平安時代美術(読み)へいあんじだいびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「平安時代美術」の意味・わかりやすい解説

平安時代美術 (へいあんじだいびじゅつ)

都が奈良から京都に移った794年(延暦13)前後は,単に遷都だけではないさまざまな変化が認められる時期で,真言密教の輸入による仏教美術の変化をはじめ,文化史の上でも大きな転換期であった。これから政治・文化の中心が京都に存在した約400年間がいわゆる平安時代であり,美術の歴史の上でもこれを一つの時代とみている。ただし見方によって,894年(寛平6)の遣唐使廃止によって象徴される大陸文化との一応の絶縁までを弘仁・貞観あるいは貞観時代といって,それ以後の藤原時代と区別したり,10世紀中ごろのようやく和様化の顕著となってくる時期までを平安前期,以後を和様の完成からその展開の時期とみて平安後期のように二分するなど,諸説がある。これらの考え方の根底には,9世紀における華麗な密教美術の開花と,いわゆる一木彫像の示す存在感の強烈な印象が,一つの画期的なものであるという主張がうかがえる。それはたしかに奈良時代の古典様式とたたえられる調和的な様式から,それを破る方向への移行としてとらえられる。しかしその時期は短く,時代様式とするには少し統一性に欠けるなど,問題もあり,またこの時期に特徴的な一木彫像を技法的にみた場合,それは木彫技法の完成態である寄木造への過渡的なものとする見方も可能であろう。そう考えるならば,平安時代美術は11世紀における貴族文化を背景とした和様ないし国風美術の完成を頂点に,それ以前は奈良時代の外来様式影響下に完成された古典様式からの脱皮と和様化の時期であり,それ以後は和様美術の展開と推移の時期として,およそ前,中,後の3分期でとらえられるのである。ここでは特に3分期としないが,考え方としてはその順序に述べることにする。

この時代の冒頭を飾るものはいわゆる一木彫像(一木造)のいくつかの名作である。神護寺の本尊薬師如来立像新薬師寺の本尊薬師如来座像にみる圧倒的な量感の表出と,前者のすさまじいばかりのきびしい表情や後者の大づくりな目鼻だちの明快さ,そして深く鋭い衣文の彫法など,それは前代までの彫像にはみられなかった表現で,新しい様式の誕生を感じさせる。前者が神護寺の前身である神願寺(河内国)の本尊であったとすれば,いずれもまだ奈良旧仏教の下で製作されたもので,8世紀までの作品と考えられる。それは,こうした木彫像の登場する下地が前代にすでにかなり用意されていたことを想像させ,中央の諸大寺の造仏とは別に,山中や地方の民間で行われていたとする説もある。それはともかく,奈良時代の造像が塑造乾漆造などの捻塑的な技法をおもに用いていたのに対し,この時代からは彫刻的な技法である木彫が主流となり,以後近世までそれは変わらない。つまりこれは日本彫刻史が木を主体とするようになった初めの時点であり,また日本的な彫刻への第一歩ともいえるのである。

 飛鳥時代にも木彫像はあるが,それらの表現が銅造(金銅仏)の場合とあまり変わらないのに比して,この時期の木彫像は木の特性をよく生かした表現を示している。いわゆる翻波式(ほんぱしき)衣文なども,のみ(鑿)痕のしのぎ立った美しさを強調し,整斉することから発したものと思われるし,一材から彫成し,干割れを防ぐ内刳(うちぐり)の仕方も原則ができあがっていくようで,やがて奈良地方を中心に,元興寺の薬師如来立像や東大寺の弥勒仏座像を生み,法華寺の十一面観音立像にいたって,その頂点をみるのである。これらは多く木肌のままに仕上げるか,彩色を薄手に施すかなので,中国唐時代に流行した檀像彫刻の影響を考える説もある。直接的には渡来作家の作品と考えられている唐招提寺の伝薬師如来立像など数体の木彫像に関連づけられることが多い。

 こうした表現の一木彫像は9世紀後半に入ると室生寺の釈迦如来座像や同金堂薬師如来立像(伝釈迦如来)あるいは大阪獅子窟(ししくつ)寺の薬師如来座像,和歌山慈尊院の弥勒仏座像(892製作か)などにみるように,彫りを美しく整えすぎて,全体としてはだんだん迫力を欠いてくるし,同時にあとで述べる真言密教系寺院での造像様式のものとの混交が認められるようになる。やがて需要がふえて,一時に大きな像や数多くの像を造る場合もでてくると,一材で像の大方を木取りする方法の限界を超える結果をもたらし,像の根幹部を数材から構成する技法を見いだして,割矧(わりはぎ)などの技法とともに,10世紀を経過するころは,寄木造へかなり近づいたものに進展する。この木彫技法の展開は,他のどの国の木彫技法にもない独特の発展を示すもので,その意味でまさに日本的な彫刻の完成への道をたどるものといえよう。

806年(大同1)唐から真言密教をもたらした空海は,東寺を得てこれを教王護国寺とし,その講堂に彼独自の発想で彫像による一種の曼荼羅(まんだら)を作る。その完成は彼の没後の839年(承和6)であるが,この21尊にのぼる彫像のうち十数体が今日もほぼ造像時の姿をとどめており,わが国密教彫刻の現存最古の遺例として珍重されている。東寺は平安遷都とともに羅城門の左右に西寺とともに建造をはじめられた大寺で,空海の入る以前に金堂とその本尊の丈六薬師如来像は造られていた。現存の像は近世初頭の復古作だが,その形制は当初像をかなり忠実に模しており,やはり旧仏教的な形姿であったことが想像される。おそらく製作も奈良時代の東大寺造仏所などの官寺系の工人を用いた木心乾漆造的な技法のものであったろう。796年初鋳の隆平永宝の銅銭をその掌に納入している唐招提寺金堂の薬師如来立像と840年ころの造立と考えられる広隆寺講堂阿弥陀如来座像の2軀の木心乾漆巨像からその作風を想定することが可能である。東寺講堂諸像中の主要な尊像も同様な作家たちによる同様な技法のものであったろう。それは諸像中の4菩薩と梵天像によって証明される。

 この系統の造像は,これに次ぐ時期の作品である神護寺の五大虚空蔵菩薩像から大阪観心寺の如意輪観音像にいたって最高の結果を生み,京都安祥寺の五智如来像が造られた859年(貞観1)には早くも質をおとしはじめており,887年(仁和3)の金剛峯寺西塔の大日如来像や888年の仁和寺の阿弥陀三尊像になると,前記の一木彫像の作風とあまり区別をつけにくくなっている。それはこれらの木心乾漆造的な技法が根本的には一木彫像の範疇にあり,表現の上に遺っていた奈良時代の伝統的な調和と柔軟性が一木彫像の風に凌駕されていったためと思われる。観心寺如意輪観音像の表現はその両者の調和の上にあるといってよく,多臂の超人間的な形姿を巧みにまとめて密教像独特の神秘的な雰囲気を最高度に示している。

 密教の根本教義を造形化した両界曼荼羅はいうまでもなく空海が唐から将来したものがその基本となるわけであるが,その絹本彩色の画幅は早くに傷み,現存最古のものは神護寺が蔵する綾本金銀泥絵の一本(《高雄曼荼羅》)である。これは829-834年(天長年間の後半)淳和天皇発願により空海が描かせたと考えられるもので,その強靱な描線であらわす格調高い像容は,いま見ることのまれな本格的な唐代密教画の趣致を伝えている。近年,879年(元慶3)の制作という説の出された東寺西院伝来の彩色の一本(《真言院曼荼羅》)がこれに次ぐ遺品で,こちらにも晩唐様が指摘されているが,いずれも忠実な伝写の技術ばかりではない高度な画境を示すもので,おそらく当時の水準を超えているであろう。東寺にはまた空海が将来した真言五祖像とそれを範として日本で制作された竜猛・竜智の二祖像が伝えられている。後者には唐代の写実的な個性表現に比べて,むしろ観念的な形と量の感覚で像主をとらえている趣があり,その点西大寺の十二天画像にみる画面いっぱいに量感あふれた尊像の表現,ひいては当代の彫像の表現にも一脈通ずるものがある。絵画における9世紀の遺品はきわめてまれであって,あとは室生寺金堂の後壁の伝帝釈天曼荼羅と本尊伝釈迦如来立像光背などの板絵が当代一般の絵画資料として注目されるにすぎない。工芸作品についても同様で,空海将来と伝える東寺の金銅密教法具や袈裟などもまた孤高の存在なのである。
密教美術

9世紀初頭における最澄,空海の新仏教移入は,まず真言密教美術の華々しい開花となったが,彼らの後継者たちいわゆる入唐八家の人々の努力は,9世紀後半から10世紀にかけて密教美術を複雑に展開せしめ,また一般化していった。それはまず密教の教義が造形表現をかりなければ相伝しがたいといわれ,造形美術を著しく発展せしめたためであり,製作側からみると,従来の専門工人に加えて,教義に詳しくまた造形表現も可能な僧籍の人たちの出現をうながしたことにもよるであろう。10世紀初頭の醍醐寺の薬師三尊像は当代の名僧聖宝(しようぼう)と,その弟子で仏師である会理(えり)による造像であることが知られる。また952年(天暦6)同寺に建立された五重塔の初層を飾る極彩色の板絵には,両界曼荼羅の諸尊をはじめ,前述の七祖に空海を加えた真言八祖像などが描かれている。量感豊かな薬師三尊像は,表現には前世紀の余韻があるが,その構造技法はまさに寄木造への過渡的な段階を示し,板絵における技法が東寺の《真言院曼荼羅》のそれを踏襲しながら,表現に次代のおだやかな整斉への傾斜を認めるのと相応している。一方,天台系では円仁,円珍によって密教化が進み,特に円珍は忿怒尊中に黄不動,神像中に新羅明神のような異形の尊像を感得したが,それらの画像彫像をいまも伝存している園城寺には,彼のそうした特異な風貌を示す2軀の肖像彫刻も保存されている。10世紀前半の法性寺のいわゆる三面千手観音立像も,こうした天台系の異形像の一である可能性がある。なお和歌山有志八幡講十八箇院の五大力菩薩中の3幅は9世紀風の尊像表現の残るこのころの大作として忘れることはできない。

 10世紀はまた叡山に発する浄土教美術の発展期である。まず951年ころ空也が都に建てた西光寺の旧仏と伝える十一面観音立像等(六波羅蜜寺)をあげるべきであろう。それらの像の四肢の均衡がとれて,ようやく優しさをましてきた造形には,これまでの外来様式の影響から完全に脱して国風を主張する意図がうかがえる。その進み方はこの世紀末の京都遍照寺や禅定寺の十一面観音立像よりも顕著で,次の世紀を席巻する浄土教美術の先駆的役割を十分に果たしている。なおこの時期,南都でも密教化が進み,奈良子島寺の両界曼荼羅図のような大作が生まれたが,旧仏教系ではむしろ東大寺の良弁僧正の木像や薬師寺の慈恩大師画像のような肖像にみるべきもののあることを注意したい。
浄土教美術

このような仏教の隆盛は,日本固有の神道に影響を及ぼさないはずはない。神仏習合のきざしは早く奈良時代にさかのぼり,平安時代に入ると,仏像の影響下に神の偶像が製作されるようになる(神像)。実例に即していえば,9世紀にまず八幡神と女神像が東寺と薬師寺に造られた。その八幡神の姿が僧形であることはいかにも神仏習合の所産であることを物語っており,それらの作風も当時の仏像彫刻のそれとへだたりがない。これから10世紀にかけて京都松尾大社や,熊野本宮,新宮などの俗形神像が相次いで製作されているが,そこにみる面貌表現の写実性と体軀の動勢は,独特の簡潔な彫法によって仏像とは異なる様式化を形成していった。この時期の肖像彫刻はむしろこの様風に近いともいえ,箱根神社の万巻上人像や神応寺の行教律師像の例があげられる。また古来の山岳信仰が育てた神格のうち,金峯山の神格が蔵王権現の姿をかりて全国的な規模で信仰をあつめるようになったのもこの時期である。長保3年(1001)の刻銘をもつ鋳銅刻画蔵王権現像(総持寺)はその姿を示す代表的な遺品であり,その他木像,銅製,丸彫,線描など多種多様な表現で,中世までその製作は絶えず行われた。この金峯山信仰は,浄土教の阿弥陀信仰とともに王朝貴族の心を最もひきつけたが,これに関する遺物は末法思想による弥勒信仰,それもいわゆる経塚関係の工芸,考古遺物に類するものが多い。いまは金峯神社にある1007年(寛弘4)藤原道長発願の金銅経筒をはじめとする金峯山経塚出土品(金峯山寺)と31年(長元4)に叡山横川如法堂に埋納された金銅経箱(延暦寺)のみをあげておく。これらは10~11世紀の金工を代表する秀作であり,同じ延暦寺の宝相華蒔絵(ほうそうげまきえ)経箱とともに919年(延喜19)の三十帖冊子のための蒔絵箱(仁和寺)やこれと前後するころの東寺の海賦蒔絵袈裟箱,大阪藤田美術館の仏功徳蒔絵経箱など前世紀の漆芸品のあとをうける貴重な工芸遺品なのである。
神道美術

源信が《往生要集》をあらわした985年(寛和1)の数年後,その本拠である横川の霊山院釈迦堂本尊を造った康尚(こうじよう)という仏師がいる。彼はやがて藤原道長や行成に用いられ,〈土佐講師〉という僧職まで与えられるようになる。個人としての仏像作家名は10世紀から散見するが,彼にいたって中央貴顕との結びつきが歴然とし,作家として確固たる道を歩き出したように思われる。1006年(寛弘3)道長四十賀の祝いに法性寺新堂に造顕された丈六五大尊の中尊であったと考えられる不動明王像が京都同聚院にある。膝の部分は後補であるが,上体のバランスがよく,気品のある忿怒相は,まさにこの時代の中央での作風を示すもので,康尚の作に比定されている。彼は20年(寛仁4)道長発願の法成寺(ほうじようじ)無量寿院丈六九体阿弥陀像造顕に子息定朝とともにたずさわるが,これより康尚の地盤は定朝に引きつがれ,定朝はやがて仏師としてはじめて僧綱位を受け,寄木造の完成や仏所の組織化が彼の功績に数えられ,彼の作品は〈仏の本様〉と称され,後世の規範とされたのである。彼の現存唯一の作品である平等院鳳凰堂阿弥陀如来像は,まさにそのことを証する傑作である。いわゆる金色丈六の座像で,自然の均衡をえたおだやかな表現の中に毅然とした気格を示し,円満な如来相とはげしい忿怒相との別はあるが,同聚院不動明王像に通ずるものが感じられ,この半世紀の高潮のようすがうかがわれる。また周縁に飛天を配した二重円光,九重の蓮華座,円蓋と方蓋を組み合わせた壮大な天蓋など,後補の部分はあるが,ほぼ造像時の華麗な趣を伝え,さらに堂内を見渡すと,長押(なげし)にかかる50体ばかりの雲中供養菩薩,天井と須弥壇(しゆみだん)の螺鈿(らでん)装飾,後壁や扉の来迎(らいごう)図,そして堂上の銅製鳳凰にいたるまで,この阿弥陀像を中心に一体化しており,堂の周囲の庭園をも含めて現世に浄土を表出しているのである。これはしかし,たまたま残った一遺構にすぎないので,これをもって道長の浄妙寺や法成寺を想像すべきなのかもしれないのだが,ともかくここにみえる彫刻,絵画,工芸のどれもが,この200年来はぐくまれてきた日本固有の技術と作風の最高の遺産であるといって過言ではないのである。

 同じ時期に,絵画において宮廷画家巨勢広貴(弘高)と絵仏師教禅の名が知られる。教禅はやはり僧位を与えられており,貴顕の間での用いられ方がわかるが,いずれもその作品を遺していない。教禅の作風は平等院の来迎図や青蓮院の《不動・二童子像》(《青不動》),京都国立博物館の《釈迦金棺出現図》,東京国立博物館の《十六羅漢図》,そして1086年(応徳3)の《仏涅槃図》(金剛峯寺)や88-90年(寛治2-4)ころの《五大明王像》(岐阜来振(きふる)寺)などによって想像するしかないが,これらの作品にみるまだ骨格につよさの残る人物描写と,日本的な繊細さと優美さをましてきた風景描写のないまぜは,康尚や定朝の木彫仏の感覚と共通する境地を示している。同様に広貴の作風は平等院板絵中の風景描写や京都国立博物館の《山水(せんずい)屛風》,東京国立博物館の《聖徳太子伝障子絵》(1069)などから想定されよう。こうした世俗画の世界とは別に,仏画はやがて繊細さ,優美さの度を深めていく。いわゆる院政期は仏画の爛熟期ともいえるが,ここでは1127年(大治2)の教王護国寺の《五大尊像》および京都国立博物館の《十二天像》,神護寺の《釈迦如来像(赤釈迦)》,そして東京国立博物館の《普賢菩薩像》を代表としてあげておく。彫刻作品でいえばそれらは定朝の弟子長勢の作に当てられる広隆寺の十二神将像一組や,京都法界寺の阿弥陀如来像であり,東京大倉集古館の《普賢菩薩像》が絵画の普賢菩薩像に対応してあげられるのである。そこには細緻な切金(きりかね)文様を多用した華奢(かしや)な色彩と瀟洒(しようしや)なまでの造形が特筆される。

古代の文化において,宗教文化と貴族文化は車の両輪のようなものであろう。平安時代の王朝文化は,奈良時代のそれが外来文化の濃い影響下にあったのに対して,まったく日本的なものであるという点で大きく異なっている。9世紀から10世紀にかけて,文献の上で多く知られる屛風絵や障子絵は公私の儀式や祝賀の席に用いられたいわば世俗画であるが,これまで中国の風景や唐風の人物を描いていたものが,日本における身近な日常の生活や四季の移り変りを,名所などの風景の中に詩情豊かに表現するようになってきた(四季絵名所絵)。歌人に四季や名所を詠みこんだ歌を作らせ,書家にそれを書かせ,絵師にその情景を描かせるわけである。残念ながらその実例は現存しておらず,文献や前出の《山水屛風》,平等院鳳凰堂扉絵によって想像するしかないが,このような状況がいわゆる〈やまと絵〉を育てたのであって,前述の巨勢広貴の名はこれに貢献した歴代宮廷画家たちの代表的な意味をもっている。これと併行して発達した和文の物語〈作り物語〉はまた多くの場合説明と鑑賞を兼ねた物語絵を伴って絵巻や冊子絵を形成していった。

 はじめはやはり中国の物語や絵であったものが,このように変化していく過程は屛風絵や障子絵と等しいといってよいであろう。それが絵画の題材ばかりでなく,表現形式や作画技巧にまで変化を及ぼしたところに意義があり,ここで〈やまと絵〉が単に唐絵との対比の意味ばかりでなくなるのである。このような日本的な画趣の完成こそ,やはり11世紀前半と考えられるのだが,その典型となる遺品は現存しない。屛風絵では13世紀に下るが,神護寺の《山水屛風》,絵巻では12世紀前半の作品と考えられる《源氏物語絵巻》(徳川黎明会,五島美術館)によって遡源的に想像せねばならない。後者に用いられたいわゆる〈作絵(つくりえ)〉や〈引目鉤鼻(ひきめかぎばな)〉,〈吹抜屋台(ふきぬきやたい)〉などの特徴的な手法は,ここではすでに完熟した形であり,特に〈引目鉤鼻〉の表情にはまだ微妙なニュアンスがあるが,これに次ぐ《扇面法華経冊子》(四天王寺)や《寝覚物語絵巻》(奈良大和文華館),さらに《平家納経》の見返し絵(厳島神社)のものになると,それが形式的になり,同時に金銀砂子や切箔,野毛などの地の加飾が詞書の部分はもちろん,画面にも用いられ,全体的に装飾性がつよくなる。これはいわゆる院政期前半の特徴であって,仏画における華奢な傾向に対応するといってよい。このような情緒的,感覚的な絵巻とは別に,ナラティブな,それだけに写実性のかった生き生きとした表現の絵巻の一群がこの時期の主として後半に出現している。《粉河寺縁起》(粉河寺)や《信貴山縁起》(奈良朝護孫子寺),《伴大納言絵詞》などである。それらの筆致は,おそらく奈良時代以来絵画技法の基本にある東洋的な線描主義の伝統を当世風に生かしたものであり,空間構成や時間的展開に対するさまざまな工夫は,絵巻的表現の可能性を十分に追求した点で高く評価されている。このようなジャンルの作品の出現はもっと早い時期からであろうが,院政後半期の風潮がこれを助長したとも考えられる。最近ふたたび鳥羽僧正の筆に擬せられるようになってきた《鳥獣戯画》(高山寺など)もその中から生まれたものである。

 以上のような美術における日本的そして貴族的な展開は,文学と書道と絵画の融合的な作品を育てた一方,文様や種々の工芸品をも取り込んでいった。いわゆる有職文様の成立もこの時期であり,独特の松喰鶴(花喰鳥)や片輪車など,繊細で情緒的な文様を後世まで残した。それらはいわゆる羽黒鏡(出羽三山神社など)のような和鏡や螺鈿蒔絵の類にその代表的な例をみることができる。金剛峯寺の沢千鳥蒔絵小唐櫃や東京国立博物館の片輪車蒔絵手箱などは漆芸品の代表的遺物でもある。当時の工芸品の種々相をうかがうには春日大社や厳島神社の古神宝類は好個の一括遺物であり,単品で伝わる四天王寺の懸守(かけまもり),慶応義塾大学の秋草文壺,大山祇(おおやまづみ)神社の紺糸威鎧などは世俗的な各種工芸品の欠を補っている。

平安時代初頭の東北経営によって,日本の北限がほぼ定まり,文化は仏教,特に遊行僧や天台宗によって北のはてまでゆきわたっていった。福島勝常寺の薬師三尊像は,会津恵日寺を中心とする徳一による仏教普及活動の遺産ともみられ,すさまじいばかりの力強い造形の中に奈良時代彫刻の趣がかいまみられるのは興味深い。貞観4年(862)の墨書銘をもつ岩手黒石寺の薬師如来像になると純粋な東北風ともいうべき異風が顕著になる。これから10世紀にかけて,東国各地にかなりの仏像製作が行われたことが,前記の2寺をはじめ福島大蔵寺など各所に遺る古仏像群によって知られ,なかでも北方鎮護,鎮護国家の役目をになう兜跋(とばつ)毘沙門天の造像が盛んであり,荒彫の段階に美しさを見いだし,これを整えた感のある鉈彫(なたぼり)像といわれるグループの存在が注目される。またこのころの西国は,大陸,半島からの文化の受入れ口としての北九州から瀬戸内を中心として,古代寺院が栄えていた。福岡観世音寺は平安時代を通じての仏教彫像の宝庫であり,大分天福寺や真木大堂,広島千代田町,島根仏谷寺などの木彫仏群がそれを証している。大分富貴寺の阿弥陀堂の板壁絵や,臼杵磨崖仏(まがいぶつ)をはじめとするこの地方の石仏,石塔なども11~12世紀の遺物として見逃せない。

 その他の地方もいうまでもなくさまざまなこの時期の作品を伝えているが,およそ12世紀ころの仏像の残存度は鎌倉時代のそれをはるかに超えているように思えるし,全国的な普及を示しているのである。そして9~11世紀の作品にみる地方性や個性のつよい表現に対して,12世紀と思われる作品には,多かれ少なかれいわゆる定朝様の温雅な様風を意識した痕のあることは興味深い。それはいわゆる中央作,中央風というものが9~10世紀は確立しておらず,都でも個性を競っていたのであって,11世紀の定朝様に至ってはじめて中央作風が顕然としたと考えられる。著名な中尊寺金色堂は,仏像を中央仏師に依頼したことが知られるが,その堂内装飾や同時期の仏具,経典類にいたるまで,当時の中央風を意図すること歴然たるものがある。こうした地方豪族による中央文化の移置が各地に行われ,これから鎌倉初頭にかけて,富貴寺や福島白水の阿弥陀堂遺構を遺したのであるが,12世紀も半ば以降になると,ようやく地方文化の担い手である豪族,武士たち独自の趣向を反映した作品が生まれてくる。特に奈良地方はこの時代を通じて潜在的に都の文化に対するアンチテーゼとして存在した。1078年(承暦2)の法隆寺金堂の毘沙門,吉祥二天像や浄瑠璃寺四天王像などは,当時の繊細,瀟洒な都ぶりとは異なる華麗さと堅実さを示している。ここがやがて鎌倉彫刻の母胎を作っていくのであるが,仏画においても,もと叡山にあったという《阿弥陀聖衆来迎図》(和歌山有志八幡講十八箇院)や1153年(仁平3)供養の普賢延命像(広島持光寺),醍醐寺の訶梨帝母(かりていも)像などをみると,一般的には,都ぶりが繊弱化,形式化していくなかにあって,新しい動きが大きくなろうとしていることを感ずるのである。
鎌倉時代美術
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784年(延暦3)に始まる山城国乙訓郡の長岡京の造営と遷都を先駆に,10年後の794年葛野郡平安京への遷都によって新時代の幕がひらき,1185年(文治1)の平家滅亡まで400年の歴史は平安京が主要な舞台になり,天皇を頂点とする公家貴族の主導のもとで仏寺,神社および住宅建築の新たな展開と伝統の成立をみた。建築史における平安時代は,長岡遷都以降10世紀半ばころの摂関政治の成立までを前期,藤原氏一門の門閥化と政権独占の全盛期を中期,そして1086年(応徳3)の白河上皇の院政開始,鳥羽・後白河両院にうけつがれる院政期を後期とする3期に区分される。

(1)前期 平安京への遷都直後に入唐留学した最澄と空海によって密教が将来され,最澄は延暦寺を本拠とし天台密教を,空海は東寺(教王護国寺),神護寺,金剛峯寺を本拠に真言密教を開宗し,従来の国家仏教から個人信仰を基調とする仏教へと新しい道をきりひらいた。密教は修法と祈禱を通じて宮廷貴族の生活・行事に深く関係し,貴族個人の私寺建立に便乗してその勢力を拡張発展させた。9世紀半ばころより天皇や貴族の発願になる新寺の創建が増加し,安祥寺,嘉祥寺,貞観寺,醍醐寺,仁和寺,勧修寺などの密教寺院がその世紀末までに相次いで造立された。これら新寺は京内の寺院造立制限によって京の東郊,西郊に立地していた。

 818年(弘仁9)の焼失によって再建された広隆寺は9世紀末の〈実検帳〉によると,金堂は檜皮(ひわだ)葺き五間四面前庇(まえびさし)付きの建築であったが,同じ類型が講堂にも見いだされ,また,同寺別院の仏堂は檜皮葺き五間四面堂で前礼堂(らいどう)を付属していた。931年(承平1)の《神護寺実録帳》によれば,根本堂は檜皮葺き三間四面堂で五間礼堂を付属し,この堂を中心に一重檜皮葺き宝塔,両界曼荼羅を本尊にまつる六間二面檜皮葺き根本真言堂,三間四面檜皮葺き五仏堂,五間檜皮葺き五大堂などが伽藍を構成していた。屋根を檜皮で葺き,前庇あるいは礼堂を付属した仏堂や一重宝塔(多宝塔)は当代建築の新傾向と密教的特色を示すものといえる。この期の現存遺構は室生寺金堂,同五重塔,当麻寺西塔が早い例で,これらは奈良時代建築のなごりをなおとどめている。952年(天暦6)建立の醍醐寺五重塔はその初層内部を板張りの床につくり,心柱の囲い板,四天柱に両界曼荼羅諸尊像,四方腰羽目に真言八祖像が描かれ,密教寺院の塔としての特色を見いだせる。

(2)中期 天台密教から派生した浄土信仰は平安中期から後期にかけて貴族や庶民に大きい影響を与え,特に貴族の間で浄土教の説く功徳主義に共鳴し造寺・造仏を競合する風潮を生んだ。摂関政治の最盛期をつくりあげた藤原道長が,その邸宅土御門殿の東隣の地に創建した阿弥陀堂(無量寿院)は,9体の阿弥陀仏を安置した九体堂であった。この阿弥陀堂を皮切りに金堂,薬師堂,五大堂,十斎堂,釈迦堂を次々に増築して大伽藍へ発展させた。これが法成(ほうじよう)寺であり,1027年(万寿4)に道長が薨じたのちも頼通によって塔や円堂が造り足された。頼通は52年(永承7)に宇治の別荘を寺にあらため平等院を創建し,53年に完成した阿弥陀堂は鳳凰堂として知られる。平等院は四周に裳階をめぐらした中堂が大池に東面して建ち,これを中心に左右に翼廊,角楼,背面に尾廊を配し比類のない建築群からなる。阿弥陀堂は浄土信仰の高まりの中で多数造られたが,これほどの大規模のものは特例といえ,一般には一間四面堂が多数を占めた。また天台系の浄土教において,阿弥陀信仰と一対をなしていた法華三昧に基づく堂として鶴林寺の太子堂があげられる。この堂は法華三昧堂を前身とし,同じ境内の常行堂とならんで天台宗寺院の伽藍構成を特色づけている。

(3)後期 中期の藤原摂関家に代わって後期には白河,鳥羽,後白河の3院が豊富な財力を造寺・造仏事業に注いだ。1077年(承暦1)に供養された鴨川東の白河法勝(ほつしよう)寺は白河天皇が創建し,道長の法成寺をしのぐ壮大な伽藍であった。金堂は左右に回廊を付属し鳳凰堂に似た構成をそなえ,南の大池に浮かぶ中島には八角九重塔がそびえ,西岸に九体阿弥陀堂,金堂背面に講堂,五大堂,七仏薬師堂などが群立していた。さらに,法勝寺に隣接して尊勝,最勝,成勝,延勝,円勝寺のいわゆる六勝寺が天皇,女院の発願で次々に造立され,洛東,白河に寺院街を形成した。また,白河上皇は法勝寺の近くに白河泉殿(1095)を造立し,のちに南殿,北殿の各御所が増築され,それぞれに御所施設とならんで堂,塔を並置するという御堂御所の新しい建築型がここに出現した。白河上皇が86年(応徳3)に離宮として創建した洛南の鳥羽殿も北殿,南殿,東殿,田中殿の各郭からなり,やがて鳥羽法皇にうけつがれ多数の御堂や塔が造立された。特に勝光明院(1136)は鳳凰堂を模したことで知られる。後白河法皇の造立した法住寺殿は東山七条に所在し,北殿,南殿からなり,1164年(長寛2)に郭内に造営された蓮華王院は千体の観音を安置した三十三間堂(現在の堂は鎌倉時代の再建)と五重塔からなる。

 後期の現存遺構には浄瑠璃寺本堂(九体堂。1157移築),往生極楽院本堂(1148),富貴寺大堂(1168ころ),白水(願成寺)阿弥陀堂(1160),高蔵寺阿弥陀堂(1177)があり,中尊寺金色堂(1124)は内外を金箔で飾り,内陣の柱,長押(なげし),頭貫(かしらぬき),組物,須弥壇を螺鈿蒔絵,透彫金具で華麗によそおい,京風を移植した地方文化の出現を物語っている。

この時代の神社建築は,本殿形式に庇の用法の発達がみられることが特徴で,日吉大社東・西本宮本殿の三間三面形式が前期に成立し,京都八坂神社本殿の仏寺本堂に似た内外陣からなる複雑な平面の本殿が後期に出現した。また,中期以降には幣殿,拝殿,舞殿,回廊,楼門などの付属施設が整備,新設されるようになり,社殿構成がいっそう充実したものになった。本殿遺構は宇治上神社本殿が唯一であり,一間社流造の本殿3殿を一棟の覆屋(おおいや)でつつんでいる。

平安京の北端に所在した平安宮は東西8町,南北10町の地を占め,朝堂院を中心に中和院,内裏,諸官庁の各施設を配置していたようで,裏松光世の《大内裏図考証》に大内裏図が復原されていて全容をうかがえるが,平城宮のように発掘調査によって所在・規模を確認することは困難である。大極殿は876年(貞観18),1058年(康平1),1177年(治承1)と3度焼失し,1177年以降は再建されなかった。内裏は960年(天徳4)にはじめて焼失しており,これから以降は焼失と再建を頻繁にくりかえし,里内裏(さとだいり)の使用例が多くなり,内裏再建に長期をついやし,再建されても使用されることが少ないなど,後期には里内裏が恒常化し,1117年(永久5)に新造された土御門殿のように里内裏であって殿舎を内裏に模して造立した准内裏の例も出現した。離宮では前期に,退位した天皇のために後院,仙洞として冷泉院,嵯峨院,朱雀院が経営されたが,その詳細は明らかでなく,存続期間も長くなかった。

 中期の摂関政治の盛期には藤原摂関家の大規模邸宅が内裏近くに甍(いらか)をならべていた。東三条殿,堀川殿,閑院は前期に出現した古い歴史と由緒の邸宅で,中期には里内裏として多く利用された。また,道長の土御門京極殿,頼通の高陽院(かやいん)が権勢と栄華の盛りに修造され,里内裏にも利用された。これらの邸宅のつくりは,貴族住宅としてその形式成立に長い歴史をもつ寝殿造の到達点を示すもので,最高の水準と最大の規模とを誇示するものであった。寝殿を中心に東・西対(たい)をそなえ,二棟廊(ふたむねろう),透渡殿で連絡し,中門廊,中門,侍廊,随身所,車宿で晴向(はれむき)を整え,寝殿北には女房衆の対屋,厨所,釜殿,雑舎を付属し,寝殿南面には園池をつくり,泉殿,釣殿,文殿,持仏堂などを配置した。

 後期には院政を担当した白河,鳥羽,後白河の院御所が,洛中の御所とは別に京の東郊,南郊に造立経営された。白河殿,鳥羽殿,七条殿などで,多くの堂塔を伴った複合御所として著名であった。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

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