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山岳で修行することによって超自然的な力を体得し,その力を用いて呪術宗教的な活動を行うことを旨とする修験道の宗教的指導者。山に伏して修行することから山伏と呼ばれた。山臥とも書く。また験を修めた者という意味で修験者,一宗一派にかたよらず諸山を歴訪するところから客僧ともいわれる。
日本では古来山岳は霊地としてあがめられていたが,奈良時代以降仏教や道教の影響で山岳で修行し,験力をえて呪術を行う者があらわれてきた。これが山伏の淵源である。その後平安時代になると最澄,空海の山岳仏教の提唱もあって,僧侶たちも山で修行するようになっていった。平安時代末期ごろ,これらの山岳修行者たちは熊野や吉野を拠点としてしだいに勢力を持ち,修験道と呼ばれる宗教を作りあげた。
鎌倉・室町時代にはこの修験道の山伏たちは,吉野,熊野,白山,羽黒,彦山(英彦山)などの諸山に依拠し,法衣,教義,儀礼をととのえていった。歌舞伎の《勧進帳》などで広く知られる鈴懸(すずかけ)を着,結袈裟(ゆいげさ)を掛け,頭に斑蓋や兜巾(ときん)(頭巾),腰に螺(かい)の緒と引敷,足に脚絆を着けて八つ目のわらじをはき,笈(おい)と肩箱を背負い,腕にいらたか念珠をわがね,手に金剛杖と錫杖(しやくじよう)を持って法螺(ほら)貝を吹くという山伏の服装は,このころからはじまった。またこうした法衣は教義の上では,鈴懸や結袈裟は金剛界と胎蔵界,兜巾(頭巾)は大日如来,いらたか念珠・法螺貝・錫杖・引敷・脚絆は修験者の成仏過程,斑蓋・笈・肩箱・螺の緒は修験者の仏としての再生というように,山伏が大日如来や金胎の曼荼羅(両界曼荼羅)と同じ性質をもち,成仏しうることを示すと説明されている。
鎌倉・室町時代の山伏は吉野・熊野をはじめ全国各地の諸山を跋渉(ばつしよう)して修行し,加持祈禱や調伏などの活動を行った。また戦乱などの際は,従軍祈禱師や間諜として活躍した。しかし江戸時代以降は,山を下って町や村に定着して加持祈禱などの活動を行った。現在は本山修験宗(総本山聖護院),金峯山修験本宗(総本山金峯山寺),真言宗醍醐派(総本山醍醐三宝院)などに属して活動している。
→修験道 →先達
執筆者:宮家 準
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
修験道(しゅげんどう)の宗教的指導者。山岳で修行することによって超自然的な力を体得し、その力を用いて呪術(じゅじゅつ)宗教的な活動を行う宗教者で、山に伏して修行することから山伏といわれた。山臥とも書く。また験を修めた者という意味で修験者、一宗一派によらず諸山を歴訪することから客僧ともいわれる。教義的には、山伏の山の字は報身・法身(ほっしん)・応身の三身即一、伏は人と犬の2字を組み合わせるゆえ、無明(むみょう)(犬)法性(ほっしょう)(人)不二(ふに)を示すとされている。この2字によって山伏が大日如来(だいにちにょらい)と同一の性格をもち、成仏しうる存在であることを説明しているのである。
山伏は鈴懸(すずかけ)を着、結袈裟(ゆいげさ)をかけ、頭に斑蓋(はんがい)と頭巾(ときん)、腰に貝の緒(お)と引敷(ひっしき)(坐具(ざぐ))、足に脚絆(きゃはん)を着けて八つ目の草鞋(わらじ)を履き、笈(おい)と肩箱(かたばこ)を背負い、腕に最多角(いらたか)の数珠(じゅず)を巻き、手に金剛杖(こんごうづえ)か錫杖(しゃくじょう)を持って法螺(ほら)を吹くという独自の服装をしている。教義上では、鈴懸や結袈裟は金剛界と胎蔵界、頭巾は大日如来、数珠・法螺・錫杖・引敷・脚絆は修験者の成仏過程、斑蓋・笈・肩箱・貝の緒は修験者の仏としての再生というように、この衣装の着用によって、山伏が大日如来や金胎の曼荼羅(まんだら)と同じものとなり成仏しうることを示すと説明されている。山伏がもっとも活躍したのは中世期で、吉野(よしの)(奈良)、熊野(くまの)(和歌山)、白山(はくさん)(石川・岐阜)、羽黒(はぐろ)山(山形)、英彦(ひこ)山(福岡)などを跋渉(ばっしょう)して修行、加持祈祷(かじきとう)や調伏(ちょうぶく)などの活動を行い、戦乱などの際は従軍祈祷師や間諜(かんちょう)として活躍した。しかし近世以降は遊行(ゆぎょう)を禁止され、町や村に定着して巷(ちまた)の祈祷師的存在になっていった。
[宮家 準]
『和歌森太郎著『修験道史研究』(1972・平凡社)』▽『宮家準著『山伏――その行動と組織』(1973・評論社)』▽『五来重著『修験道入門』(1980・角川書店)』
修験道における指導的宗教者。山野に伏して修行し験力(げんりき)を獲得したことから山臥とも書き,験を修めた者の意味で修験者ともいう。頭巾(ときん)を被り,柿色の鈴懸(すずかけ)と結袈裟(ゆいげさ)をまとい,笈(おい)を背負って法螺(ほら)を吹くなど,独特のいでたちで活動した。紀州の熊野から吉野金峰山に至る大峰山を中心道場とし,役小角(えんのおづの)を祖師とし,天台系の本山派と真言系の当山派を形成した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…中世には斎市開設に市神を勧請したという。市神祭は正月の初市に行われるのが通例で,山伏がこれに関与し祭文を読む例が文献に見えており,山伏と市との関係を考えるうえで示唆に富む。市神の神体や信仰の消滅は急速だが,今日,東北,北陸,信州,九州南部に比較的よく残存している。…
…高野山(和歌山),立石寺(りつしやくじ)(山形),恐山(青森)などはこの代表的な例である。 平安時代中期以降になると,山岳修行をして験力を獲得し,呪術宗教的な活動を行う者が修験者あるいは山伏と呼ばれるようになった。とくに熊野や吉野の金峰山(きんぷせん)には修験者が数多くあつまった。…
…そして山岳修行の結果,加持祈禱においていちじるしい効験をあらわした密教僧は,修験者と呼ばれるようになった。修験者は山に伏して修行したことから山伏とも呼ばれた。修験者は中央では吉野の金峰山(きんぷせん)や熊野を拠点として大峰山に入って,山上ヶ岳,小笹,笙(しよう)の岩屋,深仙,前鬼などの霊地で修行した。…
…原始的神霊観に支えられているので,顕著な善悪二面性をもつが,天狗を信仰対象や芸術,芸能,文芸にとりいれたのは,山岳宗教の修験道であった。したがって一般的認識では天狗即山伏というような印象をもたれている。この宗教の世界では天狗の原質は山神山霊と怨霊である。…
… これらの漂泊・遍歴する人々,旅する人々は,定住状態にある人々とは異なった衣装を身につけた。鹿の皮衣をまとい,鹿杖(かせづえ)をつく浮浪人や芸能民,聖,蓑笠をつけ,あるいは柿色の帷を着る山伏や非人,覆面をする非人や商人,さらに縄文時代以来の衣といわれる編衣(あみぎぬ)を身につけた遊行僧の姿は,みな漂泊民の特徴的な衣装であった。また日本においては女性の商人・芸能民・旅人も多かったが,この場合も,壺装束という深い市女笠(いちめがさ)をかぶり,襷(たすき)をかけた巫女の服装に共通した姿をしたり,桂女(かつらめ)のような特有の被り物(かぶりもの)をするのがふつうであった。…
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[熊野,五条天神,鞍馬寺]
《義経記》以外でも《武蔵坊弁慶絵巻》《弁慶物語》,御伽草子の《自剃弁慶》《橋弁慶》があって,これらでも弁慶の父を熊野別当,その生地を熊野としている。《武蔵坊弁慶由来》(静嘉堂文庫)所引の《弁慶願書》(以下《願書》という)では,生地を出雲とし,父を山伏姿の天狗,母を紀伊の田那部の誕象の娘としている。誕象は源平合戦のころ田辺(たなべ)にいた熊野別当湛増のことと考えられるから,出雲系の弁慶誕生譚でも弁慶の出自を熊野と結びつけていることになる。…
…この柳田分類に対して,折口信夫は,柳田のいう民謡を(1)童謡,(2)季節謡,(3)労働謡に分類する以外に,(4)芸謡の存在を挙げている。芸謡は芸人歌のことで,日本では各時代を通じて祝(ほかい)びと,聖(ひじり),山伏,座頭(ざとう),瞽女(ごぜ),遊女などのように,定まった舞台をもたず,漂泊の生活の中で民衆と接触しつつ技芸を各地に散布した人々があり,この種の遊芸者の活躍で華やかな歌が各地に咲き,また土地の素朴な労働の歌が洗練された三味線歌に変化することもあった。瞽女歌から出た《八木節》,船歌から座敷歌化した《木更津甚句》などがその例である。…
※「山伏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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