日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ジャクソン(Michael Jackson)
じゃくそん
Michael Jackson
(1958―2009)
アメリカのポピュラー歌手、作曲家、ダンサー、俳優。20世紀後半から21世紀にかけてのポピュラー音楽を代表する存在であった。インディアナ州ゲーリー生まれ。ジャクソンのキャリアは、モータウン・レコードの黒人ボーカル・グループ、ジャクソン・ファイブのリード・シンガーとして始まった。ジャクソン家の兄弟で構成されたこの5人組グループは、デビュー時に11歳であった末弟マイケルの天才的な歌唱力とダンス・パフォーマンスによって一躍人気を得て、『帰ってほしいの』(1969)、『ABC』『アイル・ビー・ゼア』(ともに1970)などのヒット・アルバムを生んだ。
1971年にソロ活動を開始し、『ガット・トゥー・ビー・ゼア』(1972)などをリリースした後、アーティストの管理が厳しいモータウンを離れエピックに移籍する。ミュージカル映画『ウィズ』(1978、監督シドニー・ルメット)出演時に出会ったクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え制作された、移籍第一弾アルバム『オフ・ザ・ウォール』(1979)は大ヒットとなり、ジャクソンはブラック・ミュージックの枠を越えた新世代のエンターテイナーとしての地歩を固める。
同じくジョーンズとともに制作した次作『スリラー』(1982)は、レコード音楽史上のすべての売り上げ記録を塗り替える怪物的作品となった。ソウル・ミュージック、ヘビー・メタル、ポップ・バラードなど多彩な音楽性によって多くの聴衆を引きつけたこのアルバムからのシングル・カット曲「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」など7曲が全米チャート・トップ10にランクインし、1984年のグラミー賞では史上初の8部門での受賞となる。アルバムは全世界で4500万枚を売り上げ、『ギネスブック』にも記載された。また、1981年に開局した音楽専門チャンネルMTVはこのアルバムのプロモーションに大きな影響を与えた。「ビリー・ジーン」や「今夜はビート・イット」などのプロモーション・ビデオは、ジャクソンの卓越したダンス・パフォーマンスを広く知らしめ、ジョン・ランディスJohn Landis(1950― )を監督に迎え110万ドルの制作費をかけた、11分にわたる大作ビデオ『スリラー』は、プロモーション・ビデオの可能性を極限まで追求した傑作として評価された。
1985年に、多くの著名ミュージシャンによるチャリティー・セッション・グループ、U. S. A. フォー・アフリカにおいて、ライオネル・リッチーLionel Richie(1949― )とともに「ウィ・アー・ザ・ワールド」を作曲し、セッション録音をリードするなど、ジャクソンは中心的な役割を果たす。また同年、ビートルズの楽曲約270曲の権利を買い取り、さらにはディズニー・プロダクションが制作するミュージカルの3D映像作品『キャプテンEO』の撮影を開始するなど、ジャクソンの活動は一ミュージシャンの枠を越え、エンターテインメント事業そのものを動かす文化現象となってゆく。
続くアルバム『バッド』(1987)、『デンジャラス』(1991)と新作をリリースするたびに、「マイケル・ジャクソン現象」はふくれあがっていった。世界各国でツアーを行い、社会主義崩壊後の旧ソ連や東欧圏へ真っ先に招待されコンサートを行うなど、かつてのビートルズに比肩しうる、資本主義文化を象徴する大スターとなってゆく。その一方で、エルビス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーLisa Marie Presley(1968― )との結婚と離婚、顔面の整形手術、少年趣味などが面白おかしく報道されるなど、イエロー・ジャーナリズムによるスキャンダラスな覗き見趣味の格好の対象にもなった。その後もアルバム『インヴィンシブル』(2001)をはじめ多方面で活躍。2009年6月、自宅で急死した。
『田中康夫訳『ムーンウォーク――マイケル・ジャクソン物語』(1988・CBS・ソニー出版)』▽『J・ランディ・タラボレッリ著、岡山徹訳『マイケル・ジャクソンの真実』上下(1993・音楽之友社)』▽『三井徹著『マイケル・ジャクソン現象』(新潮文庫)』