翻訳|Mali
1960年にフランスから独立。人口約1760万人。北部はサハラ砂漠だが、南部では農業が盛ん。国民の大半は穏健なイスラム教徒。北部ではイスラム過激派「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ組織(AQMI)」や、遊牧民トゥアレグ人の反政府武装勢力が活動してきた。2013年1月、北部の過激派掃討のためフランスが軍事介入。現在は国連平和維持活動(PKO)部隊が展開するが、襲撃テロや外国人誘拐などが起きている。(共同)
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基本情報
正式名称=マリ共和国République du Mali
面積=124万0192km2
人口(2010)=1330万人
首都=バマコBamako(日本との時差=-9時間)
主要言語=バンバラ語,フルフルデ語,ソンガイ語,タマシェク語,フランス語
通貨=CFA(アフリカ金融共同体)フランFranc de la Communauté Financière Africaine
西アフリカの内陸に位置する共和国。国土は西アフリカの長流ニジェール川の中・上流域にあたる。
国土は,南北に北緯10°から25°まで,東西には東経4°から西経12°まで広がっており,北はサハラ砂漠から南はサバンナ樹林まで変化に富んだ自然を有している。地形は全体として古生代の地層を母岩とする丘陵や台地がゆるやかに広がり,南西端から中東部にかけてニジェール川が大きな弧を描きながら流れている。国土の中央部でニジェール川は大きな内陸沖積平野を形成し,大小無数の分流や湖沼をつくっている。
気候は北に向かうほど乾燥が激しく,北部の大半は砂漠で,ほとんど降雨をみない。中部,南部一帯はステップないしサバンナ気候帯で,一年が乾季と雨季とに分かれ,年間1000mm前後の降雨がある。さらにギニアとの国境に近い南西端部では1600mm近い年降水量があり,樹林は密になってくる。
執筆者:端 信行
住民には,ニジェール・コンゴ語派のうちのマンデ系の言語(マンデ語群)を話す人々が最も多い。マンデ系の言語は,西アフリカのハウサ語や,東アフリカのスワヒリ語に匹敵する大きな言語人口を持つ。マリ国内のマンデ諸族Mandeには,バンバラ族(166万),ソニンケ族Soninke(サラコレ族Sarakole)(42万),マリンケ族(30万),カソンケ族Khassonkeなどの農耕民や,交易に従事するデュラDyula商人が含まれる。そのほか,大西洋側語群,ボルタ語群など言語系統の異なる部族のなかで有力なのは,中部のニジェール川が形成する内陸デルタ地域に居住するフルベ(フラニ,プール)族(55万),南部に住むセヌフォ族(43万),東部のニジェール川の大湾曲部に住むソンガイ族(30万),バンディアガラ山地に住むドゴン族(24万),北部の砂漠を生活の舞台とするトゥアレグ族や,その南のサヘル地帯に住むモール族Maureなどである。
バンバラ族は人口が最大で,しかも首都のバマコの住民でもあり,国内で最も大きな勢力をもっている。マリの言語政策はフランス語を公用語としているが,人口や文化を考慮してバンバラ語,フルフルデ(フルベ)語,ソンガイ語,タマシェク語(トゥアレグ族の言語)の四つを国語に決めて,まずバンバラ語の正書法の画定作業に取りかかった。マンデ語系諸族は,かつて14世紀に栄えたマリ帝国の担い手の子孫であるという自負をもち,言語のみならず,社会組織や伝統的信仰の面でも,深い文化的統一性をもっている。サバンナに住む彼らの生業はトウジンビエ,モロコシ,フォニオ,イネなどの穀類を栽培する農耕である。社会は共通の姓とタブーとをもつクラン(氏族)から構成され,ケイタというあるクランの系譜はマリ帝国の王家につながる。ケイタは今日では各地に分散するが,7年に一度,ニジェール川上流のカンガバにおいて大祭を繰り広げ,マリ帝国の事蹟をしのぶ。この際に,彼らの英雄,初代のマリ王スンディアタの叙事詩を語るのが,グリオ(楽師)である。マリンケなどは早くからイスラムを受容したが,バンバラの場合,最初はそれに抵抗した。バンバラの有名なカモシカの頭飾(ティワラ)をつけるダンスは農耕儀礼であるが,これらの儀礼はコモ結社により行われる。バンディアガラ山地に住むドゴン族は,言語的にはボルタ語群に属する言語を話すが,文化的にはマンデ系のものを受け継いでいる。特異な神話をもち,二元論的な宇宙観,世界観をもち,蛇や鳥などの動物や各種の人間など,さまざまな世界を表現する仮面を用いた踊りで有名である。
ニジェール川が中流で形成する大湿地帯には,フルベ族がまとまって居住する。彼らは早くから熱心なイスラム教徒になり,19世紀のイスラム改革運動に一役買った。ニジェール川上では,ボゾ族Bozoが船上生活を送り,漁労を行っている。ニジェール川の大湾曲部には,ジェンネ,モプティなどの町が繁栄したが,なかでもトンブクトゥはマリ帝国の時代に商業的繁栄とともにイスラムの学問の都市として名声が鳴りひびいた。トンブクトゥからガオにかけての地域には,ソンガイ族が住んでいる。ソンガイ族も14世紀末ごろから隆盛を成したソンガイ帝国の担い手であり,やはり早くからイスラム化している。サハラ砂漠を生活の舞台とするトゥアレグ族はニジェール川沿いの町や村の近辺にも居住している。トンブクトゥの社会では支配層を形成し,かつてはソンガイ農耕民からも貢納を取り立てていた。
マリの社会,文化には,アフリカでも早い時代に浸透したイスラムの要素が強く残っており,住民の65%がイスラム教徒である。キリスト教徒は5%にすぎない。その他の人々は部族固有の伝統宗教を信仰している。
執筆者:赤阪 賢
北はサハラ砂漠,その南縁のサヘル地帯から,南はサバンナ地帯に広がる広大な現在のマリの領土上には,植民地化前の西アフリカ史を色どる数々の王国が建設され,繁栄し,やがて滅亡していった。今日,知られている最も古い王国は,現在のモーリタニア南東部のクンビ・サレを中心に9世紀から12世紀まで繁栄していたとアラブの文献に記録されているガーナ王国である。続いてニジェール川流域を中心にスンディアタがマリ帝国を建設した。12世紀から15世紀までマリ帝国は,サハラを縦断し金を求めて渡来するアラブのキャラバンとの交易を独占することによって繁栄した。この帝国の最盛期の14世紀には,その版図は今日のマリ,セネガル,ガンビア,さらにはモーリタニアの一部にまで拡大した。そしてこの最盛期に王位にあったマンサ・ムーサは1324年から25年にかけてサハラ,エジプトを経由してメッカまで巡礼を行った。
15世紀,マリ帝国の権勢が衰え始めたころ,これに代わって北東部のガオを本拠とするソンガイ帝国が興隆した。この帝国は,1591年,サハラを越えて南進してきたモロッコ軍との戦争に敗北し崩壊した。これらの帝国が盛衰を繰り返した時期,サハラの南縁にはいくつかの交易都市が建設され,繁栄した。とくにニジェール川左岸に,12世紀,遊牧民トゥアレグのキャンプ地として建設されたトンブクトゥは,マリ帝国に始まって,その政治的支配者はつぎつぎに変わっていったが,交易のみならず文化の中心地として繁栄を続けた。ソンガイ帝国を滅亡させたモロッコの支配は1世紀間も持続せず,17世紀に入ると,フルベ族のマシーナMacina王国,バンバラ族のセグーSégou王国,カアルタKaarta王国など,数多くの小王国が誕生し,群雄割拠の時代となった。
19世紀後半,フランスがこの地域に進出し始めたころ,これに対応してこの地域の政治的統合を企図した政治指導者が出現した。その一人がサモリ・トゥーレである。1830年ころ現在のギニアの北東部に貧しい農民の息子として生まれた彼は,わずか数十年のうちに周辺の小王国を制覇し,現マリの南部からギニア,コートジボアールの内陸部一帯にかけて,版図19万km2に達する帝国を建設することに成功した。そして彼は植民地化初期の民族的英雄としてフランス軍に抵抗したが,98年に敗北し,ガボンに流刑された。
他方,現ギニア中北部のディンギラエを本拠地として台頭してきたトゥクロールTukulor帝国のハジ・ウマルは,イスラムの聖戦(ジハード)を宣言し,カアルタ,セグー,マシーナなどの王国を制圧していった。しかし1864年死去したハジ・ウマルを継いだアマドゥAmadou王は,92年フランス軍によって追放された。
19世紀後半,セネガル沿岸の拠点から内陸部への進出を開始したフランス軍は,この地域内に存在していた諸政治勢力に対して,外交手段あるいは武力を用いて支配領域を拡大し,1892年この地域をフランス領スーダンとして植民地化した。このフランス領スーダンは,その後,行政的にセネガルに併合されたり,また領土の一部がフランス領ギニアに編入されるなど,紆余曲折を経,今日のマリの領域が確定したのは1920年のことである。
60年6月20日,フランス領スーダンはセネガルと連邦を形成し,マリ帝国の名を冠しマリ連邦として独立を達成した。しかしわずか3ヵ月たらずで連邦は解体し,同年9月22日,単独でマリ共和国となった。
スーダン同盟の指導者として独立運動を推進したケイタModibo Keitaは,1960年のマリ共和国の成立と同時に初代大統領に就任した。彼は,ガーナのエンクルマ,ギニアのセク・トゥーレらとともにアフリカの急進派グループを形成し,親社会主義的な外交路線をとった。62年には旧フランス領西アフリカ諸国と旧宗主国フランスとの経済的紐帯である西アフリカ通貨同盟から離脱し,独自にマリ・フランを発行するなどして,フランスの政治的・経済的影響力を払拭しようと試みた。しかしケイタの社会主義路線は,ガーナのエンクルマの場合と同じように期待したほどの成果をあげえず,エンクルマ失脚の2年後の68年にケイタもまた軍事クーデタによって失脚した。
この軍事クーデタを指揮したトラオレMoussa Traoréは国民解放軍事委員会の議長に就任し,軍政のもと経済再建に乗り出した。そして74年には国民投票によって新憲法が成立し,この新憲法に基づいて実施された79年の選挙でトラオレが大統領に当選した。これにより形式上では10年にわたる軍政に終止符が打たれ,マリはトラオレを書記長とするマリ人民民主同盟を唯一の政党とする一党制国家となった。トラオレが政権の座についてから,その外交路線は徐々に親西欧化し,84年には1962年離脱した西アフリカ通貨同盟への復帰も実現した。トラオレは85年の大統領選挙で再選された。しかし1980年代末からトラオレの独裁,マリ人民民主同盟(UDPM)の一党制に反対し政治の民主化を求める声が高まってきた。それは91年3月最高潮に達し,100人以上の死者,1000人以上の負傷者を出すという政治的動乱の中,アマドゥ・トゥマニ・トゥーレ中佐の率いる軍部が介入し,トラオレ大統領を逮捕するとともに民主化諸勢力との対話を通じて事態を収拾した。翌92年1月には複数政党制を認める新憲法が国民投票で承認され,4月にはこの新憲法のもと大統領選挙が行われマリ民主主義協会(ADEM)のアルファ・ウマール・コナレ(Alpha Oumar Konaré)が当選,民政移管は平穏裡に行われた。
執筆者:原口 武彦 1990年以降,北部のトゥアレグ住民が自治権,さらに独立などを要求して武装蜂起した(トゥアレグ問題)。92年成立したコナレ政権は和平への努力を続け,トゥアレグ勢力のマリ国軍への統合を進めた。96年にはトゥアレグ問題の終結を告げる〈平和の火〉式典が行われ,難民化して近隣諸国に居住するトゥアレグ住民の帰還が急がれている。
執筆者:編集部
植民地化前,アラブ世界とのサハラ縦断交易で数多くの王国が繁栄し,西アフリカの先進地域であったが,19世紀後半以降,海を通じてのヨーロッパとの接触に重心が移ったことによって,外海に面していない内陸国マリの経済発展は停滞し,世界で最も開発の遅れた国の一つに転落した。
今日なお就業人口の70%以上が,農・牧畜業に従事する農業国であり,ほとんどの農民はミレット,モロコシ,トウモロコシなどの主食作物を栽培し,若干の家畜を飼育する自給自足的生産にとどまっている。そして1973年にこの地域を襲ったサヘル大干ばつ以来,その後も天候不順の年が多く,マリにおける飢饉,食糧不足の問題は恒常化し,毎年,諸外国へ大量の食糧援助を要請しなければならない状況が続いている。輸出用産品としては,綿花,ラッカセイ,それに沿岸国向けの家畜などがあるが,石油をはじめとする必要最小限の工業製品の輸入を賄うには足らず,貿易収支の赤字も,独立以来,恒常化している。
工業における主要な分野,農業におけるサトウキビのプランテーションなどは,ケイタ大統領の時代にソ連,中国など社会主義圏諸国の援助によってつくられた国営企業が担っている。鉱物資源については,日本によるウラニウム探査をはじめ,石油,リン鉱石などについて探査が行われているが,いまだ開発可能な有力な鉱脈は発見されていない。
このような経済的停滞が続くマリから,近隣のアフリカ諸国への,さらにはフランスへの出稼労働者はかなりの数に達している。
執筆者:原口 武彦
シリア東部,ユーフラテス川中流域の西岸,アブー・カマルの上流約11kmにある古代都市。現代名はテル・ハリリTell Haririで,1933年1個の彫刻を偶然に発見したことをきっかけとして,フランスのパロA.Parrotが発掘を続行し,この遺跡がシュメール王名表の大洪水後10番目の王権の所在地と記されているマリであり,アッカド人が居住していたことがわかった。そして初期王朝期のシュメール・アッカド世界を北西へ大きく拡大したばかりでなく,出土したタブレットによって前2100年ころと考えられていたバビロン第1王朝のハンムラピの即位年代を,前1792年または前1728年に大きく変更するという結果をももたらした。つまりメソポタミアの歴史を大きく書き換えた発掘である。
テルは北西から南東に長い平行四辺形で,長辺900m,短辺600m,高さは14.6mある。ジャムダット・ナスル時代からパルティア時代までの遺構のなかで,初期王朝期の宮殿とイシュタル神殿,ハンムラピの攻撃を受けて敗れたジムリリムZimri-lim王(在位,前1790-前1759)の宮殿などが顕著なものである。宮殿は代々の王たちが必要に応じて拡大していったもので,間取りはシュメール風の住居と同じ原則により,屋根のない中庭のまわりにさまざまな部屋を配置してある。およそ200m×120mの大きさで部屋は260,まわりの壁を壁画で飾った中庭があり,隣は玉座の間で,外に書記の学校,代官室,貯蔵庫などもある。この壁画はジムリリムが女神イシュタルから王権を授かる場面が中心である。マリはハンムラピに占領され,のち破壊されて炎上した。宮殿115室から約2万枚のタブレットが発見された。大部分はマリ国王にあてて臣下や西アジア諸国の君主から送られた報告と書簡であり,アッカド語を用いて楔形文字で記されている。前19~前18世紀におけるメソポタミアとシリアの政治・外交を明らかにする重要な史料で,一般に〈マリ文書〉と呼ばれている。また優れた彫刻を含む多数の遺物のなかで,ウル第1王朝の王メスアネパダがマリのガル神にささげたラピスラズリ獅子鷲像をはじめとする〈ウル遺宝〉はとくに重要である。
執筆者:小野山 節
中央アジア,トルクメニスタン共和国東部のオアシス都市で同名州の州都。人口12万3000(1999)。ムルガーブMurghāb川の下流の古くからの都市メルブの南西に19世紀初めに建設された。19世紀の80年代にロシアの統治下に入り,1886年にカスピ海東岸より延びてきた中央アジア鉄道によってロシア中央部と結ばれるようになり,以降地方の綿花,穀物の集散地として発展した。
執筆者:堀 直 人口は1897年8500,1939年3万7000,59年4万8000と増加し,1937年までメルブと称した。現在,軽工業,食料品,機械製作,建設資材等の工業があり,トルクメンバシ(旧クラスノボーツク)~タシケント鉄道のクシカ方面への分岐点である。なおマリ州は面積8万6800km2,人口86万(1991),共和国最大の綿花栽培地区,牧羊地区で,ブドウ栽培,養蚕も盛んで,綿花精製,洗毛,じゅうたん,食料品等の工業がある。
執筆者:木村 英亮
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
西アフリカ内陸部の国。正式名称はマリ共和国République du Mali。スーダン地方西部にある乾燥内陸国で、北はアルジェリア、東はニジェール、南はブルキナ・ファソ、コートジボワール、ギニア、西はセネガル、モーリタニアと接している。国名は、13~15世紀西アフリカに栄えたマリ帝国に由来する。面積は124万0192平方キロメートルとアフリカでも広い国の一つだが、サハラ砂漠部分が広い面積を占め、人口1221万4000(2006推計)、1452万8662(2009センサス)の大半は、ニジェール、セネガル両川流域と、南部のサバナ地域に居住する。古くから北アフリカ、スーダン地方、ギニア湾岸地域を結ぶ交易の中心地として栄えたが、近世以降衰微し、1960年代以後のたび重なる干魃(かんばつ)でも大きな被害を受けた。首都はバマコ(人口181万0366、2009センサス)。
[藤井宏志]
国土は全体として標高300~400メートルの台地と盆地からなる単純な地形を示す。例外的な高地は、北東のイフォラ山地、ギニア国境のフータ・ジャロン山地、そしてブルキナ・ファソ国境に近いドゴン高原の3か所である。このうちドゴン高原は壮大な断崖(だんがい)に囲まれており、独自のドゴン民俗文化を保持してきた。河川は南西端から中東部にかけてニジェール川の中・上流部1500キロメートルが貫流し、西部をセネガル川上流部100キロメートルが流れている。ニジェール川のセグー―トンブクトゥ間には、巨大な網流地帯を有する内陸デルタがあり、マシナ大湿原とよばれている。トンブクトゥとニジェール川河岸のジェンネ旧市街はユネスコの世界遺産に登録されている。国の北半は不毛の砂漠地域であるが、南部のサバナ地域も表土が固いラテライト皮殻(キラス)に覆われ、農耕の障害となっている。
気候は、北部が砂漠気候、中部がステップ気候、南部がサバナ気候と、緯度により明確に分かれている。いずれも夏が雨期、冬が乾期であるが、砂漠地域の降水量はきわめて少なく、ステップ地域も近年しばしば大干魃(かんばつ)にみまわれている。これに対してサバナ地域では年間700~1100ミリメートルの降水量がある。気温は夏は全体に高温で、とくに砂漠地域では日中40℃を超える。冬はかなり涼しくなり、12月にはサバナで20℃、砂漠で10℃以下になることがある。また冬はサハラ砂漠からの北東風の砂嵐(すなあらし)ハルマッタンが吹き荒れるのも特徴である。
[藤井宏志]
主としてマリの領土となっているニジェール川上・中流域は、古くから北、西アフリカ交易の十字路で、この地域を中心に西アフリカ史上重要な大国が興亡した。2010年時点で明らかにされているもっとも古い王国はガーナ帝国で、9世紀から栄えたとされている。13世紀から発展したマリ帝国は、西アフリカ一帯を支配して金、塩の交易で繁栄した。その栄華はヨーロッパにも知られ、トンブクトゥはイスラム教(イスラーム)と学術の中心地であった。続いて15世紀に興ったソンガイ帝国も広い範囲に勢力を伸ばしたが、16世紀末モロッコの侵入を受けて崩壊し、その後は小国が乱立する群雄割拠の時代となった。18世紀後半からはマンゴ・パークやルネ・カイエRené Caillié(1799―1838)などヨーロッパ人探検家が来訪するようになり、19世紀後半セネガルから内陸に進撃してきたフランス軍により、この地域はフランス領スーダンとして植民地化された。フランス領スーダンはその後セネガルと併合されたり、領土の一部がフランス領ギニアに編入されたりなどしたが、1920年領域が確定し、フランス領西アフリカ連邦の一員となった。
第二次世界大戦後、独立運動が盛り上がり、1960年6月セネガルとともにマリ連邦として、いったん独立を達成した。しかし同年8月セネガルが連邦を離脱したため、9月単独のマリ共和国となった。初代大統領モディボ・ケイタは8年間政権を担当したが、社会主義政策が成果をあげず、経済は苦境に陥った。このため1968年軍事クーデターが起き、ムッサ・トラオレMoussa Traoré(1936―2020)を議長とする民族解放委員会が政権を握り、以後10年間軍政が続いた。1979年民政に移管し、トラオレが大統領選に出馬して当選し、第2代大統領に就任した。
[藤井宏志]
1974年の民政移管で大統領となったトラオレは、1991年3月、中佐トゥーレAmadou Toumani Touré(1948―2020)によるクーデターで逮捕され、マリ人民民主同盟(UDPM)の一党独裁は終わった。同年4月、複数政党制と直接選挙を定めた新憲法が国民投票で成立した。1992年3月議会選挙が行われ、マリ民主同盟(ADEMA)が多数を占め、翌月の大統領選挙でADEMA党首のコナレAlpha Oumar Konaré(1946― )が当選した。1995年、北東部イフォラ山地のベルベル系遊牧民トゥアレグの独立を要求するゲリラ活動があったが、1996年コナレと和解、反政府活動は収まった。1997年5月コナレ再選。コナレの任期満了に伴い、2002年5月に行われた大統領選挙ではトゥーレが当選、6月に就任した。トゥーレは2007年11月の大統領選挙で再選された。
外交は非同盟中立であるが、旧宗主国フランスとの関係が緊密である。地方行政は、八つの地方行政区からなる。司法は地方裁判所のほか、バマコに最高裁判所、特別控訴院がある。軍は徴兵制(2年)で、総兵力7350人、陸軍6900人、海軍50人、空軍400人(2009)である。
[藤井宏志]
かつてはアラブ世界とのサハラ縦断交易で繁栄したが、ヨーロッパとの海を通じての接触に重点が移ると、内陸にあることから開発に後れをとった。現在も農牧業に有利な商品がなく、工業化も遅れており、1人当り国民総所得は580ドル(2008)ときわめて低い。社会主義政策の失敗から、1982年、23の国営企業は10に整理された。また1964年以降西アフリカ通貨同盟から離脱していたが、1984年復帰した。1990年代に入り、IMF(国際通貨基金)・世界銀行の構造調整計画を受け入れた。
農牧業は就業人口の40%(2004)が従事する基幹産業であるが、乾燥地域が広く灌漑(かんがい)も不十分なことから収量は低い。近年の干魃(かんばつ)と人口増もあって主食用作物(トウモロコシ、アワ、米など)をはじめ食糧は不足しており、外国の援助を受けている。商品作物にはニジェール川流域で栽培される綿花、セネガル河谷地域のラッカセイなどがあり、ギニア湾岸諸国向けの家畜とともに重要な輸出品となっている。おもな農産物の生産高はアワ118万トン(2006)、ラッカセイ32万トン、米108万トン、トウモロコシ90万トン、綿花7万6000トン、綿実(めんじつ)18万トン。家畜の頭数はウシ84万頭、ウマ10万頭、ロバ738万頭、ヒツジ887万頭、ヤギ967万頭、ラクダ96万頭、ニワトリ3300万羽である。
農牧業以外の産業ではニジェール、セネガル両川の淡水漁業が重要である。モプティ、セグー、ガオを中心に10万トンの漁獲をあげ、干し魚が輸出されている。鉱産資源は、サハラ砂漠のタウデニで古くから岩塩を産するほか、セネガル川流域に石灰石、大理石、鉄鉱石、セグーにボーキサイトがあり、開発が進められている。近年、日本によるイフォラ山地のウラン鉱探査など、外国資本による資源調査が活発に行われ、金、リン鉱石の産出が多い。工業は、ラッカセイ油、綿花処理、タバコ、製糖など農産物加工が中心で、ほかにはセメント、ビールの工場がある。
貿易は、農畜産物を輸出し、石油、工業製品を輸入する典型的な非産油途上国型の貿易構造を示し、貿易収支は慢性的に大幅な輸入超過である。現在でも旧宗主国フランスとの関係が強い。主要輸出品目(2007)は、綿花(13.8%)、家畜(5.4%)、一般機械(1.0%)、ラッカセイ、干し魚。主要輸入品目は、石油製品(21.5%)、機械・車両(10.2%)、電気機械、化学製品。主要輸出相手国は、南アフリカ(67.1%)、スイス、セネガル、コートジボワール、主要輸入相手国は、セネガル(19.8%)、フランス、コートジボワール、中国、ベナンである。
交通網のうち道路は総延長1万8000キロメートル(1992)だが、雨期にも使えるのは半分にしかすぎない。バマコとガオを結ぶ幹線道路も未整備なため飛行機が利用されることが多い。鉄道はセネガルのダカールからバマコの外港のクリコロまで通じている。空路は空港が10あり、うちバマコとモプティは国際空港で、パリ、ダカール、コートジボワールのアビジャンなどと結んでいる。ニジェール川は水上交通路として利用され、バマコとガオ間には汽船が定期運航されている。
[藤井宏志]
古くから交通の十字路であったため多数の部族が住む。主要部族は遊牧・牧畜民と農耕民に大別される。遊牧・牧畜民には、サハラ砂漠のオアシスを中心に遊牧するトゥアレグ、モールと、内陸デルタで牧畜を行うフルベ(フラニ、プール)がいる。農耕民は、モーリタニアに近い北西部のサラコレ、トンブクトゥからガオにかけてのソンガイ、南東部ドゴン高原のドゴン、バマコからセグーにかけてのバンバラ、西部のカソンケ、トクルール、マリンケ、南部のセヌフォ、ボボである。このうちバンバラが33%といちばん多く、フルベ、セヌフォ、サラコレがそれぞれ10%でこれに次ぐ。各部族には独自の伝統文化がある。なかでもドゴンは特異な神話と二元論的宇宙観、世界観をもち、仮面ダンスが世界芸術祭で大賞を得たことで知られる。公用語はフランス語で学校教育にも使用されているが、日常生活には部族語が用いられている。そのうちバンバラ語は広く通用し、アルファベット化も進められている。宗教は、人口の65%がイスラム教徒(ムスリム=イスラーム信者)で、30%が伝統宗教を信じ、キリスト教徒は5%である。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の世界遺産として前出の「ジェンネ旧市街」「トンブクトゥ」のほかに、「アスキア墳墓」(以上、世界文化遺産。すべて危機遺産リスト入り)「バンディアガラの断崖(ドゴン人の地)」(世界複合遺産)が登録されている。
人口の年平均増加率は2.4%(2000~2005)で、近年は都市へ集中する傾向にある。またセネガル、コートジボワールに35万人、フランスに2万人の労働移民者が出ている。医療水準は低く、総合病院はバマコにしかない。教育は小学校、中学校、リセ(後期中等教育の高校にあたる)の上に、高等師範、技術専門学校などがあるが、総合大学はなく、大学進学者は海外に留学する。小学校の就学率は80%(2006)である。識字率向上のため全国に1300以上の教育センターが設置されているが、成人識字率はまだ男34.9%、女18.2%(2007)である。
[藤井宏志]
マリにとって日本は重要な貿易相手国で、2008年(平成20)の対日輸出はゴム手袋、打楽器、トカゲ、装飾品を中心に2166万円、対日輸入は米(24.6%)、タイヤ、自動車、一般機械、鉄鋼を中心に7億8468万円であった。1975年日本の動力炉・核燃料開発事業団(のちの核燃料サイクル開発機構、現・日本原子力研究開発機構)が、北部のウラン探鉱でマリ政府との協定に調印、マリのウラン鉱開発は日本の独占となった。経済協力として日本は食糧援助、地下水開発、砂漠化防止などを行っている。
[藤井宏志]
『ケイタ慎子著『マリ共和国・花嫁日記』(1980・徳間書店)』▽『中村弘光著『アフリカ現代史Ⅳ 西アフリカ』(1982・山川出版社)』▽『川田順造編『ニジェール川 大湾曲部の自然と文化』(1997・東京大学出版会)』▽『岩田拓夫著『アフリカの民主化移行と市民社会論』(2004・国際書院)』▽『岩田拓夫著『アフリカの地方分権化と政治変容』(2010・晃洋書房)』
ロシアに住むウラル系少数民族の一つで、ボルガ川中流のロシア連邦マリ・エル共和国の主要な住民である。チェレミス人Cheremisともよばれていた。周りのロシア語とはまったく別なボルガ・フィン語派のマリ(チェレミス)語を使用していて、隣接する同連邦内のモルドビン(モルドバ)共和国のモルドビン(モルドバ)人に近く、6世紀中ごろの東ゴート王国の年代記に出てくるスレムニスカンが彼らのことであるといわれている。その居住地域によって「山地」「草地」「東」などに分けられるが、農民として「山地」住民が比較的裕福なのに比べて、「草地」の人々はボルガ川北岸の低湿地帯に長く恵まれない状態で置かれたまま今日に至っている。「東」は、帝政時代に過酷な税から逃れて移住した人々の子孫が住み着いた場所であるという。自然の採集法で知られる蜂蜜(はちみつ)や蜜蝋(みつろう)は19世紀初めごろまでは重要な交易物資であり、また貢納品でもあった。最近では森林地帯での製材やパルプ工業に従事する人々が多く、女性の間では伝統的な装飾品に飾られた衣装が伝えられ、音楽ではバグパイプ、チター属の半円型弦楽器、白樺(しらかば)の皮でつくった笛などの民族楽器が知られている。恵まれた口承文芸からは民族文学も生まれている。現在では2種類の文章語による新聞が発行されていて、首都ヨシカル・オラの民族科学研究所からは歴史、経済、民俗学などの研究成果が刊行されている。最近は、旧ソ連内の同系族であるエストニアなどとの交流が盛んである。
[菊川 丞]
ユーフラテス川中流右岸、イラク国境に近いシリア領、アブ・カマル近郊の古代の都市遺跡。1933年以降(1935~38、1951~54)、A・パロの指揮するフランスの調査隊が、都市遺跡を掘り起こした。その遺跡・遺物は、ジェムデト・ナスル期(前3000前後)からササン朝時代にわたっている。同地は、交易および軍事上の拠点として発展し、とくにシュメール初期王朝時代とハンムラピ(ハムラビ)の治世(前18世紀)にもっとも繁栄した。遺跡からは、シュメールの影響を受けて建造されたイシュタル神殿、シャマシュ神殿や、各時代の宮殿跡、ジッグラト(神殿塔)などが発見され、注目をひいた。彫刻など美術品にはシュメールの伝統が保存されているのに対し、言語は早くからセム語が使用されていた。なかでも紀元前18世紀の宮殿の壁画や美術品はエーゲ文明圏との緊密な関係を伝える貴重な史料である。マリ王国は、アッシリア王シャムシ・アダド1世(在位前1813~前1781)に征服され、同王のもとで繁栄、同1世の子ヤスマク・アダドをマリ王に任じマリを支配(~前1781)、ついでマリの王子ジムリリムがマリを再建し、ハンムラピの援助を得て交易活動はクレタ島まで及んだが、ハンムラピに滅ぼされた(前1761/51)。シュメール時代の神殿やジムリリム王の王宮付属文庫から発見された外交文書を含む2万5000枚余の楔形(くさびがた)文字アッカド語で記された『マリ王室文書』(1946~67公刊)は、ハンムラピの治世年代を決定するうえに役だったのみならず、前19~前18世紀の国際関係および社会経済史を解明するうえに重要な史料である。
[高橋正男]
球形の遊戯具。まるい形という古語「まろ」(まる)からきている名。皮革、糸布、ゴム、プラスチック製などがある。奈良時代、すでに蹴鞠(けまり)が中国から伝えられ、平安時代以後も京都の公家(くげ)階級を中心に行われた。その後、手を用いる手まり遊びが生まれた。最初は手玉式にまりを投げ上げ、それを地面に落とさないように受け止める遊びであったが、この曲芸をしてみせる品玉(しなだま)づかいという旅芸人も現れた。江戸時代、弾力性をもつ木綿糸の普及から、下方について遊ぶ糸まりがつくられた。糸まりは、ぜんまい、おがくずなど弾力のあるものを綿や布で包み、芯(しん)にしてその上に絹糸などを巻き、美しい模様に仕上げたもので、少女たちの玩具(がんぐ)として親しまれた。現在も郷土玩具として各地にみられる。1882、1883年(明治15、16)ごろからドイツ製ゴムまりが輸入され、1898年ごろから国産品が出回った。その後野球、テニスなどの登場で需要が激増、広く愛用されている。
[斎藤良輔]
イギリスの批評家。女流作家キャサリン・マンスフィールドの夫。月刊文芸誌『アデルフィ』を主宰(1923~48)するかたわら広い分野にわたって著述。玉石混交といわれる乱作にもかかわらず、処女評論『ドストエフスキー』(1916)をはじめ、キーツとシェークスピア、D・H・ローレンス、ブレイクらを論じたロマン主義的立場からの論著、広い文学的素養を示す『文体の問題』(1922)などの好著がある。
[土岐恒二]
ロシア連邦西部にあるマリ・エル共和国Республика Марий Эл/Respublika Mariy Elの旧称。1990年にマリ自治ソビエト社会主義共和国Марийская АССР/Mariyskaya ASSRからマリ・エル共和国となった。
[編集部]
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(大迫秀樹 フリー編集者 / 2013年)
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…前2000年ころからアモリ人はメソポタミア沃地に侵入し定着するようになる。中でもユーフラテス川中流域に栄えたマリはアモリ人の国として有名。マリを征服したバビロン第1王朝のハンムラピ王もアモリ人である。…
…第III期(前26世紀からアッカド王朝成立時まで)になると,彫刻では様式化にこだわらず人体の自然な特色を表現することに関心が向けられるようになった。彫像の体つきは丸味をおび,〈カウナケスkaunakes文様〉と呼ばれる手法を用いて頭髪やあごひげ,身にまとっている毛皮の柔らかい質感が表現された(マリ出土の〈エビー・イル像〉など)。またこの時期には,浮彫をほどこした壁面装飾用の石板が多く作られた。…
…イシュチャリIshchaliのイシュタル・キティトゥム神殿が,複数の建物を一つの複合体の中にまとめることに成功した例として知られている。ユーフラテス川中流域のマリではこのころから再び繁栄期をむかえ,前18世紀前半にバビロン第1王朝のハンムラピ王によって滅ぼされるまで華やかな文化が栄えた。マリのジムリリムZimri‐Lim王の宮殿は,複雑な機構をもった宮殿建築の遺例として知られているばかりでなく,壁画が発見されたことでも名高い。…
…治世11年から29年ころまでは,年名から判断するかぎり,対外戦争に対する言及はなく,ハンムラピはもっぱら神々の玉座や神像の作製,神殿の修築などの宗教事業,および城壁の建設,運河の浚渫(しゆんせつ)などの国防・灌漑事業に専心,国家の精神的・物質的強化に腐心したと思われる。マリ出土の書簡によれば,この当時彼の支配するバビロンは,ラルサ,エシュヌンナ,マリ,アレッポ(ヤムハド),カタヌム(カトナ?)などと並ぶ勢力ではあっても,それ以上のものではなかったらしい。そしてハンムラピはマリやラルサの諸王と密接な同盟関係を結び,もっぱら巧みな外交によって国威高揚に努めたようである。…
…首都アガデの位置はいまだ不明である。サルゴンはシュメール地方を征服しただけでなく,東方エラム地方,ユーフラテス中流域のマリ,さらにはレバノンにまで軍事遠征を行い,最初の帝王として古代西アジアで長く記憶され続けている。またこれ以後セム人がメソポタミア最南部地方にも広く住んだ。…
※「マリ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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