スーダン(読み)すーだん(英語表記)Sudan

翻訳|Sudan

共同通信ニュース用語解説 「スーダン」の解説

スーダン

アフリカ北東部のアラブ連盟加盟国で、人口約4690万人(2022年推定)。1980年代からイスラム教徒主体の北部と、キリスト教徒主体の南部との内戦が続いた。2005年の包括和平合意などを経て11年に南部が南スーダンとして分離独立。石油生産量の減少で経済が悪化した。20年10月、トランプ米政権(当時)の後押しを受け、イスラエルとの国交正常化で合意。米国は同年12月、1993年からのテロ支援国家指定を正式に解除した。(共同)

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精選版 日本国語大辞典 「スーダン」の意味・読み・例文・類語

スーダン

  1. ( Sudan )
  2. [ 一 ] 地中海沿岸を除くサハラ砂漠以南、コンゴ盆地以北のアフリカを、アラビア人がさして用いた呼称。また、ヨーロッパ人の地域概念としては、かつてのフランス領スーダン(マリ共和国)と現在のスーダン共和国とを結ぶ東西に長い帯状の地域を意味する。
  3. [ 二 ] ( 「スーダン共和国」の略 ) アフリカ北東部にある共和国。ナイル川の上・中流域を占め、北東部は紅海に臨み、西側にリビア砂漠が広がる。一九五六年、イギリス・エジプトの共同統治領から独立。農業を主とする。首都ハルツーム。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「スーダン」の意味・わかりやすい解説

スーダン(国)
すーだん
Sudan

アフリカ北東部の国。正式名称はスーダン共和国Al-Jumhurīya as-Sūdān。北はエジプト、リビア、西はチャド、中央アフリカ、南はコンゴ民主共和国(旧ザイール)、ウガンダ、ケニア、東はエリトリア、エチオピアとそれぞれ国境を接し、北東部は紅海に面する。面積は250万5813平方キロメートル、アフリカ最大の国である。人口3623万(2005推計)。首都はハルトゥーム。国名のスーダンは「黒人の国」を意味するアラビア語Bilad as-Sudanに由来し、本来は南北をサハラ砂漠と熱帯雨林地域に挟まれた東西に広がる広大な地域(スーダン地方)を意味する。その最東端に位置するこの国は、国土の中央を南北に貫くナイル川によって、北のアラブ文化圏と南の黒人文化圏を結ぶ橋渡しの役割を果たしてきた。

[栗本英世]

 なお、2011年7月に南部10州が分離独立し、南スーダン共和国となった。本項の記述は南スーダン独立前のものである。南スーダンについては同項目を参照のこと。

[編集部]

自然

国土を南北に貫いて北流しているナイル川がこの国の自然を特徴づけている。国土の中央部は広大で起伏に乏しいナイル盆地である。この盆地は北部ではヌビア砂漠となってエジプトへと広がっており、北西部ではリビア砂漠へと続いている。ナイル盆地の周囲には山地が発達している。北東部の紅海沿岸には紅海丘陵、西部のダルフール地方にはマラ山(3088メートル)を主峰とするダルフール山地、南部のエクアトリア地方には、スーダンの最高峰キニエティ山(3187メートル)を擁するイマトン山地がある。また中央部のコルドファン地方には標高900メートル以上に達するヌバ山地がある。

 気候は北へいくほど乾燥している。北緯19度以北は砂漠地帯でほとんど降雨はなく、首都ハルトゥームでは年降水量は120.5ミリメートルである。これに対して南部の熱帯雨林地域では1300ミリメートルにも達する。全地域を通じて降雨はほぼ夏の3か月に集中する。気温は北部へいくほど、日較差、月較差が大きくなる。ハルトゥームでは乾期の1月がもっとも涼しく、月平均気温は22.7℃、ハブーブとよばれる砂嵐(すなあらし)の季節である5月、6月が34℃以上ともっとも暑い。南部では逆に乾期の2月がもっとも暑くなるが、月平均気温の変化は数℃以内であり、年間を通じて26~29℃である。青ナイル川、白ナイル川流域に広がる湿原、サバナは野生動物の宝庫であり、ゾウ、キリン、バッファロー、カバなどの大形野生動物が多数生息している。

[栗本英世]

歴史

スーダンは紀元前3000年ごろから古代エジプトの影響下にあった。前8世紀にはスーダンの黒人によるクシュ王国が勃興(ぼっこう)し、前730年ごろにはエジプトを征服して約70年間支配した。クシュ王国は紀元後350年ごろ、エチオピア高原から進出してきたアクスム王国に滅ぼされるまで約1000年間存続した。クシュ王国の滅亡後、北部にはヌビア、ハルトゥーム付近にはアルワという二つの王国が勃興した。両王国は6世紀にキリスト教を受容し、キリスト教文化が栄えた。やがて両王国はエジプトからイスラム教徒の侵略を受け、ヌビア王国は13世紀に、アルワ王国は16世紀初頭に滅亡した。この過程でアラブ人はイスラム文化を伴って南進し、ヌビア人と混血していった。

 16世紀初頭、青ナイル川上流からやってきたと考えられるフンジとよばれる民族がセンナールに首都を置く王国を建設、青ナイル、白ナイル流域を支配下に置いた。ほぼ同時期、西部のダルフール地方でもダルフール王国が勃興(ぼっこう)した。両王国はイスラム教を受容し、スルタン国と称され、長距離交易によって繁栄した。

 フンジ王国は形式的には1821年エジプトの太守ムハンマド・アリーMuhammad ‘Ali(1769―1849)に征服されるまで存続した。それ以降北部スーダンの中心部はエジプトの支配下に置かれることになった。ダルフール王国も、ハルトゥーム出身の奴隷商人ズベイルの軍勢によって1874年に滅ぼされ、エジプトの支配下に入った。エジプトの太守によって任命された総督がハルトゥームに駐留し、地方政府の枠組みが整備された。ムハンマド・アリーの後継者イスマーイール・パシャIsmail Pasha(1830―1895)は、イギリス人サミュエル・ベイカーSamuel Baker(1821―1893)に白ナイル川の探検隊を組織させ、1873年にはアフリカ中央部の赤道地域を統治下に置いた。ベイカーの仕事はイギリス人チャールズ・ゴードンCharles Gordon(1833―1885)将軍に引き継がれた。エジプトの支配下でスーダン人の不満は鬱積(うっせき)し、ついに、自らをマフディー(救世主)と称する愛国者ムハンマド・アフマドMuhammad Ahmad(1844―1885)に率いられた反乱を招くに至った。彼はイスラム信仰の復興と外国人の排撃を唱えてスーダン人を組織、ゴードン将軍の駐留するハルトゥームを包囲した。1885年ハルトゥームは陥落し、スーダンはマフディーの統治下に入った。

 19世紀末にエジプトを実質的な支配下に置いたイギリスは、フランスのアフリカ横断策に対抗し、スーダンにおける勢力の回復を図ってハーバード・キッチナー将軍を派遣した。キッチナーは1898年オムデュルマンの戦いでマフディー主義者の軍を撃破した。スーダンはふたたび独立を失い、翌1899年にイギリス、エジプト両国はスーダンを共同統治(コンドミニウム)下に置くことに合意した。以降スーダンはアングロ・エジプシャン・スーダンとよばれた。1922年のエジプト独立の前後からスーダンにも民族主義運動が芽生え、第二次世界大戦中にスーダン国民としての自覚がさらに高まって、戦後には政党が結成されるに至った。1952年エジプトに軍事革命が起こるとスーダン独立が現実問題となり、1953年にはイギリスとエジプトの間に「スーダンの自治および民族自決に関する協定」が成立した。これに基づき、1956年1月スーダンは共和国として独立した。

 独立後は政党間の抗争が激しく内政は不安定で、1958年11月軍事クーデターによってイブラヒム・アブードIbrahim Abboud将軍(1900―1983)が政権を掌握した。アブード政権は1964年に崩壊、その後ふたたび政党政治が復活したが、政党間の権力争い、南部3州の分離独立問題などで内政は混乱し、1969年5月25日ヌメイリ中佐を指導者とする軍事クーデターを招来するに至った。ヌメイリは革命評議会議長として全権を握って国家体制の改造を実行、国名をスーダン民主共和国に改称した。また1972年3月にはアディス・アベバ協定により南部に大幅な自治権を付与し、1955年以降継続していた内戦を終結させた。

 しかし、南部の経済発展は容易には進まず、1983年からふたたび内戦が開始された。1984年以後、開発政策の失敗と干魃(かんばつ)や難民流入などにより経済危機が深まり、食糧暴動やゼネストが発生、1985年4月国防相ダハブSuwar al-Dahab(1934―2018)の率いる政府軍が軍事クーデターを断行、ヌメイリ政権は打倒された。ダハブ軍事政権は新暫定憲法を制定、1986年1月国名をスーダン共和国に改称した。同年4月民政移管のための総選挙が実施され、ウンマ党の党首マフディーSadiq al-Mahdi(1935―2020)を首班とする政府が成立した。マフディー政権と南部を基盤とする解放戦線SPLM/SPLA(スーダン人民解放運動/スーダン人民解放軍)との間で和平交渉が進展していたが、1989年6月軍部がクーデターを起こし、バシールOmar Hasan Ahmad al-Bashir(1944― )将軍が実権を掌握した。

 バシール政権は、アラブ化とイスラム化政策を強力に推進する一方で、北部における反政府勢力を粛清し、SPLAに対しては「聖戦」(ジハード)を宣言して軍事的対決色を強めた。1991年以降、SPLAが分裂したため、内戦は泥沼化・長期化したが、2005年1月、政府とSPLM/SPLAの間で包括的平和協定(CPA)が調印され、1983年に始まった内戦はようやく終結した。しかし、南北の平和交渉が進行していた2003年、ダルフール地方で新たな武力紛争が勃発した。死者約30万人、難民・避難民約200万人を出したが、2010年2月にドーハでスーダン政府と反政府勢力の一部が停戦に合意している。

[栗本英世]

政治・外交

独立後のスーダンでは、軍事政権と、選挙で民主的に選ばれた政権が、交互に政権を握ってきた。軍事政権の時代のほうが長期にわたるが、1964年と1985年の二度にわたって、民衆の蜂起(ほうき)によって独裁体制が打倒されたことが示すように、労働運動や学生運動の伝統も根強く残っている。1960年代には共産党が大きな影響力をもっていたが、1970年代以降は政府による弾圧を受け、その勢力は衰えている。

 スーダンの政治は、アラブ化・イスラム化を推し進めようとする北部を中心とする勢力と、それに反対する南部人および北部のリベラルな勢力との拮抗(きっこう)関係のうえに成立していると理解することが可能である。それは、スーダンという国が、アラブ・イスラムの国なのか、あるいは多文化、多宗教、多民族のアフリカの国なのかという、アイデンティティーをめぐる争いであるといってもよい。

 1989年に軍事クーデターによって成立したバシール政権を支えていたのは、ハッサン・トゥラビHassan al-Turabi師(1932―2016)を最高指導者とするイスラム主義政党NIF(国民イスラム戦線)であり、歴代のなかでもっとも強力にアラブ化とイスラム化を推進した政権である。1996年には大統領および国会の形式的な選挙を実施し、バシールが大統領に、トゥラビが国会議長に選出された。1989年以来、政党活動は禁止されていたが、1998年に認められ、1999年から政党の登録が開始された。また、2000年12月の大統領選挙ではバシールが再選されたが、この選挙を野党はボイコットした。

 国際テロリズムの支援と人権の侵害を理由に、1995年には国連総会において非難決議が、1996年には安全保障理事会において制裁決議が採択されるなどして、スーダンの現政権は国際的な孤立を深めた。しかし一方で、中東やアジアのイスラム諸国に支援を求める独自の外交を展開した。ウンマ党やDUP(民主統一党)を中心とする北部の反政府勢力とSPLM/SPLAは、NDA(国民民主連合)の旗のもとに団結し、1995年にはエリトリアの首都アスマラで会議を開催して、現政権を打倒することや南部に自決権を認めることについて基本的な合意に達した。

 1994年以降、北東アフリカ諸国の地域機構IGAD(開発のための政府間機構)が平和調停に乗り出したが、交渉は進展しなかった。他方でスーダン政府は中国とマレーシアの援助の下、内戦で中断していた石油の開発を再開し、1999年からスーダンは石油の輸出国になった。アメリカ政府の強力な介入のもとで、2002年から平和交渉が本格化し、2005年1月には包括的平和協定(CPA)が、ケニアの首都ナイロビで調印されるに至った。

 この平和協定の結果、政権党であるNCP(国民会議党、NIFが改称したもの)と反政府諸勢力との間で権力分有が実現し、中央にはNCPを中心とする国民統一政府、南部にはSPLM/SPLAを中心とする南部スーダン政府が樹立された。

 バシールは新中央政府の大統領に、SPLM/SPLA創設以来の最高指導者であるジョン・ガランJohn Garang(1945―2005)は中央政府の第一副大統領兼南部スーダン政府大統領に就任した。しかし、ガランは2005年7月末に事故死し、スーダンの前途に暗雲を投げかけた。ガランの地位は、サルバ・キールSalva Kiir(1951― )によって継承された。平和協定に基づき、行政府だけでなく、立法府と司法制度も再編された。また、SPLAは、南部スーダンの正規軍になり、石油収入を中心とする国家の財源は、中央と南部で折半されている。南部には人民の自決権が認められ、2011年には分離独立か統一スーダンの枠内にとどまるかを決定する住民投票が実施される予定である。それまでの暫定期間中、国連と国際社会の積極的な関与のもと、大規模な戦後復興と平和構築のプログラムが進行中である。

 しかし、約250万の死者と数百万の難民・国内避難民を生み出し、国土を荒廃させ、国民を複雑に入り組んだ敵味方に分断した内戦から立ち直るのは容易ではない。2007年にはCPAの実施の遅れをめぐって、NCPとSPLM/SPLAの間の対立が表面化している。さらに、スーダンの平和を脅かしているのは、2003年に開始されたダルフール紛争である。

 ダルフールでは、複数の反政府武装組織と政府軍および政府側民兵ジャンジャウィードとの戦闘のため、短期間のうちに住民の大多数が犠牲になった。国連と国際社会による人道援助は不安定な治安のため期待された成果をあげていない。AU(アフリカ連合)による平和調停の試みと7000名規模の停戦監視(事実上の平和維持)部隊の派遣も、紛争解決には至っていない。2007年末の時点では、紛争による死者は20万人、難民は20万人、国内避難民は200万人に達している。AUによる反政府諸勢力とスーダン政府の平和調停は依然として進行中である。スーダン政府は、国連平和維持部隊の展開をようやく承認し、事態の改善が期待されている。AUと国連の混成部隊(UNAMID)は、2万6000名規模に達する。他方で、ダルフール紛争は隣国のチャドと中央アフリカに飛び火し、国際紛争化している。21世紀初頭の世界における最大規模の人道的危機は、2010年時点で継続中である。

 ダルフール紛争の背景には、この地方が長年低開発のまま放置され、住民に正当な政治的権利が認められていなかったという、南部スーダンと同様の事実がある。また、砂漠化の進行と自然環境の悪化の結果、水、畑地と牧草地をめぐる争いが激化していたことも重要な要因である。以上の背景に、民族・人権的対立、NCP内部の権力闘争、国際関係などが絡まりあって、現在の武力紛争が発生している。したがって国際社会による調停と介入には、対症療法的なアプローチだけでなく長期的な展望と持続性が必要である。

[栗本英世]

経済・産業

スーダンは典型的な農業国であったが、石油輸出が開始された1999年以降、経済構造は大きく変化した。南部で発見された油田の開発は欧米の資本によって進められていたが、内戦のため1980年代なかば以降中断していた。バシール政権は油田地帯に兵力を投入し焦土作戦を展開し住民を武力で排除して環境を整え、中国とマレーシアの国営石油会社の参入をもって開発が開始された。政府は一方で内戦を遂行しつつ、他方では油田開発を行った。イスラム主義を掲げる政府のもとで、欧米諸国や日本との外交・経済関係が冷却下するなかで、アジアの資本によってスーダンの石油は開発されたのである。2007年の原油生産量は日産38万バレル、そのうち30万バレルが輸出されている。推定埋蔵量は、2006年までは約5億バレルであったが、2007年には50億バレルと劇的に増加した。石油のおかげで、国内総生産も124億ドル(2000)から376億ドル(2006)へと増加した。一人当りの国内総生産は873ドルである。石油は経済ブームをもたらし、2006年度の国内総生産成長率は13%に達している。同年の国内総生産の内訳は、農業が30.8%、製造業が35%、サービス業が34.1%であり、初めて製造業の割合が農業を上回った。輸出額は43.5億ドル、輸入額は59.7億ドル(2006)で、輸出入とも相手国の第1位は中国である。原油の約8割が中国に輸出され、中国からの投資や中国企業によるダムや橋、道路などの大規模な建設工事の請負も増加している。石油以外の主要な輸出品目としては、農産物(綿花とゴマ)、家畜、金、アラビアゴムなどがある。

 石油開発が始まる以前のスーダンにおける主要産業は農業と牧畜であった。北部の白ナイル・青ナイル流域では、植民地時代から農業開発が進められ、とくにゲジラ(ジャジーラ)地方では、大規模な灌漑(かんがい)による綿花栽培が発展した。降雨に恵まれ、広大な未開発地がある南部は、農業、畜産および林業が発展する潜在的可能性があるが、長年の内戦のため未開発のままである。

 開発の進展と良き統治(グッド・ガバナンス)の実現には交通・通信網の整備が不可欠である。近年、北部の幹線道路は整備されているが、西部と南部では劣悪なままである。1970年代以来、南部スーダンにおける舗装道路の総延長は数キロメートルのままである。未舗装道路も、雨季には多くが通行困難になる。こうした地域では、徒歩以外は航空機のみが交通手段である。植民地時代に建設された鉄道は、ハルトゥームと紅海沿岸の港町ポート・スーダン、および南部のワウ、西部のニヤラを結ぶが、老朽化しておりリハビリ(再建)が必要である。携帯電話は地方都市にも普及しつつある。バシール政権下で既成されていたインターネットは、ようやくアクセス可能になったが普及は主要都市に限られている。

 石油による経済ブームは、新興の中流・上流階層を生み出したが、発展は首都ハルトゥームに集中している。首都は、300万~400万人の国内避難民を抱え、貧富の差が著しい。西部のダルフール地方では武力紛争が継続し、住民の生命自体が脅かされている。南部全体と北部の一部地域は2005年に終結した内戦による荒廃から立ち直っていない。平和協定の結果樹立された南部スーダン政府には、石油収入の50%が割り当てられるため、年間10億ドル規模の予算があるが、復興事業の進展は遅い。国民の多数は、十分な食料、清潔な飲料水、教育と医療のサービスといった、基本的必要が満たされていない状態に置かれており、自給的な農業と牧畜を営んで生活している。国民の間の経済格差を是正し、富を公正に分配し、地方の開発と発展を達成することが、中央政府と南部政府の両方に課せられた課題であるといえる。

[栗本英世]

社会・文化

スーダンには多くの民族が住んでいるが、大別すると、北部に住むアラブ系の人々、多数はイスラム化した黒人(アフリカ系)諸民族、および南部の伝統的な宗教を信ずる黒人諸民族とに分けられる。北部のアラブ系以外の民族としては、ヌビア人、ベジャ人、ヌバ人、フール人、フルベ人などがあげられる。南部では、ナイル系のヌエル人、ディンカ人、シルック人、バリ人、ロトゥホ人、スーダン系のアザンデ人などが主要な民族である。このほかに小規模な民族が数多くあり、スーダン全体で56の民族、597の部族が存在するといわれている。アラブ系と非アラブ系(黒人、アフリカ人)との違いは、民族上だけでなく人種上の違いとしても認識されており、アラブ系が優位な立場を占めている。このことは、スーダンにおける民族問題が容易に解決できない理由の一つである。

 公用語はアラビア語で、ほぼ全国で通用する。南部と北部の一部で広く話されているのが、ピジン化(混成言語化)したアラビア語である。南部ではアラビア語とあわせて英語も公用語として用いられている。学校教育はアラビア語で行われているが、キリスト教のミッション・スクールの伝統がある南部では英語を用いている学校も多い。

 スーダンの文化は、イスラム化・アラブ化した北部と黒人の世界である南部とで大きく異なっている。ただし、北部にも非イスラム・非アラブの人々が多数存在する。スーダンのイスラムにおける戒律はアラブ湾岸諸国ほど厳しくなく、バシール政権下で規制が厳しくなったとはいえ都市では男性に交じって働く女性の姿もよくみかける。南部の黒人は伝統的な宗教(「アニミズム」と総称される)を信仰しており、キリスト教化した人々も多い。一般に南部人はイスラム教とアラビア語の押し付けを嫌い、自立を求める傾向が強い。北部、南部を通じて婚姻制度は一夫多妻であり、結婚に際しては多額の婚資が必要である。文化施設としてはハルトゥームに国立博物館がある。またメロエやシェンディでは神殿やピラミッドなどのクシュ王国の遺跡をみることができる。スーダンには多くの野生動物保護区、国立公園もあるが、宿泊施設や交通機関の不備や内戦のため、訪れる観光客はほとんどいない。

[栗本英世]

日本との関係

スーダンの対日輸出額は原油・石油製品、アラビアゴム、ゴマ、綿花を中心に5.2億ドル、輸入額は機械、工業製品を中心に5.4億ドル(2006)である。日本は中国経由でもスーダンの石油を輸入しており、その総額は18億ドルに上る。内戦中に政府によって行われた人権侵害のため、日本との外交・経済関係は縮小していたが、2005年の平和協定締結後は、外交関係は改善している。日本政府はスーダンの戦後復興に対しても、1.8億ドルの支援を実施している(2007年11月)。

[栗本英世]



スーダン(地域名)
すーだん
Sudan

アフリカ大陸のサハラ砂漠以南、コンゴ盆地以北をさす地域名。スーダンとは、アラビア語で黒を意味するスーダSūdaに由来し、黒人の住む国という意味である。したがって、本来はサハラ砂漠以南の黒アフリカ全体をさすはずであるが、実際には、中東や北アフリカのアラブ人が交易などで接したサハラ砂漠南縁の黒人の住む地域の総称である。サハラ砂漠南限から幅約700キロメートルで東西に連なる帯状の地域と考えてよく、現在の国々ではモーリタニア、セネガル、マリ、ブルキナ・ファソニジェール、チャド、それに「黒人の国」をそのまま国名としたスーダンと南スーダンが含まれる。近年では、サハラに沿った地域という意味のサヘル地方という呼称がよく使用される。

 気候は北部が砂漠気候とステップ気候、南部がサバナ気候となっており、いずれも雨が少なく降水量は不安定である。遊牧や放畜、穀物、綿花、ラッカセイ、サトウキビなどを栽培する農耕が行われるが、近年人口増加などを原因とした砂漠化が進行しており、1970年代以後の大干魃(かんばつ)の際には住民や家畜に大きな被害を生じた。古くから北アフリカとの交易の最前線にあり、多くの都市や国家が栄えた。ヨーロッパ諸国による植民地支配で人為的な国境が引かれ、独立後もその国境を保ち、チャドのようにアラブ人系と黒人系との国内紛争が続く国もある。資源がなく内陸部に位置し、乾燥気候という条件から、貧しい国が多い。

[藤井宏志]

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改訂新版 世界大百科事典 「スーダン」の意味・わかりやすい解説

スーダン
Sūdān

基本情報
正式名称=スーダン共和国al-Jumhūrīya al-Sūdānīya/Republic of the Sudan 
面積=186万1484km2 
人口(2010)=3342万人 
首都=ハルトゥームal-Kharṭūm(日本との時差=-7時間) 
主要言語=アラビア語,ディンカ語,ヌエル語ほか 
通貨=スーダン・ポンドSudanese Pound

アフリカ北東部,ナイル川の上・中流域に広がる共和国。北東は紅海にのぞみ,北はエジプト,西はリビア,チャド,中央アフリカ共和国,南はコンゴ民主共和国,ウガンダ,ケニア,東はエチオピアに接するアフリカ最大の国である(2011年7月に南部の南スーダンが独立してからは,アルジェリア,コンゴ民主共和国に次いで3位)。同じくスーダンとよばれる,アフリカ大陸を東西に横切る大サバンナ地帯の東部地域にあたり,この意味では,東スーダンともよばれた。アフリカ大陸北部のハム系住民地帯と中部黒人住民地帯の中間に位置し,紅海を渡って来たセム系アラブを迎え入れてきたスーダンでは,国民は多様な人種や部族から成り立っており,住民の構成と分布はアフリカ全体の縮図といえよう。したがって,住民の言語もアラビア語が国語とされるが,ディンカ語,ヌエル語など多くの土着言語も用いられている。

北緯4°~22°の熱帯にまたがるスーダンは,北のサハラ砂漠乾燥地帯から南端の熱帯雨林にいたるまで多様な自然景観をもつ。国土の中央やや東寄りを,ウガンダのビクトリア湖に発し南部国境付近山岳地帯から流れる諸河川を集めた白ナイル川が北上し,エチオピア高原に発した青ナイル川と首都ハルツームで,アトバラ`Aṭbara川とはアトバラで,それぞれ合流し1本のナイル川となってエジプトへ抜ける。

 ヌビア砂漠Ṣaḥrā’al-Nūbaとよばれる北部の砂漠地帯は,年間降雨量100mm以下で,岩はだの荒野が広がる。ナイル川の涸れ谷(ワジ,ワーディー)が刻まれ,東部は丘陵となって紅海沿岸山脈に至る。わずかにナイル川沿岸の細長い地域のみがナイル川の恵みに浴する。7~8月の雨季を迎えて青ナイル川の水位は7mも上昇し,北部農業は9~10月の収穫期に入る。砂漠に降る乏しい雨は,丘陵やワーディーに牧草を芽生えさせる。砂漠地帯はハルツームあたりでとぎれ,半砂漠のステップやサバンナが南下する。ここでも年間降雨量は200mmを割る。両ナイル川とアトバラ川に囲まれたジャジーラal-Jazīra,ブターナ両地域は灌漑がいきとどいたスーダン経済の中核である綿生産地域であり,最も人口が密集する地域である。白ナイル川の西側のコルドファンKurdfān,その奥の西部国境沿いのダルフールDārfūrの両地方は完全な砂地の荒野で,それぞれヌーバ山脈,マッラMarra山脈を抱き,丘陵・山岳地帯が多い。だがここは,雨季を迎えると絶好の牧草地や,アラビアゴムを採るアカシアなどの灌木林に変貌する。コルドファン南西部からナイル川流域マラカール以南にかけてはサバンナに代わって,湖や沼の多い湿地帯(サッド地方)が広がり,南端域は降雨量1500mmに達する熱帯雨林である。豊かな放牧地であると同時に,無限の農林水産資源の宝庫である。

現在のスーダンは,19世紀のエジプトによる単独占領,次いでイギリス・エジプト共同統治によるスーダン支配領域を継承している。同時にこの広大な領域の実現は,スーダンの植民地化の時代の幕開けとなった。古代諸王国時代以来東スーダンは,国際交易網を通じてアフリカ内陸諸地域と結びつき,アフリカの有機的一部分として維持されてきた。そうした大陸内諸関係を断ち切られ,植民地本国にのみ結びついた孤立的状態を強いられた植民地化のつめ跡は,現在のスーダン国家が抱える諸問題にさまざまな形で刻みこまれている。

これまでにわかっている限り,スーダン史はナイル川の中流,サハラの東縁に位置し,現在のエジプトとスーダンにまたがるヌビアにおいて始まる。そもそもアフリカ史自体が,前7000年ころ,砂漠化せずまだ湿潤期にあったサハラをひとつの源流として始まり,森林や草原がおおい,河川が走り湖沼ができたサハラには,多数の野獣が生息し,地中海沿岸や南部のアフリカからは採集狩猟民たちが移住してきた。前6000年ころサハラは,牧畜民の世界としての文化を生みだした。前3000年ころナイル川流域に成立した統一エジプト王朝はヌビア支配を開始し,第19王朝時代にはナイル川の第4急湍(たん)付近まで支配した。エジプトのヌビア支配の目的は,黄金とアフリカ内部からの香木,象牙,ダチョウの羽根および奴隷などの獲得であった。ヌビア人奴隷は家内奴隷,労働者や兵隊として世界的に歓迎され,奴隷はバクトという年貢としてエジプトへ送られ続けた。一方すでにこの頃,西アフリカ,地中海,紅海,インド洋をはさんで国際交易網が展開し,ヌビアはその中継点に位置していた。スーダンがここに述べた品目を産し,国際交易網の真ん中に位置しているための経済的重要性はその後も変わることはない。

 このヌビアに,前2200年ころ,熱帯アフリカ奥地から黒人民族集団が移住してきて先住民を従属させ,クシュ王国時代(前1530-後350。クシュはナイル川第2急湍以南地域の総称)が始まる。前750年ころにエジプトをも占領,1世紀にわたり第25王朝を樹立したクシュ王国は,前6世紀半ば,第4急湍付近のメロエに首都を移し(以後メロエ王国と称す),エジプトの影響を脱して独自のブラック・アフリカ的文化の特性を強めた。この頃,すでに乾燥期に入って完全に砂漠化したサハラから,諸民族の牛の群れを伴った南への移動が始まり,彼らはサハラ南縁の半砂漠地帯からスーダン南部のナイル川流域大湿原にまで自然環境に順応して住みついていった。メロエ王国の住民は定住集落をつくり,ナイル川流域の広大なサバンナを舞台に牧畜を生業とし,農業においてはミレット(アワ類)を主作物にした。またメロエは当時世界有数の鉄生産地であり,鉄の輸出で厚味を加えた国際交易を経済基盤にメロエ文化が栄え,その影響はサハラ以南のアフリカにまで深く浸透した。

このメロエ王国は365年エチオピアのキリスト教王国アクスム王国に滅ぼされ,ヌビアはキリスト教王国時代に入る。7世紀半ばアラブに征服されたエジプトがイスラム時代に入ってからも,ヌビアは容易にはイスラム化せず,ヌビアのイスラム化が始まるのは,マムルーク朝(1250-1517)のヌビア征服(14世紀初め)以後である。その頃からヌビア住民は,ナイル川に沿ってエジプトから南下する,あるいは紅海を渡ってアラビア半島からやって来るアラブ・ムスリムと接触を深め,ジャアリーンJa`alīnおよびジュハイナJuhaynaと総称される,アラブの血を引いた諸部族の誕生をみた。これらアラブ系部族のイスラム首長国(マシュヤハMashyakha)が,キリスト教王国の衰退につれてナイル川流域にいくつも成立していき,オスマン帝国のエジプト支配(1517)と同じ頃,それら首長国を統合してフンジFunj王国(1515-1821)が成立,青ナイル川流域センナールSennārを中心にしてナイル川第3急湍以南両ナイル合流域にかけてイスラムにもとづく統治が始まった。このとき,ナイル川周辺の一部アラブ系部族が白ナイル川西岸のコルドファンに移動,アラブ系遊牧民(バッカーラBaqqāra,ベダイリーヤBedaylīya等)として定着した。一方,ダルフールのマッラ山脈周辺に,フール族がバッカーラ遊牧民などを服属させ,やはりイスラム王国を名のるダルフール王国(1596-1874)が成立,ダルフール,コルドファンからバフル・アルガザルに至る地域にかけて支配した。ダルフール王国は,牛,穀物,奴隷,象牙などを貢納として取り立て,象牙,奴隷などを各地に輸出して引換えに装身具,ビーズ,織物,武器などを輸入する交易立国であった。フンジについては不明の点が多いが,交易を重要な経済基盤とする国家であった。

 フンジ,ダルフールの王国時代は,スーダンにイスラムが広く浸透する時期である(特に18世紀)。原始宗教を信ずる多くの住民のイスラムへの改宗には,イスラム神秘主義教団(タリーカ)の役割が大きかった。教団の布教活動は,民衆の呪術的願望をかなえてくれると信じられた聖者を通じて民衆の信仰を獲得し,民衆を教団員として包摂し,血縁集団との結びつきも広くみられた。これらの教団の修道場(ザーウィヤなど)が,隊商交易網に沿ってアフリカ内陸部に広がり,スーフィー教団の修道場は,アフリカ内外のいろいろな地方からやって来るムスリムたちが一堂に会し,教団を軸に人的交流や,商売,さまざまの情報交換を深める場所ともなった。イスラムの普及はまた,巡礼へ向けて人びとの移動を活発化させ,西アフリカや北アフリカとメッカを結んで移動する人びととスーダン住民の接触が深まった。

 こうしてイスラムの浸透は,スーダンのもっていた国際的性格を一段と強め,また同時にスーダンはイスラムのウンマ(信仰共同体)のなかに位置づけられることになった。フンジ,ダルフール両王国は,イスラムにもとづく集権的国家ではなく,諸部族・諸首長国の連合体であり,実際の政治あるいは社会生活の局面で,すでにイスラム法(シャリーア)が絶対的な規範となっていたとは考えられない。しかし,ムスリムとなった住民の間にはウンマの一員として,イスラムの理念にもとづいて考え,行動するという共通の基盤が,この時代に生みだされていたといえよう。

19世紀に入るとムハンマド・アリー朝のもとに強力な集権国家をめざすエジプトがスーダン征服に着手,1821年フンジ王国,74年ダルフール王国をそれぞれ滅ぼし,エジプトのスーダン直接統治が始まる。エジプトのスーダン経営のねらいは,奴隷や黄金などを調達しエジプト帝国建設に投入することであった。いわば資源開発のためのスーダン経営は,奴隷の乱獲,住民の苦しみを顧みない重税を必然化した。イスラム社会の奴隷は,少なくとも〈人間〉としての権利を認められていた。これに対し近代のエジプトのスーダン経営は奴隷を完全に〈物〉として扱った。それは,資本主義時代の原料獲得のための植民地経営の幕開けであった。

 エジプト圧制下の住民の危機的状況のなかで,スーフィーのムハンマド・アフマドは,イスラムの危機がシャリーアの施行に責任を負うはずのオスマン帝国やエジプトの権力によって導入されていると受け止め,エジプト占領体制を打破してシャリーアを施行し,イスラムの革新を図ろうと考えた。81年,ムハンマド・アフマドのマフディー宣言とともに開始されたマフディー反乱を通じて,終末論的なジハードを目ざす教団国家を形成,85年エジプト占領を完全に駆逐した。反乱には身分・出身のいかんにかかわらず広範な住民が参加,13年間にわたりスーダン人民族意識に支えられたマフディー国家が続いた。マフディーの組織した教団,マフディー派の成員は自らをアンサールAnṣār(支持者)と称し,反乱の中核を占めた。マフディーはシャリーアの実現に向け絶対的平等を維持したが,ムハンマド・アフマドの死後(1885),反乱は内部矛盾が表面化し,98年イギリス・エジプト連合軍により鎮圧された。内部矛盾は,奴隷問題に典型的に現れていた。

 反乱勢力の中には,エジプト占領当局の独占ついで禁止政策に対し,彼らの商売の死守をはかる奴隷商人がいたが,そこにおける奴隷交易は,すでに奴隷を〈物〉として処理する近代的なものに変質していた。すなわち,ムスリムの奴隷商人は,ムスリムとしての規範を失うことによって,同じウンマの一員である南部黒人へのスーダン人としての民族的アイデンティティをも断ち切ることとなった。ウンマのもっていた平等性は失われ,これにかわって,個人の出自や身分が重んじられるようになる。スーダンは諸部族,諸集団に分裂し,マフディー反乱の敗北とともに,再びイギリス・エジプトの支配下に組み入れられていく。

 2011年7月南部が南スーダンとして独立した。

1898年マフディー反乱の最終的敗北は,多様な民族集団で形成されているスーダンの民族的統一の可能性を失わしめた。翌年,イギリス・エジプト二元管理協定が調印され,植民地スーダンの領土が画定された。新しいスーダン国境は,ヌビアを南北に分断する一方,カッサラ地方(1891年のイギリス・イタリア条約でエチオピア王国から分離されていた),南部エカトリア,ナイル南部諸州,バフル・アルガザル,紅海沿岸のスワーキンをスーダン領に併合した。植民地支配に対し,マフディー再来を信じる住民の小反乱や,マフディー反乱後復活したダルフール王国(1900-16)の抗戦などの抵抗はみられたが,植民地権力の軍事的・行政的支配を覆すのは困難であり,むしろ植民地権力による開発,一円的支配と分断が強まった。第1次大戦後の1924年はこのような支配体制の起点であり,イギリスは,アラブ民族運動の高揚のもとでのスーダン独立の要求に対し,エジプト軍行政官僚による間接支配にかえてイギリス単独支配を開始,同時に,民族運動の波及を防ぐために〈閉鎖地域令〉によって南部地方を北部から切り離し,以後独立まで南部住民はアラブ的要素をいっさい禁止され,キリスト教宣教師の保護に頼ることを余儀なくされた。また,24年以降,イギリス綿業の原料供給のために,ゲジーラ地域の綿作開発に取り組み,ナイル川中流域の綿作モノカルチャーに依存するスーダン経済の構造をつくりあげた。こうした開発は,一方で農村の部族長やマフディー派指導者の地主化,商人・官僚・知識人層の富裕化をもたらし,こうした土着勢力の指導する民族運動によって,56年1月スーダンの独立が達せられる。しかし,南部問題に典型的にみられるように,植民地支配のつくりだした分断の跡は大きく,独立後,こうした問題が国内統一の障壁として残されることとなった。独立後政権を握ったハトミーヤKhatmīya(親エジプト的有力スーフィー教団。ミールガニーMīrghanī派ともよばれる)およびマフディー派の流れをくむアンサールの二大土着勢力による政府は,こうした問題に取り組む能力を欠いていた。このことはまた軍部勢力の台頭,クーデタを招いた。

 69年5月革命によって発足したヌメイリーNumeyrī(軍部出身)政権は85年のクーデタまで長期政権を続けたが,その秘密は諸政治勢力と広範に結びついているところにあった。72年3月ヌメイリーは,南部の反政府勢力アニャニャAnya Nyaとの間にアジス・アベバ協定を結んで,独立以来続いてきた内戦に終止符を打ち,南部自治政府を認めた。また74年には,イスラム諸勢力の結集した反政府国民戦線とも和解,ムスリム同胞団勢力をヌメイリー政府に入閣させた。83年9月,同胞団の主導でイスラム法(シャリーア)が導入された。また1982年10月にはスーダン・エジプト統合憲章に調印,〈ナイル河谷〉の統一をスローガンにエジプトとの政治的・経済的な共同歩調を強めた。ヌメイリー政権は外資導入による経済開発によって南北統一を推進し,併せて国際資本諸グループとの関係の緊密化も目ざした。だがヌメイリー政権の経済開発政策は,スーダン経済を危機に追い込み国民生活を破綻させた。このため70年代末から反ヌメイリーの運動は日増しに強まった。
執筆者: 85年4月,ダハブ国防相が率いる軍事クーデタによりヌメイリー政権は倒れ,ダハブ暫定軍事政権が成立。国名をスーダン共和国に復し,86年4月の制憲議会選挙で民政に移管,翌5月第一党になったウンマ党党首マフディーṢādiq al-Mahdī(1936- )は第二党の民主統一党(DUP)と連立内閣を組閣した。89年6月,軍部のバシル准将Omar Hassan Ahmad al-Bashir(1944- )はクーデタを起こし,自ら国家元首,救国革命評議会議長,首相等の要職に就いた。

 この間,南部での自治は破綻して,83年からふたたび内戦状態となった。83年以来の南部反政府勢力の中心組織スーダン人民解放軍(SPLA。指導者ガランJohn Garang)は,当時のエチオピアの社会主義政権の支援をうけ,南部の大部分を支配下に入れたが,長引く内戦のなかで内部分裂した。

 バシルはイスラムの政治への導入を掲げる国民イスラム戦線(NIF。スーダンにおけるムスリム同胞団勢力)の支持のもと強権政治を続けた。90年代には,北部においても反政府活動が問題になっている。また内戦による混乱と経済停滞は国民生活を圧迫し,社会不安も生じた。テロ支援,国内の人権抑圧などを理由に,95年末に国連安保理でスーダン非難決議,96年1月には制裁決議が採択され,国際的孤立と経済の悪化が進んだ。
執筆者:

経済の中心は農業で,国内総生産の約4割,輸出額の9割(綿,ラッカセイ,ゴマ,アラビアゴムの順),就業人口の7割を占める。農業で特に重要なのは綿花生産で,通常輸出の5~7割を稼ぐ国富の源泉である。次いで重要なのは牧畜業で国内総生産の1割を占め,工業の比重は1割に満たない。主要食糧のうち,トウモロコシ,ミレット(アワ類),食用油,肉,塩は国内自給されている。

 スーダンは農業国ながら約8400万haある可耕地のうち実際耕地として利用されているのは8%にすぎず,灌漑面積も1980年代にやっと200万haに近づいた程度である。ヌメイリー政権のもと1976年着手されたスーダン開発十ヵ年計画は,ほとんど未開発の南部の干拓や,青ナイル川流域の灌漑事業によって,農・牧畜業の拡大と農畜産加工工業の発展を内容とした。この計画はまた,1970年代初めから注目された石油資源についても,80年代半ばの実用化に向けその本格的開発に取り組んだ。この計画には,開発によって南・北スーダンの統一を強化し,一方で,アラブ産油国の食糧需要に応える(いわゆるスーダンの〈アラブの穀倉化〉)といった政治的ねらいがこめられていた。これら開発計画の資金や計画の具体的取組みについてスーダンは,産油国・欧米諸国の資本・技術に依拠し,1970年代後半から目ざましい経済開発時代を迎えた。

 だが,経済開発にもかかわらず,スーダンの国民総生産は年間1人当り300米ドル(1992)と依然最貧国水準どまりで,経済成長は微弱であった。加えて開発は,経済危機をかえって深刻化させる結果となった。大規模な外資依存による十ヵ年計画は,当時の石油ショックが誘発した債権国の高金利政策や,輸入する開発資材・石油のコストインフレに遭遇し,計画半ばの1982年9月にはスーダンの対外債務は78億ドルに達した。この膨大な債務返済の資金繰りに困難をきたすスーダンは,一段と債務を累積させ経済政策を国際債権団体に管理されるという悪循環に陥った。また,小麦,ラッカセイ,ゴマなどの食糧農産物重視の農政で,綿作が大幅減反され,綿花一辺倒の経済が是正された反面,農業自体は投機的性格を強め,都市化の進行とともに国内の食糧不足問題が深刻化した。1979年8月勃発した民衆暴動の底流には,開発のもたらした基本的生活物資の不足や物価高に国民が翻弄される現実があった。国民生活の窮乏化は,常時就業人口の1/7に近い100万人に海外出稼ぎを促し,国内経済のほうは逆に労働者(特に頭脳労働者)不足に見舞われ始めた。

 石油を含むスーダンの経済資源は資源危機の進行する現在,国際金融の魅力的投資対象である。スーダンはまた,アフリカ大陸の戦略的重要拠点を占めるうえ,周辺紛争諸国からの難民を受け入れ(1983年に約64万人),国際政治のなかで独特の役割を果たした。対外債務の危機的状態にもかかわらず,スーダンはこの経済的・政治的重要性をてこに債権国の支援を得て,当面,国内開発を推進していくものと思われる。しかし83年に再発した内戦は国民生活および経済を荒廃させ,また南部には北部を基盤とする政府の統制は及ばず,国家運営そのものが危機的状況にある。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「スーダン」の意味・わかりやすい解説

スーダン

◎正式名称−スーダン共和国al-Jumhuriya al-Sudaniya/Republic of the Sudan。◎面積−188万1000km2。◎人口−3915万人(2008)。◎首都−ハルツームKhartum(141万人,2008)。◎住民−北部ではアラブ,南部ではナイル系,スーダン系の多数の民族。◎宗教−北部ではイスラム(スンナ派),南部ではキリスト教が優勢。ほかに土着宗教。◎言語−アラビア語(公用語),ディンカ語,ヌエル語など。◎通貨−スーダン・ポンドSudanese Pound。◎元首−大統領,オマル・ハサン・アフマド・アル・バシールOmer Hassan Ahmed AL-BASHIR(1944年生れ,1989年6月クーデタで政権獲得,1993年10月就任,2015年4月6選,任期5年)。◎憲法−2005年7月暫定憲法施行。◎国会−国民議会(定員450,任期6年)。◎GDP−584億ドル(2008)。◎1人当りGNP−810ドル(2006)。◎農林・漁業就業者比率−58.3%(2003)。◎平均寿命−男60.3歳,女63.9歳(2013)。◎乳児死亡率−66‰(2010)。◎識字率−69%(2008)。    *    *アフリカ北東部の共和国。ナイル川上流部,青ナイル,白ナイルの流域にあり,全般に標高200〜500mの高原で中央部にコルドファン高原,西部には標高3071mに達するマッラ山脈がある。北緯4°〜22°にあり,北部は乾燥地帯,南部は高温多湿の熱帯雨林。住民の大部分が農業,牧畜に従事し,綿花,アラビアゴムが重要輸出品。他に穀類,デーツ,ラッカセイ,コーヒー,米などの産がある。牧畜は牛,羊,ヤギ。工業は小規模な食品工業。金,銅,マンガンなど鉱産資源もあるが未開発。灌漑(かんがい)施設の拡充など経済開発計画が進められている。 古代からエジプト,エチオピアと密接な関係にあり,7世紀以後アラブ人が移住,イスラム化が進んだ。1881年からのマフディー派の民族独立運動を制して,1899年英国,エジプト両国の共同統治領とされ,アングロ・エジプト・スーダンとなった。1956年共和国として独立したが,その前後から,植民地時代に形づくられた〈アラブ・イスラムの北部〉と〈アフリカ系・非イスラムの南部〉の対立のため,内戦が続いていた。1969年のクーデタで政権についたヌメイリ政権下では和平が成ったが,イスラム法の施行や南部政策の失敗のため,第2次内戦となった。さらに1983年南部でスーダン人民解放軍/スーダン人民解放運動(SPLA/SPLM)が結成され,エチオピアの支援を受けて戦闘は激化した。1989年には〈民族イスラム戦線〉がクーデタで政権について強権体制を進めたため,和平への展望は暗いが1998年7月には3ヵ月の停戦合意がなされた。内戦の死者は200万人にのぼると見られる。バシール大統領はスーダン人民解放軍との和平交渉を進め,2005年1月双方は包括和平合意に調印し,この結果,南に南部スーダン自治政府が樹立された。その後,2011年1月南スーダンで独立の是非を問う国民投票が行われ,スーダンからの分離独立派が勝利し,同年7月9日に独立,ただちに,国連に加盟を認められた(2011年7月14日)。しかし国境地帯の油田の領有権をめぐって紛争が続き,2012年4月,スーダンのバシール大統領は〈SPLMから南スーダン国民を解放する〉と宣言,南スーダンの石油輸出を武力で阻止するとして,南スーダンへの空爆を始めた。国連はアフリカ連合の支援の下で即時停戦と両国の交渉を呼びかけ安全保障理事会で決議し,5月スーダンは決議を受け入れ,係争地からの双方の撤兵と和平協議が再開され,両国政府は南北交渉及び首脳会談を経て,9月2国間の未解決課題に関する包括的な9つの合意文書に署名した。しかし,最大の原資である油田の大半を南スーダン独立で失うスーダンの経済的打撃は大きく,さらに戦費もかさみ,国内反政府勢力の動きも活発で両国間のみならず国内的にも危機的な状況が続いた。2013年12月南スーダンでは前副大統領の率いる軍の一部がクーデタを起こし内戦となった。2013年10月,バシール大統領は2015年の総選挙・大統領選挙の実施を宣言(NCP(与党国民会議党)は2014年10月にバシールを次期大統領候補に選出)。また,2014年1月に国内和平,政治的自由,貧困対策,アイデンティティを議題とする〈国民対話メカニズム〉を開始し,野党(国民ウンマ党など)や反政府勢力との政治的対立の解消を目指している。
→関連項目ウサマ・ビン・ラディン

スーダン(地域)【スーダン】

アフリカ中部,サハラの南縁(サヘル)に東西に広がる帯状の地域。〈スーダン〉の名は元来,イスラム教徒が黒人の住む土地の総称として用いたものであるが,現在はスーダン共和国との名称の混乱を避けるためあまり用いられない。多くの黒人帝国が興亡したが,とくに西スーダンは古くからサハラ交易を通じて地中海岸地方と交流し,マリ帝国ソンガイ帝国などが早くからイスラムを受け入れた。中央・東スーダンでも王国や都市を中心にイスラム化が進んだ。
→関連項目アフリカチャド[湖]トンブクトゥニジェール[川]バルトマフディー派レオ・アフリカヌス

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スーダン」の意味・わかりやすい解説

スーダン
The Sudan

正式名称 スーダン共和国 Jumhūriyyat al-Sūdān。
面積 184万687km2
人口 4397万6000(2021推計)。
首都 ハルツーム

アフリカ北東部に位置する国。北はエジプト,東はエチオピア,エリトリア,南は南スーダン,西は中央アフリカ共和国,チャド,北西はリビアに接し,北東は紅海に臨む。ナイル川上流のブルーナイル川ホワイトナイル川の流域を占め,総じて標高 200~500mの高原上に位置する。最高点は西部のマッラ山(3088m)。北部サハラ砂漠からサバナ地帯を経て,南方の高温多湿の熱帯雨林地帯にいたる。年間降水量は北部で 100~200mm,南部で 500~750mm。ハルツームの気温は 1月 23℃,7月 32℃。前8世紀頃から黒人のクシュ王国が栄えたが,5世紀から 13世紀にかけてアラブ人が流入し,イスラム化が進行した。1820年エジプトに占領され,1899年イギリス=エジプトの共同統治領アングロ・エジプト・スーダンとなった。1956年にスーダン共和国として独立。住民はセム系のアラブ人,ハム系のヌビア人ベジャ族などがいる。イスラム教が国教で,アラビア語と英語が公用語であるが,固有の宗教,言語をもつ部族も多い。内戦終結後,南部で油田の開発が進み,石油が主要輸出品目。ほかに家畜,ワタ,アラビアゴム,ゴマなどを輸出する。1958年以来,軍部クーデターによる政変が相次ぎ,1969~85年民主共和国。また南部黒人による「北部の支配からの解放」を目指す武装闘争が続き,1972年に一応の終息をみたが,1980年代半ばに再燃。さらに 1980年代後半から 1990年代にかけて干魃などによる飢饉に直面し,南部の北部不信は強く,農業生産の回復と国民的統一が最大の政治的課題であった。2005年1月に結ばれた和平協定に基づき南部は自治を獲得,2011年1月,北部からの完全独立の是非を問う住民投票を実施し,圧倒的多数の賛成を得た。2011年7月9日,南部は南スーダンとして独立を宣言した。(→スーダン内戦

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旺文社世界史事典 三訂版 「スーダン」の解説

スーダン
Sudan

アフリカ北東部,ナイル川の上流にある共和国。首都ハルツーム
スーダンとは「黒人の土地」の意。1821年にエジプトのムハンマド=アリーに征服され,70年代からイギリスの影響下にはいった。1881年からイスラーム教徒による反英抵抗運動のマフディーの反乱がおきたが,ファショダ事件ののち,99年イギリス・エジプトの共同統治領となった。1952年のエジプト革命後共同統治が終了し,54年スーダン自治政府が成立,56年独立してスーダン共和国となった。1958年に軍事政権が発足したが,64年民政に復帰。1969年のクーデタで革命評議会が全権を握り,71年に革命評議会は解散,ヌメイリ議長が大統領に就任した。1983年厳格なイスラーム法を全面導入するが,85年軍事クーデタが起こり,ヌメイリ大統領が追放される。翌年の民政復帰後も,北部のアラブ人と南部の黒人の対立や1984年以来の干ばつなどで経済が悪化。その後も政治的混乱が続き,1989年のクーデタ後に成立したバシル政権はイスラーム復古を基本政策とし,91年には南部3州を除く全土にイスラーム法にもとづく新刑法を施行。こうした動きに対して南部黒人勢力は強く反発し,スーダン人民解放軍(SPLA)のゲリラ活動が展開されている。1996年の大統領選挙でバシルが圧勝するが,野党はボイコットし,内戦も拡大。1999年時点でも内戦は終息していない。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「スーダン」の解説

スーダン
al-Sūdān

ナイル川中・上流に位置する国。正式国名はスーダン共和国。住民はアラブ系と非アラブ系がほほ半々であるが,ムスリムは72%と多数派。ただし中世のアラビア語史料で「スーダンの国々」とは,サハラ砂漠の南縁地域全体をさした。古代エジプト時代からヌビア人の王国があったが,7世紀にアラブの影響下に入り,マムルーク朝に征服されてからイスラーム化とアラブ化が進行した。19世紀のエジプトによる征服,それに対するマフディーの乱,イギリスの植民地支配(1899~1955年)をへて1956年独立した。独立後,軍事クーデタが繰り返され,89年バシール中将が国民イスラーム戦線(NIS)と手を組んでイスラーム原理主義政権を樹立させた。以後,これに反発する非イスラーム勢力のスーダン人民解放軍(SPLA)との間で対立が続いている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のスーダンの言及

【ナイル[川]】より

…アフリカ大陸北東部,ウガンダとエチオピアの湖や山地から発して,スーダン,エジプトを貫流して地中海に注ぐ全長約6700kmの大河。アラビア語ではニールal‐Nīlと呼ばれる。…

※「スーダン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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