ジャクソン(読み)じゃくそん(その他表記)Michael Jackson

デジタル大辞泉 「ジャクソン」の意味・読み・例文・類語

ジャクソン(Andrew Jackson)

[1767~1845]米国の政治家・軍人。第7代大統領。在任1829~1837。農民や中小企業家の擁護、選挙権の拡大などジャクソニアンデモクラシーとよばれる民主主義政策を推進したが、インディアンの迫害、黒人奴隷制の容認などで批判された。→バン‐ビューレン

ジャクソン(Joe Jackson)

[1888~1951]米国のプロ野球選手。本名ジョセフ=ジェファーソン=ジャクソン(Joseph Jefferson Jackson)。1911年にメジャーリーグで打率4割を記録。「シューレスジョー(はだしのジョー)」の愛称で親しまれ好打者として活躍したが、1919年のブラックソックス事件で球界を追放された。ジョー=ジャクソン。

ジャクソン(Michael Jackson)

[1958~2009]米国の歌手・ダンサー。1966年、実兄4人とともにジャクソンファイブとしてデビュー。優れた歌唱力とダンスで人気を得る。1971年よりソロ活動を開始。「スリラー」「バッド」など世界的なヒット曲を次々と生み出し、20世紀末のポピュラー音楽を代表する人物となった。

ジャクソン(Jackson)

米国ミシシッピ州中央部の都市。同州の州都。パール川に面する。1920年代に鉄道が開通して綿花の集散地なり、続いて天然ガスの発見により急速に発展。州庁舎、知事公邸など歴史的建造物が残っている。

ジャクソン(Mahalia Jackson)

[1911~1972]米国の歌手。ゴスペルソングの女王といわれた。

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精選版 日本国語大辞典 「ジャクソン」の意味・読み・例文・類語

ジャクソン

  1. [ 一 ] ( Abraham Valentine Williams Jackson アブラハム=バレンタイン=ウィリアムズ━ ) アメリカの東洋学者。ゾロアスター教研究の権威。コロンビア大学教授、アメリカ東洋協会会長を歴任。(一八六二‐一九三七
  2. [ 二 ] ( Andrew Jackson アンドリュー━ ) アメリカ合衆国第七代大統領(在任一八二九‐三七)。民主党。南部の農民の生まれ。米英戦争の国民的英雄。大統領の権限を拡張して、農民・中小企業家の利益を擁護し、ジャクソニアン‐デモクラシー時代を築いた。(一七六七‐一八四五
  3. [ 三 ] ( John Hughlings Jackson ジョン=ヒューリングス━ ) イギリスの神経病学者。癲癇(てんかん)発作、失語症の研究に業績を残す。(一八三五‐一九一一
  4. [ 四 ] ( Helen Maria Hunt Jackson ヘレン=マリア=ハント━ ) アメリカの女流詩人、作家。アメリカ政府の先住民抑圧を告発した著「恥辱の百年」は有名。(一八三〇‐八五
  5. [ 五 ] ( Mahalia Jackson マヘリア━ ) アメリカの黒人女性歌手。一九三〇年代からゴスペルソングを歌いつづけ、第一人者といわれた。(一九一一‐七二

ジャクソン

  1. ( Jackson ) アメリカ合衆国ミシシッピ州の中西部にある都市で、同州の州都。地名は第七代大統領A=ジャクソンにちなむ。経済、交通の要地。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ジャクソン」の意味・わかりやすい解説

ジャクソン(Michael Jackson)
じゃくそん
Michael Jackson
(1958―2009)

アメリカのポピュラー歌手、作曲家、ダンサー、俳優。20世紀後半から21世紀にかけてのポピュラー音楽を代表する存在であった。インディアナ州ゲーリー生まれ。ジャクソンのキャリアは、モータウン・レコードの黒人ボーカル・グループ、ジャクソン・ファイブのリード・シンガーとして始まった。ジャクソン家の兄弟で構成されたこの5人組グループは、デビュー時に11歳であった末弟マイケルの天才的な歌唱力とダンス・パフォーマンスによって一躍人気を得て、『帰ってほしいの』(1969)、『ABC』『アイル・ビー・ゼア』(ともに1970)などのヒット・アルバムを生んだ。

 1971年にソロ活動を開始し、『ガット・トゥー・ビー・ゼア』(1972)などをリリースした後、アーティストの管理が厳しいモータウンを離れエピックに移籍する。ミュージカル映画『ウィズ』(1978、監督シドニー・ルメット)出演時に出会ったクインシー・ジョーンズをプロデューサーに迎え制作された、移籍第一弾アルバム『オフ・ザ・ウォール』(1979)は大ヒットとなり、ジャクソンはブラック・ミュージックの枠を越えた新世代のエンターテイナーとしての地歩を固める。

 同じくジョーンズとともに制作した次作『スリラー』(1982)は、レコード音楽史上のすべての売上げ記録を塗り替える怪物的作品となった。ソウル・ミュージック、ヘビー・メタル、ポップ・バラードなど多彩な音楽性によって多くの聴衆を引きつけたこのアルバムからのシングル・カット曲「ビリー・ジーン」「今夜はビート・イット」など7曲が全米チャート・トップ10にランクインし、1984年のグラミー賞では史上初の8部門での受賞となる。アルバムは全世界で4500万枚を売り上げ、『ギネスブック』にも記載された。また、1981年に開局した音楽専門チャンネルMTVはこのアルバムのプロモーションに大きな影響を与えた。「ビリー・ジーン」や「今夜はビート・イット」などのプロモーション・ビデオは、ジャクソンの卓越したダンス・パフォーマンスを広く知らしめ、ジョン・ランディスJohn Landis(1950― )を監督に迎え110万ドルの制作費をかけた、11分にわたる大作ビデオ『スリラー』は、プロモーション・ビデオの可能性を極限まで追求した傑作として評価された。

 1985年に、多くの著名ミュージシャンによるチャリティー・セッション・グループ、U. S. A. フォー・アフリカにおいて、ライオネル・リッチーLionel Richie(1949― )とともに「ウィ・アー・ザ・ワールド」を作曲し、セッション録音をリードするなど、ジャクソンは中心的な役割を果たす。また同年、ビートルズの楽曲約270曲の権利を買い取り、さらにはディズニー・プロダクションが制作するミュージカルの3D映像作品『キャプテンEO』の撮影を開始するなど、ジャクソンの活動は一ミュージシャンの枠を越え、エンターテインメント事業そのものを動かす文化現象となってゆく。

 続くアルバム『バッド』(1987)、『デンジャラス』(1991)と新作をリリースするたびに、「マイケル・ジャクソン現象」は膨れあがっていった。世界各国でツアーを行い、社会主義崩壊後のソ連や東欧圏へ真っ先に招待されコンサートを行うなど、かつてのビートルズに比肩しうる、資本主義文化を象徴する大スターとなってゆく。その一方で、エルビス・プレスリーの娘であるリサ・マリー・プレスリーLisa Marie Presley(1968―2023)との結婚と離婚、顔面の整形手術、少年趣味などがおもしろおかしく報道されるなど、イエロー・ジャーナリズムによるスキャンダラスなのぞき見趣味のかっこうの対象にもなった。その後もアルバム『インヴィンシブル』(2001)をはじめ多方面で活躍。2009年6月、自宅で急死した。

[増田 聡]

『田中康夫訳『ムーンウォーク――マイケル・ジャクソン物語』(1988・CBS・ソニー出版)』『J・ランディ・タラボレッリ著、岡山徹訳『マイケル・ジャクソンの真実』上下(1993・音楽之友社)』『三井徹著『マイケル・ジャクソン現象』(新潮文庫)』


ジャクソン(Reggie Jackson)
じゃくそん
Reggie Jackson
(1946― )

アメリカのプロ野球選手(左投左打)。1967年から87年まで大リーグ(メジャー・リーグ)のカンザスシティ・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)、ボルティモア・オリオールズ、ニューヨーク・ヤンキース、カリフォルニア・エンゼルス(現ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム)に外野手兼指名打者(DH)として所属し、ホームランと勝負強さで人気を博した。

 5月18日、ペンシルベニア州のワインコートで生まれる。アリゾナ州立大当時から強打で知られ、1966年のドラフトでアスレチックスから1巡目(全米で2位)で指名されて入団。アスレチックスの中心打者として、1971年から75年まで5年連続地区優勝、リーグ優勝3回、ワールド・シリーズ3連覇(1972~74)に大きく貢献した。1973年にはホームラン32本、打点117でホームラン王と打点王のタイトルを獲得し、最優秀選手(MVP)を受賞。対ニューヨーク・メッツとのワールド・シリーズでも打点6をあげてMVPに輝いた。1975年にはホームラン36本で2回目のホームラン王となったが、翌76年にオリオールズにトレード移籍。1977年にはフリーエージェント(FA)でヤンキースに移籍。「けんか屋」とよばれた監督ビリー・マーチンや、チームのまとめ役の主将サーマン・マンソンThurman Munson(1947―79)とたびたび争いを起こし、トラブルメーカーとして悪名をはせたが、1977年の対ロサンゼルス・ドジャースとのワールド・シリーズではプレーで活躍した。第6戦では4回、5回、8回にいずれも初球をたたいて3打席連続ホームランを打ち、シリーズ5ホームランの新記録を達成、シリーズMVPに輝いた。この活躍で、ワールド・シリーズが開催される時期にちなみ、「ミスター・オクトーバー」というニックネームがつけられた。翌78年にもヤンキースはドジャースをワールド・シリーズで破って連覇を成し遂げたが、ジャクソンはこのシリーズでもニックネームどおり、打率3割9分1厘、ホームラン2本の活躍をみせた。1982年、エンゼルスに移籍、87年には古巣アスレチックスへ復帰して21年間の選手生活を閉じた。オールスター出場は14回を数える。

 21年間の通算成績は、出場試合2820、安打2574、打率2割6分2厘、本塁打563、打点1702。獲得したおもなタイトルは、本塁打王4回、打点王1回、MVP1回。1993年に野球殿堂入り。

[出村義和]


ジャクソン(Joseph Jefferson Jackson)
じゃくそん
Joseph Jefferson Jackson
(1889―1951)

アメリカのプロ野球選手(右投左打)。大リーグ(メジャー・リーグ)のフィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)、クリーブランド・ナップス(1915年からクリーブランド・インディアンス)、シカゴ・ホワイトソックスで外野手としてプレー。はだしでプレーしたことから「シューレス・ジョー」とよばれた。ナップス時代に打率4割もマークしたが、「ブラックソックス事件」で永久追放となった悲運の天才打者である。

 7月16日、サウス・カロライナ州ブランドンミルズで生まれる。1908年、アスレチックスに入団。マイナー・リーグで首位打者となり、同年のうちに大リーグ初昇格を果たした。翌09年もマイナーで首位打者となって大リーグに昇格するが、両年とも大リーグでは5試合ずつしか出場チャンスを与えられなかった。1910年にナップスへトレードされ、傘下のマイナー球団でまたも首位打者を獲得。大リーグ昇格を果たして20試合に出場し、打率3割8分7厘を打ってレギュラーの座を確保した。フル出場1年目の1911年は4割8厘の高打率をマーク。翌12年は打率3割9分5厘、13年も打率3割7分3厘を記録し、強打者として知られるようになった。球団名がインディアンスとなった1915年のシーズン途中でホワイトソックスへトレードされ、17年ワールド・シリーズ優勝に貢献した。1919年もチームはリーグ優勝したが、有利といわれたシンシナティ・レッズとのワールド・シリーズで敗退。このシリーズでホワイトソックスの主力選手が八百長(やおちょう)を行っていたことが判明し「ブラックソックス事件」と騒がれた。1920年は通常通りにプレーしたが、21年にホワイトソックスの他の7選手とともに永久追放処分となった。なお、1989年に公開された映画『フィールド・オブ・ドリームス』には、「伝説の大リーガー」としてジャクソンが登場する。

 13年間の通算成績は、出場試合1332、安打1772、打率3割5分6厘、本塁打54、打点785。獲得したおもなタイトルは、最多安打2回。

[山下 健]

『ドナルド・グロップマン著、小中陽太郎訳『ジョー・ジャクソン 折れた黒バット ジョー・ジャクソンとブラック・ソックス事件』(1984・ベースボール・マガジン社)』


ジャクソン(Andrew Jackson)
じゃくそん
Andrew Jackson
(1767―1845)

アメリカ合衆国第7代大統領(在任1829~37)。テネシー州の奴隷制農園主で、若くして政治と法曹と土地投機に活躍した。一八一二年戦争中、武力で先住民(アメリカ・インディアン)の土地を南部白人に渡したのち、「ニュー・オーリンズの戦い」でイギリス軍を破り、国民的英雄となった。1818年スペイン領フロリダにまで侵入してセミノール人を討伐し、南部奴隷主階級の圧倒的な支持を背景に、28年選挙で大統領に当選した。在任中、南部のチェロキー人を強制移住させ、またサウス・カロライナ州の連邦関税法無効宣言を契機に33年妥協関税法を成立させ、保護関税から自由貿易への政策転換を指導した。さらに、合衆国銀行を廃止したが、そのため、直接恩恵を受けた一部の企業家だけでなく、当時の「反独占」運動の展開のなかで農民層や都市職人労働者の幅広い支持をも得た。全国の支持勢力はやがて民主党を形成することになるが、彼自身の政策展開は、南部奴隷主階級が建国期以来主張してきた「州権論」に基づくものであった。

[安武秀岳]



ジャクソン(アメリカ合衆国)
じゃくそん
Jackson

アメリカ合衆国、ミシシッピ州中西部にある、同州の州都。人口18万4256(2000)。同州最大の都市で、商業・交通の中心地である。主要な工業としては、石油、天然ガス、食品加工、木材、金属、ガラス、木工製品などがある。

 ルフリューズ・ブラフとして知られた交易地に1821年州都として町が建設され、23年に市となった。地名は第7代大統領A・ジャクソンにちなむ。南北戦争時には南軍・北軍の戦闘の場となり、63年には町の大部分が焼失した。南北戦争後の復興は遅かったが、1920年代後半には鉄道交通の中心として繁栄し、さらに天然ガスの発見によって発展した。1960年代には多くの人種暴動が起こった。ベルヘーベン大学、州立ジャクソン大学、ミシシッピ大学医学部の所在地。観光対象としては、州議事堂、州知事公邸、南北戦争時に病院として使用された市役所、ミシシッピ川洪水調整用の水路模型(約96ヘクタール)がある。

[菅野峰明]


ジャクソン(Mahalia Jackson)
じゃくそん
Mahalia Jackson
(1911―1972)

アメリカのゴスペル歌手。ニュー・オーリンズ生まれ。父は牧師。5歳から教会聖歌隊で歌い、ブルース歌手ベッシー・スミスらの影響も受けた。16歳のときシカゴに出て注目され、1947年に録音したレコード『いざ高き天国へ』が大ヒット。世界各国でも歌い、最高のゴスペル歌手と称された。その誠実で温かい歌唱は、映画『真夏の夜のジャズ』(1958)などで世界的に深い感銘を与えた。

[青木 啓]

『マヘリア・ジャクソン、エバン・マクラウド・ワイリー著、中沢幸夫訳『マヘリア・ジャクソン自伝――ゴスペルの女王』(1994・彩流社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ジャクソン」の意味・わかりやすい解説

ジャクソン
Jackson, Glenda

[生]1936.5.9. チェシャー,バーケンヘッド
[没]2023.6.15. ロンドン
グレンダ・ジャクソン。イギリスの女優,政治家。複雑な女性の心理を高い緊張感で描写し舞台や映画で活躍したほか,1992~2015年の長きにわたり労働党の下院議員を務めた。
煉瓦職人の家に生まれ,16歳で学校を中退してアマチュア劇団に加入。まもなく奨学金を得てロンドンの王立演劇学校 RADAに入学する。卒業後は女優兼舞台監督助手としてレパートリー・シアターで働き始める。演出家ピーター・ブルックに見出されて「残酷演劇」の公演に抜擢された。1964年,『マラー/サド』Marat/Sadeのロンドン公演でシャルロット・コルデ役を好演。同作品のニューヨーク公演(1965)と映画化作品(1967)にも出演した。ケン・ラッセル監督の『恋する女たち』Women in Love(1969)で芸術家グドラン・ブランウェン Gudrun Brangwenを演じ国際的な評価を得て,アカデミー賞主演女優賞を獲得。その後,『恋人たちの曲/悲愴』The Music Lovers(1971),『日曜日は別れの時』Sunday Bloody Sunday(1971)で主役を務め,ロマンチックコメディ『ウィークエンド・ラブ』A Touch of Class(1973)では 2度目のアカデミー賞主演女優賞に輝いた。
映画でジャクソンの演じる役柄は高い知性をもちあわせた,どちらかといえば皮肉屋,エロチシズムの香りのする強烈な個性の女性だったが,BBCのテレビシリーズ『エリザベス R』Elizabeth R(1971)や映画『クイン・メリー/愛と悲しみの生涯』Mary, Queen of Scots(1971)ではともにエリザベス1世に扮している。そのほかの映画作品にヘンリク・イプセンの戯曲を映画化した"Hedda"(1975),"The Incredible Sarah"(1976),"Stevie"(1978),『戦場の罠』The Return of the Soldier(1982),"Turtle Diary"(1985)など。1980年代はウェストエンドブロードウェーの舞台で活躍し,『ローズ』Roseと『奇妙な幕間狂言』Strange Interludeでローレンス・オリビエ賞トニー賞にノミネートされた。
1992年,労働党候補として議会選挙に立候補し,下院議員に当選。1997~99年には運輸副大臣を務めた。2000年にロンドンの市長選挙に出馬したが落選。その後,2001,2005,2010年の下院選挙に当選し,2015年の選挙には出馬しなかった。
2016年,25年ぶりに女優業を再開し,ウエストエンドで『リア王』King Learに出演。2018年にはブロードウェーでエドワード・オールビー作『幸せの背くらべ』(原題『三人の背の高い女』Three Tall Women)に出演し,トニー賞を受賞した。テレビ映画"Elizabeth Is Missing"(2019),映画『帰らない日曜日』Mothering Sunday(2021)にも出演した。1978年大英帝国三等勲功章 CBE。

ジャクソン
Jackson, Andrew

[生]1767.3.15. サウスカロライナ,ワックスホー
[没]1845.6.8. テネシー,ナッシュビル近郊
アメリカの軍人,政治家。第7代大統領 (在任 1829~37) 。北アイルランド移民の子として生れ,独立戦争中 14歳で孤児となる。 1787年検事資格を取得してテネシーへ移り,88年郡裁判所検事。 96年連邦下院議員。 97年 30歳で連邦上院議員。 98年テネシー州最高裁判所判事に就任。このほか 1800年代初頭までプランテーション経営,土地投機,綿花売買など経済的活動にも従事。検事認可状を元手に 10年ほどの短期で地方最高の社会的地位と相当な資産を築き,辺境社会特有の典型的立身出世をとげた。続いて,対インディアン戦争に従事。 13~14年クリーク族に対して殲滅作戦を駆使。その戦功により,陸軍少将,第7軍管区司令官。 15年1月ニューオーリンズの戦いでイギリス軍に大勝を博し国民的英雄に祭り上げられた。 17~18年スペイン領フロリダに侵入しセミノール・インディアンと逃亡黒人奴隷を討伐。 21年フロリダ准州知事。 22~25年連邦上院議員。 24年の大統領選挙では選挙人団投票数で第1位を占めながら H.クレーの策動で J.Q.アダムズに敗れたが,28年の大統領選挙では白人男子普通選挙権の普及を背景に,現職のアダムズを破って当選。 32年再選。農民,都市小市民,労働者,新興ブルジョアジーなど庶民層の広範な支持を受けて旧特権勢力に挑戦。党人任用制,官職交代制,インディアン強制移住の実施,公有地分配の大衆化,第二合衆国銀行の解体,33年の関税法,第2次セミノール戦争 (35~42) などの政策を展開,「ジャクソン民主主義」と呼ばれる一時代を現出した。彼は決闘を4回経験し,競馬,闘鶏を好む典型的な西部人で「オールド・ヒコリー (古いかしの木) 」と呼ばれ,また政敵からは「アンドルー王」といわれ独裁者とみられた。 37年大統領退任後は自邸ハミテージに引退,影響力を失った。

ジャクソン
Jackson, Jesse

[生]1941.10.8. サウスカロライナ,グリーンビル
アメリカ合衆国の公民権運動指導者,キリスト教バプテスト派の牧師,政治家。本名 Jesse Louis Burns。1959年フットボール選手として奨学金を得てイリノイ大学に進んだのちノースカロライナ州立農工大学に移り,1964年に社会学学士号を取得。その間に公民権運動に加わった。その後シカゴ神学校に学び,1968年にバプテスト派の牧師に叙任された。1965年にマーチン・ルーサー・キング・ジュニア牧師と行動をともにするためアラバマ州セルマへ赴き(→セルマ大行進),南部キリスト教指導会議 SCLCの活動家となったが,1971年に SCLCから離脱して別の組織を立ち上げた。1970年代後半には世界各地に活動の場を広げた。1984年にシリア,1990年にイラク,1999年にユーゴスラビアでアメリカの軍人や民間人の人質解放交渉に携わったことで称賛された。1980年代には国内でアフリカ系アメリカ人の代弁者および擁護者として指導的立場に立った。大統領選挙の民主党予備選挙に 2回立候補し,1984年は 3位,1988年は 2位となった。ジャクソンが民主党内で影響力を増したことにより,民主党綱領においてアフリカ系アメリカ人問題が重視されるようになった。1997年ビル・クリントン大統領からアフリカ支援特使に任命された。同 1997年アメリカ企業におけるマイノリティの機会拡大を目指す運動体「ウォール街プロジェクト」を創設した。2000年,大統領自由勲章を受章し,シカゴ神学校から神学修士号を授与された。

ジャクソン
Jackson, Sir Peter

[生]1961.10.31. ノース島,プケルア・ベイ
ニュージーランドの映画監督。フルネーム Sir Peter Robert Jackson。8歳のときに両親が買い与えた 8ミリカメラで映画を撮り始める。やがて短編映画の制作を始め,ニュージーランド映画委員会から資金援助を得て完成させた『バッド・テイスト』Bad Taste(1987)がカンヌ国際映画祭で称賛された。1989年に人形が人間のふるまいの裏面を演じる『ミート・ザ・フィーブルズ/怒りのヒポポタマス』Meet the Feeblesを発表,1992年にはゾンビ映画『ブレインデッド』Braindeadで数々の国際的な賞を受けた。実際に起こった事件を題材にした『乙女の祈り』Heavenly Creatures(1994)でアカデミー賞脚本賞にノミネートされた。ジョン・ロナルド・ロウエル・トールキン作『指輪物語』The Lord of the Ringsを映画化した「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズ 3部作――『ロード・オブ・ザ・リング』The Lord of the Rings: The Fellowship of the Ring(2001),『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』The Lord of the Rings: The Two Towers(2002),『ロード・オブ・ザ・リング/王の帰還』The Lord of the Rings: The Return of the King(2003)――で監督および脚本を執筆。批評家に高く評価され,興行面でも成功した。特に第3作はアカデミー賞監督賞,作品賞,脚色賞ほか計 11部門を制して話題を呼んだ。2010年メリット勲章を授与された。

ジャクソン
Jackson, Reggie

[生]1946.5.18. ペンシルバニア,ウィンコート
アメリカ合衆国のプロ野球選手。フルネーム Reginald Martinez Jackson。1967年からカンザスシティー・アスレティックスの二軍でプレーし,1968年にチームが本拠地をカリフォルニア州オークランドに移した際に一軍昇格。ホームランバッターとして,また俊足で名をはせた。アスレティックス在籍中の 1973年と 1975年にアメリカンリーグの本塁打王に輝き,チームのワールドシリーズ 3連覇(1972~74)にも貢献。1973年以降はおもに指名打者として活躍した。1976年ボルティモア・オリオールズにトレードされたのち,1977年フリーエージェントでニューヨーク・ヤンキーズに移籍。1977年のワールドシリーズ最終試合では 3打席連続本塁打を放って 5得点を上げ,ヤンキーズを勝利に導いた。翌 1978年のワールドシリーズでは打率 3割9分1厘,本塁打 2を記録。10月に開催されるワールドシリーズでのめざましい活躍から「ミスター・オクトーバー」の異名をとった。1980年に再びリーグ本塁打王のタイトルを獲得。1982~86年はカリフォルニア・エンジェルズに在籍したが,1987年にアスレティックスに戻り,シーズン後に現役を引退。1993年野球殿堂入りを果たした。

ジャクソン
Jackson, Michael

[生]1958.8.29. インディアナ,ゲーリー
[没]2009.6.25. カリフォルニア,ロサンゼルス
アメリカ合衆国の歌手,作詞家,作曲家,ダンサー。フルネーム Michael Joseph Jackson。音楽に優れた一家に生まれ,11歳のときに 4人の兄弟とともに「ジャクソン・ファイブ」を結成,リード・ボーカルとなる。1971年ソロ・デビューし,クインシー・ジョーンズがプロデュースしたアルバム『オフ・ザ・ウォール』(1979),『スリラー』(1982。グラミー賞の最優秀アルバム賞を含む 8部門を制覇)などが大ヒットした。『ビリー・ジーン』『ビート・イット』のプロモーション・ビデオなどで歌いながら踊るダンスに優れた才能をみせ,「ムーンウォーク」はトレードマークとなった。1980年代には視覚的要素が重視される時代のスーパースターとしての地位を確立し,「ポップの帝王」と呼ばれた。アフリカの貧困と飢餓救済を目的に,ライオネル・リッチーと共作した『ウイ・アー・ザ・ワールド』(1985)には,アメリカの大物歌手が多数参加した。2003年少年への性的虐待疑惑で逮捕・起訴されたが 2005年に無罪評決を受けた。2001年ロックの殿堂入りを果たした。

ジャクソン
Jackson, Frederick George

[生]1860.3.6. ウォリックシャー
[没]1938.3.13. ロンドン
イギリスの北極探検家。エディンバラ大学を卒業,1887年捕鯨船に乗りグリーンランドに行き,フランツヨセフ諸島を基地にした北極探検を計画。 93~94年にシベリアのツンドラ地帯を通って北ノルウェーまでそり旅行をし,94年にジャクソン=ハームズワース探検隊を組織,北極点への第1歩としてフランツヨセフ諸島を調査し (1894~97) ,著しい成果をあげた。しかし 95年 H.ヨハンセンを伴って北緯 86°13′ (当時の最北) まで達して退却を余儀なくされた F.ナンセンの失敗をみて,北極点へ行くのを中止した。南アフリカ戦争と第1次世界大戦に従軍後,中央アフリカを探検した。主著『北極における 1000日間』A Thousand Days in the Arctic (99) ほか。

ジャクソン
Jackson, John

[生]1769.9.28. ロンドン
[没]1845.10.7. ロンドン
イギリスのプロボクサー。愛称は Gentleman Jackson。ベアナックル (素手) のアマチュア・ボクサーとしてある程度名を知られていたが,公式試合には 3回しか出場しなかった。3回目となる 1795年のダニエル・メンドザ戦に勝ってイギリスのベアナックル・チャンピオンとなった。1803年までタイトルを保持したが,護身術の学校を開くために引退。学校で指導を行なうなかで,カウンターブロー,相手との的確な距離のとり方,機敏なフットワークなど科学的なボクシングの攻撃法をつくり上げたといわれている。学校にはバイロン卿をはじめ多くの青年貴族が集まり,彼らが中心になって 1814年,ピュジリスト保護協会が創設された。イギリスでプロボクシングを正式なスポーツとして定着させることに貢献した。

ジャクソン
Jackson, Thomas Jonathan

[生]1824.1.21. バージニア,クラークスバーグ
[没]1863.5.10. バージニア,チャンセラーズビル
アメリカ合衆国の陸軍軍人。 1846~47年アメリカ=メキシコ戦争に参加。 1861年南北戦争開始とともに南軍に参加,ロバート・リー将軍の右腕として,同年ブルランの戦い,1862年シェナンドーア渓谷の戦いで部隊を指揮して勝利を得た。その勇猛ぶりから「石壁ジャクソン」 Stonewall Jacksonと呼ばれた。 1863年チャンセラーズビルの戦いで戦闘指揮中,味方の銃弾で重傷を負い死亡した。

ジャクソン
Jackson

アメリカ合衆国,ミシシッピ州の州都。州のほぼ中央,パール川沿岸に位置する。地名は A.ジャクソン将軍 (第7代大統領) に由来。 1822年,市街地と公園が交代するチェス盤状の都市計画に従い建設され,30年代に旧州議会議事堂 (現歴史博物館) や州知事官邸などが建てられたが,南北戦争 (1861~65) のとき焼失し,一時衰微した。 1903年に新議事堂が完成。 20世紀に入って,市は急速に復興した。 30年代に近郊で天然ガスが発見され,工業が発達。おもな産業は鉄道工業,造船,ガラス,タイル,電子機器。ミルサップス大学 (1890創立) ,ジャクソン州立大学 (1877) ,図書館,画廊などがあり,歌劇団,交響楽団をもつ。人口 19万 6637 (1990) 。

ジャクソン
Jackson, Helen (Maria) Hunt

[生]1830.10.15. マサチューセッツ,アマースト
[没]1885.8.12. サンフランシスコ
アメリカの女流詩人,小説家。旧姓 Fiske。カリフォルニアのインディアンの受けた不当な扱いに抗議したパンフレット『恥ずべき1世紀』A Century of Dishonor (1881) および同じテーマの小説『ラモナ』 Ramona (84) で知られる。そのほか,友人 E.ディキンソンをモデルにした小説『マーシー・フィルブリックの選択』 Mercy Philbrick's Choice (76) などがある。

ジャクソン
Jackson, John Hughlings

[生]1835.4.4. グリーンハマートン
[没]1911.10.7. ロンドン
イギリスの神経学者。 1860年,セントアンドルーズ大学で学位を取得後,主としてロンドンで活躍。 62年から国立神経病院に勤務,63年からロンドン病院も兼務した。神経系統の研究とともに,精神障害を神経病学的に解釈しようとした。その理論は後年ジャクソニズムと呼ばれている。また言語障害の権威として知られ,63年にはジャクソンてんかんを記載した。脳や脊髄の損傷による神経系の障害を研究し,神経学,精神医学のその後の発展に大いに貢献した。

ジャクソン
Juxon, William

[生]1582. チチェスター?
[没]1663.6.4. ロンドン
イギリスの聖職者。 W.ロードの引立てで出世し,1633年ロンドン主教,36年大蔵卿に就任。これは世俗の要職を兼務した聖職者としては,イギリス最後の例。清教徒革命中は国王チャールズ1世に側近として仕え,49年の国王処刑に立会った。 60年王政復古に際しカンタベリー大主教となり,没年まで在職。

ジャクソン
Jackson, Sheldon

[生]1834.5.18. ニューヨーク,ミナビル
[没]1909.5.2.
アメリカの長老教会派牧師,教育者。 1854年にプリンストン神学大学を卒業。 59~83年ミネソタ,ウィスコンシン,アイオワ,その他の州に 100以上の教会を創立。ニューメキシコとアリゾナに先住民 (インディアン) のための学校を開いた。 83年にはアラスカで教会や学校を組織し,食糧補充のためにシベリアのトナカイを輸入して飼育,85~1908年に教育官吏をつとめ,アラスカへのアメリカ合衆国参加の基礎を築いた。 1897年には長老派教会大会議長に選出された。

ジャクソン
Jackson, A(braham) V(alentine) Williams

[生]1862.2.9. ニューヨーク
[没]1937.8.8. ニューヨーク
アメリカの言語学者。コロンビア大学教授。インド=イラン語派,特にアベスタ語の研究で知られる。主著『サンスクリット語との比較によるアベスタ語文法』 An Avesta Grammar in Comparison with Sanskrit (1892) ,『ペルシア,過去と現在』 Persia,Past and Present (1906) など。

ジャクソン
Jackson

アメリカ合衆国,テネシー州西部の都市。メンフィスの北東約 130km,ミシシッピ川の支流サウスフォーク川沿いに位置する。 1820年初期に入植が始り,やがてワタ栽培の中心となった。第7代大統領 A.ジャクソンにちなんで命名。市の経済は綿花,木材などの集散,木製品,家具などの工業に基礎をおき,レーン大学 (1882創立) など教育施設もある。人口4万 8949 (1990) 。

ジャクソン
Jackson

アメリカ合衆国,ミシガン州南部にある都市。デトロイトの西 110km,グランド川河畔に位置する。 1829年入植。地名は第7代大統領 A.ジャクソンに由来。初期の主産業であった自動車工場がほかの町に移ってから,工業の多様化に努め,自動車部品,玩具の製造が盛ん。北方 8kmに南ミシガン州立刑務所がある。人口 3万3534(2010)。

ジャクソン
Jackson, Cyril

[生]1746. ヨークシャー
[没]1819.8.15. フェルファム
イギリス国教会の司祭。オックスフォード大学を卒業。 1771~76年ジョージ3世の長子と次子の教育補佐。 83~1809年オックスフォードのクライスト・チャーチの首席司祭。教会運営にすぐれ,厳格な規律を確立し,すぐれた人材を育成した。

ジャクソン
Jackson, Sir Barry Vincent

[生]1879
[没]1961
イギリスの演出家。 1913年にバーミンガム・レパートリー劇場を創設。伝統に拘束されない自由な演劇の創造を目指し,多くの古典劇,現代劇を演出した。著書に『演劇と市民生活』 The Theatre and Civil Life (1922) がある。

ジャクソン
Jackson, Alexander Young

[生]1882.10.3. モントリオール
[没]1974.4.5.
カナダの画家。シカゴおよびパリに学ぶ。 1917~19年公式の戦争記録画家として活動。のちに「グループ・オブ・セブン」の一員となる。オンタリオ北部,ケベックの田園,ロッキー山脈などの風景画がよく知られる。

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改訂新版 世界大百科事典 「ジャクソン」の意味・わかりやすい解説

ジャクソン
Andrew Jackson
生没年:1767-1845

アメリカ合衆国第7代大統領。在職1829-37年。スコッチ・アイリッシュ系移住民の子としてサウス・カロライナ奥地で生まれた。12歳で独立戦争に従軍して負傷し,戦争で全家族を失った。その後親戚の遺産300ポンド以上を相続し,紳士仲間に入り,競馬,闘鶏を楽しむかたわら法律を学んで弁護士となり,テネシーのナッシュビルに移る。そこで富裕な土地投機業者の娘レーチェル・ロバーズと結婚し,1797年州憲法制定に参画し,1806年まで連邦上下両院の議員,テネシー州最高裁判所判事を歴任した。この間,奴隷制農園経営のかたわら土地投機,商業をも営んだが,債務を負い06年の決闘事件や政治的不遇もあって,暫時農園経営に専念することとなる。12年第2次英米戦争が勃発するや,出陣してクリーク・インディアンを鎮圧し,その土地を奴隷制農園主に開放し,さらに15年ニューオーリンズの戦でイギリス軍を破り,国民的英雄となった。戦後の18年にはセミノール・インディアンを追って独断でスペイン領フロリダに侵入し,イギリス人2名を処刑して国際紛争を起こしたが,結局アメリカのフロリダ獲得で結着し,彼の名声はいっそう高まった。かくして24年大統領選挙に出馬したが,J.Q.アダムズ=H.クレー連合に惜敗,4年後大統領に当選した。20年代には産業資本を保護育成する中央集権的な〈アメリカ体制〉が北部の政治家によって強力に推進されていたが,彼の最も強固な支持基盤は奴隷制南部にあった。このことは大統領選挙の得票数や,彼のチェロキー・インディアン強制移住政策に対する反応に顕著に現れた。32年7月,第二合衆国銀行特許延長法案の議会通過に際し,拒否教書を発表して州権論の立場を鮮明にした。同年末サウス・カロライナ州が過激な州権論の立場から連邦関税法無効宣言を発したときには,逆に断固これを武力で威圧する構えを示す一方,関税引下げを議会に勧告して33年の妥協関税法成立を誘導した。この果断な対処によって,北部の追随者の支持を失うことなく,奴隷主階級が求める自由貿易と州権論の政策基調を定着させたのである。その後彼の背後に結集した政治家集団は,自ら民主党と名のって大衆的支持を求め,自分の党派で公職を独占する,いわゆるスポイルズ・システム(猟官制度)によって党派的規律を強め,最高裁判所判事にも仲間を送り込み,南北戦争前夜までの連邦政治の主導権を堅持することになる。
キチン・キャビネット →ジャクソニアン・デモクラシー
執筆者:


ジャクソン
John Hughlings Jackson
生没年:1835-1911

イギリスの神経病学者。ロンドンのセント・バーソロミュー病院,スコットランドのセント・アンドルーズ病院で医学を修め,1863年国立神経病院の医員となり,C.ブラウン・セカールの影響を受けた。神経病学に従事し,神経病の臨床的症状と大脳局在論とを結びつけることに努力し,その後の神経生理学に大きな影響を与えた。後天性の症候性てんかんである〈ジャクソンてんかん〉を記載(1863)したのをはじめ,失語症(1867),舌や口蓋の半分と声帯の麻痺からなる〈ジャクソン症候〉(1872)の研究で知られる。彼が1884年に提出した神経系の進化と解体に関する理論は,後年ジャクソニズムJacksonismと呼ばれ,T.A.リボやH.エーに影響を与えて,ネオ・ジャクソニズムの誕生を促した。
てんかん
執筆者:


ジャクソン
Jackson

アメリカ合衆国ミシシッピ州中西部の同州の州都。人口17万7977(2005)。州最大の都市で,商業・交通の中心地。石油,天然ガス,食品加工,木材,金属,ガラス,木工製品が主要工業である。1821年州都として町が建設され,23年に市制施行。市名は第2次英米戦争の英雄でのちに大統領となったA.ジャクソンにちなむ。南北戦争の戦場となり,63年には,北軍のシャーマン将軍が町の大部分を焼失させた。1920年代後半に鉄道交通の中心として成長し,さらに30年代には天然ガスの発見によって発展した。
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百科事典マイペディア 「ジャクソン」の意味・わかりやすい解説

ジャクソン

米国の政治家。第7代大統領(1829年―1837年)。独立戦争孤児として育ちテネシー州で大農園経営に成功して政治家となり,連邦上下両院議員,テネシー州最高裁判所判事を歴任,1812年戦争の際ニューオーリンズの戦で英軍に大勝,国民的英雄となった。1828年,西部出身者として初めて大統領に当選,選挙権の拡大,公立学校の普及,東部の金権ブルジョアジーの抑圧など,いわゆる〈ジャクソニアン・デモクラシー〉と呼ばれる民主主義的政策を展開した。
→関連項目クロケットテネシー[州]民主党(米国)

ジャクソン

米国のソウル歌手。インディアナ州に生まれ,1969年兄弟5人で結成されたジャクソン・ファイブのリード・ボーカルとしてメジャーデビュー。ソロ活動でも1979年アルバム《オフ・ザ・ウォール》が400万枚を売る大ヒット,その後も《スリラー》《バッド》などのアルバムが数千万枚のセールスを記録,また1985年アフリカ飢餓救済のため《ウイー・アー・ザ・ワールド》を発表した。ダンスにも才能を発揮し,40年間にわたってアメリカを代表するスターの位置を占めた。
→関連項目ジョーンズ

ジャクソン

米国,ミシシッピ州の州都。州のほぼ中央に位置し,パール川に臨む。製材,家具,繊維などの軽工業が盛ん。1821年新州都に選定され,計画的に建設された。1920年代末,付近で天然ガスが発見され,急速に発展。17万3514人(2010)。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ジャクソン」の解説

ジャクソン
Andrew Jackson

1767~1845

アメリカ第7代大統領(在任1829~37)。アパラチア山脈以西の出身で大統領になった最初の人物。アメリカ‐イギリス戦争の講和条約がオランダで調印された直後に戦われたニューオーリンズの戦い(1815年)でイギリス軍を撃破し,国民的英雄となる。第2合衆国銀行の特許更新を拒否し,先住民の強制移住を断行した。また過激な州権論を掲げて保護関税に反対するサウスカロライナ州とも鋭く対立,政敵からは「アンドルー王1世」と呼ばれた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ジャクソン」の解説

ジャクソン
Andrew Jackson

1767〜1845
アメリカの第7代大統領(在任1829〜37)
サウスカロライナ州の生まれ。テネシー州に移住して各種の職業を転々とした。米英戦争の武功により一躍国民的英雄となり,西部農民・東部労働者などの支持により,西部出身最初の大統領となる。連邦制の擁護,東部の金融的寡頭 (かとう) 支配(国立銀行)の抑制,西部公有地の廉価賦与,普通選挙制など,庶民の利益を擁護する政策とスポイルズ−システム(猟官制度)などの派閥優遇の政策を併用し,いわゆるジャクソン民主主義(ジャクソニアン−デモクラシー)を推進した。

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367日誕生日大事典 「ジャクソン」の解説

ジャクソン

生年月日:1912年5月31日
アメリカの政治家
1983年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のジャクソンの言及

【アメリカ合衆国】より

…広大な土地空間の存在,03年のフランスよりのルイジアナ地方買収につづく膨張政策は,大陸国家,農業社会の形成を必然たらしめたといえよう。ことに29年門閥,学歴と無縁の西部農民出身のジャクソンが大統領に就任したことは,広大な西部を背景に独立自営,機会均等,自由競争,成功というアメリカ的価値体系が相対的に現実化したことを象徴したものといえよう。しかし,綿花の生産および輸出の飛躍的増大は,南部大農園主,奴隷所有者の発言権を強めることになる。…

【ジャクソニアン・デモクラシー】より

…アメリカ合衆国第7代大統領A.ジャクソン(在職1829‐37)の時代の〈民主的な〉改革運動を総括する概念。第2次英米戦争(1812‐14)後,産業革命と西部開拓の進展により人口の急激な流動化が起こり,各地方の名望家支配が動揺し始め,民衆運動や民衆扇動が全国的に展開された。…

【ジャクソン】より

…1821年州都として町が建設され,23年に市制施行。市名は第2次英米戦争の英雄でのちに大統領となったA.ジャクソンにちなむ。南北戦争の戦場となり,63年には,北軍のシャーマン将軍が町の大部分を焼失させた。…

【情実任用】より

…この言葉は〈獲物は勝者に帰属する〉というローマ時代のスローガンに由来している。アメリカでは,厳格な三権分立の統治構造に基づき,政権が交代するたびに,多くの公務員が更迭されてきたが,とくに1829年に政権についたジャクソン大統領の下で,民衆に対する公職の開放が強調され,大規模な更迭政策が行われ,猟官制が確立した。その後,この慣習は政党政治の金権政治化とともに,選挙運動や党資金のために利用され,腐敗と非能率を生み出した。…

【第2次英米戦争】より

…カナダ獲得の夢は絶たれ,財政はひっ迫し,親英的な野党フェデラリスツは政界再編成に動き出し,政府は苦境に立ったが,14年12月24日,ベルギーのガンでの講和成立に持ち込んだ。この講和の直後15年1月,その知らせが伝わる前に,A.ジャクソン将軍がニューオーリンズでイギリス軍と会戦し大勝利を収めた。この勝利によってやっと政府は面目を保ち,逆に戦争に反対したフェデラリスツの政権奪還の機会は失われた。…

【バン・ビューレン】より

…在職1837‐41年。1820年代にニューヨーク州で猟官制度(スポイルズ・システム)を用いて,結束の固い職業政治家集団オルバニー・リージェンシーをつくり,1828年これを率いてジャクソンの大統領当選を助けた。猟官制はジャクソン政権でも意識的に採用され,リージェンシーの組織原理はジャクソン派が民主党として発展していく際のモデルとなった。…

【猟官制度】より

…それは1832年,ニューヨークの上院議員W.L.マーシーが述べた〈戦利品(スポイルズ)は勝者の手に〉という有名な文句に由来する。アメリカにおいてスポイルズ・システムを初めて用いたのは,第3代大統領ジェファソンであるが,この制度が確立されるのは,第7代大統領ジャクソンの時代になってからである。彼はそれまで州レベル以下で行われていた公職交替制の原理を連邦公務員の任用制度に応用した。…

【精神分析】より

… フロイトが自由連想法によって得た心理的知見は,この新しい心理的接近法によってのみ得られた独自なものであったが,これを理論化するに当たって,フロイトは当時支配的であった唯物論的な物理学,生理学の考えをモデルとした。〈エネルギー保存の法則〉を定式化したH.L.F.vonヘルムホルツの影響は,フロイトの徹底した決定論とエネルギー経済論に反映しているし,階層的・局所論的な心的構造論は,彼自身がかつてJ.H.ジャクソンの思想的影響を受けた神経学者であったことと関係していよう。さらにその人格発達論と退行理論にはC.ダーウィンの進化論の裏打ちがある。…

※「ジャクソン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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