ドイツの画家。ドレスデンに生まれる。1948年から舞台や看板のデザインを学びはじめ、58年ドレスデンの美術学校に入学、主に写実主義的な絵画を学ぶ。看板のデザインや写実主義芸術は、旧東ドイツのような社会主義国家では、大いに奨励された芸術だった。
59年、旧西ドイツのカッセルで開かれていた第2回ドクメンタを見たことを機に当時の前衛に目覚め、同時に西側に渡ることを決意した。61年、西ドイツのデュッセルドルフに移住。同地の芸術アカデミーに学び、ここで後にそれぞれドイツを代表する芸術家となるジグマール・ポルケ、コンラート・リュークKonrad Lueg(1939―96、後コンラート・フィッシャーFischerと改名)らと出会う。またヨーゼフ・ボイスの存在を知る。
63年、リューク、ポルケと協同でパフォーマンス作品『ポップのある生活――資本主義リアリズムのための示威行動』を発表。「資本主義リアリズム」とはもちろん「社会主義リアリズム」のパロディーであり、しかもそれを「社会主義リアリズム」の本場から来た画家が唱えるという、アイロニーに満ちた作品だった。
同時に、このころから「写真絵画」と呼ばれる独自の絵画を制作し始める。それは新聞や雑誌などに掲載されたありきたりの写真を選んで、それを写真でいうブレやボケを模しながら拡大し、カンバスに描き写すものだった。これらの作品でわかるように、リヒターは純粋に絵画を目指していたというよりは、ネオ・ダダ的、あるいはポップ・アート的な表現の一つとして、絵画を選択していたのである。
かつて「絵画を死に追いやるもの」といわれた写真を絵に描いたことに見られる、リヒターの絵画に対する屈折した態度は、その後の長い期間にわたる彼の作品制作にも一貫している。1960年代末には全面が灰色で塗りこめられた「灰色」シリーズ、そして70年代後半からは「抽象絵画」シリーズの制作が始まる。無味乾燥な前者はもちろん、後者も一般的な抽象絵画とは違って、写真のブレやボケを含んだ抽象絵画、写真と絵画が混在しているような作品となっている。しかも、現代画家の多くが具象から抽象へと自作を変化させてゆくのから距離をとって、リヒターは「抽象絵画」シリーズと並行して「写真絵画」も制作している。さらにその後も、鏡やガラスなどを使った立体作品、また写真に抽象絵画の要領で油絵の具を塗りつけた「オイル・オン・フォト」など、いくつかのシリーズを加えながら、複数のスタイルの作品を同時並行的に制作した。
リヒターの作品のなかには、よりコンセプチュアル・アートに接近したものもある。「写真絵画」のもとになった写真を含む、自身の膨大な写真コレクションを一堂に展示する『アトラス』(最初の発表は1972)、そして西欧の重要な芸術家、作家、哲学者、建築家らの生没年を一覧表にした『調査』(1998)などである。いずれも社会や歴史といったものに対するこの芸術家の洞察が表れている。
[林 卓行]
『ゲルハルト・リヒターほか著、清水穣訳『ゲルハルト・リヒター――写真論/絵画論』(1996・淡交社)』▽『市原研太郎著『ゲルハルト・リヒター――ペインティング・オブ・シャイン』(1993・ワコウ・ワークス・オブ・アート)』▽『清水穣著『ゲルハルト・リヒター――オイル・オン・フォト、一つの基本モデル』(2001・ワコウ・ワークス・オブ・アート)』
アメリカの物理学者。ニューヨークに生まれる。マサチューセッツ工科大学(MIT)で物理学を学び、1952年に卒業、1956年同大で理学博士号を取得した。その後、スタンフォード高エネルギー物理学研究所に入所、1963年スタンフォード線形加速器研究所(SLAC:Stanford Linear Accelerator Center)に移り、1967年にはスタンフォード大学教授となった。1984年にSLACの所長に就任している。1975年にジュネーブのヨーロッパ原子核研究機構(CERN(セルン))に行き、1年間研究した。
MIT在学時代には加速器サイクロトロンを用いて水銀のアイソトープの同位体交換や微細構造を研究した。やがて、素粒子物理学に興味を抱き、スタンフォード高エネルギー物理学研究所でγ(ガンマ)線による電子・陽電子対の研究を行った。その後、SLACにおいて高エネルギー電子・陽電子衝突装置(SPEAR:Stanford Positron Electron Asymmetric Ring)を設計、建設し、素粒子の研究を続けた。1974年に新種の重い素粒子を発見、ψ(プサイ)粒子と名づけたが、この粒子は4番目のクォークであるチャームクォークの存在を実験的に証明するものであった。ほぼ同時にティンが同じ粒子を発見してJ粒子と名づけていたため、のちにJ/ψ粒子とよばれた。「新種の重い粒子(J/ψ粒子)の発見」により、1976年ティンとともにノーベル物理学賞を受賞した。
[編集部 2018年8月21日]
ドイツの化学者。ヒルシュベルク(現、ポーランドのイェレニャ・グラ)の商人の子。1778年軍の土木部隊に入隊、化学を独学。1785年ケーニヒスベルク大学入学、数学を学ぶ(1789年、博士)。ブレスラウの鉱山局(1795)やベルリン磁器製作所(1798)に化学技術者として勤務。化学結合における量的割合測定に精励し、化学量論という概念を提唱した。『化学量論の基礎』(1792~1794)において、一定量の塩基を中和する酸量とその逆の値を求めた。また、二つの中性塩が中性の他の塩に複分解し、前者から後者の組成が算出できることも示した。ここには定比例の法則が含まれており、中和表は最初の当量表であった。この重要性は、フィッシャーErnst Gottfried Fischer(1754―1831)の紹介(1802)により認められるようになった。
[肱岡義人]
ドイツの鉱物化学者。ドレスデンの生まれ。フライベルク鉱山学校に学び、1871年同校教授、1875年校長となる。助手時代の1863年、色覚異常であった教授のライヒを助け、分光分析によって青色スペクトルを放つインジウムを発見し、その単離にも成功した。吹管分析に優れた試金家であった。
[内田正夫]
ドイツのオルガン奏者、指揮者。ライプツィヒ音楽院でオルガンを学び、1949年有名な聖トマス教会のオルガン奏者に任じられた。51年旧西ドイツに移ってミュンヘンの聖マルコ教会オルガン奏者となる。同年ミュンヘン・バッハ合唱団を、55年同管弦楽団を組織し、その指揮者としても活動、ほどなくこれらの団体を世界的に知られるものに育て上げた。69年(昭和44)両団体と初来日。さらにミュンヘンとアンスバッハで開かれるバッハ音楽祭の音楽監督を務めるなど多彩な活動を展開した。リヒターの生み出すバッハは、緊張感に富む劇的な一面と叙情的・ロマン的な一面をあわせもち、第二次世界大戦後のバッハ演奏に一時期を画した、と評されている。
[岩井宏之]
ドイツ第二帝政期の政治家。死去するまで、プロイセン議会・帝国議会議員を務め、ドイツにおける職業政治家の最初の一人でもあった。進歩人民党に属し、財政専門家として頭角を現し指導者となる。自由主義の原則の立場から、帝国政府の中央集権的政策を激しく攻撃、議会におけるビスマルクの論敵として名をあげ、政治評論活動を通じ、当時もっとも知名度ある政治家であった。1884年左派自由主義政党を統一して自由思想家党を結成したが、彼の独断的指導への反発から党は1893年に再度分裂した。その後自由思想家人民党を組織したが、実際の政治的影響力は低下した。
[木村靖二]
ドイツ生まれの画家、実験映画制作者。ベルリンで生まれる。初めキュビスムの影響を受ける。1916年チューリヒ・ダダに加盟。19年以降スウェーデンの画家エッゲリングViking Eggeling(1880―1925)とともに音楽的な主題による抽象的デッサンの絵巻物、『プレリュード』(1919、ニュー・ヘブン、エール大学)、『赤と緑のフーガ』(1923、ニューヨーク、H・リヒター遺産)などをつくる。この試みをさらに発展させて、21年完全に抽象的な最初の実験映画『リズム21』を制作した。23~26年ベルリンでデ・ステイルの刊行物・雑誌『G』の共同発行者として活躍。41年ナチスに追われてアメリカに亡命、デュシャン、エルンスト、マン・レイらと交流し、シュルレアリスム風の映画『金で買える夢』(1944~47)、『8×8』『ダダスコープ』(1960)をつくった。スイスのロカルノ近郊ムラルトで没。
[野村太郎]
ドイツの画家、版画家、挿絵画家。ドレスデンに版画家カール・アウグストCarl August R.(1770―1848)の子として生まれ、父に版画を学ぶ。出版社の奨学金を受けてイタリアに赴き、同地でコッホJoseph Anton Koch(1768―1839)について油彩を学ぶ。1836年ライプツィヒの出版社と契約を結び、60年代までに2500点に近い挿絵を制作した。それらは主としてドイツの民話・童話に取材した木版画で、ユーモアを交えた優雅な作風は、19世紀におけるもっとも国民的な画家として広くドイツの家庭で親しまれた。油彩では、イタリアとドイツの細密な風景を描いた。回想録『あるドイツ画家の思い出』(1885)がある。ドレスデンで没。
[野村太郎]
ハンガリーの指揮者。ウィーン音楽院で作曲、バイオリン、ホルンを学ぶ。ホルン奏者として活動ののち指揮に転じ、ミュンヘン、ブダペスト、ウィーンの各歌劇場指揮者を務めた。1876年バイロイト祝祭劇場の杮落(こけらおと)しでのワーグナー『ニーベルングの指環(ゆびわ)』全曲初演を指揮。75~98年ウィーン・フィルハーモニー、97~1911年ハレ管弦楽団、1904~11年ロンドン交響楽団の指揮者として活躍。ワーグナー、ブルックナー、ブラームスの作品の紹介と普及に尽力した19世紀後半の名指揮者。
[岩井宏之]
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ドイツ出身の画家,映画作家。ベルリンに生まれ,建築と美術を学ぶ。1912年表現派の〈嵐Sturm〉展に,14年表現主義左派の《行動Aktion》誌に参加。第1次大戦で負傷後,チューリヒ・ダダ運動に加わり,肖像画から抽象芸術に進む。18年作曲家ブゾーニの示唆で,スウェーデンの画家エイェリンクW.Eggelingとともに色彩と形態の対位法的構成を研究し,〈巻物画Rollen〉から映画へと展開した。23-26年エル・リシツキー,建築家ミース・ファン・デル・ローエらと構成主義の雑誌《G》を編集,実験映画では抽象映画(《リズム21》1921)からベルトフ流の実写の象徴化に転じ,《午前の幽霊》(1927)はエイゼンシテインにモンタージュを啓示したといわれる。40年アメリカに亡命,第2次大戦末には新聞記事をコラージュした大作《東方の勝利》を完成,また42年以後ニューヨーク市立大学映画研究所長として,《金で買える夢》(1944-47),《8×8》(1954-57)など実験映画の制作を続けた。60年代以後はスイスのロカルノに住み,〈エコー絵画〉連作に取り組んだが,むしろ《ダダの横顔》(1961),《ダダ-芸術と反芸術》(1964),《頭と後頭》(1967)などの著作が知られる。
執筆者:針生 一郎
ドイツの指揮者,オルガン奏者。20世紀を代表するバッハ演奏家の一人。ライプチヒ音楽院に学び,1949年バッハゆかりのトマス教会のオルガン奏者,51年よりミュンヘン高等音楽学校でオルガンを指導,56年同教授。1953年〈ミュンヘン・バッハ合唱団〉,56年〈ミュンヘン・バッハ管弦楽団〉を組織し,指揮者およびオルガンないしハープシコード奏者として活動した。歴史に忠実な演奏を目ざすとともに,劇的効果に富む新しいバッハ像を実現した。とくにバッハの教会カンタータ全曲の演奏や,《マタイ》《ヨハネ》両受難曲,《ロ短調ミサ》の演奏においては厳格で正統的な演奏を示した。69年(合唱団,管弦楽団とともに),79年に来日。
執筆者:西原 稔
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Richter, Charles F.
1900.4.26~1985. 9.30 米国の地震学者。オハイオ州生まれ。1935年,地震の規模を示す尺度としてマグニチュードを定義し,南カリフォルニアの地震に導入した。現在はローカルマグニチュード(ML)と呼ばれる量である。マグニチュードは,リヒターが初めて定義したことから,米国などではリヒタースケールとも呼ばれる。地震のマグニチュードの頻度分布として,地震の発生数がマグニチュードとともに指数関数的に減る「グーテンベルク・リヒターの式」がよく知られている。主著『Seismicity of the Earth』(B.Gutenbergとの共著)(1941)
執筆者:久家 慶子
参照項目:グーテンベルク-リヒターの式
参照項目:マグニチュード
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出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
〘 名詞 〙 春の季節がもうすぐそこまで来ていること。《 季語・冬 》 〔俳諧・俳諧四季部類(1780)〕[初出の実例]「盆栽の橙黄なり春隣〈守水老〉」(出典:春夏秋冬‐冬(1903)〈河東碧梧桐・高...
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