京都盆地の西部、
「延喜式」神名帳にはみえない。「宮寺縁事抄」(石清水文書。以下同文書および「石清水八幡宮史」所引文書に依拠した記述については典拠を省略し、必要に応じ個別文書名のみを記した)は、当宮と京都
〈京都・山城寺院神社大事典〉
行教筆と伝える護国寺略記によれば、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都府八幡(やわた)市八幡高坊(たかぼう)に鎮座。男山(おとこやま)の丘陵上にあり、男山八幡宮ともいう。祭神は誉田別尊(ほんだわけのみこと)(応神(おうじん)天皇)、比咩大神(ひめおおかみ)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)(神功(じんぐう)皇后)。859年(貞観1)奈良大安寺の僧行教(ぎょうきょう)が豊前(ぶぜん)国(大分県)宇佐八幡大神(うさはちまんおおかみ)の託宣を受け奏請(そうせい)し、宇佐八幡宮に準じて6宇の宝殿を造営し、翌年ここに神璽(しんじ)を奉安したのが創立の起源という。863年行教は官符を申し下し、護国寺を神宮寺とし、豊後由原宮(ぶんごゆすはらぐう)に倣って宮寺となる。本社は都の守護のために勧請(かんじょう)されたのでとくに皇室の尊崇が厚く、歴代天皇等の行幸啓、奉幣が多く行われた。869年新羅(しらぎ)の来寇(らいこう)鎮定の宣命(せんみょう)には石清水の皇大神(すめおおみかみ)(八幡神)はわが朝の大祖とされ、872年には渤海(ぼっかい)来朝を告げられた。940年(天慶3)藤原純友(すみとも)の乱の平定を祈り、ついで平将門(まさかど)の乱の平定を謝して封戸(ふこ)を寄せられ、942年(天慶5)4月には将門・純友の乱平定で神宝、歌舞を奉られ石清水臨時祭が始まった。1128年(大治3)の臨時祭には中宮藤原彰子(しょうし)が3基の神輿(しんよ)を奉った。行幸は989年(永祚1)正月21日の円融(えんゆう)法皇の参詣(さんけい)を初めとし、1877年(明治10)の行幸まで240度余りあったという。奉幣は即位由奉幣(よしのほうへい)、同祈祷(きとう)、大嘗祭(だいじょうさい)由奉幣、大神宝使、一代一度仏舎利使(ぶっしゃりし)などである。
源頼信(よりのぶ)以後頼義(よりよし)、義家(よしいえ)ともに本社を源氏の祖神として崇敬し、鎌倉鶴岡(つるがおか)八幡宮などを各地に勧請、1185年(文治1)頼朝(よりとも)は神領を寄進し、1191年(建久2)には別当領を保護した。以後、源氏の武士も各地に八幡神を勧請し崇敬した。1235年(嘉禎1)には神人(じにん)が神輿を振って訴えようとしたため、朝廷は伊賀(いが)(三重県)、因幡(いなば)(鳥取県)国内の荘園(しょうえん)を寄進した。蒙古(もうこ)来寇の際には、天皇行幸して祈願し、神験を得たという。室町時代以後、神領の押領(おうりょう)が激しかったが、江戸時代になると、将軍が崇敬し、朱印地を寄進した。1869年(明治2)8月、石清水の名称は、男山に改められたが、1918年(大正7)1月石清水に復称された。伊勢(いせ)神宮に次ぐ第二の宗廟(そうびょう)といわれ、1081年(永保1)には二十二社に列し、1871年(明治4)に官幣大社、1883年に賀茂(かも)神社とともに勅祭社となる。
本宮には神官はなかったが、876年(貞観18)行教の一族紀御豊(きのみとよ)が宇佐宮に準じて神主(かんぬし)に任ぜられ、代々これを相続したが、宇佐弥勒寺(みろくじ)講師元命が紀氏を称して別当となり、外孫が祠官(しかん)を襲い、のちに田中家、善法寺(ぜんぽうじ)家となった。その職掌は検校(けんぎょう)が支配し、宮寺務は別当があたったが、下に権(ごん)別当、修理(しゅり)別当があり、祠官三綱所司と区別された。中世の神人制では末社離宮八幡大山崎(おおやまざき)神人が、もっとも、優勢であった。
社殿は保延(ほうえん)年間(1135~41)、建武(けんむ)年間(1334~38)、永正(えいしょう)年間(1504~21)の3回炎上し、現社殿(国宝)は1631年(寛永8)徳川家光(いえみつ)の造営で、八幡造であるが3宇が横に連結する。社宝の「石清水八幡宮文書」、五輪塔、石造灯籠(とうろう)各1基は国の重要文化財。9月15日の例祭(石清水祭)は、古くは放生会(ほうじょうえ)といい、賀茂祭、春日(かすが)祭とともに三大勅祭の一つであった。
[中野幡能]
神宮寺である護国寺別当が管理したので、宮寺(ぐうじ)領とよばれた。940年(天慶3)平将門の乱の平定を謝して20戸の封戸(ふこ)(山城(やましろ)、丹波(たんば)各10戸)が寄せられたのが最初で、平安時代の末には封戸は300余戸に及んだ。荘園(しょうえん)は、936年(承平6)に開発された河内(かわち)国(大阪府)矢田庄(しょう)をはじめとして、1072年(延久4)には山城(京都府)、河内、和泉(いずみ)(大阪府)、美濃(みの)(岐阜県)、丹波(兵庫県)、紀伊(和歌山県)の6か国に34か所あったが、同年、荘園整理によって13か所が停止された。しかし当宮に対する人々の信仰は厚く、とくに源頼信(よりのぶ)以来、源氏の氏神として尊崇されたこともあって、1158年(保元3)には宮寺領は33か国、100か所に及んだ。伊勢(いせ)神宮役夫工米(やくぶくまい)などの一国平均の諸役も免除され、さらに鎌倉幕府も荘園を寄進し、宮寺領における武士の非法を抑えるなど、保護を加えた。護国寺の宿院である極楽寺(ごくらくじ)領も、58年には37か所あり、護国寺別当の管理下に置かれた。社家は田中、善法寺などの諸坊に分かれたが、各坊にも所領があった。なかでも田中坊は、1131年(天承1)以来、筑前(ちくぜん)国(福岡県)筥崎宮検校(はこざきぐうけんぎょう)を兼ねて同宮領を支配した。また善法寺は、104か所の寺領をもつ豊前(ぶぜん)国(大分県)宇佐八幡宮弥勒寺を支配した。かくて鎌倉・室町時代の宮寺領全体で400余か所に及んだ。近世には6300余石の朱印地のほか、大名から寄進されたり、社僧、神官が買得した地が2300余石あり、明治維新に至った。
[上横手雅敬]
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京都府八幡市の男山に鎮座。祭神は誉田別(ほんだわけ)尊,息長帯比売(おきながたらしひめ)命,比咩(ひめ)大神。旧官幣大社。859年(貞観1)大和国大安寺僧行教が大菩薩の示現により宇佐宮から山城国男山の地に八幡神を勧請したのが始まりという。861年に京畿名神七社の一とされ,876年には山城国年米42石をあてられるなど朝廷の崇敬はあつく,かつ945年(天慶8)に上洛してきた志多良神を同宮へ吸収してその摂社にするなど鎮護国家神としての位置づけがなされている。神社と神宮寺たる護国寺が一体になった宮寺形式の体制をとっているのが特徴である。中世には宮寺内の組織は祠官(検校,別当,権別当,修理別当,少別当),神官(神主,権神主,俗別当,権俗別当,禰宜),三綱からなり,行教が紀氏出身であったため別当には代々紀氏出身僧が多く任じられ,中でも御豊系紀氏一族が検校,別当を独占した(両職とも太政官符をもって補任される)。のち別当家は田中・善法寺(のち菊大路と名のる)両家に分立した。機構としては政所,公文所,達所,供所,馬所,諸奉行(検断奉行,神人奉行など)が存在した。神人(じにん)は本所神人と諸国に存在する荘園・別宮などにいる散在神人に分かれるが,前者は芸能者,手工業者,商人,諸郷民からなり,ことに大山崎油神人は荏胡麻(えごま)の購入独占権を得て荏胡麻を山崎に集荷し製油して販売し,朝廷や幕府から関津自由通行権を付与され営業範囲は畿内一円から九州方面までも及んだ(大山崎油座)。社領は護国寺領,宿院極楽寺領,別当家領,社務領,供僧所司領からなり,12世紀末には西は九州,東は関東にまで広がっている。このうち紀氏一族が有する別当家領が膨大で,これを基盤にしながら組織・機構の中枢を掌握してみずからに権力を集中した紀氏門閥体制を形成した。祭礼は旧暦3月の石清水臨時祭と旧暦8月の石清水放生会(ほうじようえ)(石清水祭)が宮内の二大勅会であり,後者は〈殺生禁断〉の思想を国家的に行ったものとして注目される。
二十二社のうち,上七社に属し伊勢神宮に次ぐ国家の宗廟とされ,天皇のたびたびの行幸があった。室町時代には足利将軍がしばしば参宮し,織田信長,徳川家康も参詣した。また源頼信が1046年(永承1)に願文を納めてその加護を立願して以来,八幡神が源氏の氏神となり,頼義・義家父子をはじめとする源氏一族の活躍とともに各地に勧請されていった。鶴岡八幡宮はその好例である。またこの男山の辺は要害の地で,古代よりしばしば京都をめぐる攻防戦が演じられている。現社殿は寛永年間(1624-44)3代将軍徳川家光の造営によるもので国宝。ほかにも五輪塔1基,石造灯籠1基など重要文化財に指定されているものが多く,古文書として《石清水文書》を伝存する。1869年(明治2)男山八幡宮と改称するが,1918年石清水八幡宮に復した。
→八幡信仰
執筆者:伊藤 清郎
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京都府八幡市八幡高坊に鎮座。旧官幣大社。祭神は応神天皇・神功皇后・比売(ひめ)大神。859年(貞観元)大安寺の僧行教(ぎょうきょう)が宇佐八幡宮で神託をうけて大山崎男山に勧請し,朝廷が社殿を建立したのが創祀。このとき従来あった石清水寺は護国寺と改名して八幡宮と一体化し,別当に管理されるなど仏教色が強かった。10世紀頃から護国神として信仰され,二十二社制では伊勢・賀茂に次ぐ上社とされた。別当家(田中家・善法寺家)の勢力も拡大し,宇佐弥勒寺・大隅正八幡宮も支配下においた。源氏の氏神とされ,鎌倉・室町将軍らに信仰された。例祭は9月15日(以前は8月15日)。境内は国史跡。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…現在の離宮八幡宮に油座関係文書である《離宮八幡宮文書》が所蔵されている。それによると,1222年(貞応1)のものが初見であるが,《明月記》正治2年(1200)の条に藤原定家が山崎の油売の小屋に宿泊したことが見え,平安時代後期の作とされる《信貴山縁起絵巻》飛倉の巻は,校倉に米俵を多く蓄え,問丸の業務を務め,油搾りの締木とかまどを持ち,エゴマ油を製造販売する〈石清水八幡宮の大山崎住神人〉である〈山崎長者〉の姿を伝えている。したがって大山崎油神人の活動は平安時代後期にまでさかのぼると思われるが,油座としての名称が史料に見えるのは,1582年(天正10)7月の〈羽柴秀吉条々〉(《離宮八幡宮文書》)が最初である。…
…このいわゆる宮寺制の組織が,平安朝には諸社に成立した。その早いものの例としては石清水(いわしみず)八幡宮において,10世紀前期神宮寺である護国寺第4代別当会俗のときから,その子孫である紀氏が別当を世襲し公に妻帯する慣習ができた。27代光清の子に勝清,成清があって善法寺,田中の両別当家に分かれ,とくに前者はまた多くの流派に分かれ繁栄した。…
…外観を見ると2棟の切妻造平入りの建物が前後に接続した形であるが,両殿の中間を相の間として建物のなかに取りこみ,相の間を前殿と一体として扱うので内部は連続する2室となる。平安初期に宇佐八幡を勧請して創立した京都の石清水(いわしみず)八幡宮も同じ形式であるが,相の間の床が低く張ってある点がかえって宇佐よりも古風であって,古くはこの部分が土間であった。この前殿と後殿はともに神の空間とみなしてよく,両者に神座が設けられている。…
…旧国幣中社。1063年(康平6)源頼義が安倍貞任を追討する際戦勝祈願をした石清水(いわしみず)八幡宮を由比郷に勧請したのが始まりで,その子義家は81年(永保1)修復を加えるとともに小林郷に移した。その後1180年(治承4)平氏打倒の旗印をかかげて伊豆に蜂起した頼朝は同宮を小林郷北山の地に遷した。…
…鎌倉末期に成立した石清水八幡宮の霊験記。《八幡愚童記》《八幡宮愚童記》などともいう。…
…晩年河内守に任ぜられてそこを本拠とし,以後この系統は河内源氏と呼ばれた。石清水(いわしみず)八幡宮に願文(がんもん)を納め,八幡神を源氏の氏神として崇拝した。【飯田 悠紀子】。…
…京都盆地を流れる木津(きづ)川,宇治川,桂川が合流して淀川となり,大阪平野へ流れ出る出口の南岸に位置し,市域は男山丘陵とその東に広がる木津川左岸の沖積平野とから成る。市街の中心は,9世紀中葉に男山に鎮座した石清水(いわしみず)八幡宮の門前町に始まる。町場の形成は平安末期から始まり,中世には神人(じにん)の座のほかに絹座,紺座,軽物座など多数の商人の座が成立していた。…
※「石清水八幡宮」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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