浜町(読み)はままち

日本歴史地名大系 「浜町」の解説

浜町
はままち

[現在地名]玉名市大浜おおはま

菊池川河口左岸にあり、南は有明海に面する。東は河島かわしま村・北牟田きたむた村、北は小島おしま村、南は横島よこしま(現玉名郡横島町)に接し、西は川を境に小浜こばま村・滑石なめいし村に対する。古くは待合まちあいあるいは白洲しらす浜と称され(国誌)、小浜村とは一連の砂洲であったといわれる。

応永一三年(一四〇六)の月欠三日の宇佐公美寄進状(清源寺文書)にみえる「伊倉保北方惣領本領之地之内、浜外新開号崇玄新開」は当町内の字外新開ほかしんかいに比定される。同地は宇佐氏の本領で、公美の父公光から高瀬の清源たかせのせいげん寺へ寄進されている。天文四年(一五三五)の鹿子木親員知行目録(鹿子木文書)に「伊倉八町 浜」とある。弘治二年(一五五六)頃と推定される六月二三日の戸次伯耆守立花鑑連宛大友義鎮知行預ケ状(立花文書)には「伊倉之内小原遠江入道跡」の「浜分六町」がみえ、小島九町などとともに豊後国宇目うめ(現大分県南海部郡宇目町)の代所として預け置かれている。天正年間(一五七三―九二)と思われる大友義統袖判の山上内田知行目録写(内田文書)には「伊倉浜之内次郎丸緒丸」一町五反が内田新十郎知行分として記され、同時期の大友義統袖判の山上衆知行目録写(同文書)にも内田新十郎の知行分として「伊倉はまの内」一町五反がみえる。

天正一七年から慶長一〇年(一六〇五)までの加藤清正による高瀬川掘替工事の際には当地に堤防が築かれ、水跳ねのための枠が設けられたという。天正検地を写したとされる慶長九年九月の検地帳には「伊倉浜村」とみえ、田三一町二反九畝余・畠七反七畝余、分米四二一石余。


浜町
はまちよう

[現在地名]津市東丸之内ひがしまるのうち大門だいもん

大門通筋の東側がうお町で、さらに東が浜町筋で、元来は漁民で構成した町人町。慶長一八年(一六一三)藤堂高虎による津町地子免許状に、津町の定成二一一・一八石のうち、三七・二九七石が浜ならびに築地つきじ分となっている(草蔭冊子)。当初は魚町も含めて浜または浜町を公称とした。寛永元年(一六二四)の町年寄推挙文書(津市史)に浜、同一二年の津町祭礼関係文書(草蔭冊子)に浜町と記し、町の代表者として両文書ともに惣(宗)太夫・彦太夫・梶右衛門の三名を挙げる。「勢陽雑記」に大小の橋のことを記し「この橋より東南を浜町といひ、西北を高町といへり、古来例也」とある。


浜町
はままち

[現在地名]青森市安方やすかた二丁目・ほん町二―五丁目の各一部

明治初年の「新撰陸奥国誌」に「此の町海辺に近き故に名く。(中略)御倉之通より下を上浜かみはま町、正覚寺通より下を中浜町、福士之通より東を下浜町と云ふ。併て長七丁十四間二尺四寸、幅十二間、家数百四十一軒。南側は船宿妓楼多く建連り宏厦海に面し夏秋の際舟の出入多く繁豊の場なり。北側は上の方は物置補舎等のみにして家居なく、且此町船宿有て荷揚する故に浜手へ出る小路数条あり、海辺迄二丁」とある。

寛永元年(一六二四)に青森の町づくりが行われたとき本町(大町)こめ町とともに最初につくられた青森派立一千九五軒の一つである(津軽歴代記類)


浜町
はままち

[現在地名]矢部町浜町

千滝せんたき川と五老ごろうたき(轟川)に挟まれた盆地の中心にあり、西は浜村、南は下市しもいち村に接する。東西に日向往還が通り、東はとどろき村を経て浜の館があった下大川しもおおかわ村を通過する。元禄一四年(一七〇一)に浜村の東部に新町がつくられ、在町としての基となったが、寛文九年(一六六九)頃成立の「一統志」に「浜町矢部」とあり、「国誌」に「旧宮原町ト云、阿蘇大宮司当所在館ノ時ヨリ賞シテ浜町ト称スト云」と記されていることから、早い時期に町とよばれていたらしい。矢部手永に属し、手永の中心として、林業・酒造・製茶、物資の集散地として、また日向往還の宿場として栄えた。


浜町
はままち

[現在地名]酒田市一番町いちばんちよう二番町にばんちよう相生町あいおいちよう一―二丁目

米屋こめや町西端から北に延びる両側町で、南は名子屋なごや小路。内町組に属する。町名は北側が砂原で西浜にしはまの一部に属していたことによる。善導ぜんどう寺の南側にあたるため善導寺小路とも称した(飽海郡誌)。町分の耕地があり、元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録に浜町七斗余が載る。明暦二年(一六五六)の酒田町絵図(大泉叢誌)に町名がみえ、町の長さ五六間、屋敷一四軒。


浜町
はままち

[現在地名]四日市市浜町

西にし町からたて町・なか町を経て東の海岸へ東西に通ずる浜往還沿いに発達した町。西は中町、東は思案しあん橋を隔てて納屋蔵なやくら町、南はしん丁。旧版「四日市市史」によれば、きた町・みなみ町などとともに中世末・近世初頭より存在し、当初は海岸に面し、四日市湊の中心であった。古くは州浜すはま、寛文年間(一六六一―七三)には大浜、延享二年(一七四五)以降浜町と称したという。


浜町
はまのちよう

[現在地名]西宮市浜町はまちよう

浜脇はまわき町の東にあり、西宮町の発展に伴い、海岸に向けて形成された町場。西宮神社門前町として山陽道を中心に発達したいわゆる町方の町ではなく、江戸時代中期以後、酒造業の展開とともに発展した浜方五町の一(天保九年「西宮町石高町数等書上」岡本家文書)。貞享元年(一六八四)の西宮町浜地図(西宮市史)には山陽道の一筋南に並行して走る浜脇町沿いの道から幾筋もの南北方向の道が海岸に向けて描かれ、道沿いに町場が形成されており、その西端の通りに面して「浜ノ町」の記載がある。


浜町
はままち

[現在地名]丸亀市浜町

丸亀城の北側、西汐入にししおいり川河口に面した東西の通りに沿う町で、「西讃府志」に「西船町ヨリ東京橋ニ至ル町長二町三七間、福島橋ヨリ南横町ニ入ル長三十四間」とある。東はきよう橋を挟んで宗古そうこ町、北は福島ふくしま橋を挟んで福島町、南はよこ町。町の西側一部は生駒氏時代に形成されたと考えられ、万治年間(一六五八―六一)の城下図には古町と記される。大部分は新町と記されており、丸亀藩山崎氏時代に成立した。


浜町
はままち

[現在地名]福井市中央ちゆうおう三丁目

北はほん町、南は足羽あすわ川に沿い、町名もこれによって起こった。本願寺八世蓮如が文明七年(一四七五)八月八日、下間安芸法眼蓮崇に下付した親鸞絵像(石川県富来恵光寺蔵)、ならびに絵伝四幅(京都市下京区常楽寺蔵)の裏書に「越前之国(足)羽郡北之庄浜、願主蓮崇」とみえる。

慶長年間北庄四ツ割図には南川端みなみかわばた町とみえ、家数は三三を数えるが、通りの南側には佐久間長左衛門・山田甚右衛門(禄一〇〇石)・渡辺菊右衛門(禄五〇〇石)・大久保内膳(禄三千石)や山岡備前・但馬・吉田修理らの下屋敷が並び、武家町的景観であった。通りの西詰には高木喜右衛門(禄二〇〇石)の屋敷がみえるが、寛永元年(一六二四)松平忠昌に従って越後高田たかだ(現新潟県上越市)から移住した名刀工島田山城守がここに御朱印屋敷を与えられた。


浜町
はまちよう

[現在地名]厳原町国分こくぶ

おお町の南東に位置する。府中ふちゆう商人町二四ヵ町の一つ。地内に浜町小路・鍛冶屋かじや小路・幸田こうだ小路・三軒屋さんげんやなどがあり、三軒屋の南に寛文七年(一六六七)中矢来(防波堤)が築かれて船溜が設けられた(郡方毎日記)参勤交代で往来する宗氏一行の船も、朝鮮使の船もこの浦に停泊した。延宝四年(一六七六)の屋敷帳(宗家文庫文書)に「浜之町」とみえ、御船手の阿比留格右衛門らの屋敷四二軒がある。同九年の年行司町人返答書(同文書)に浜ノ町とみえ、乙名は関岡太郎兵衛で、本家六二・借家八七、人数四六二、鯨突四組があった。元禄元年(一六八八)一二月の火災で「十王小路北南、浜之町北南限り」の一帯などが焼失(表書札方毎日記)


浜町
はままち

[現在地名]鹿島市浜町字庄金しようきん中町なかまち一帯

浜川の河口付近に位置する。慶長絵図に町名がみえる。享和元年(一八〇一)写の御領中郡村附および万延元年(一八六〇)改の郷村帳に「浜町 野畠のばこ町・庄津しようづ町・金屋かなや町・中町」とあるが、江戸時代は海陸交通の要地浜津・浜宿として知られた。しかし、これ以前の慶長一一年(一六〇六)に天主堂が建てられたという(レオン・パジェス「日本切支丹宗門史」)


浜町
はまちよう

[現在地名]室蘭市中央町ちゆうおうちよう二―三丁目・入江町いりえちよう

明治六年(一八七三)から同三三年六月までの室蘭郡の町。絵鞆えとも半島の中央に位置し、札幌通さつぽろどおり四丁目の中央から東に入る通り一帯で、西は常盤ときわ町、北は東小路ひがしこうじ、南は新堀しんぼり(明治一五年「室蘭港市街図」北海道志巻二など)。町名は海に通ずる通りであることに由来し、裏通りを裏浜うらはま町とよんだ(新室蘭市史)。明治六年一二月新室蘭の町名区域が決定し、「浜町」は札幌通五丁目の「海岸」とされており(「室蘭郡各区並町名之義ニ付伺奉候書付」同書)、奥部は室蘭湾を望む地であった。


浜町
はままち

[現在地名]臼杵市臼杵 浜町

唐人とうじん町の南に位置し、南はよこ町、東はしん町。十字状の通りを中心に四区域に分れ、新町との境には木戸が設けられていた。西のかけ町からの東西の通りは長さ四三間(幕末頃「臼杵城下絵図」臼杵図書館蔵)。参宮帳写(後藤作四郎文書)によると、天正一八年(一五九〇)三月一七日「はまの町」の彦四郎ら臼杵衆六人が伊勢神宮を参詣している。文禄二年(一五九三)の臼杵庄惣町屋鋪検地帳写(渡辺家文書)には臼杵浜町とあり、高一二石余、屋敷地は五四筆あり、名請人は四六人。


浜町
はまちよう

昭和三年(一九二八)一月に成立した現在の苫小牧市の町名。苫小牧市の中心部の南側に位置し、南は太平洋に面する。町名の由来は海に面し浜とよばれていたことによる。同年に苫小牧町大字浜町が誕生、現在の高砂たかさご町・汐見しおみ町を含む(「町名設定地番改正調書」苫小牧市立中央図書館蔵)。同一九年の大字廃止字名改称により苫小牧町浜町となった(「苫小牧町字地番整理調書」同館蔵)。同二三年市制施行により苫小牧市浜町となり、同三三年の区画整理事業により東側の地を汐見町とした。同四五年の住居表示実施で一―二丁目を設定し、一部を高砂町一―二丁目・本幸ほんこう町一丁目に移した(住居表示新旧対照表)


浜町
はまちよう

[現在地名]東区横堀よこぼり三丁目

浜之町はまのちようともいう。七郎右衛門しちろうえもん町二丁目の南に続く西横堀にしよこぼり川東岸の片側町で、淡路町あわじまち通より備後町びんごまち通少し北まで。古くは七郎右衛門町の一部であったが(東区史)、明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図には津村浜つむらはまの町とあって、年寄は津村新兵衛が勤めていた(安政三年「水帳」大阪市立中央図書館蔵)。のち浜町となり延宝七年(一六七九)小町のため七郎右衛門町より一屋敷、南の長浜ながはま町より四屋敷が加えられた(同上)


浜町
はままち

[現在地名]鰺ヶ沢町浜町

西のつり町から北に転じて東に折れて浜町に至り、東は南に折れあら町の角に接する。

慶安(一六四八―五二)頃の絵図によれば、ほん町は道路の両側に家が並び、浜町の名はまだないが、本町の西三分の一は網干場、堀切ほりきり川河口にかけてワキの澗となっているという(西津軽郡史)。貞享四年(一六八七)の検地帳に町名があり家数五〇。元禄一六年(一七〇三)の鰺ヶ沢町の絵図(鰺ヶ沢町史)に家が六六軒みえるという。宝暦八年(一七五八)の「津軽見聞記」に「町は一筋にて、東西二十町程続き、浜町のうしろ長さ二町斗の一筋あり」とある。


浜町
はままち

[現在地名]野辺地町 野辺地・浜掛はまがけ米内沢よないざわなど

通称浜町。野辺地村の町方の北側に位置する。享和三年(一八〇三)の仮名付帳に野辺地町七町の一として町名がみえ、遠見番所が町内にあった。藩政末期の北奥路程記(岩手県盛岡市中央公民館蔵)の絵図でみると南の八幡はちまん町で奥州街道から分れて野辺地湊へ向かう道に沿い、北西海辺にハマコ番処、北東海辺に湊役処がある。「郷村古実見聞記」によれば遠見番所は元禄一二年(一六九九)の絵図に書上げられているといい、正保四年(一六四七)の南部領内総絵図にみえる舟遠見番所もこれにあたろう。また「郷村古実見聞記」では寛政五年(一七九三)の頃には浜番所ととなえられており、文化元年(一八〇四)には「一見張番所 北郡 野辺地村 浜町」と書上げられたという。


浜町
はままち

[現在地名]鹿児島市浜町

かん町の東端に位置し、東は海岸、北は向江むかえ町に通じ、南西は堀を隔て和泉屋いずみや町・小川おがわ(鹿児島県地誌)。上町六町の一。地蔵じぞう町と結ぶ孝行こうこう橋の架橋は、運河開削と同時の元禄一四年(一七〇一)であろう(鹿児島県維新前土木史)。同九年の大火対策として造成された埋立地は屋敷数が規定の四〇ヵ所に及ばなかったため新規の一町取立てとはならなかった。


浜町
はままち

明治一二年(一八七九)より同三五年まで存続した町。明治一二年四月浜中はまなか村が浜町と改称。浜町に古平美国積丹郡役所が置かれ、古平・美国びくに積丹しやこたんの三郡を管轄した(郡区沿革表)。同一二年の「共武政表」に戸数二〇九・人口九四三、寺三、学校一、馬九、日本形船舶一、物産は鰊・鮭・鱈・鮃・鯣・・鮑・煎海鼠・昆布とある。同二二年五町村を管轄する戸長役場が設置された(道庁布令全書)。同二四年調の「徴発物件一覧表」では戸数四〇〇・人口二千二六二、官廨四、倉庫一〇、寺三、水車一二、病院一、艀漁小廻船一九二。


浜町
はままち

[現在地名]滑川市浜町

北陸街道の北側に位置し、猟師りようし町とも称された。北は富山湾に面し、滑川町の浦方を形成していた。東は橋場はしば町、南は瀬羽せわ町。慶長年間(一五九六―一六一五)から猟師の家が四、五軒あり、寛永年間(一六二四―四四)頃からせわ(瀬羽町)の浜と称されていたと伝える(滑川町誌)。天明三年(一七八三)の滑川町惣絵図(田村家蔵)によると、北陸街道へ通じる二筋の小路を挟んで家屋が密集しており、海岸部には波除普請の矢来が設けられている。


浜町
はままち

[現在地名]福江市福江町・東浜町ひがしはままち一―三丁目

福江城の北に位置する。天明九年(一七八九)の巡見使答書領内調書(青方文書)に城下町数として浜之町など五ヵ町が記される。文政二年(一八一九)浜町の播磨屋の家内に孝道の聞え高い妻がいるとして一生涯の饂飩株が与えられている(増補継志系図)


浜町
はまちよう

大正一一年(一九二二)から昭和四一年(一九六六)までの町名。絵鞆えとも半島中央部に位置し、現在の中央ちゆうおう町の一部にあたる。もとは室蘭区大字浜町および千歳町ちとせちよう札幌通さつぽろどおりの各一部で、大正一一年四月に室蘭区浜町となった(「大字廃止及町名番地改称の件」昭和一六年室蘭市史)。同年八月の市制施行により室蘭市浜町となる。


浜町
はままち

[現在地名]石狩市浜町

明治四年(一八七一)から同三五年までの町。石狩郡のうち近世末期に形成された石狩市街の一町で、市街の最北東部に位置し、石狩川河畔から日本海岸に通ずる町域。「石狩国地誌提要」に「川西」として「浜町」がみえる。石狩川河畔は古くから鮭の好漁場で、「ホリカムイ」(堀神)・「ライサツ」(来札)とよばれていた。一八五〇年代中頃の「ホリカモイ」の引網数は阿部屋二統・山田家(出稼)一統であった(村山家資料)


浜町
はままち

[現在地名]黒石市浜町

黒石陣屋の北にあたり、南はなか町、北は町のはずれの柵立に接する。浪岡なみおか(現南津軽郡浪岡町)、青森に通ずる街道筋の町並で、中町とともに浜街道ともよばれた。享保(一七一六―三六)頃の黒石府家之図(浅瀬石川郷土誌)では、中町に含まれている。文化三年(一八〇六)の黒石火消組五ケ組(浅瀬石川郷土誌)では中町組に属した。


浜町
はまちよう

中央区北東部、新大橋しんおおはし付近の隅田川西岸一帯をさす。江戸時代には大川(隅田川)と浜町堀の間に設けられた武家地で、浜町と俗称されていたが、明治五年(一八七二)に起立され、浜町一―三丁目となった。明治維新後もその大部分を旧大名家が所有し、大正初年までほぼ大区画のままであった。その後宅地開発が進み細分化され、関東大震災後の復興計画のなかで浜町二丁目の隅田川沿いに浜町公園が造成された。明治二〇年頃から川沿いに水練場(水泳道場)ができたが、昭和一〇年代に入ると水質汚濁が進み廃止された。


浜町
はままち

[現在地名]氷見市比見町ひみまち

北六町の一つ。南はみなと町、北はいま町、西はなか町、東は富山湾に面する。散町の一つ。元文二年(一七三七)の戸数は一〇四、地子米は一九石余(憲令要略)


浜町
はまちよう

[現在地名]釧路市浜町

昭和七年(一九三二)に設置された町名。もと釧路村の一部(ベトマイ)と埋立地。昭和七年の世帯数六・人口三二(釧路郷土史考)。同一二年漁港修築に伴う埋立工事が竣工、同一三年魚市場などが置かれたのをはじめ、第二次世界大戦後も漁業関連施設の設置が続き、釧路港の中心となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「浜町」の意味・わかりやすい解説

浜町
はまちょう

東京都中央区北東部の地区。正しくは日本橋浜町。隅田川(すみだがわ)の浜にあたる右岸にあったための呼称という。江戸時代は幕府や諸侯の倉庫が置かれ、武家屋敷、寺院があった。明治のころは名家隠棲(いんせい)の地として板垣退助(たいすけ)、西郷隆盛(さいごうたかもり)も仮寓(かぐう)した閑静な所であったが、1873年(明治6)山県有朋(やまがたありとも)の命により、料亭「常盤(ときわ)」が開店してから一流名士の集まる所となり、やがて花街となった。現在、隅田川沿いに浜町公園があり、総合スポーツセンター、児童遊園などの施設がある。また、清洲(きよす)橋通り沿いの2丁目には明治座があり、都営地下鉄新宿線の浜町駅がある。

[菊池万雄]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「浜町」の意味・わかりやすい解説

浜町
はまちょう

日本橋浜町」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内の浜町の言及

【古平[町]】より

…積丹(しやこたん)半島北東岸に位置し,町域中央を古平川が北へ流れる。中心地の浜町は江戸時代初期に古平場所が置かれた地で,早くから季節的な和人の渡来があったが,漁業集落が形成されたのは安政年間(1854‐60)以降である。明治時代はニシン漁でにぎわったが,ニシンの北上とともに衰退した。…

【矢部[町]】より

…北は阿蘇外輪山,東と南は九州山地で,中央部を緑川が南西流する。中心の浜町(はままち)は,鎌倉初期に阿蘇大宮司惟次が阿蘇谷から移住して居館を構えて以来,300年以上にわたって阿蘇氏の本拠となった。近世は熊本藩領で,木材,穀物の集散地としてにぎわった。…

※「浜町」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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