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ロシア演劇 ロシアえんげき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ロシア演劇
ロシアえんげき

ロシアにおいてはラテン語から翻訳された中世演劇や祭式的要素をもった民俗劇が 16世紀頃から存在したが,18世紀のピョートル1世の欧化政策により,フランス古典劇が紹介され,エカテリーナ2世の頃にはボーマルシェやマリボーの作品が上演されるようになった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ロシア演劇
ろしあえんげき

従来、1917年社会主義革命以前のロシア人による演劇をロシア演劇といい、それ以降の旧ソビエト連邦内の多民族演劇を総称してソビエト演劇と称してきたが、1991年12月のソ連邦解体により、以後はふたたびロシア演劇ということになる。以上の経過を踏まえて、ここでは「ロシア演劇」「ソビエト演劇」「ソ連崩壊後のロシア演劇」の三つに分けて解説する。世界演劇史上、特筆されるのは、19世紀後半から革命を挟んでの1920年代までの激動期である。スタニスラフスキー、ネミロビチ・ダンチェンコによるモスクワ芸術座をはじめ、メイエルホリドワフタンゴフタイーロフらによる斬新(ざんしん)な舞台活動は、オストロフスキー、ゴーゴリ、チェーホフ、ゴーリキー、マヤコフスキーらの戯曲とともに、20世紀前半の世界演劇に強烈な影響を与えた。築地(つきじ)小劇場を中心とする日本の新劇界も、この高揚期のロシア演劇から多くの影響を受けた。[中本信幸]

ロシア演劇

ロシアにおいても演劇は、宗教的な行事、婚礼などの儀式、遊戯、祭式などに行われる、ごく素朴な踊り、歌、音楽、物真似(まね)、身ぶりなどから生まれた。やがて、スコモーロヒскоморохи/skomorohi(単数はスコモーロフ)とよばれる旅芸人たちがそれらを専門的に務めるようになり、喜劇的・風刺的小芝居、歌、掛け合い、踊り、楽器演奏、手品、人形劇、芸を仕込んだ熊(くま)芝居などの多彩な演目をもって、市町村の広場や有力者の家の中庭などで独自の興行を打つようになった。スコモーロヒの語源は、「おどけ職人」を意味するギリシア語が起源といわれ、いわばロシアの道化である。古代スラブ人の魔術師、妖術(ようじゅつ)使いボルフビから発生したという説もある。すでに8世紀に存在したとも、988年ごろキリスト教がキエフ大公国の国教となってから登場したともいわれる。『ロシア年代記』はすでにスコモーロヒに言及(1068ころ)しており、またキエフの聖ソフィア寺院のフレスコ画(1037)にも描かれている。彼らの芸術は11世紀ごろすでに豊かに発展し、16世紀ごろまでに職業的に洗練され、宮廷や貴族の屋敷にも出入りするようになるが、現世の生活を賛美し、支配階級を嘲弄(ちょうろう)したため、1648年皇帝アレクセイ・ミハイロビチの命令で公演を禁じられ、僻地(へきち)に追放された。しかしその伝統は今日も、ペトルーシカпетрушка/petrushkaとよばれる人形劇や、エストラーダэстрада/estradaとよばれる寄席(よせ)演芸の形で生きている。古代ロシアから伝わるユロージブイюродивый/yurodivy(ふうてん行者)も道化で、ロシアの民衆芸能、芸術に大きな影響を与えている。
 ヨーロッパ諸国では中世に宗教劇が発達したが、聖書の筋を用いる教会劇は、僧侶(そうりょ)たちが演劇を通じての教会の俗化を恐れたためにロシアではあまり発展しなかった。17世紀末からキエフ、モスクワなどの神学校を中心に学校劇がおこった。シメオン・ポーロツキーSimeon Polotskii(1629―1680)の『放蕩(ほうとう)息子』(1685)は、教訓的な要素をもちながらも現実に目を向けた最初の戯曲であった。また神学生たちは町や村でも公演を行い、演劇的土壌を各地に培っていった。
 1672年、ルター派のドイツ人牧師グレゴリーが、モスクワに居住する外国人の一座をつくり、皇帝アレクセイ・ミハイロビチのモスクワ近郊の別荘地プレオブラジェンスコエに劇場「コメディナヤ・ホロミナ」が創設され、イギリスの幕間(まくあい)劇の翻案や聖書を主題にしたものが上演されたが、暗にロシア皇帝の偉大さを賛美するものが多い。このロシア最初の宮廷劇場の俳優陣はおもに外国人の子弟であり、ドイツ人楽師と宮廷楽師からなるオーケストラだったが、1673年にはロシア人26名の一座ができ、ドイツ語とロシア語で演じられた。皇帝の死(1677)後、劇場は閉鎖された。1702年、ピョートル大帝が民衆教化のためにモスクワに公開劇場「コメディアリナヤ・フラミナ」を創設したが、ドイツ人のクンスト一座が公演し演目も外国物であった。18世紀なかばにはイタリアのコメディア・デラルテやドイツ劇団が宮廷に来演し、女帝エカテリーナ2世はシェークスピアの『ウィンザーの陽気な女房たち』の翻案(1786)を含め、数編の芝居を書くほどの演劇熱の持ち主であった。
 18世紀なかばから19世紀にかけてロシアの芝居に対する要求が高まり、モスクワ大学をはじめ各地に劇場、劇団がつくられ、ヤロスラブリ出身のボルコフ一座が活躍したが、ロシア人による劇作は振るわなかった。1747年、コルネイユやラシーヌに私淑した古典主義作家スマローコフの処女作『ホレーフ』が上演されて大成功を収めた。1756年には、スマローコフを主事に、ボルコフが座頭に任命されて、ペテルブルグにロシア最初の常設劇場ができた。また同年モスクワ大学にできた大学劇場を土台に、1776年にペトロフスキー劇場が生まれたが、建物が焼けたりして、1814年から商人バルキンの屋敷を本拠とするようになり、翌1815年隣に建ったオペラ、バレエ専門のボリショイ(大)劇場と区別してマールイ(小)劇場とよばれ、ペテルブルグのアレクサンドリンスキー劇場(1832創設)とともにロシア宮廷劇場を代表した。
 一方、17世紀末に農奴出身の俳優からなる農奴劇場が各地の貴族の邸宅に生まれ、18世紀なかばから19世紀初めには全国に170以上を数えた。フォンビージン、クニャジュニーン、カプニスト、クルイローフらの劇作家が輩出して、農奴制の矛盾をつく作品を舞台にのせた。ナポレオン戦争(1812)で愛国的気分が高まり、演劇にもロマン主義的傾向がもたらされる一方、ラジーシチェフ、フォンビージンの伝統を受け継ぐグリボエードフ、プーシキン、レールモントフ、ゴーゴリらが傑作戯曲を残した。19世紀前半の舞台を飾った名優は、プーシキンに絶賛された女優セミョーノワ、グリボエードフ作『知恵の悲しみ』のチャツキー役で知られるカラトゥイギンである。
 デカブリストの乱(1825)以後、反動政治が強化され、国営劇場が宮内省の管轄に移され、検閲が厳しくなり、メロドラマや専制政治を謳歌(おうか)する芝居が横行するが、ゴーゴリや批評家ベリンスキーらが舞台芸術のリアリズムを確立するうえで貢献した。マールイ劇場には、モチャーロフ、シチェープキンら民主主義的傾向の名優たちが集まっていた。同劇場の文芸部長も務めたロシア国民演劇の確立者オストロフスキーは『雷雨』や『森林』などの名戯曲を書き、1874年に設立されたロシア劇作家・オペラ作曲家協会会長としても貢献した。このほか、スホボ・コブイリン、A・トルストイ、L・トルストイ、ツルゲーネフ、サルティコフ・シチェドリンらが劇作面で名作を残している。
 1882年に演劇公演に対する「帝室劇場の独占」(1856年に法制化)が撤廃され、演劇活動が盛んになり、多くの私設劇場が生まれた。モスクワのコルシェ劇場が人気を集め、ダビドフ、オストゥジェフ、モスクビンらの名優が舞台に立ち、チェーホフの『イワーノフ』(1887)が上演された。
 1898年に創立されたモスクワ芸術座は、スタニスラフスキーとネミロビチ・ダンチェンコを中心にロシアのリアリズム演劇の成果を集大成し、旗揚げ公演の一つとして上演したチェーホフの『かもめ』で画期的な大成功をおさめ、革新的な路線を鮮明に打ち出し、ついでゴーリキーの戯曲上演で大成功を収め、イプセン、メーテルリンクら西欧諸国の近代劇を上演して、世界の演劇界に新風を送った。また、名優ミハイル・チェーホフMikhail Chekhov(1891―1995)、カチューロフ、モスクビン、名女優エルモーロワ、コミサルジェフスカヤ、詩人ブローク、マヤコフスキー、小説家アンドレーエフ、アルツィバーシェフらの多彩な仕事、また演出家メイエルホリド、タイーロフ、エウレイノフらの前衛的実験は、20世紀初頭の文学・芸術運動と強く結び付いて展開され、世界的にも反響をよび、1920年代のソビエト演劇の開花を準備した。[中本信幸]

ソビエト演劇

1917年の十月革命によるソビエト政権成立によって、ソ連諸民族の演劇芸術に新しい時代がもたらされた。有力な俳優ミハイル・チェーホフら多くの演劇人が亡命したが、革命前から新しい演劇を模索してきたメイエルホリド、エウレイノフ、ワフタンゴフ、タイーロフら革新的演劇人の天才がみごとに開花したのは革命後であり、彼らを中心にソビエト演劇が形成されていった。ソビエト政権は優れた演劇伝統を保護育成する政策を打ち出し、モスクワ芸術座、ボリショイ劇場、マールイ劇場、レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)のアレクサンドリンスキー劇場(1937~1991年はプーシキン劇場)などがそのまま保存され、モスクワ芸術座第3スタジオ(現、ワフタンゴフ劇場)、革命劇場(現、マヤコフスキー劇場)、レニングラードのボリショイ・ドラマ劇場などの新しい劇場が多数つくられた。これらの措置の基礎になったのは1919年にレーニンが出した「演劇事業の統合に関する布告」である。こうして劇場が国有化され、「人民権力に奉仕する」とされたソビエト演劇の基調ができあがった。
 ソビエト政権初期の演劇は、ブルジョアジー、地主に対する労働者、農民の激烈な闘争、革命勢力の勝利をヒロイックにうたい上げるものであった。エウレイノフが1920年に演出した『冬宮占領』は冬宮を舞台にオーロラ号も参加して革命を再現した一大ページェントで、冬宮占領の体験者を含め、数十万人を動員した。メイエルホリドが革命一周年を記念して演出したマヤコフスキーの『ミステリヤ・ブッフ』(1918)も、内容・形式の点で従来のドラマツルギーの概念を破る革新的な舞台であった。野外劇、ページェント、祭典劇、群衆劇、アジプロ劇など新しい演劇形式の追求と実験が展開され、移動演劇、サークル演劇が盛んに行われた(プロレトクリトの劇場、アジプロ劇団「生きた新聞」「青服劇団」、労働青年劇場など)。
 文学的にも優れた戯曲に、ビリ・ベロツェロコフスキーの『暴風雨』(1926)、ロマショーフの『空気入りピローグ』(1925)、エルドマンNikolai Erdman(1902―1970)の『委任状』(1925)、トレニョフの『リューボーフィ・ヤロワーヤ』(1926)、マヤコフスキーの『南京(ナンキン)虫』(1929)、『風呂(ふろ)』(1930)などがある。革命直後には古臭いブルジョア演劇という非難を浴びてきたモスクワ芸術座も、ブルガーコフの『トゥルビン家の日々』(1926)とイワーノフの『装甲列車14―69号』(1927)で、ようやく揺るぎない地位を占めた。ゴッツィの『トゥランドット姫』を演出したワフタンゴフ、カーメルヌイ劇場を主宰し、ビシネフスキーの『楽天的悲劇』(1933)を演出したタイーロフ、第四の壁を取り払って観客との直接的交流を図り、俳優の演技と訓練での「ビオメハニカ」を実験したメイエルホリドらの革新的仕事は、世界各国に大きな影響を与え、日本の新劇界にも決定的な影響を与えている。また、シラー、ローペ・デ・ベガ、シェークスピアらの古典劇の上演でも多くの成果を収めた。
 1930年代のスターリン時代は硬直した芸術路線のため、演劇全体が振るわなくなった。メイエルホリドは粛清され、タイーロフは形式主義の烙印(らくいん)を押された。スタニスラフスキー・システムだけが演劇における社会主義リアリズムの唯一の正統派とみなされ、スタニスラフスキーらの仕事が教条的に拡大解釈され政治的に利用された。それらのなかでも、アフィノゲーノフの『マーシェンカ』(1940)、シーモノフの『ロシアの人々』(1942)、コルネイチュクの『戦線』(1942)、レオーノフの『襲来』(1943)など優れた作品が生み出された。さらにアレクセイ・ポポーフAleksei Popov(1892―1961)演出による『ロミオとジュリエット』(1935)、『じゃじゃ馬ならし』(1937)など優れたシェークスピア劇も生み出された。終戦直後の1946年には、いわゆる「ジダーノフ批判」によるイデオロギーの引き締めをねらった整風運動の結果、劇作・演出は萎縮(いしゅく)して話題作を出さず、とりわけ「無葛藤(かっとう)理論」がはびこって劇作が貧しくなり、1940年代から1950年代前半の演劇界はまったくの沈滞に陥った。
 1956年のスターリン批判以後、演劇界はふたたび活気を取り戻した。1920年代の実験的な演劇伝統が復活され、ブレヒト、サルトル、テネシー・ウィリアムズら外国の現代作家の作品も取り上げられ、レパートリーも豊かになった。ローゾフの『永遠に生きるもの』(1957)、シュワルツの『裸の王様』(1960)で注目されたエフレーモフの率いるサブレメンニク(現代人)劇場が、この「雪どけ」の時期にもっとも人気を集めた。しかし、1960年代なかばから徐々に思想統制が強化され、1960年代後半から1970年代に人気を集めたタガンカ劇場の演出家リュビーモフは、1984年「検閲」に抗議し、表現の自由を求めて亡命した。ほかにトフストノーゴフ、エーフロス、ザワツギー、オフロープコフNikolai Okhlopkov(1900―1967)、ゴンチャロフ、プルチェク、アキーモフらが演出面で注目すべき仕事を行った。停滞に陥ったモスクワ芸術座は1970年にエフレーモフを主任演出家に起用して若返りを図り、ロシチン、ゲルマンらの新作などで人気を回復した。
 1986年のソ連共産党第27回大会でゴルバチョフ政権の進める「ペレストロイカ」(建て直し)、「グラスノスチ」(公開性)路線が公認されたが、この「第二の雪どけ」の先導役を務めたのは演劇界であった。アレクサンドル・ミシャーリン作、エフレーモフ演出『銀婚式』(1985)、シャトローフMikhail Shatrov(1932―2010)作、マルク・ザハーロフ演出『良心の独裁』(1985)、ブラフスキー作、ワレーリー・フォーキン演出『言え!』(1986)などの政治劇が話題を集めた。「検閲」の廃止問題でも演出家エフレーモフ、トフストノーゴフ、マルク・ザハーロフら演劇人が口火を切り、ついに1987年から83の劇場が検閲なしで自由に演目を選び、経営問題も自主的に解決できるようになった。ブレジネフ時代末期には、各民族共和国の多くの都市で演劇活動が振るわなくなっていたが、ペレストロイカ時代を迎えて各地で演劇の観客数が増え、小劇場、実験的スタジオ劇団プロデュースの企画公演、商業演劇が数多く生まれた。[中本信幸]

ソ連崩壊後のロシア演劇

今日の演劇界の現況は、1920年代の実験精神を復活させ、詩人・小説家との提携、構成舞台、記録演劇、ミュージカルなどの多彩な前衛的仕事が果敢に行われる一方、オストロフスキー、スホボ・コブリン、グリボエードフ、ドストエフスキーなどの古典的レパートリーやリアリズムの芝居も共存しており、演出、演技、とりわけ舞台美術に注目すべきものがある。児童演劇、人形劇、サーカス、バラエティの水準もきわめて高い。アルブーゾフ、ローゾフ、ロシチン、アリョーシンSamuil Alyoshin(1913― )、ラジンスキー、バンピーロフ、『レトロ』(邦訳『こんな筈(はず)では』)のアレクサンドル・ガーリンらが劇作で注目され、演出面ではアナトーリイ・ワシーリエフ、サンクト・ペテルブルグのマールイ・ドラマ劇場のレフ・ドージンらが国際的に活躍している。
 1992年から3年ごとにモスクワで催されている「チェーホフ国際演劇祭」が国際的に権威をもってきた。また、ロシア国内で上演されたオペラ、バレエ、ドラマ、人形劇の話題作をモスクワで競演する演劇祭「黄金のマスク」が1995年から始まり、国民的なイベントになっている。このところ、ピョートル・フォメンコПётр Фоменко/Pyotr Fomenko(1932―2012)とその「フォメンコ工房」の弟子たちの仕事が注目を集め、1990年なかばから今日までの演劇状況が「フォメンコ時代」とよばれている。そのほか、名優ユーリイ・ソローミンYuriy Solomin(1935― )(マールイ劇場芸術監督)、オレグ・タバコフOleg Tabakov(1935― )(モスクワ芸術座の幹部俳優でタバコフ劇団の主宰者)、ボリス・モローゾフ(ロシア軍劇場主席演出家)、旧ソ連ではジョージア(グルジア)のチヘイーゼ、ラトビアのネイクロシュらも注目を集めている。
 革命前、劇場総数177のうち106がロシアにあった。1986年の統計では劇場総数は640に増え、うち340がロシアにあり、その他は各民族共和国にある。ソビエト政権は十月革命後に各民族共和国の演劇を育成する方針をとり、民族語の劇場とロシア語の劇場を共存させてきた。その影響はソ連崩壊後に独立した各国にも残っており、ジョージアのトビリシ、リトアニア共和国のビリニュス、ラトビア共和国のリガなどの演劇が国際的にも注目を集めている。また、オムスク、ノボシビルスク、ウラジオストクなど地方都市の演劇のレベルも高くなっている。国内には、モスクワのロシア演劇芸術アカデミー(旧、ギチス・ルナチャルスキー記念国立演劇大学)、モスクワ芸術座付属演劇大学をはじめ、多くの演劇教育機関がある。[中本信幸]
『園地公功・三林亮太郎訳編『ソビエト演劇史』(1932・建設社) ▽昇曙夢著『ソ連新劇運動の展開』(1949・地平社) ▽倉橋健他編『現代の演劇5』(1966・三笠書房) ▽野崎韶夫他著『現代世界演劇の展望』(1972・白水社) ▽岩田貴著『街頭のスペクタクル―現代ロシア・ソビエト演劇史』(1994・未来社) ▽Marc Slonimi RUSSIAN THEATER from Empire to the Soviets(1962, Collier Books, New York) ▽Теамральная энциклопедия B5‐и томах(1961~1967, Советская энциклопедия, Москва)』

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世界大百科事典内のロシア演劇の言及

【ロシア・ソビエト演劇】より

…ロシア革命前の演劇はロシア演劇と呼ばれ,革命後多民族国家となってからの演劇は,各地の民族演劇も含め,総称してソビエト演劇と呼ばれてきた。
[ロシア演劇]
 ロシア演劇の起源も他の諸国と同じで,古代の民衆の遊戯や儀式が母体となっている。…

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