デジタル大辞泉 「講」の意味・読み・例文・類語
こう【講】[漢字項目]
[学習漢字]5年
(歴史的仮名遣いはカウ)
1 説き明かす。「講演・講義・講釈・講読・講評/進講・輪講」
2 講義。「休講・受講」
3 習う。学ぶ。「講習・講武」
4 (「
(歴史的仮名遣いはコウ)
1 仏経を講じる法会。「
2 宗教の信者の集まり。「伊勢講」
3 金融を目的とした団体。「無尽講」
[名のり]つぐ・のり・みち
歴史的かなづかいについては、「色葉字類抄」の仏語などに「カウ」とあるところから、漢音、呉音ともに「カウ」であるともされるが、本書では、漢音「カウ」、呉音「コウ」とする従来の説に従った。
地域社会をおもな母体として、信仰、経済、職業上の目的を達成するために結ばれた集団。構成員を講中とか講員という。本来は仏典を講説するための僧尼の会合やその団体を意味していた。現在でもそうした仏教関係の講は行われているが、講の内容は非常に多様化している。それらを大別すると、(1)信仰的講、(2)経済的講、(3)職業的講になる。
[佐々木勝]
同じ信仰をもつ者が結成している講で、寺社信仰に基づいた講と、伝統的な民俗信仰を基盤とした講とに分けることができる。前者は宗派や寺院、神社側が自らの教団を拡張するために組織した場合に多くみられ、信者の獲得や結束をその目的としている。浄土真宗の報恩講や日蓮(にちれん)宗の法華(ほっけ)講などがそれにあたる。仏教諸宗のなかでもとくに中世以後すさまじい勢いで一般民衆に浸透していった、いわゆる庶民仏教に特徴的にみられた組織づくりの手段であった。名刹(めいさつ)を対象とする永平寺講、善光寺講、成田(なりた)講などのようなものもある。また、熊野三山では平安時代の末期には御師(おし)の活躍があった。参詣(さんけい)の際に特定の僧の宿坊に泊まって祈祷(きとう)を依頼するほどのものだが、その御祈祷師を略して御師とよぶようになり、各地の信者と師檀関係をもつようになったのである。のちに伊勢(いせ)、賀茂(かも)、八坂(やさか)、北野社などでも御師制度が取り入れられた。彼らの主任務は宿泊の手配や御札の頒布だが、全国各地に代参講を結成させる原動力となった点は見逃せない。伊勢講はそのもっとも典型的なものといえる。そのほか、秋葉講、稲荷(いなり)講、金毘羅(こんぴら)講、津島講、榛名(はるな)講、富士講、古峯(ふるみね)講、三峯(みつみね)講など、それぞれの御利益(ごりやく)と結び付いて数えきれないほど存在している。そうしたなかには、大峰講や出羽(でわ)三山講、石鎚(いしづち)講のように山岳信仰から発展した修験道(しゅげんどう)の色彩の濃厚なものや、大社(たいしゃ)講や扶桑(ふそう)講のように教派神道系のものもある。
以上のような寺社信仰に基づいた講を細分化すれば、仏教系統と神道系統の講になるが、いずれも信仰の対象は居住する村落外にあって代参講の方式をとっている。代参講は、信仰の対象である寺社に参詣するために講中から代参人をたてるものである。くじや輪番によって決まった代参人は、積み立てた講金を旅費や参拝料にあてて、講中の御札(おふだ)を受けてくるのである。したがって、こうした講は本質的には崇敬者の任意団体ということになるのだが、中世以来の伝統をもつ伊勢講や、地域社会の共通の利害と結び付く講などでは地域単位で参加している場合が多い。
これに対して、民俗信仰を基盤にした講は村落内において営まれるのが普通である。山の神講や田の神講などは、それを保持する地域社会の諸条件に対応してさまざまな形態を生み出してはいるものの、村落などの一定地域全体が一つの単位となって形成されている場合が多いのである。そうした所では、山の神講や田の神講の講日が同時に村寄合(よりあい)の日ともなっていることが多い。山の神講はたいてい春秋二季に行われる。あらかじめ決められている当番の家に集まって、山の神の祭場に参拝したり、掛軸を拝したりしてから共同飲食をする。一方、田の神講は田植時や収穫時に同様の集まりをもつ。田植前に行う所では御籠(おこも)りをすることもある。いずれも作業の安全や五穀豊穣(ほうじょう)を願うのが主旨である。同じようなものに、社日(しゃにち)講、日待(ひまち)講などがある。また、特定の御利益を目的としたものに、子安(こやす)講や観音講や地蔵講、さらには念仏講などがある。これらはその目的が限られているので、講員もおのずと限定されることになり、村落内でも婦人層で構成されている。しかも、子安講は若年層、念仏講は老年層というように年齢によって支持される講が異なることもある。子供によって営まれる天神講などは顕著である。正月の25日に年長の子供の家を宿にして集まり、習字などをしたあとで五目飯をこしらえて食べ合う。天神様が学問の神様ということから子供と結び付いたものだろうが、房総あたりでは男天神・女天神として性別によっているものまである。
民俗信仰に基づく講をあげてきたのだが、これらを特定の神霊を意識した講だとすれば、庚申(こうしん)講や十九夜(じゅうくや)講・二十三夜講は特定の日時を意識した講といえる。庚申講は干支(かんし)の庚申(かのえさる)の日に身を清めて集まり、掛軸を拝して般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えてから、世間話などをして夜を徹する講である。各地に「話は庚申の晩に」という語が残っているほどである。十九夜講も二十三夜講も月待(つきまち)の一種であるが、現在は女性を中心とした講になっている。庚申講にしても月待の講にしても、もとは御籠りを目的とした講というが、この種のものはしだいに家ごとの祭りになりつつある。旧暦11月23日の大師(だいし)講は、講とよばれてはいるものの家ごとの祭りである。元来は神の御子(みこ)を迎え祀(まつ)るという意味合いのものだったようだが、集団で祀るという事例はいまのところ皆無である。
[佐々木勝]
経済上の相互扶助を目的としたもので、物品や金銭そして労力の融通の必要によって結成された講である。これももとは寺院内部の金融講から発展したといわれており、信仰的講の副次的なものだったようである。現状から頼母子(たのもし)講や無尽(むじん)講など金品を中心とした金融講と、労働力を中心とする労働講に分けられる。頼母子講とか無尽講などの金融講は通常、親とよばれる発起人を中心に形成される。一定の口数を決めてそれに応じて掛け金を集め、くじや入れ札による順序に従って金品を受け取るのである。講中に行き渡れば満了となって解散する。金銭の場合には金(かね)頼母子といい、物品の場合には対象となるものに応じて、萱(かや)頼母子とか畳無尽、米講、籾(もみ)頼母子、布団(ふとん)頼母子、牛頼母子、箪笥(たんす)頼母子などとよばれた。労働講にはモヤイ講、ユイ講などがある。モヤイには共同とか共有とかの意味合いが強く、共同作業の必要に応じて親しい者同士が組むといったものである。労力の貸し借りを目的とした集まりではない。これに対して、ユイは労働力の交換が原則である。だから対等な交換でない場合には物品などで補うことになる。屋根替えや田植、収穫などどうしても共同の力に頼らなくてはならない場合に広く行われる。隣近所や組など地縁的な家同士の結合である。
[佐々木勝]
職業集団によって組織される講で同業組合的な要素が強い。山の神講は、農民によって営まれるものと、山仕事に携わる人々によって営まれるものとの2種がある。信仰的講で取り上げたのは前者である。後者の山の神講は、炭焼き、猟師、木樵(きこり)などの山稼ぎをする者だけに限られたものである。講日はさまざまだが、この日はかならず仕事を休むという共通点がある。山の神の像を掛けて、尾頭(おかしら)付きの魚や赤飯などを供えて祀る。太子講は大工、左官、屋根屋、鍛冶(かじ)屋、桶(おけ)屋などの職人によって営まれる、1月と8月の日待講である。そのほか、馬子(まご)で組織される(馬頭)観音(かんのん)講、牛方による大日(だいにち)講、北関東の狩猟者による諏訪(すわ)講、商人による夷(えびす)講などがよく知られる。
[佐々木勝]
『柳田国男編『山村生活の研究』(1938/復刻版1975・国書刊行会)』▽『桜井徳太郎著『講集団成立過程の研究』(1962・吉川弘文館)』
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
宗教上・経済上その他の目的のもとに集まった人々が結んだ社会集団。この講集団は機能の側面から宗教的講,経済的講,社会的講の3種に大別されるが,宗教と社会,宗教と経済,社会と経済とが併合しているもの,あるいは3機能を総合するものなどその形は多様で複雑である。
宗教的講は信仰上の目的を達成するために組織され,その性格により,原始的民族宗教に立脚した山の神講,地神講,水神講,田の神講,海神講,船霊講,日待講,月待講など自然信仰,精霊信仰を強調するもの,あるいは地域共同体鎮護の鎮守神や氏神をまつる神社の氏子や崇敬集団が結成する氏神講,鎮守講があり,地域の住民に大きな影響力を及ぼしている。これに対し,マチとかムラを超えて広い範囲にわたり信仰団体の講がつくられる場合がある。教派神道十三派の教会である御嶽講,出雲大社講,扶桑講,禊講をはじめ新宗教の教団で講組織をとるものが少なくない。あるいは仏教諸宗派が組織する観音講,薬師講,弥勒講,地蔵講などのほか,浄土真宗の報恩講,日蓮宗の題目講や身延講,浄土宗の御十夜講などは集団がそのまま教団組織化した仏教講の典型である。
山岳の多い日本では,はやくから霊山信仰が発達し入山回峯を目的とする修験者の活躍がみられた。この山伏は山麓周辺の各地から登拝の住民を募り,それによって宗教心を達成する霊山信仰を熟成させた。かくして日本列島全域に霊山登拝の風がたかまり,参拝講が結成された。東北地方の岩木山講,恐山講,出羽三山講,関東の上毛三山,武州御岳(みたけ),筑波山,三峯,大山の諸講,中部地方では,富士山の浅間(せんげん)講,飯綱(いづな),戸隠,木曾御嶽の諸講,近畿地方では大峰山の山上講,熊野三山講,中国・四国・九州では大山(だいせん),石鎚,金刀比羅,英彦(ひこ)山,阿蘇,霧島の諸講などが有名である。また著名な神社仏閣へ参る伊勢講,善光寺講,鹿島講,香取講,弥彦講,成田講,氷川(ひかわ)講,熊野講,熱田講,天神講,厳島講,住吉講,太宰府講,宇佐講などの参詣講が各地に結成され,住民の信仰心を満たしている。その方式には講の仲間全員が参加する総参り・総参(そうざん)講と,数名を代表者にえらんで行う代参講形式がみられるが,遠隔地では多く後者の形をとる。また職業の繁盛を期するため守護神をまつる同業者仲間の結成する講も少なくない。鍛冶仲間や牧牛飼育者の荒神講,牧馬や牽き馬業者の馬頭観音講,大工など建築業者の太子講,養蚕のオシラ講,漁師仲間の夷(えびす)講,薬種業の神農講などが著名である。
社会的講は地域の共同生活が反映し,相互扶助による契約講,労働力交換のゆい,モヤイ講,年齢別の子供講,若者講,老年講,葬式組の無常講,性別によるカカ(嬶)講,娘講,尼講など,また金品の融通をはかる経済的講は,頼母子(たのもし),無尽(むじん),模合(もやい)などと呼ばれ,融通する目的の品目により,米頼母子,舟頼母子,馬無尽などと呼ばれて,それらが生活の大きな支えとなっていた。
→頼母子 →無尽
執筆者:桜井 徳太郎
中世社会の講には大別して宗教的講と経済的講とがある。寺院における講経,法会の講は講会(こうえ)といわれるが,法華経を講ずる法華八講,最勝王経を講ずる最勝講などがあり,のちには念仏講,往生講,舎利(しやり)講などがある。鎌倉時代以後の新仏教宗派のうち,浄土真宗の報恩講,日蓮宗の法華講などは,宗派の教線拡大と教団の維持を意図して組織されたものである。民間での宗教的講の初見は,平家追討のため讃岐に進軍した源義経の軍勢が,金仙寺で開かれている村人の観音講の座に遭遇したことである。1424年(応永31),近江国甲賀郡三雲郷の野村殿講という名称の熊野講は,地侍,中小農民,女性,僧侶など16人で構成され,野村殿という地侍を講親として郷村の諸階層が講に結集している。講は構成員の平等を志向するが,講を生み出す地域社会の条件が反映され,野村殿講のような地侍主導の講が成立するのである。
経済的講は本来,宗教的講の運営のために経済的な基盤が必要であり,講員が拠出した米銭や田畑林野などを共有財産とし,これを講員の相互扶助に使用したことから発する。宗教的機能と経済的機能をあわせもつ講として伊勢講があげられる。伊勢講は伊勢参宮のための講で,掛銭をして当番の家で飲食し,講員が輪番で一生に一度の参宮を期待した。伊勢講は伊勢信仰の中に参宮の娯楽的機能をもっている。宗教的講から経済的講が独立する形態は頼母子(憑支)講,無尽講である。1275年(建治1),高野山領紀伊国猿川,神野,真国の3ヵ荘の荘官が,〈憑支と号して百姓の銭を乞取る事〉をしないことを高野山に誓っているのは,荘官が憑支講を介して百姓の銭を搾取していることを裏書きしている。また1358年(正平13・延文3),近江国蒲生郡島村の憑子衆中9人が,共有財産の田地,山林を奥島社大座衆中へ売却しているのは,講中が財政的基盤の上に結成されていることを示している。1416年(応永23),同国同郡得珍保(とくちんのほ)蛇溝郷の憑支講は,讃岐公という聖(ひじり)僧が講親となっている。得珍保は比叡山延暦寺領荘園であるから,讃岐公は延暦寺から出た聖僧と考えられ,郷村内の宗教活動を主導するとともに,村人の相互扶助活動の一環である憑支講を主催していることは注目される。また得珍保今堀郷では鎮守の日吉十禅師権現社神田の収納米が,郷内の憑支衆中に融通されており,郷村の宮座と講中との相互依存関係をあらわしている。
執筆者:仲村 研
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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本来は経典を講説する僧衆の集会のこと。のちに信仰行事とそれを担う集団,さらに共通の利益のための世俗的な行事とその社会集団をいう。9世紀に入ると法華経の読誦が流行して法華八講が広まり,一般に法会(ほうえ)に講の名称をつけるようになった。やがて法会を担う崇敬者の集団も講名でよばれ,さまざまな信仰集団にも用いられた。山の神講・海神講・氏神講・鎮守講・宮座講・観音講・地蔵講・念仏講・富士講・出羽三山講などがある。世俗的な集団も講でよばれるようになり,頼母子(たのもし)講・無尽(むじん)講などがある。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…仏教の法会に,経典の題名や内容の講経と説経をすること。講経は多く竪精(りつせい)論義という形式をとり,経典の講義にディスカッションを付けるが,講説の場合は講経と説経で,説経は講経を平易にし,例話や比喩でおもしろくしたものである。…
…鎌倉時代以降行われた金融組織の一つ。人々が集まって講を結成し,少額の米穀・銭貨を拠出して抽選その他の方法で講中の者に融通した社会慣行。《下学集》に〈少銭を出して多銭を取る,これを憑子というなり〉と説明するように,〈憑子〉あるいは〈頼子〉〈憑支〉〈資支〉などとも表現され,《節用集》に〈また合力という〉とあるように,合力銭,助成銭などとも称された。…
…日の出を待って夜明しをするので日待というといわれる。宗教的な講の集会を一般に日待と呼ぶこともある。集りの日取りにより,甲子待(きのえねまち),庚申待(こうしんまち)などと称しているが,十九夜待,二十三夜待,二十六夜待などは月の出を拝む行事で,日待と区別して月待と呼ぶ。…
…ただみやげの習慣が今日のように盛行するのは,その前提となる旅や交通の発達を抜きには考えられず,参勤交代の制が確立し街道が整備され,また先達(せんだつ)や御師(おし)の活躍で庶民の間にも社寺参詣の旅が普及する近世中期以降のことと思われる。普及したといってもかつての旅は,交通手段の未発達はもとより金銭的な面からもだれしもが容易に行えるものではなく,そこで庶民は伊勢講,善光寺講といった講を組織し,費用を積み立て講中の代表者を代参に立てる形式をとった。こうした集団の総意を負った旅において,代参人は参拝した神仏の御利益・恩恵を持ち帰って講員にわかつ義務があり,またそれを具象化したものがみやげであったといえる。…
※「講」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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