狂言(読み)きょうげん

精選版 日本国語大辞典 「狂言」の意味・読み・例文・類語

きょう‐げん キャウ‥【狂言】

〘名〙
① 道理にはずれた言葉や動作。また、常軌を逸した言葉や動作。たわごと。
※続日本紀‐和銅六年(713)五月己巳「又久沈重病、起居不漸。漸発狂言時務
※正法眼蔵(1231‐53)礼拝得髄「かくのごとくのことばは、仏法をしらざる痴人の狂言なり」 〔荘子‐知北遊〕
② (━する) わざとふざけて、おもしろおかしく言うこと。また、その言葉や動作。冗談。ざれごと。
※明月記‐文治四年(1188)九月二九日「連歌和歌等、新中納言尾張等相加種々狂言等」
※源平盛衰記(14C前)三四「正直にては能馬はまふくまじかりけりと狂言(キャウゲン)して」
※日葡辞書(1603‐04)「Qiǒguenuo(キャウゲンヲ) ユウ」
③ (━する) 猿楽本来の滑稽な物まねの要素が洗練され、室町時代に発達したせりふ劇。また、それを演ずること。同じく猿楽から生まれた、まじめで幽玄味をもつ能に対するもの。江戸初期に大蔵、和泉、鷺の三流が揃い、能とともに幕府の式楽として続いたが、明治時代に鷺流が亡びた。種類としてはそれ自身独立して演じられる本狂言と、常に能に含まれた形をとる間狂言(あいきょうげん)の二つに分けられる。能狂言。
※大観本謡曲・歌占(1432頃)「この一曲を狂言(キャウゲン)すれば」
※咄本・醒睡笑(1628)七「禁中に御能あり。狸の腹鼓(はらづつみ)を狂言にする」
申楽談儀(1430)能の色どり「脇の為手(して)も、きゃうげんも、能の本のまま、何事をも言ふべし」
⑤ 芝居。また、その演目。歌舞伎狂言
※浮世草子・好色五人女(1686)一「其比は上方の狂言(キャウゲン)になし、遠国村々里々迄ふたりが名を流しける」
⑥ 本当のように仕組むこと。人をだますために仕組んだことがら。こしらえごと。
※浮世草子・傾城色三味線(1701)江戸「態(わざ)と正体(しゃうだい)なく見せて、思ひあいしおのおのを床に入れべしと、しばらく狂言(キャウゲン)をいたした」
[語誌](1)古く中国の文献に見られる①の意味に加えて、日本では②の冗談・ざれごとの意味を示す例が多くなる。
(2)室町時代の演劇としての③は、この冗談・ざれごとを軸とする演劇という意味に基づく。江戸時代の歌舞伎が③との交流を持ちながら発展したところから、その出し物に狂言の名称が用いられ、両者を区別するために、前者は能狂言、後者は歌舞伎狂言と呼ばれる。
(3)「狂言」が演劇と結びつくと、観客の興味を引くための工夫に伴って虚構的部分が多くなり、江戸時代には⑥の意を生じた。

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デジタル大辞泉 「狂言」の意味・読み・例文・類語

きょう‐げん〔キヤウ‐〕【狂言】

日本の古典芸能の一。猿楽のこっけいな物真似ものまねの要素が洗練されて、室町時代に成立したせりふ劇。同じ猿楽から生まれたに対する。江戸時代には大蔵和泉いずみさぎの三流があったが、鷺流は明治末期に廃絶した。本狂言あい狂言に大別される。能狂言。
歌舞伎。また、その出し物。歌舞伎狂言。
人をだますために仕組んだ作り事。「狂言強盗」
道理にはずれた言葉や動作。
「仏法を知らざる痴人ちじんの―なり」〈正法眼蔵・礼拝得髄〉
戯れの言葉。ざれごと。冗談。また、ふざけて、おもしろおかしく言うこと。
「正直にては良き馬はまうくまじかりけりと―して」〈盛衰記・三四〉
[類語](3見せ掛ける装う偽装する粉飾カムフラージュ決め込む芝居を打つ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「狂言」の意味・わかりやすい解説

狂言
きょうげん

日本の古典芸能。主として科(しぐさ)と白(せりふ)によって表現される喜劇。室町初期以来、能と密接な関係を保ってきたので、能と狂言を一括して「能楽」とよぶ。

[小林 責]

語義・名称

「狂言」という語は古い漢語で、常軌や道理に外れたことば、あるいは冗談、戯言(ざれごと)などの意味をもっていた。日本ではすでに『万葉集』に用いられ、「たわごと」と読まれている。平安時代には「狂言綺語(きご)」(事実でないことを修飾して言い表したことば、転じて小説などの文章)という熟語でも普及したが、以後しだいに滑稽(こっけい)と同義の普通名詞として使われることとなった。一方、これが舞台芸術の一種をさすようになるのは南北朝時代で、まず延年(えんねん)の諸芸のなかにこの名目がみえ、室町時代に入り、能と共演する滑稽な芸をよぶ語として定着した。江戸中期以後には「歌舞伎(かぶき)狂言」の語が一般化し、狂言は「芝居」の別称のように使われるようになったため、本来の狂言は「能狂言」とよばれることもあったが、第二次世界大戦後その価値が再評価されるとともに、名称も復権し、狂言といえば能楽の狂言を称するという認識が普遍的となった。

[小林 責]

歴史と現状

狂言は、奈良時代に中国から渡来した散楽(さんがく)の諸芸のうち、滑稽物真似(ものまね)の芸態の伝統を受けるものと考えられる。散楽は平安時代に入ると猿楽(さるがく)とよばれるようになり、これは鎌倉時代を通じて、まじめな歌舞劇である能と、滑稽な科白(かはく)劇である狂言とに分化した。そして、室町前期、大和(やまと)猿楽の世阿弥(ぜあみ)らによって猿楽の能がほぼ今日の能に近い姿に整えられたとき、狂言はなお即興的寸劇にすぎなかったようであるが、猿楽の一座に組み込まれ、能の支配を受ける関係になっていた。当時、近畿一円には大和のほか、近江(おうみ)、宇治、丹波(たんば)、摂津などにも猿楽の座があり、それぞれに狂言師が専属していたが、戦国争乱の間にしだいに衰微し、隆盛な大和猿楽に含み込まれたり、京都を中心に狂言師だけの一座を形成したりしていった。そして、室町後期に狂言も演劇としての形態を整えると、まず大和猿楽の狂言方によって大蔵流(おおくらりゅう)が、ついで江戸前期に新興の鷺(さぎ)・和泉(いずみ)2流が成立した。徳川幕府は能楽を武家の式楽(儀礼用の芸能)に指定して役者を扶持(ふち)したので、大蔵・鷺2流は幕府直属の流儀として、和泉流は尾張(おわり)徳川藩と加賀前田藩の禄(ろく)を受け宮中御用も勤める流儀として、しかもこれら3流の狂言師は地方各藩にも召し抱えられて、江戸時代を安泰に経過する。

 しかし、明治維新によって保護者を失うと、狂言界は混乱に陥り、明治中期までに大蔵・鷺両流宗家が、大正初期には和泉流宗家も廃絶した。そして東京では、遷都とともに京都、金沢などから新都に集まった和泉流三宅藤九郎家(みやけとうくろうけ)とその一派および大蔵流山本東次郎(とうじろう)家など、京阪では大蔵流茂山千五郎(しげやませんごろう)家、茂山忠三郎(ちゅうざぶろう)家など、いずれも弟子家によって芸統が伝えられたが、明治初期におもだった流儀狂言師が吾妻(あづま)能狂言に参加し、ついで歌舞伎界に接近していった鷺流はついに衰亡した。昭和に入って大蔵・和泉両流とも宗家を再興した。東京には大蔵流の家元大蔵弥右衛門(やえもん)家・山本東次郎家・善竹十郎(ぜんちくじゅうろう)家・和泉流の野村万蔵家・野村万作家・三宅右近家・宗家和泉家などがある。京阪には茂山千五郎家・茂山忠三郎家と忠三郎家から分かれた善竹家、名古屋には和泉流の野村又三郎家や同流狂言師の結社である狂言共同社などがあり、各地の上演単位として活躍している。芸風は、流儀より土地柄を反映し、東京は知性的な規格正しい芸、京阪は情緒的で写実味の濃い芸、名古屋は東西両者の中間的な芸を形成している。

 第二次世界大戦後の狂言界の著しい動向としては、能の従属的立場から解放されるとともに、軽妙な喜劇性と簡潔な舞台表現とが広く一般に再認識されたことがあげられる。そして、1955年(昭和30)ごろ以降は、狂言師の新様式の創作劇あるいは歌舞伎をはじめ他ジャンルの演劇への参加や、新劇俳優との共演によるギリシア劇の上演などが話題をよんだが、さらに海外への普及活動によって、今日、狂言は世界的視野において評価されるに至っている。

[小林 責]

三番叟・風流・間狂言・本狂言

狂言方の演ずる芸は、〔1〕三番叟(さんばそう)(大蔵流では「三番三(さんばそう)」)および風流(ふりゅう)、〔2〕間(あい)狂言、〔3〕本(ほん)狂言に分けられる。

〔1〕三番叟および風流は、能楽の儀式芸である『翁(おきな)』のなかで狂言方が担当する演技である。三番叟は、シテ方が勤める翁が退場したあと、五穀豊穣(ほうじょう)を祈って1人で演ずる舞で、前半の素面(すめん)で勇壮に舞う「揉(もみ)の段」と後半の黒式尉(こくしきじょう)の面をつけ鈴を持って軽快に舞う「鈴の段」とに分かれている。風流は、華美に着飾った多数の役者が登場するめでたい内容をもつ単純な劇である。

〔2〕間狂言は、能のなかの一役として狂言方が受け持つ演技をいい、その役はアイと略称される。シテの中入(なかいり)の間に一曲の主題や内容などを平易に説明する語リ間(かたりあい)、能の諸役と共演するアシライ間(あい)、狂言方が2人以上出て寸劇を演ずる劇間(げきあい)に大別される。概して身分の低い役であるが、能一曲の雰囲気を左右することもあり、軽視できない。

〔3〕本狂言は独立した筋をもつ演劇で、ただ「狂言」というときには本狂言をさす場合が多い。主役をシテ、脇(わき)役をアドといい、和泉流ではアド1人以外を一括して小(こ)アドと称している。また参詣(さんけい)人や花見客など同性格の数人いっしょに登場する者を立衆(たちしゅう)、その統率者を立頭(たちがしら)とよぶ。現行曲(流儀が公認しているレパートリー)は大蔵流180番(ただし茂山千五郎家・山本東次郎家は各200番)、和泉流254番、共通の曲が191番で、両流あわせて263番の曲がある。通常2~4人で演じ、大勢物(おおぜいもの)といわれる数人の曲は約40番あるが、十数人を要するものは『唐相撲(とうずもう)』『太鼓負(たいこおい)』『老武者(ろうむしゃ)』などごくまれである。上演時間はほとんどが20~40分で、1時間を超すのは『花子(はなご)』『釣狐(つりぎつね)』などにすぎない。本狂言は、世阿弥のころすでに能と能との間に勤めるのを原則とし、以後今日に至っているが、能と狂言という対照的な性格をもつ芸能を交互に演ずるのは、外国にも例をみない巧みな上演の知恵といえよう。もっとも、狂言だけを並べる「狂言尽くし」も安土(あづち)桃山時代から行われ、近年はとくに盛んである。

[小林 責]

本狂言の特色

本狂言の内容の大きな特色は喜劇性と庶民性である。

 平安時代の猿楽の笑いはかなり卑猥(ひわい)なものであったと思われるが、世阿弥は「笑(え)みのうちに楽しみを含む」ような笑い、すなわち上品でなごやかな滑稽味を狂言に要求した。さらに、その歴史を通じ、貴族的な能と同じ舞台で上演され、ことに江戸時代には武家式楽に定められ武士に直属することになったため、しだいに笑いを洗練し昇華させた。現在の狂言にみられる笑いの要素としては、中世芸能が存立の精神的支柱とした「祝言(しゅうげん)性」や下剋上(げこくじょう)の風潮を反映する「風刺性」も認められるが、多くの曲を支配しているのは「滑稽性」と称される、なんの目的ももたない、ともかく楽しい笑いである。室町時代は乱世であり、世相も不安定で殺伐としていたが、そういう時代であったからこそ、庶民は上昇のエネルギーを蓄積することができた。こうした社会意識を反映した室町民衆の現世謳歌(おうか)の笑いが、狂言の滑稽性だといってよい。笑いを含まない曲は、座頭(ざとう)狂言の『川上(かわかみ)』『清水(きよみず)座頭』『月見(つきみ)座頭』などほんの数曲にすぎないが、これらにはペーソス(哀愁)あるいは詩情を感じさせる秀作が多く、狂言の内包する質の幅を広げている。

 本狂言には前代までの説話集などに典拠を求めたものもあるが、それはごくわずかで、ほとんどは当代世相に取材した室町時代の現代劇である。登場人物は社会の各階層にわたり、さらに神仏、鬼畜、動植物にまで及んで、シテの役柄だけでも多種多様である。そして、大名・僧侶(そうりょ)など権威ある者には批判的であるのに対し、武士・土豪の召使いで下人(げにん)とよばれる隷属民であった太郎冠者(たろうかじゃ)をもっとも活躍させ、社会ののけ者である博奕打(ばくちうち)、すっぱ(詐欺(さぎ)師)、盗人、山賊などにはむしろ同情的で、真の悪人としては扱っていない。歴史上の有名人物も在原業平(ありわらのなりひら)は女好きの典型、朝比奈三郎義秀(あさひなのさぶろうよしひで)や鎮西八郎為朝(ちんぜいはちろうためとも)は強者の代表として取り上げているにすぎず、鬼や閻魔(えんま)にも好色とか生活困窮者とかいった当代人の俗性を与えている。神仏も七福神クラスの親しみのもてる民間信仰の対象である。こうした登場人物の選択と性格づけには、ヒューマニズムを基調とした庶民性が強く感じられる。

[小林 責]

本狂言の分類と内容

本狂言の分類としてもっとも一般的なのは、主としてシテの人物類型によって分けたものである。以下には、和泉流の分け方に私見を加えた分類により、それぞれの内容の特色を概説する。

〔1〕脇(わき)狂言 神が人々に福を授け祝言の舞を舞う神物(かみもの)、鷹揚(おうよう)な長者と迂闊(うかつ)あるいは機転のきく召使いとの交渉がめでたい結末を迎える果報物、地方の百姓が在京領主にめでたく年貢を上納する百姓物、冠者が都のすっぱ(詐欺師)にだまされ命じられたものとまったく違った物を求めてくる太郎冠者(たろうかじゃ)物、市場の一番乗りを商人2人が争うものなどさまざまな曲を含む雑物に細分類できるが、いずれも、めでたさを含み、なごやかな笑いを誘うのが共通点といえる。そのため、役柄によらない、『翁』の脇に添う意味をもつ脇狂言という別種の類別を残しているのである。『福の神』『末広かり(すえひろがり)』『宝の槌(つち)』『筑紫奥(つくしのおく)』『鍋八撥(なべやつばち)』など35曲。

〔2〕大名(だいみょう)狂言 大名とはいっても地方の土豪程度の武士である。そこで、いばってはいても実は愚かか無力であり、その外観と内面の矛盾が笑いを誘うのだが、大名は概して明るくおおらかであるので、その滑稽は風刺よりむしろなごやかな楽しさを漂わせる。『靭猿(うつぼざる)』『蚊相撲(かずもう)』『鬼瓦(おにがわら)』など16曲。

〔3〕太郎冠者狂言 太郎冠者には気の利く賢明な者も多いが、これがシテとなる太郎冠者狂言では概して愚鈍、横着、臆病(おくびょう)、そして酒好きと欠点が表だつ。しかし無邪気で愛敬(あいきょう)に満ちているのが特徴で、醸し出す笑いも底抜けに明るい。『寝音曲(ねおんぎょく)』『附子(ぶす)』『棒縛(ぼうしばり)』『素袍落(すおうおとし)』『千鳥(ちどり)』『木六駄(きろくだ)』など45曲。

〔4〕聟(むこ)狂言 結婚後、聟が舅(しゅうと)方を訪ね正式に親子の対面をする聟入りの式に際し、聟が幼稚あるいは貪欲(どんよく)などのため失態を演じる聟入り物、聟志願の男が娘の醜い顔を見て逃げ出したり無能を暴露して聟になり損ねたりする聟取り物に分けられ、聟入り物には祝言性が認められる。『二人袴(ふたりばかま)』『舟渡聟(ふなわたしむこ)』など17曲。

〔5〕女(おんな)狂言 狂言には老尼以外の女性をシテとする曲はなく、ここに含まれるのは家庭内の男女の葛藤(かっとう)を描いた夫婦物と期待の花嫁が不美人なのに驚く妻定め物である。夫婦物では、概して妻のほうが勝ち気で強いので、恐妻話の滑稽が生ずる。『鎌腹(かまばら)』『千切木(ちぎりき)』『箕被(みかずき)』『花子(はなご)』など30曲。

〔6〕鬼(おに)狂言 鬼のほか閻魔・雷をシテとする曲で、一見恐ろしげなこれらの異類がたわいなく人間の知恵や腕力に負けてしまう無知・無力など、その倒錯が漫画的な笑いを誘う。『節分(せつぶん)』『首引(くびひき)』『八尾(やお)』など9曲。

〔7〕山伏(やまぶし)狂言 山伏がいかめしい姿で行力を誇りながら祈祷(きとう)がいっこうに効かない無能力ぶりを笑いの対象とする曲が多いが、風刺性より童話的な楽しさを感じさせる。『禰宜(ねぎ)山伏』『菌(くさびら)(茸)』『蝸牛(かぎゅう)』など9曲。

〔8〕出家(しゅっけ)狂言 僧侶の貪欲、破戒、無学を風刺した曲が多いが、ひたすら悟道を求める旅僧を好意のまなざしで見守っている曲もある。新発意(しんぼち)物は、主人と太郎冠者が住持と新発意に置き換えられただけで、笑いは概して明るく楽しい。『宗論(しゅうろん)』『布施無経(ふせないきょう)』『名取川(なとりがわ)』『御茶の水』など25曲。

〔9〕座頭(ざとう)狂言 盲人を主人公とした滑稽味のある曲と、身障者の叡知(えいち)と哀愁を描きペーソスを漂わす曲とがある。『丼礑(どぶかっちり)』『川上(かわかみ)』など8曲。

〔10〕舞(まい)狂言 旅僧が所の者にいわれを聞き、死者の回向(えこう)をしているところへその亡霊が現れて最期のありさまを舞うという、能と同様の構成をもち、パロディーの滑稽をねらった曲。『通円(つうえん)』など7曲。

〔11〕替間(かえあい)狂言 独立性の強い替間(特別演出の間狂言)で、単独でも上演する曲。『猿聟(さるむこ)』など6曲。

〔12〕雑(ざつ)狂言 以上に分類できない曲を一括するので内容は雑多であり、アウトローをシテとする曲などはここに含まれる。『茶壺(ちゃつぼ)』『瓜盗人(うりぬすびと)』『悪太郎(あくたろう)』『米市(よねいち)』『武悪(ぶあく)』など56曲。

 以上のほかに番外曲と新作狂言とがある。番外曲は、江戸時代および明治維新以後の新作、あるいは他流の曲を取り入れた準現行曲ともいうべきもので、大蔵流には11番、和泉流には27番の曲があるが、実際には大蔵流では井伊直弼(なおすけ)作『鬼ヶ宿(おにがやど)』、冷泉為理(れいぜいためただ)作『子の日(ねのひ)』、和泉流では『見物左衛門(けんぶつざえもん)』以外はほとんど上演されない。新作狂言は、明治維新以後に創作された本狂言の総称で、試演されたものだけでも120番以上を数えるが、再三上演されているのは飯沢匡(ただす)作『濯(すす)ぎ川』、木下順二作『彦市(ひこいち)ばなし』、小松左京(さきょう)作『狐と宇宙人』、帆足正規(ほあしまさのり)作『死神』ぐらいのものである。なお新作狂言のうち『子の日』『濯ぎ川』のように番外曲に編入された曲もある。

[小林 責]

演出・演技

狂言は能とともに能舞台で演じられる。その演出や演技を能同様に「型」とよぶのも、こうした象徴劇・歌舞劇用の殺風景な舞台で能の影響下に演じられてくる間に、演出も演技も類型化されたためであろう。したがって、狂言は科(しぐさ)と白(せりふ)を演技の主要素にするとはいっても、近代写実劇とは本質的に異なる。やや腰を落とし重心を下げた構えや摺足(すりあし)の運びは能と同じで、日常の姿勢や歩き方とは異なり、せりふにも各文節の2字目の音を強めるのを基本とする独特のイントネーションがある。小舞謡(こまいうたい)・小舞(こまい)と称する歌舞から稽古(けいこ)に入るのは、発声および姿勢・運歩という演技の基礎をまず身につけ、せりふの美化としぐさの律動化を養うためである。

 演劇としての構成は単純、素朴である。ほとんどの曲は、登場した人物の自己紹介である「名乗(なのり)」で始まり、あとすぐ相手役を呼び出すか、場面を転換するために本舞台を一巡する「道行(みちゆき)」をして相手役と出会ってから本筋に入り、結末も破綻(はたん)のときには追い込み・叱(しか)り留め・せりふ留め・くしゃみ留めなど、和解のときにはシャギリ留め・笑い留め・謡(うたい)留めなどの数種に分類できる。また、名乗も大名などは本舞台の正先(しょうさき)、他は名乗座でし、対話もほぼ名乗座とワキ座で行うというように類型化されている。さらに、笛座上(かみ)や大小前(だいしょうまえ)などに座っているか、後見(こうけん)座に後ろ向きに片膝(かたひざ)ついている場合には、劇の進行の外におり舞台にはいないことを意味するなど、多くの約束に支えられている。

 しかし、狂言は、能の影響と舞台の制約のなかで、演出・演技を萎縮(いしゅく)させてきただけではない。道行でも能では動きがごく少ないが、狂言は舞台を一巡し、泣く型でも能がただ手のひらを目に近づけるだけであるのに対し、狂言は「エーエーエー」と泣き声を伴って写実に近づけている。また擬音を必要とする場面も多いが、用具は使わず、戸をあけるときには「サラ、サラサラサラ」、鋸(のこぎり)で竹垣をひき切るときには「ズカ、ズカズカ、ズッカリ」、樽(たる)から注ぐ酒がなくなるときには「ドブ、ドブドブドブ、ピショピショピショ」などと、役者が演技しながら自ら擬声語を発するという大胆でユーモラスな演出を創案した。つまり狂言は、演出・演技において写実と抽象とを巧みに融合し、簡潔で洗練された独自の様式化と滑稽化に成功したといえよう。

[小林 責]

謡・舞・囃子

狂言のなかの歌謡的要素を総称して「狂言謡(うたい)」という。狂言謡は、酒宴の余興、歓喜や高潮した感情の表現、あるいは主人の機嫌直しや酔っての放歌など、筋の展開と結び付いて謡われることが多い。しかし、歌劇的形式に従って登場謡として能のように次第(しだい)・一声(いっせい)を、またキリ(終曲部)などに叙述的内容を謡うこともある。こうして歌謡的要素を含む曲は約150曲に及び、登場人物自身の謡うのが普通であるが、約35曲では主としてキリに地謡(じうたい)が出る。

 狂言謡は、小舞謡(こまいうたい)、特定狂言謡、酌謡(しゃくうたい)(小謡(こうたい)とも)に大別できる。

(1)小舞謡は、かならず「小舞」とよばれる舞を伴うもので、単独でも鑑賞できる芸術的独立性を備えている。

(2)特定狂言謡は、特定の狂言のなかで謡われる歌謡のうち、『靭猿(うつぼざる)』の猿歌、『地蔵舞(じぞうまい)』の地蔵舞などのように、舞を伴わないか、舞があっても単独で演ずる芸術性が薄く、小舞謡に編入されていない歌謡をいう。

(3)酌謡は、酒宴の場で酌に立ちながら謡うもので、酒に酔い千鳥足で歩きながらも謡う。「ざざんざ、浜松の音はざざんざ」など短い謡で、独特の曲のほか、謡曲の一部をとったものなど十数曲が用意されている。

 このように本狂言には歌謡的要素が濃いので、約85曲には囃子(はやし)が加わる(ただし次第だけに囃子を必要とするというような省略可能の場合には囃子なしで演ずることが多い)。狂言の囃子は概して飄逸(ひょういつ)であり、「カケリ」「楽(がく)」など能と同じ名称がついていても手法が簡略化されているのが普通である。なお、地謡は能と異なり、囃子座の後ろに居並び、囃子方も全員床几(しょうぎ)に掛けず横向きに座って囃す。

[小林 責]

面・装束・道具

狂言は素面で演ずるのを原則とするが、特殊な役には面(おもて)を用いる。

 装束(しょうぞく)は、能の絢爛(けんらん)豪華に対し、写実的、日常的で、簡素な印象が強い。太郎冠者などが着ける肩衣(かたぎぬ)には背面いっぱいに鬼瓦・鳴子(なるこ)・案山子(かかし)・大蕪(かぶ)・とんぼなどを描いた斬新(ざんしん)な図柄が多く、同じく冠者らのはく半袴(はんばかま)に散らした染め抜き模様の三本傘・挽臼(ひきうす)・干網(ほしあみ)・帆掛舟などとともに、狂言の庶民性を示している。また狂言は、女優は使わず、特殊な役以外は女面を用いないので、ビナンという約6メートルほどの白麻で頭を巻き、前で結んで顔の左右に垂らし両端を帯に挟んだ扮装(ふんそう)で、女性を表す。

 装置に類する大道具は能以上に用いない。しかし、小道具の類は多用し、写実味の濃い農具(鍬(くわ)・鋤(すき)・鎌(かま)・鳴子(なるこ))、酒器(杉手樽(すぎてだる)・瓢箪(ひょうたん))、荒物(あらもの)(俎(まないた)・包丁)などは狂言の庶民性を反映している。他方、『牛馬(ぎゅうば)』で竹杖(たけづえ)の先に結んだ垂(たれ)(頭髪の一種)の黒が牛で、白が馬を、『雁大名(がんだいみょう)』で羽箒(はぼうき)が雁を、『昆布売(こぶうり)』で梨子打烏帽子(なしうちえぼし)が昆布を表すといった象徴的な例もみいだすことができ、また葛桶(かずらおけ)が床几(しょうぎ)として使われるだけでなく、『茶壺(ちゃつぼ)』で茶入れ、『柿(かき)山伏』で柿の木、そして蓋(ふた)が杯(さかずき)、あるいは扇が閉じて太刀(たち)・鋸(のこぎり)・石臼(いしうす)、開いて杯・銚子(ちょうし)・戸などに巧みに転用されているのも注目される。

[小林 責]

狂言の影響

狂言は日本で初めて成立した笑いの芸術として、後代の芸能や文学に多くの影響を与えている。

 芸能として狂言の血をもっとも色濃く受け継いでいるのは歌舞伎である。歌舞伎の創始には小さな猿楽の座の狂言方が参加し、江戸前期には本狂言から多くの歌舞伎劇が脚色された。もっとも、そのほとんどはその後上演されなくなり、江戸後期以後はもっぱら歌舞伎舞踊に仕組まれて、三番叟からつくられた『再春菘種蒔(またくるはるすずなのたねまき)』(舌出し三番(さんば))・『柳糸引御摂(やなぎのいとひくやごひいき)』(操三番(あやつりさんば))、『釣狐』からの『寄罠娼釣髭(てくだのわなきゃつをつりひげ)』(朝比奈釣狐)・『釣狐廓掛罠(つりぎつねさとのかけわな)』(廓(くるわ)釣狐)、『靭猿(うつぼざる)』からの『花舞台霞猿曳(はなぶたいかすみのさるひき)』(靭猿)などがいまに残された。また明治以降は松羽目物(まつばめもの)の形式で書かれた福地桜痴(おうち)作『素襖落(すおうおとし)』『二人袴(ににんばかま)』、岡村柿紅(しこう)作『身替座禅(みがわりざぜん)』『棒(ぼう)しばり』『茶壺』『悪太郎』などが、現在歌舞伎舞踊のレパートリーとなっている。音曲方面でも、近松門左衛門が狂言の詞章を浄瑠璃(じょうるり)に活用したのをはじめ、長唄(ながうた)・地歌(じうた)などにも本狂言のテーマや小舞謡の歌詞をとった曲が少なくない。文学方面では、室町後期に編まれた俳諧連歌(はいかいれんが)集である『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』『独吟千句』や、江戸時代に入って俳句や川柳(せんりゅう)に狂言の文句を借りたものが見当たる。そのほか、小咄(こばなし)や落語に狂言種のものが多いのは当然であるが、十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『道中膝栗毛(どうちゅうひざくりげ)』は狂言の趣向を利用した部分が約30か所に及び、その影響が非常に強い。

 そして、第二次大戦後、狂言がもっとも刺激を与えたのは新劇である。狂言の簡潔な表現および狂言師の的確な演技と明晰(めいせき)な発声が注目され、近年では多くの新劇俳優の養成所が狂言をカリキュラムに組み込んでいる。また1957年(昭和32)のパリ文化祭への能楽参加以来、海外の演能には狂言がかならず同行しているが、63年の野村万蔵家によるアメリカ公演以来、各家単独の公演も世界全域に及んでいる。さらに近年では、講義あるいは演技指導、ワークショップなどによる海外普及も活発であり、行き詰まった欧米諸国の演劇界に、その影響が定着しつつある。

[小林 責]

『三宅藤九郎著『狂言の見どころ』(1964・わんや書店)』『小林責著『狂言をたのしむ』(1976・平凡社)』『古川久・小林責他編『狂言辞典 事項編・資料編』(1976、1985・東京堂出版)』『小林責監修、油谷光雄編『狂言ハンドブック』(1995・三省堂)』『『能狂言』上中下(大蔵流台本、1942~45・岩波文庫)』『『日本古典全書 狂言集』上中下(鷺流台本、1953~56・朝日新聞社)』『『狂言集成』(和泉流台本、1974・能楽書林)』『『日本古典文学大系42・43 狂言集』上下(大蔵流台本、1960、61・岩波書店)』『『日本古典文学全集35 狂言集』(大蔵流台本、1972・小学館)』


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改訂新版 世界大百科事典 「狂言」の意味・わかりやすい解説

狂言 (きょうげん)

南北朝時代に発生した中世的庶民喜劇で,能,歌舞伎,文楽(人形浄瑠璃)などとともに日本の代表的な古典芸能の一つ。特に能とは深い関係をもつところから〈能狂言〉とも呼ばれる。能が主に古典的題材をとり上げ幽玄美を第一とする歌舞劇であるのに対し,狂言は日常的なできごとを笑いを通して表現するせりふ劇という対照をみせている。

狂言という芸能の成立事情は明らかでない。しかし人を笑わせる滑稽な演技の淵源は,遠く古代までさかのぼることができるはずである。アメノウズメノミコトの岩戸舞をはじめ,《古事記》《日本書紀》の伝承の中には喜劇的所作を伴うと思われるものがいくつか見いだせる。だがそれがまとまった芸態として記された例となると,平安中期の藤原明衡(あきひら)作と伝える《新猿楽記》まで下らねばならない。そこには京の街で演じられた猿楽として〈妙高尼の襁褓(むつき)乞い〉〈東人の初京上り〉といった滑稽技と,それを演じた役者の名が記されている。ただこれらの芸は多分にまだ即興性を残すものであったようで,これを後代の諸芸能とどこまで結びつけてよいかは問題がある。しかしこうした〈猿楽〉,つまり即興的滑稽演技が一つの劇の中にとり入れられ,洗練され定着する過程で狂言という喜劇芸能が形成されたということはいえそうである。特に狂言の成立した南北朝時代に,社会の変革に伴ってくりひろげられた下剋上的事象の数々は,こうした笑いの芸能に多くの題材を提供したと思われる。伝統的な滑稽技と,この時代特有の世相風刺の笑いと,この二つが接合したところに,中世庶民喜劇狂言の誕生をみたわけである。

このころ観阿弥・世阿弥による能の大成があった。当時〈猿楽能〉と呼ばれていたことからもわかるように,能ももとは即興的滑稽技から出発したものであるが,早々にその滑稽面をふるい落とし,歌舞の要素をとり入れ新しい芸能として大成した。この能と狂言とは,いちはやく提携したようである。もっともこの段階における狂言は,一応の成立をみたとはいうものの,能のように内容が定着していたとは考えられないので,どのような形で能と提携したのか具体的な事情はよくわからない。ただ世阿弥の《習道書》や《申楽談儀》などから,(1)同一舞台における能と狂言の交互上演。(2)能におけるアイ(間狂言)の存在。(3)能役者の演ずる《翁(おきな)》の中で《三番叟(さんばそう)》を狂言役者が担当すること--という現在にも通じる両者の関係は,少なくとも世阿弥の周辺ではすでに成立していたことが知られるのである。

 こうして能と深いかかわりをみせながらも,狂言の即興性と流動性は中世末期ごろまではなお続いたようだ。室町時代の狂言の芸態をしのばせる唯一の伝書《天正狂言本》(1578年奥書)の《末広がり》をみると,〈大名出て人を呼び出す。都へ行ていかにも高い末広がり買うて来よと言ふ。さて上る。都に着きて呼ばはる〉といった簡単な記述で,16世紀末になっても,狂言はだいたいのあら筋だけを決め,あとは即興的なせりふと所作で演じられる程度の芸能であったことがわかる。しかしその反面,狂言の内容がともかく書き留められるようになったこと,またそこに記されている100余番の狂言の約8割が,今日演じられるものとほぼ同内容であることからみると,この《天正狂言本》の時代には狂言の流動がようやく終わり,内容定着の兆しをみせてきたことも同時に推察されるのである。

江戸時代に入ると,狂言は能とともに武家の式楽となって幕藩体制に組み込まれる。能のシテ方支配が確立し,狂言方はワキ方・囃子方とともにその服属下に入った。しかしそれは同時に,狂言方が武士に準ずる待遇を受け,演目も定着し,役者は技芸を磨くことに専念できるという体制でもあった。こうして狂言は古典芸能としての道を歩み始めたのである。古典芸能としての狂言は,この時期に整備される。大蔵(おおくら)流(本家・弥右衛門派,分家・八右衛門派),鷺流(本家・仁右衛門派,分家・伝右衛門派)の2流がまず確立し,ついで,京都禁裏御用をつとめまた尾州藩・加賀藩のお抱えでもあった和泉(いずみ)流(宗家,三宅派,野村派等)が勢力を伸ばし,ここに狂言界は三流鼎立時代に入る。このほかに南都禰宜(なんとねぎ)流,脇本,田中等の群小流派も存在したが,これらはしだいに前記三流に統合されたり,新興の歌舞伎の世界に加わったりなどして消滅したようである。

 また,せりふがしだいに定着してきたことや,流派意識が強まったことから,台本の書き留めもなされるようになった。大蔵虎明(おおくらとらあきら)が1642年(寛永19)に書写したいわゆる《大蔵虎明本》は,その最初の完備した台本である。ほかに古台本としては正保ころ(1644-48)のものと思われる和泉流の天理本《狂言六義(りくぎ)》,享保初年かとされる《鷺保教本》等がある。これ以降も狂言の詞章は,多少の流動をみせつつしだいに洗練が加えられ,それに伴って整備された台本が各流儀ごとに次々と書き留められるようになった。このほかに一般に普及した台本として,1660年(万治3)から1730年(享保15)にわたって刊行された《狂言記》《狂言記外》《続狂言記》《狂言記拾遺》があり,各50番,計200番の狂言の詞章を収める。早く滅んだ群小流儀の台本によったものらしいが,正統の流儀の台本が公開されなかった当時としては,狂言の内容を知る唯一の読み物として歓迎され幕末まで再三版を重ねた。

明治維新を迎え武家階級が没落するとともに,狂言界も大きな変動を余儀なくされた。それまで士分として俸禄を受けていたのが一時に収入の道を絶たれたわけで,この新しい事態に対応できない者も多く,三流の家元も家業を廃し,次々と絶家するという状態となった。しかし大蔵流では,東京の山本東次郎家,関西の茂山(しげやま)千五郎家,茂山忠三郎家といった有力弟子家によって芸統が維持され,また和泉流も,京都から三宅庄市,金沢から野村与作らが上京して東京における和泉流の発展に力を尽くした。現在では両流の家元も再興され,大蔵流では前記の諸家や茂山忠三郎家から分かれた善竹(ぜんちく)家が主として東京・関西で,和泉流では野村万蔵家,三宅藤九郎家,野村又三郎家,名古屋の狂言共同社の人々が主として東京・名古屋でそれぞれ活躍している。ただ鷺流だけは,明治時代に中央で滅んだ後は再興されず,現在山口市や佐賀県地方,新潟県の佐渡にわずかにその芸が伝えられるにすぎない。

 現行の大蔵・和泉2流の芸風の違いは,東京大蔵流が格調を重んじた演技であるのに対し,和泉流はそれに洒脱味が加わり,名古屋和泉流,関西大蔵流と西へ移るにつれてそれがいっそうくだけた芸風となる。このように狂言の芸風は,流儀の違いよりも,その在住する土地柄,また役者の個性によるところが大きい。

現在上演される狂言の曲目は大蔵流が約200番,和泉流が約250番である。その大部分は重複するが,流儀によって台本に多少の相違もあり,流儀独自の曲もある。その作者については南北朝時代の学僧玄恵(げんえ)法印らを挙げる伝承があるが,もとよりこれは信用できない。一部に知識層の関与があったにせよ,大部分は代々の狂言師の手によって制作されたとみてよいであろう。狂言の分類方法はいくつかあるが,ここでは大蔵流の分類により代表曲を表に示す。

狂言は笑いの芸能とされているが,それは単なる滑稽に終始するのではなく,その笑いにもいくつかの種類が含まれている。今それを,〈祝言の笑い〉〈風刺の笑い〉〈単なる滑稽〉の3点に分けて述べておく。

〈笑う門(かど)には福来る〉ということわざもあるように,古来笑いには寿祝と相通じる性格があった。笑いの芸能である狂言においても,その中に含まれる祝言寿祝劇としての面を忘れてはならない。脇狂言という祝言を主題とした一類があることもその現れである。大黒天や恵比寿(えびす)が出現して参詣人に福を授けるとか(《夷大黒》ほか),諸国の百姓の年貢上納を描くとか(《筑紫奥》ほか),果報者が登場するとかのめでたい主題(《末広がり》ほか),めでたい内容の狂言がこれに属する。脇狂言以外の曲でも,なにかといえば〈天下治まりめでたい御代(みよ)でござれば〉とか〈世の中ようて田がよう出来て,このようなめでたいことはござらぬ〉といったせりふを挿入してその場を祝福しようとしている。ほかに劇中で演じられる歌舞・囃子物,語り等にもめでたい内容のものは多い。このように祝言性は,しばしば脇狂言以外,狂言という芸能全体に及んでいるのである。これは狂言が長いあいだ式楽として演じられてきたことと関係があろうが,式楽性が消滅した現在でも,狂言が笑いの芸能である以上,この祝言劇としての側面は無視できないのである。

狂言が成立する背景に,南北朝から室町時代にかけてもり上がった下剋上の風潮があったことを思えば,その中に世相風刺の笑いが含まれるのは当然であろう。《看聞日記》応永31年(1424)3月11日には《公家人疲労(困窮)ノ事》という狂言が演じられた記事があるし,《天正狂言本》の中の《近衛殿申状》という狂言では年貢減免について訴える農民も登場している。ただこれらの狂言が後世に伝承されなかったことからもわかるように,現在の狂言からはそうした世相に密着した風刺はほとんど影をひそめ,代わって人間誰しもがもっている弱点をユーモラスに指摘する形の風刺が主流となっている。つまり狂言に登場する人物は,必ずしも中世の大名・僧侶と考える必要はないのである。そこに現れた大名を通して,いつの時代にもいそうな尊大ぶる人物が風刺されているのであり,僧侶を通しては無学なくせに知識をひけらかしたがる人の心理が笑われているとみるべきであろう。また舞台上の太郎冠者の言動を見ながら,観客は,横着でもあれば反面小心でもあり,狡猾でありながらそれでいて実直でもあるという,太郎冠者ならぬ自分自身の心の矛盾を感じとることもできるはずである。このように狂言の風刺は,かつての中世にだけ通用する風刺から脱皮して,より普遍的な〈人間喜劇〉ともいうべき性格のものに成長しているのである。

単なる滑稽という面からみても,狂言は流動の過程で大きな変化をみせている。狂言が当代劇であった時代の笑いは,風刺の場合と同様,とかく場当りをねらった低俗なものに終始したと思われる。《天正狂言本》の記述をみても,そこには粗野でしばしば卑猥に流れる笑いが充満していたことがうかがえる。それがしだいにふるい落とされて,現在の狂言にみられるような明るいからりとした笑いに統一されていったのである。また,せりふ,所作,語り,歌舞等による笑いが巧みに組み合わされ,祝言,風刺,滑稽性が総合された高度な笑いも生まれてきた。世阿弥はその《習道書》の中で〈笑みの中にたのしみを含む〉ことをもって狂言の理想としているが,現在の狂言において,この境に達した舞台にしばしば接することができる。祝言も風刺も超越した〈和楽の笑い〉,そこに狂言の滑稽の一つの達成をみることができよう。

狂言は能の会において,能と交互に上演されるのが本来の形であるが,最近は能の番数に関係なく,狂言を一番しか挿入しない形式がむしろ通例となりつつある。その代り狂言だけを上演する会が能舞台以外の劇場や学校の講堂のような場所で増えている。もともと登場人物も少なく装置や小道具もほとんど必要としない狂言は,どんな舞台でも手軽に演じられるという強みがある。そのうえ狂言のせりふは,現代語の母胎である中世口語を基調としているし,扮装も様式化はされているが当時の姿をかなり忠実に写しているので,その舞台はいわば〈動く室町庶民風俗絵巻〉の感があり,狂言は古典芸能とはいいながら,現代の誰からも親しまれる条件を備えているといえる。一番の狂言に登場する人物は,ほとんどが2~4人,中には多人数物もあるが,それも主要人物はやはり2,3人で,それ以外の者は立衆(たちしゆう)と呼ばれて一団となって行動する。主役をシテ,それ以外をアドと呼ぶが,和泉流では主アド以外を特に小(こ)アドと呼んでいる。上演時間は大部分は20~40分で,1時間に及ぶものは《武悪》《釣狐》《花子(はなご)》等,数曲にすぎない。

 能と違って面の使用はごく限られており,神仏,鬼,動物,醜女(しこめ)等に扮するときに用いられる程度だが,《清水》や《六地蔵》のように,面を鬼や仏像になりすますときの小道具として使う例もある。舞台装置や小道具も少ないが,その代り扇一つで盃や銚子,筆,戸の開閉等を表すし,葛桶(かずらおけ)が腰掛,酒樽,柿の木等になるなど多様な用法をみせる。また酒をつぐときは〈ドブドブドブドブ〉,茶碗を割るときは〈グ(ワ)ラリン,チーン〉,蔵の戸を開くときは〈グヮラ,グヮラ,グヮラグヮラグ(ワ)ラグヮラ〉,家の戸を閉めるときは〈サラサラサラ,パッタリ〉,といった擬音を,演者自身が擬声語で表現するのも,狂言独特の素朴でユーモラスな表現手法である。

 狂言はせりふを主体とした演劇であるが,適当に歌舞や囃子物も用いる。それによって酒宴の場の雰囲気をもり上げたり,一番の狂言をめでたくとりなして留めたりする(終わる)のである。ほかに《花子》や《御茶の水》のような恋愛を主題とした曲で,のろけ話や恋のささやきの場を,小歌の吟唱や掛合で表現する例もある。愛情の表現が露骨になるのを避けるためで,そこに喜劇でありながら低俗に堕さぬようにという配慮がうかがえるのである。

 狂言の多くは〈これはこのあたりに住まいいたす者でござる〉という自己紹介の名乗りで始まり,〈やるまいぞ,やるまいぞ〉の追込みで終わる。もちろん名乗りの形式はほかにもあるし,留め方にも追込み以外に,囃子留め,笑い留め,叱り留めなど幾つかの型がある。しかしこうした型に分類できるほどに狂言という演劇の構成は類型的である。これは一曲の構成だけでなく,部分的な趣向・表現様式にも及んでいる。また登場人物を大名,太郎冠者,聟,夫婦,鬼,山伏,僧侶,座頭といった15,6種類のものに統制しているところにも,この類型化の傾向がうかがえよう。ただこの類型性がそのまま画一性になってはならない。たとえば大名のせりふをそっくり太郎冠者がくり返す場面があるが,同じせりふをいう中に,大名と太郎冠者の位の差がおのずと出なくてはならぬのである。

 これらの類型化は,狂言が近世において整備される過程で多くなされたものであるが,その方向は〈誇張〉と〈省略〉という狂言の演技の二大手法と深くからみ合っている。誇張と省略とは一見相反する表現方法のようであるが,物の特徴的な部分を誇張し,無駄な部分を省略するということは,どちらも表現すべき事象の本質を重点的に浮かび出させる効果的な手段である。狂言の類型化はこの誇張・省略の手法を大きく助長したが,同時にこの二つの手法が狂言の類型化を大胆に推し進めもした。そのことによって狂言は,人間の普遍的でかつ本質的な性格や行動を,力強く鮮明に表現できるようになり,またそれが狂言独自のユーモアの表出にもつながっている。狂言は近世以降の古典芸能化の過程で洗練され整備されたために,一見成立期の活力が減退したかにみえる。しかし子細にみると,やはりこうした表現手法の中に,中世庶民の特徴である現実に立脚したたくましい生命力は,十分受けつがれていることがわかるのである。

狂言は日本で最初に成立したせりふ劇であり,ほかに例の少ない笑いの文学でもあるので,他の分野に与えた影響も大きい。近世初頭の歌舞伎成立期においては,狂言師が歌舞伎の世界に身を投じ,小舞(こまい)の指導をしたり,役者として舞台に立ったりした者も少なくない。歌舞伎芝居を指して〈狂言〉と呼ぶことは現在でも行われているが,その淵源はすでにこの時期に発している。元禄期前後においても,歌舞伎の演目の中には明らかに狂言から出たと思われるものがたくさんあるし,舞踊にも古く初代中村勘三郎所演の《乱曲三番叟》,近世後期まで下ると《寿靱猿(ことぶきうつぼざる)》《朝比奈釣狐》など狂言を材料としたものが数々現れた。歌舞伎以外でも井原西鶴や近松門左衛門の作品,川柳や小咄にも影響を与えているが,ことに十返舎一九の《東海道中膝栗毛》(1802),それに続く《続膝栗毛》には,狂言《丼礑(どぶかつちり)》《附子(ぶす)》《墨塗(すみぬり)》等の趣向がとり入れられ,効果的に笑いをもり上げている。明治以降も,歌舞伎舞踊として《素襖落》《身替座禅(みがわりざぜん)》(《花子》の舞踊化),《棒しばり》《茶壺》といった曲が作られ,松羽目物(まつばめもの)と呼ばれて今日でも人気曲としてよく上演される。また成瀬無極の《文学に現れたる笑之研究》(1917)のように,比較文学研究の材料として狂言がとり上げられるようにもなった。しかし狂言が,能に従属したものでなく独立した演劇として真にその価値を認識されたのは,第2次大戦後のことである。狂言はこの時期に至って,他に類例のない簡潔な構成や手法,おおらかで明るい内容,狂言役者の的確で力強い演技力等が認められ,1950年代には〈狂言ブーム〉という言葉さえ生まれた。これは同時に狂言の演技様式を生かした新演劇運動をも導き,飯沢匡作の新作狂言《濯ぎ川》の上演,岩田豊雄作《東は東》,木下順二作《彦市ばなし》の狂言様式による上演,同じく木下順二作《夕鶴》の能様式による上演に狂言師が参加するなど,新作狂言・新様式狂言の制作となって現れた。その後も狂言の海外公演や外国演劇との交流もさかんになり,狂言界にも新しい気運が起こりつつある。リアリズム方式の行き詰まった新劇の世界でも,狂言に対する関心は今後もなお深まりそうである。
狂言面 → →能装束
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第2次大戦後,狂言がはじめて海外で演ぜられたのは,1957年,能とともにパリのサラ・ベルナール座での公演であった。そのころ,能をとりまく有識者の多くは,狂言はせりふ劇であるから,外国人には理解しにくいであろうと考えていた。しかし,この公演で野村万之丞,野村万作,野村又三郎が演じた《棒縛》《梟山伏》はパリの観客,ことに天井桟敷の若者たちから熱狂的な拍手をうけた。また1963年には,野村万蔵・万作らがアメリカ,ワシントン大学の客員として招かれ,狂言の実技を指導し各地で公演を行ったが,アメリカ人の観客は,ときに言葉がわかるのではないかと思うほど,鋭く率直な反応を示した。これらの欧米での狂言の紹介公演の反響は現地の新聞紙上にも報道され,日本人の中にも狂言の笑いはユニバーサルなものであり,演出演技も普遍性をもつという考え方が定着したようである。1965年の西ベルリンの芸術祭で《瓜盗人》を演じた野村万蔵は,ローレンス・オリビエと並ぶこの芸術祭の二大名優であると絶賛をうけた。しかし,狂言一般に対しての批評の中に,動きはおもしろいが,声はサイレンのようで聞きにくいと書かれたものもあり,声がすばらしいという批評の多かったアメリカとは違い,歌の伝統のある国だという印象が強い。その後も欧米をはじめ,インド,南米,中国などで,能とともに公演し,あるいは狂言独自の形で公演が行われてきた。実技指導の面では,狂言の様式的な演技を身につけ,これを基本にして,英語による狂言や,童話劇,ギリシア劇などを演ずるグループがアメリカで生まれているように,狂言の実技を学ぶ俳優や学生も多い。日本で英語狂言のグループを作っているアメリカ人もいる。

 専門の演劇人の狂言評価の例としては,レニングラード(現,サンクト・ペテルブルグ)のボリショイ・ドラマ劇場の演出家,G.A.トフストノーゴフが,野村万蔵の《棒縛》を見て,〈スタニスラフスキー・システムの最高の体現である〉と評している。能とは違う面での狂言の写実性が指摘されており,能を見て,〈死ぬほど退屈だ〉と言ったフランスの芸術家(彫刻家O.ザッキン,映画監督J.デュビビエら)の受け取り方と対照的でおもしろい。様式から入って写実に至る,狂言演技の究極が,リアリズム演技の基本的システムと合致するのである。
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百科事典マイペディア 「狂言」の意味・わかりやすい解説

狂言【きょうげん】

日本伝統演劇の一つ。能狂言,古くは狂言能,をかし(俳)とも。猿楽の芸系の歌舞的要素がとなり,滑稽(こっけい)な要素が狂言に分化したといわれるがはっきりしない。南北朝,室町時代から能と狂言は同じ舞台で交互に上演され,また能の中の一役(アイ)として参加してきた。最古のせりふ劇で,音楽劇である能とは対照的であるが,謡や舞,囃子(はやし)も活用される。装束は簡素明快,演技は能に比べ写実的だが,様式性も強く,構え,運歩などの基礎は能と共通。装置を用いず仕方話の要素が強い。内容的には言語遊戯や矛盾,風刺,誇張を中心とする喜劇で,初めは即興劇だったが,江戸初期には台本が固定され,せりふには室町末期の口語を残す。作者として南北朝の玄恵法師らを擬すが明確ではない。登場人物も当時の風俗を伝える太郎冠者,物売り,ばくち打などの庶民が多く,さらに閻魔(えんま)大王,蚊の精,牛,馬にまで及ぶ。現行曲目は約250番。2〜3人で上演できるものが大半で,上演時間は30分内外。江戸時代には能楽は幕府の保護を受け,幕府直属の大蔵流鷺(さぎ)流(明治時代に滅びる)と,尾州藩の和泉流の3流派が栄えたが,明治期には衰微した。第2次大戦後は日本演劇の源流としての狂言の評価が高まっている。
→関連項目家元後面演劇戯曲狂言方

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「狂言」の意味・わかりやすい解説

狂言
きょうげん

日本の古典芸能。主として対話と所作による劇であるが,多分に歌,舞,語りなどの要素をも含み,その演じるところの中心は滑稽にある。その性質は,言語遊戯的なもの,人情の機微をうがつようなもの,風刺的なものなどさまざまであるが,概して無邪気な笑いを中心とする。かつては歌舞伎狂言などに対し,能狂言とも称した。室町時代に観阿弥世阿弥によって猿楽が大成された頃から,能と能との間に演じられるようになった。当時は即興性が強く,台本が固定していなかったため,具体的な内容は未詳。室町時代末期から江戸時代初期にかけて固定化され,能が江戸幕府の式楽となるに伴い,狂言も固定化し,当時の言語,風俗のままに伝承されるようになった。流派が生まれたのは中世末からで,まず大蔵流鷺流が対立し,和泉流が加わった。鷺流は大正期に廃絶。狂言の台本は約三百余残っているが,脇狂言,大名狂言,小名狂言,聟(むこ)・女狂言,鬼・山伏狂言,出家・座頭狂言,その他に分けられる。なお,独立したもののほかに,能 1曲のなかで演じられるものがあり,これを間狂言という。1957年国の重要無形文化財に指定。2008年能とともに世界無形遺産に登録された。

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知恵蔵 「狂言」の解説

狂言

日本最古の、劇。喜劇だけで1ジャンルを形成している演劇は世界でも珍しい。滑稽なものまね芸が洗練され、室町時代に今の芸態に定着した。時代風潮である下克上を背景に、口語体で権力や世相を風刺した中世の庶民芸能。最古の台本に「天正狂言本」がある。同じ古典芸能ながら、面をつけた幽玄美を得意とする歌舞劇の能とは対照的だが、源流は同じであり、能楽堂で共演される。近年は狂言だけの会も様々な場所、劇場で上演されている。多くは「このあたりに住まいいたす者でござる」と自己紹介に始まり、「やるまいぞ」の追い込みで終わる。主人公をシテ、脇役をアドという。登場人物により7種類に大別できる。「福の神」など祝言ものの脇、「入間川」などの大名、「止動方角」など太郎冠者が反抗する小名、「八幡前」などの聟女(むこおんな)、「節分」などの鬼山伏、「宗論」などの出家座頭、それに重い曲の「花子(はなご)」「釣狐(つりぎつね)」「狸腹鼓(たぬきのはらつづみ)」などが入る集(あつめ)狂言の7種類。流儀は江戸時代に大蔵、鷺(さぎ)、和泉の3流に整備されたが、明治時代になり大名の庇護が受けられなくなると、鷺流はわずかに地方に伝えられる程度になった。現行曲は大蔵、和泉で260曲以上。「花子」を素材にした「身替座禅」などが歌舞伎舞踊などに影響を与えている。

(山本健一 演劇評論家 / 2007年)

出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報

山川 日本史小辞典 改訂新版 「狂言」の解説

狂言
きょうげん

南北朝期にうまれ,室町・江戸時代に大成する中世を代表する喜劇。能や歌舞伎・文楽などとともに日本の代表的な古典舞台芸能の一つ。能とのかかわりが深く,能狂言と並称,対照される。能が古典を題材に幽玄美を究極におく歌舞芸能であるのに対し,狂言は日常卑俗の庶民的な世界を対象にするせりふ劇である。おおらかな笑いや世相や社会を風刺したものも多く,当時の笑いの世界を象徴する。近世に武家の式楽となって保護され,大蔵流・鷺(さぎ)流・和泉流の3派にわかれた。室町時代の芸態は「天正狂言本」にわずかにうかがえ,近世初期には「大蔵虎明(とらあきら)本」などの台本も書かれた。現行は二百数十番ある。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「狂言」の解説

狂言
きょうげん

室町時代以来,能楽の幕間に演じられる軽い滑稽劇
歌舞伎狂言と区別して能狂言という。能狂言は猿楽から分かれたものであり,狂言はその滑稽味が本体となって成立したといわれる。題材を日常生活にとり,庶民や大名の姿を笑いと風刺のうちに描く。特に強者・権力者に対する風刺性は中世の下剋上的性格を反映している。

出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報

日本文化いろは事典 「狂言」の解説

狂言

日本芸能の一種目。猿楽の滑稽な部分を劇化した最古の喜劇です。能と併せて行われますが、能とは異なり、物まねの要素を含んだ写実的なセリフ劇です。

出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について 情報

普及版 字通 「狂言」の読み・字形・画数・意味

【狂言】きようげん

妄語。

字通「狂」の項目を見る

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世界大百科事典(旧版)内の狂言の言及

【芸能】より

…しかし室町時代に入り,猿楽を幽玄美を旨とする一大楽劇に昇華させた世阿弥らの出現により人気を奪われ,地方寺社の祭礼芸能として命脈をとどめるのみとなった。猿楽は,その後,狂言の二種を並存させながら幕府の式楽としての道をあゆむ。 その間,諸寺院では僧侶たちによる延年(えんねん)の芸能が行われ,民間では白拍子(しらびようし),曲舞(くせまい),幸若舞(こうわかまい)などの遊行芸能者による歌舞や,極楽往生を願う民衆が念仏を唱えつつ群舞する踊念仏,さらには若い男女が華麗な衣装と小道具を誇示して踊る風流踊(ふりゆうおどり)(風流)などが流行した。…

【猿楽】より

…平安末期の藤原明衡(あきひら)の《雲州消息》や《新猿楽記》にも同じ事情をものがたる記載がある。《新猿楽記》には,〈呪師(しゆし)〉〈侏儒舞(ひきうどまい)〉〈田楽(でんがく)〉〈傀儡(くぐつ)〉などをも含み,猿楽が諸雑芸の総称ででもあったらしいことが知られるとともに,その記載の題目から,物まね芸を主軸として笑いを誘う類の芸,のちの〈狂言〉の源流となる性格のものを,多分に含んでいたことが知られる。平安末期の猿楽は,いわば物まね系統の芸と,せりふ劇系統の芸を主とするものであったが,鎌倉期にはいると,延年の風流(ふりゆう),連事(つらね),答(当)弁(とうべん),あるいは《式三番》(《翁》)に付属する狂言風流などから類推して,歌舞劇系統の芸が進出したらしく思われ,それらは,総合的に発達していったようである。…

【日本音楽】より

…この猿楽能は,田楽能の衰亡により,後には単にといえば猿楽能を指すようになった。そして,前期に包含していた滑稽(こつけい)な要素は狂言が継承し,能は厳粛さや悲劇的要素を主とするようになった。この猿楽能に似た曲舞(くせまい),幸若舞(こうわかまい)などもこの期に盛んに行われた(今では北九州の一部やその他に郷土芸能として残っている)。…

【能】より

…以下,猿楽能についてだけ述べる。猿楽能は屋根のある専用舞台をもち,面(おもて)を用い,脚本,音楽,演技に独自の様式を備え,猿楽狂言(通常,単に狂言と称する)と併演する芸能である。
【歴史】
 上古に大陸から輸入された散楽(さんがく)は,曲技,歌舞,物まねなど雑多な内容を含むものだったらしいが,平安時代に笑いの芸能に中心が移り,発音も〈さるがく〉と変わり,文字も猿楽,申楽などと書かれるようになった。…

【発声】より

…しかし,実際には,たとえば能などにおいては,せりふ部分でさえも,歌唱部分と発声法の相違は少なく,しかも普通の話し声とは,まるで異なる発声法によっている。能の狂言などのよく響く大きな声は,ベル・カントとは共鳴させる身体部分に違いはあっても,目的と方法には類似性があり,しかも,それが歌声としてではなく,演劇的なせりふとして行われている点に特色がある。このことは,歌舞伎狂言にも踏襲され,こうした伝統的な演劇においては,マイクロホンなどを使用しなくても,大きな劇場で,観客にそのせりふを理解させうることができる。…

【民俗芸能】より

…長年全国を踏査して多くの研究成果をあげた本田安次(1906‐ )は,これを整理して次のような種目分類を行った。 (1)神楽 (a)巫女(みこ)神楽,(b)出雲流神楽,(c)伊勢流神楽,(d)獅子神楽(山伏神楽番楽(ばんがく),太神楽(だいかぐら)),(2)田楽 (a)予祝の田遊(田植踊),(b)御田植神事(田舞・田楽躍),(3)風流(ふりゆう) (a)念仏踊(踊念仏),(b)盆踊,(c)太鼓踊,(d)羯鼓(かつこ)獅子舞,(e)小歌踊,(f)綾踊,(g)つくりもの風流,(h)仮装風流,(i)練り風流,(4)祝福芸 (a)来訪神,(b)千秋万歳(せんずまんざい),(c)語り物(幸若舞(こうわかまい)・題目立(だいもくたて)),(5)外来脈 (a)伎楽・獅子舞,(b)舞楽,(c)延年,(d)二十五菩薩来迎会,(e)鬼舞・仏舞,(f)散楽(さんがく)(猿楽),(g)能・狂言,(h)人形芝居,(i)歌舞伎(《図録日本の芸能》所収)。 以上,日本の民俗芸能を網羅・通観しての適切な分類だが,ここではこれを基本に踏まえながら,多少の整理を加えつつ歴史的な解説を行ってみる。…

※「狂言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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