瓦を並べ,その継目をインブレックスimbrex(雄瓦(おがわら))と呼ばれる丸瓦あるいは三角瓦で覆う形式で,それぞれに各種の形態があった。ルネサンス以降,ベルギー,オランダ,イギリスなどで,平瓦と丸瓦を一体化したS字形断面の瓦(桟瓦pantile)が用いられはじめ,各種の改良が加えられて普及した。(3)木瓦(きがわら)(シングルshingle)は,幅12cm前後,長さ30cm前後の板を,葺足(ふきあし)10cm前後にして葺き上げていくもので,スカンジナビア,ドイツ,ロシアのような森林地帯で用いられ,アメリカ合衆国でも最も愛用された屋根葺き材であった。
地中海地域で用いられる平瓦をギリシア瓦と呼ぶ。ギリシア神殿などに用いられた瓦は,テラコッタ製か石を削り上げたもので,古いものは,平瓦が軽い凹面になっており,これをラコニア型という。平瓦が平らなシチリア型は,イタリアで現代にいたるまで用いられているもので,ギリシア・ローマの神殿にも用いられた。インブレックスを逆V字形の三角形にしたタイプはコリント型と呼ばれ,最も発展したギリシア・ローマ神殿に用いられた。
ギリシア瓦と並んで地中海の北緯44°以南に多い粘土瓦の形式は,半円筒形の瓦を,凹面・凸面を交互に上にして並べるもので,ひじょうに粗い葺き方であるため,多雨地域には向かない。いわゆるスペイン瓦は,このタイプか,あるいは,これを桟瓦化して丸瓦の凸面が目だつようにしたもので,きわめて特色ある表情を示すため,広く知られている。
いわゆるフランス瓦も桟瓦の一種であるが,全体を平たんに作り,へりの部分をかみ合わせて水洩れを防いだ精巧な近代焼成瓦で,19世紀に発明された。明治開化期の横浜居留地などで用いられたジェラール瓦はこの種のものである。
丸瓦や平瓦のような区別がなく,両者を合体した桟瓦でもない,単純な板状タイル式の瓦もある。これは,イギリス,フランス,ドイツ,オーストリア,スイス,ハンガリー,ポーランドなどで,むかしから木瓦を用いていた地域に一般的なもので,防火対策上,木瓦を焼成タイルに置き換えたものである。しかし,屋根の棟だけは平たい瓦だけでは葺けないので,ボンネットbonnet tileと呼ばれる強く湾曲した瓦をかぶせるか,銅板や鉛板のような金属板で棟を包む。
上記の木瓦を用いていた地域で,ことに海岸など,横なぐりの風雨が激しいところでは,木瓦を壁面にも張って,耐候性の高い壁面仕上げとした。これを焼成タイルに置き換えたのがタイル・ハンギングtile hangingである。19世紀後半のアメリカ合衆国東部では,壁面から屋根まで,すべて杉材のシングル(木瓦)で葺き上げてしまうことが流行し,この構法による様式をシングル・スタイルshingle styleと呼ぶ。
執筆者:桐敷 真次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
代表的な屋根葺(ふ)き材料の一つで、粘土瓦とセメント瓦に大別されるが、ほかに特殊な材料によるものもある。近年、従来の粘土瓦、セメント瓦以外の新しい屋根葺き材料としてシングル(ストレートアスファルトをアスファルトルーフィング用原紙に浸透させ、表面に着色した砂を付着させ一定の形にしたもの。ほかに芯(しん)材にアスファルト系材を用いず、ガラス繊維と合成樹脂、鉱物粉末混合材からつくられる不燃性のシングルもある)や石綿(せきめん)スレート(セメントと石綿を混練し、波形や瓦形、あるいはシングルのように平形に圧縮成形したもの)、ガラス瓦(採光を目的とし、ガラスを瓦状に鋳造成形したもの)、金属瓦(表面に着色防錆(ぼうせい)処理を施した金属板を瓦形にしたもの)など、新素材を使用した製品が製造されている。粘土瓦は、これらの新素材によってつくられた製品に比べ、重量が大きく耐震性に劣り、衝撃や凍害によって破損しやすいなどの欠点があり、一時需要が減少していたが、外観や耐水・耐火性、断熱性、耐久性など優れた点が見直され始め、また高強度化と靭性(じんせい)化、軽量化などの研究も盛んに行われるようになり、最近ではその使用も増大している。現在、瓦として多く用いられているものは粘土瓦とセメント瓦である。
[岸谷孝一]
原料は、通常の田畑で得られる下層土から粗粒砂や有機物、アルカリ分などを除いた低級粘土で、採取した原土を粉砕機にかけて微粉砕し、これを溶解し、ふるい→脱水→混練の各工程を経てつくられる。瓦は暗室中で一定期間ねかせ、成熟させた粘土を再混練し、荒地成形→仕上げ→乾燥→焼成→冷却の順で製造される。
粘土瓦は、焼成方法と形状により呼び名が異なる。焼成方法によって、(1)素焼瓦(成形乾燥したものを単に焼き締めたままのもの。色は赤および褐色)、(2)いぶし瓦(黒瓦、銀色瓦ともいい、焼成の最終工程に松葉や松木をたいていぶし、表面に炭素質を固着させたもの)、(3)塩焼(しおやき)瓦(赤瓦ともよばれ、焼成末期に食塩を投入し、分解したナトリウムガスと粘土中のケイ酸成分を反応させ、表面にガラス質を形成させたもので赤褐色)、(4)釉薬(ゆうやく)瓦(成形乾燥させたものに釉薬をかけて焼き、表面にガラス質を形成させたもの。釉薬により多種の色がある)の4種に大別される。
また形状により和型瓦(日本瓦)と洋型瓦とに分けられる。和型瓦は使用箇所や形に応じ、(1)平瓦(断面がわずかに円弧状をなすもので、丸瓦と丸瓦との間に葺く瓦)、(2)桟瓦(さんがわら)(横断面が波形をしており、屋根面の大部分を覆う瓦)、(3)軒(のき)瓦(唐草(からくさ)瓦ともいい、軒端に葺く瓦)、(4)丸瓦(断面が半円状のもので、瓦と瓦をつないだり、棟線を葺くときに用いる)、(5)鬼瓦(大棟、隅棟、下り棟などの先端に装飾としてつける瓦)、(6)面戸(めんど)瓦(桟瓦とのし瓦とのすきまを埋める瓦)、(7)三つ叉(みつまた)瓦(寄棟屋根の棟線が三方からぶつかる点に用いる丸瓦の一種)などがある。
洋型瓦には、平板瓦、S型瓦、三角冠瓦、ミッション瓦、イタリア瓦、スペイン瓦、支那(しな)瓦、ギリシア瓦、イギリス瓦、フランス瓦などの種類がある。洋型瓦はほとんどのものが釉薬瓦で、表面には光沢があり吸水性が低く、防水性、耐候性に富む。
[岸谷孝一]
原料は、セメントと硬質細骨材とを混練したモルタルで、通常のセメント瓦は、これを型に手詰めし、表面を平滑にするためセメント粉末を振りかけたのち養生を行い製造される。最近では、セメント量の多いモルタルを高圧プレス成形し、水中・気中養生したものの表面にさらに焼付け静電塗装を行い、従来のセメント瓦に比べ耐力・耐久・防水性を大きく向上させたものも製造されている。形状は粘土瓦とほぼ同じである。
瓦の生産は中小工業が主体に、ほぼ全国で行われているが、粘土瓦については、良質の粘土が採取できる愛知県(三州瓦)、京都府(京瓦)、大阪府(泉州瓦)、石川県(能登(のと)瓦)、島根県(石州瓦)などに集中している。独特な味わいをもつ沖縄の琉球(りゅうきゅう)瓦のような風土に根づいた瓦もある。
[岸谷孝一]
日本で使われてきた瓦葺きの屋根葺きの形式には、本瓦葺きと桟瓦葺きとがある。本瓦葺きは平瓦と丸瓦を交互に並べて葺く形式で、飛鳥(あすか)時代崇峻(すしゅん)天皇元年(588)に百済(くだら)からその技術が伝えられて以来使われてきた。丸瓦は直径15~17センチメートル程度の円筒を二分した形、平瓦は1辺30センチメートル程度の方形で、やや湾曲した形が普通である。丸瓦は重なり部分に玉縁をつけ、突きつけて並べるのが普通であるが、全体を円錐(えんすい)形に細めた丸瓦もあり、この丸瓦を重ねながら葺く葺き方をとくに行基(ぎょうき)葺きとよんでいる。行基葺きの遺例はきわめて少なく、奈良の元興寺(がんごうじ)極楽坊、京都の宝塔寺、兵庫の浄土寺浄土堂、大分の富貴寺にみられるくらいである。平瓦は少しずつずらしながら重ねて葺いている。桟瓦葺きは、江戸時代に発明された桟瓦1種類だけで葺く形式である。桟瓦は、本瓦葺きの平瓦の1辺を湾曲とは反対に折り曲げ、二つの対角を欠いた形で、葺くときの重なり部分が少なく、丸瓦を使わないため重量を軽減することができた。また、桟瓦の裏面に突起をつけた引掛け桟瓦は、野地板に打った桟に掛けて葺き、それまで瓦を安定させるため野地板の上に敷いていた粘土が要らなくなり屋根がいっそう軽くなった。幕末から現在に至るまで引掛け桟瓦が瓦葺きのもっとも一般的な形式になっている。
以上の基本的な瓦のほかに、棟をつくるためののし瓦、雁振(がんぶり)瓦、輪違(わちがい)瓦、棟の端を飾る鳥衾(とりぶすま)、鬼瓦、鴟尾(しび)、軒先を飾る鐙(あぶみ)瓦、宇(のき)瓦、そのほかに面戸(めんど)瓦、棰先(たるきさき)瓦、隅木先(すみきさき)瓦、隅木蓋(すみきぶた)瓦などがある。
これらのうち鬼瓦、鴟尾、鐙瓦、宇瓦は、形状や文様によって屋根を特徴づけている。鬼瓦、鴟尾はともに飛鳥時代から使われているが、鬼瓦の文様は白鳳(はくほう)時代までは主として蓮華(れんげ)文が装飾として使われ、天平(てんぴょう)時代になって初めて鬼面文の鬼瓦が現れる。鴟尾は飛鳥時代、白鳳時代には寺院の主要な建物を中心に盛んに使われているが、鬼瓦がしだいに多くなり、中世以降になると近世の城郭建築に鯱(しゃち)が使われたほかは、ほとんど使われなくなった。鐙瓦(軒丸瓦)の文様は古代には蓮華文がもっとも一般的であったが、円だけを描いた重圏文、宝相華(ほうそうげ)文などもわずかに用いられていた。平安時代になると巴(ともえ)、五輪塔、輪宝、文字などが文様として用いられるようになり、近世の城郭や宮殿などでは家紋が使われている。宇瓦(軒平瓦)の文様は初め唐草文が主流であるが、時代が下るとともに多彩になる。
平城宮東院や京都の東寺、平安宮からは緑釉のかかった瓦が出土し、また奈良唐招提寺(とうしょうだいじ)からは三彩釉の瓦が出土しており、わずかではあるが日本でも釉(うわぐすり)のかかった瓦が用いられていたことが明らかである。
以上の陶製の瓦のほかに、中尊寺金色堂などには木製の瓦が、福井の丸岡城天守などには石製の瓦が使われている。また、日光東照宮などの銅瓦葺き、金沢城石川門などの鉛瓦葺きなど、金属を用いたものが知られているが、これらは、金属で瓦をつくって葺いたのではなく、木で本瓦葺きのような形の下地をつくり、その上に銅板や鉛板を張って瓦葺きにみせたものである。これらの陶製以外の瓦は多くは寒冷地で用いられるか、防火の目的で使われている。
陶製の瓦は、中国大陸、朝鮮半島はもとより、ヨーロッパにおいても古代から使われている。中国大陸では夏(か)の時代に瓦がつくられていたという記録があり、春秋戦国のころになれば遺品がみられるようになる。さらに漢代には、画像や明器(めいき)によって宮殿や城郭などが瓦葺きであったことが明らかである。唐代には寺院、宮殿、都城などに広く用いられ、明(みん)・清(しん)代につくられた宮殿、陵墓などは黄色、碧(へき)色、藍(あい)色などの釉を施した瓦で飾られている。また、棟の飾りは、鬼瓦よりは鴟尾が多く用いられ、下り棟には何種もの走獣がみられるものが多い。
ヨーロッパでは、瓦は、スペイン、南フランス、イタリアなどをはじめ、地中海に面した地域に多く用いられている。
[平井 聖]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 リフォーム ホームプロリフォーム用語集について 情報
出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報
…日本建築は,明治維新後の西洋建築の輸入により煉瓦造,石造が始まるまで,ながく木造であった。その様式は世界的に見れば,朝鮮建築とともに中国建築様式系の一部であり,その構造・形式の大部分は中国から伝来したものである。…
※「瓦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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