高木村
たかぎむら
[現在地名]都城市高木町・太郎坊町・都北町
金田村の北にある。西を大淀川が北東へ流れ、東を花木川が北へ流れ、北東で大淀川に合流する。東を高岡(現高岡町)に通じる薩摩街道が南北に通る。「菊池系図」には菊池経宗の子実遠は「日向国住高木」とあり、当地に住した人物とも考えられる。応仁元年(一四六七)一二月一五日の紀伊熊野社御師の旦那売券(熊野那智大社文書)では、上次郎頼清が池頭殿より買得した三俣院の塚原氏らとともに「高木田」などの一家の旦那職が、一〇年を限り本銭返しで計八貫文で花蔵院に売渡されている。この「高木田」は当地のことであろうか。文明一二年(一四八〇)一二月一八日の樺山氏宛の三俣院南方坪付并浮免坪付(樺山文書)には、浮免として「高木」の諏訪田一町一反と「平井」の春日田四反二〇がみえる。また南方のうちにみえる「十りん寺ノ門」一町二反、「榎木薗ノ門」一町三反三〇、「嶋ノ薗ノ門」九反二〇も当地に比定される。天文一一年(一五四二)六月一八日には志和池城の北原氏と北郷方の梶山・勝岡(現三股町)の兵が「平江」で戦い、北原方の兵多数が増水した川に追入れられ流されたという(「北郷忠相等三代日帳写」都城島津家文書)。
高木村
たかぎむら
[現在地名]新湊市高木
放生津潟に注ぐ東神楽川に沿い、布目村の東に位置。もとは布目村と双子村であったという。慶長八年(一六〇三)二月七日の前田利長知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)によれば、中郡(射水郡)高木村の一〇〇石など二千石が改田小左衛門尉・同二蔵に与えられている。正保郷帳では高五二三石余、田方三三町二反余・畑方一町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高五八九石、免五ツ三歩、小物成は川役五匁(三箇国高物成帳)。所属組は六渡寺村と同じ。寛保二年(一七四二)の百姓数二七・頭振一七(「高免等書上帳」折橋家文書)。天保四年(一八三三)の家数三八(「家数調理帳」同文書)。九ヶ用水から灌漑した(「郡事摘要」同文書)。当村から今井村・沖村、戸破村(現小杉町)にかけては禁猟区で、加賀藩主の放鷹の地に指定されていた。
高木村
たかぎむら
[現在地名]西宮市高木東町・高木西町・北口町・甲風園一―三丁目・伏原町・薬師町・長田町・田代町・高松町・瓦林町・松山町
荒木新田村の西、武庫川下流西方にある武庫郡の村。仁川・武庫川合流地の南にある樋口新田から南西方向に延びる武庫川除け堤が、荒木新田村を経て当村集落北東まで続く。瓦林政頼の越水城が、永正一六年(一五一九)対立する細川澄元率いる四国・淡路・播磨の大軍に包囲された際、救援に駆付けた細川高国は「小屋・野間・九十九町・高木・河原林」から武庫川にかけて布陣した。また永禄九年(一五六六)六月に越水城を攻撃した足利義親(義栄)の武将篠原長房も広田・津戸・高木などに陣取っている(以上「細川両家記」)。
高木村
たかぎむら
[現在地名]姫路市花田町高木
飾東郡に所属。市川の左岸沿い、姫路平野の北端に位置し、対岸は野里村など。「播磨国風土記」餝磨郡少川里の条に高瀬村がみえ、村名の由来は応神天皇が夢前丘から北方に白いものを見て上野国の麻奈
古を視察に行かせたところ、高い所から水が流れ落ちているとの報告があったことによるという。市川が急流湾曲する現花田町高木が遺称地か。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代を通して姫路藩領。正保郷帳では田方二九六石余・畠方三五石余。
高木村
たかぎむら
[現在地名]石巻市高木
籠峰山の東麓、真野川北岸に立地。南西は大瓜村、東から南は時計回りに水沼・真野・沼津・根岸の諸村に接する。村名由来につき「安永風土記」に「当村往古鍛冶屋敷社地ニ大木有之、右古木枯失、代木当時松壱本廻壱丈四尺五寸御座候、今以村名ニ唱来由、又柳下屋敷ニ大木柳有之、是枯木失当時根元無之候、右故村名ニ唱候由両説ニ而難相決候処、何右大木を以名付候儀御座候事」とみえ、奥州葛西氏一三代宗清の臣高木四郎右衛門の一族が居を構えて以来の村名とする説もある(稲井町史)。
正保郷帳に田三〇貫三九二文・畑五貫九四二文、ほかに同所新田九八九文があり、柴山と注記される。「牡鹿郡万御改書出」によれば、元禄年間(一六八八―一七〇四)には東西三〇町、南北一里四町で、田五九貫四九〇文・畑四貫六九四文・茶畑一貫八〇〇文、うち新田は二八貫六六一文、人頭三二人、男三三二・女三〇七、給人は四竈八郎兵衛ほか九名。
高木村
たかきむら
[現在地名]佐賀市高木瀬町大字高木・東高木付近
神野村の北。文化一四年(一八一七)の郷村帳によると上高木宿・下高木宿・上高木村・下高木村・東高木村・高木新村を含み、村域はかなり広い。
高城寺文書によれば、文永八年(一二七一)「肥前国佐嘉郡朽井」(現佐賀郡大和町久池井)の地頭国分忠俊らが高城寺(現佐賀郡大和町春日)へ寺領を寄進したが、「奉寄進、筥崎御領肥前国朽井内山野并田畠等事」とあって、四至を「限東 朽井堺堀通 限南 若宮御前馬場堀通 限西 同若宮山尾東平通 限北 高木城」としている。高木城は高木氏の居城であるが、さかのぼって文治二年(一一八六)の後白河院庁下文(河上神社文書)に、高木宗家が河上神社の座主職を奪って訴えられている内容があり、建長五年(一二五三)の将軍家政所下文(実相院文書)には「肥前国佐嘉郡」内の「高木屋敷」の記事がみえる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]永源寺町高木
二俣村の西にあり、北を蛇砂川が北流する。天正一一年(一五八三)八月の杉原家次知行目録(浅野家文書)に高木村とみえ、高一九八石余。寛永石高帳では高一千七四石余、彦根藩領。享保一〇年(一七二五)作毛の検見後に旱魃に襲われて虫害となり、免引を訴えている(「願書」高木共有文書)。正保二年(一六四五)の竹検地帳(同文書)によれば、一万七五七本の竹を百姓六七人で負担することになっている。慶応三年(一八六七)の同二年分の年貢皆済目録(蒲生郡志)によれば、取米二一七石余のうち米六一石余が米納でほかは銀納。米六石余が口米でこの銀五貫余、藪年貢は銀四一匁余、酒造冥加銀一匁余、大工冥加銀三六匁余、木挽冥加銀三匁余などがあり、納合は米六一石余・銀一四二貫余で皆納している。
高木村
たかぎむら
[現在地名]松原市北新町三―六丁目・天美南六丁目・天美西一丁目
西除川左岸にあり、東は堀村・向井村。地形は平坦。宝永元年(一七〇四)の大和川の付替えに伴い、西除川は高木村の北にある現在の高木橋辺りで流路を北西に切替えられた。応永元年(一三九四)八月五日の西琳寺領田畠目録(西琳寺文書)にみえる高木庄を当地に比定する説があるが、旧古市郡の現羽曳野市域とする説もあり、後者のほうが妥当と考えられる。延元三年(一三三八)一〇月日の高木遠盛軍忠状(和田文書)などが残る高木遠盛は当地の出身と思われる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]立山町浦田
浦田新村の西、竹鼻新村の東に位置。開発は古く、南北朝期から村名がみえる。史料上、上高木村の呼称もみられるが(応安三年四月五日「沙弥是鎮遵行状」八坂神社文書、以下同文書は省略)、位置関係など詳細は不明。貞和五年(一三四九)一月一一日の足利尊氏寄進状案に「越中高木村」とみえる。室町幕府の有力者であった大鷹入道(大高重成)の所領であったが没収され、京都祇園社領として寄進されることとなった(貞和六年三月六日幕府執事施行状案)。この一件は大鷹入道が幕府の有力者であると同時に足利直義方の有力者でもあったので、尊氏・師直派との主導権争いに巻込まれた結果である。ところが幕府の決定は容易に実行されず、越中の国や在地では幕命を拒み続けた。
高木村
たかぎむら
[現在地名]本宮町高木
本宮村の東に位置し、西辺を阿武隈川が北流する。その東岸に沿った低地と、阿武隈高地西斜面の丘陵地帯からなる。耕地の大部分は人工池によって灌漑する。村の南部寄りを磐城街道と奥州西街道(相馬街道)が東西に通じ、西行して阿武隈川を渡り本宮宿へ入る。村名は字高木の元木明神にむかし榎の大木があったという伝承に由来するという(相生集)。
高木村
たかきむら
[現在地名]花巻市高木・下小舟渡・上小舟渡
南流する北上川を挟み花巻城下の東に位置し、村の西から北を巻くように流れる猿ヶ石川が当地で北上川左岸に流入する。かつては小舟渡村と称していたが、高木某が当地を領してのち高木村と改めたと伝える。花巻城下に隣接する小舟渡地区は元来北上川左岸であったが、貞享年間(一六八四―八八)の同川付替工事により右岸の地となった。慶長八年(一六〇三)と考えられる北松斎信愛宛南部利直知行宛行状(宝翰類聚)に小舟渡・高木とみえ、同一五年の同人宛南部利直黒印状(盛岡北文書)には高木村・小舟渡村が併記され高二二五石余。
高木村
たかぎむら
[現在地名]富山市高木・高木南・高木西・高木東
射水平野の南東部、呉羽山丘陵の台地から低地に移る北西端に位置する。婦負郡に属し、北は大塚村、南は小竹村。近世初頭は東西二村に分れていたらしく、元和八年(一六二二)の花木新村一村建許可状(海内家文書)に東高木村彦助、寛永一〇年(一六三三)の牛ヶ首用水管理約定書(牛ヶ首用水土地改良区蔵)には高木村太兵衛・西高木村忠兵衛の名がみえる。なお慶長八年(一六〇三)二月七日の前田利長知行所付(「神尾氏等判物写」加越能文庫)にみえる「中郡さぶへの高儀村」三五石は、当村のことか。
高木村
たかぎむら
[現在地名]福井市高木町
九頭竜川南側の平野中にある大村。村はほぼ東西に延び、西側を南北に北陸街道が通り、北は舟橋村、東は高柳村に接する。中世は藤島庄内の一郷で、「大乗院寺社雑事記」明応三年(一四九四)一〇月一五日条に「朝倉方陣取様且云々」として「高木」とある。また天文二年(一五三三)三月の小泉吉宗寄進状(越知神社文書)にも「藤嶋高木郷拙者知行分之内云々」とある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に「高木之郷」(高三八九七・五九六石)とあるが、その石高から判断して東接する高柳村をも含んでいたと思われる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]三木市別所町高木一―三丁目・別所町朝日ヶ丘
高木町の西に位置し、加古川の支流美嚢川下流左岸に立地する。北は近藤新田、東は東這田村、南は興治新田。「播磨国風土記」にみえる美嚢郡高野里の遺称地とされ、転訛して高木となったという(美嚢郡誌)。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代は初め姫路藩領、元和三年(一六一七)明石藩領となるが(「寛政重修諸家譜」など)、寛永九年(一六三二)上知されたとみられる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]田辺町大字三山木 高木
興戸村の南にある。集落は普賢寺川を挟んでその南北にある。村内を奈良街道(歌姫越)が通る。
元禄一三年(一七〇〇)山城国郷帳に六五二・二八石とあり、枝郷として南山村と出垣内村が記される。享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳には右枝郷二ヵ村分合石で一三七三・三一六石とある。うち高木村は禁裏御料一五二石余、旗本領五〇〇石、幕府領五五石余、淀藩領六〇石で、計七六七石余。
明治九年(一八七六)南山村・出垣内村・山本村と合併、三山木村となった。
高木村
たかぎむら
[現在地名]東大和市高木一―三丁目・奈良橋二―三丁目・同五―六丁目・狭山四丁目・湖畔三丁目・中央一―二丁目・南街一丁目・同四丁目・仲原二―四丁目・向原一―六丁目・新堀一―三丁目
後ヶ谷村の南西に位置し、西は奈良橋村、南は小川村(現小平市)、北は宅部村。耕地はすべて畑で、土性は野土で粗薄であった(風土記稿)。田園簿に村名がみえ、高七〇石、皆畑。
高木村
たかぎむら
[現在地名]府中市高木町
芦田川の左岸、中須村の西北に位置する。芦田郡に属し、元和五年(一六一九)の備後国知行帳によると高六〇五石余、元禄一三年(一七〇〇)の高木村御検地水帳(広島大学蔵)では反別九七町余・高九五九石余。福山藩水野氏断絶後幕府領、元禄一三年以降福山藩領。
「備後郡村誌」に「山無之田畑壱升村ニ御座候、但四歩水損所、六歩旱損所」とあり、山がないので「出口村之内フミ谷・赤岩・いの木・しむら、目崎村之内すか谷・七曲り・いのこ谷・ふへか原・梅坊・境谷、からすは土生村之内前原」などに入会地をもっていた。
高木村
たかきむら
[現在地名]天童市高木
乱川・押切川扇状地の南西扇端部に位置し、南は小関村、北部を押切川が西流し、対岸は乱川村。八幡原清水をはじめ湧泉に恵まれ、これを水源とする高木川は主要な用水となり、西流して倉津川と合流する。古くから鮭漁が盛んで、明治三六年(一九〇三)の「漁業沿革調」には「本鮭川は元和三年ヨリ明治八年迄鮭川役永百五十文ツツ上納仕来、登魚捕獲致来候」とある。
高木村
たかぎむら
[現在地名]野洲町高木
長島村の北西にある。北東辺を流れる光善寺川および北西辺を走る朝鮮人街道によって北の小南村と境を限られる。集落は北部にある。北部の耕地が不規則な地割に小さな溜池が散在するのに対し、南部には条里地割が認められ溜池もほとんどない。永禄一〇年(一五六七)から当村と入町村との間で上野草刈場の入会をめぐる争論があり、翌一一年五月二一日永原氏の裁決により当村の勝訴となった。訴訟費用一四貫六八七文は産土神春日神社神供田を質入れして調達され、うち一四貫文は永原重虎やその家老中島氏などへの礼銭に充てられた(永禄一一年五月二一日「春日大明神上葺棟札」春日神社蔵)。
高木村
たかきむら
[現在地名]尾上町高木
南は尾上村に続き、北は田圃を隔てて久米村(現黒石市)がある。
「津軽一統志」によれば、天正一三年(一五八五)四月南部信直は三千の軍勢を率いて、大浦(津軽)為信に降っていた千徳政氏の浅瀬石城(現黒石市)を攻撃し、為信はすぐ一千五〇〇の軍勢をもって応援のため高木村に到着したという。
正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の平賀郡の新田に高一四九八・六四石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳によれば、田畑屋敷合せて一〇二町二反三畝一一歩、村高一〇五六・一〇六石とある。うち田方は八六町六畝八歩、九八二・三四七石、上田から下々田まで設定され、中田が四四町六反一畝八歩、四九〇・七四石であり、畑方は一六町一反七畝三歩、七三・七五九石、上畑から下々畑までで、中畑が八町三反五畝一〇歩、四一・七六七石、下畑五町七反三畝六歩、一七・一九六石、屋敷が一町三反三畝一一歩とある。
高木村
たかぎむら
[現在地名]武生市高木町
日野川と三里山とに挟まれる平野にあり、東は中新庄村、西は瓜生村。「太平記」巻一九(新田義貞落越前府城事)に「高木ノ社」とみえ、また瓜生・真柄など近隣諸村とともに焼き払われている。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図の今南西郡中に村名と高一七三四・一一八石が記され、正保郷帳によれば田方一千六三二石余・畠方一〇二石余。貞享三年(一六八六)福井藩領より幕府領となり、元禄一一年(一六九八)以降、小浜藩領。
明治九年(一八七六)の高木村小全図(武生市役所蔵)に用水池が二十数ヵ所記され、池の町・水替田・江代・水通し町などの字名がみえる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]扶桑町高木
北は下野村、東は小口村(現大口町)、南は柏森村に接し、犬山街道が村域を通っている。弘安五年(一二八二)七月日の尾張国千世氏荘坪付注進状案(醍醐寺文書)に「丹羽郡西条高木村四丁三反半」の畑の所在を示すのが文献上の初見。応安二年(一三六九)八月日の公役納法下地等注文(妙興寺文書)によれば、四ヵ所で計四町五反三〇〇歩の妙興寺領の存在が知られる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]田主丸町豊城
蜷川村の北に位置する。屋敷地は観音津留溝の南にあった(上三郡絵図)。永正一四年(一五一七)三月、大友親安(のち義鑑)が朽網親満の乱討伐の際の勲功として、竹野郡の国人麦生光綱に預け置いた所領の一つに「高木六町」がある(同月六日「大友親安知行預ケ状」麦生文書)。本高は七八石余(元禄国絵図)。「在方諸覚書」では古高八〇石・役高三二〇石。
高木村
たかぎむら
[現在地名]表郷村高木
社川中流右岸に位置し、南は瀬ヶ野村(現棚倉町)、東は三森村、北は堀之内村、西は梁森村。応永三年(一三九六)正月四日の中寺の常在院の源翁和尚坐像銘に「於□□高木三拾貫寺領」とある。江戸時代は初め会津領、寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保元年(一七四一)越後高田藩領、文化三年(一八〇六)以降幕府領。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高三〇〇石余。
高木村
たかぎむら
[現在地名]竜洋町高木
天竜川下流域東岸に位置し、西は同川、南は松本村、北は宮本村。中世高木郷の遺称地。江戸初期には多加解村とも書き、慶長(一五九六―一六一五)初年に中島村・松本村・宮本村を分村したという(磐田郡誌)。天正一九年(一五九一)一一月二〇日の四拾七村惣高辻書上(横山家文書)に「高木以加」とみえ高三七一石余。正保郷帳に村名がみえ、幕府領。田二四三石余・畑二五六石余、聖寿寺領一石余。以降の領主の変遷は西平松村に同じ。享保三年(一七一八)の高五〇四石余(うち畑二六四石余)、家数五六(うち本百姓五四・水呑百姓二)・人数二九四、馬二一、橋四二・圦六・郷蔵一、木挽二(「川東三拾弐ヶ村村調書上牒」磐田市誌編纂室収集文書)。
高木村
たかぎむら
[現在地名]塩川町新江木
別符村の北西、姥堂川の東岸に位置する。熊倉組に属し、東は下小出村。古くは集落は二町余ばかり北方にあったが、明暦二年(一六五六)現在地に移転したという。寛文六年(一六六六)の「会津風土記」などにみえる端村百目は文化年中(一八〇四―一八)頃にはすでに廃村となっていた(新編会津風土記)。天文一二年(一五四三)に新宮熊野社(現喜多方市)の大祭で行われた田楽相撲の記録を同一四年一月吉日に書写した相撲田楽日記(新宮雑葉記)の番付第一一番、取組第八番・九番に村名がみえ、当村も田楽相撲に参加している。
高木村
たかきむら
[現在地名]下諏訪町高木
諏訪湖の東岸にあり、甲州道中に沿う街村。西は富部村、東南は大和村(現諏訪市)。
諏訪湖の御神渡の記録である「当社神幸記」(下諏訪町誌)の嘉吉三年(一四四三)の条に「従高木浜鵜木渡」とあるのが初見。古くは高木氏が支配した郷村で、山城に高木城をもち、村の北部の殿村はその居館跡といわれる。天正一八年(一五九〇)の諏訪郡御検地御高帳(諏訪郡諸村並旧蹟年代記)には「高二百三十九石六斗六升 高木郷」とあり、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には「高木村 家数五拾三軒 内御徒家壱軒 高弐百六拾弐石七斗四升壱合七勺」と記されている。江戸時代中期以降甲州道中沿いには商屋が現れ、天保一四年(一八四三)上諏訪宿から出された宿間往還筋村々ニテ商候者名前書(下諏訪町誌)によれば、高木村では文政二年(一八一九)から天保一三年の間に九名の商屋が酒・菓・草鞋等の商いを営んでいる。
高木村
たかぎむら
[現在地名]一宮市萩原町高木
村の中を美濃路が貫き、西方の萩原宿へ一五町、東は西宮重村に接する。康安元年(一三六一)七月の源氏女寄進状写(妙興寺文書)に「尾張国中嶋郡高木村内畠地事」とみえる。また妙興寺文書の文和五年(一三五六)三月に荒尾宗顕が差出した牛野郷坪付注文に「一所五町八段 高木河原河東」とある。また応安三年(一三七〇)一〇月九日の俊正寄進状に「尾張国中嶋郡高木村内後田地事」とある。
概高は本田七〇三石一斗余、元禄七年(一六九四)新田九石二斗余を開き、本田はすべて一八人の給知で支配され、新田は蔵入地となっている。「寛文覚書」の家数六〇・人数三〇五、元禄一二年には五九軒・二七九人、文政期(一八一八―三〇)には一〇六軒・四四九人とある。
高木村
たかきむら
[現在地名]高富町高木
如来ヶ岳(二七六メートル)の北麓、鳥羽川右岸に位置する。東は高富村、南は佐賀村。村名の由来は高木明神といわれる。大円寺寄進証文集(慈明院文書)のうち、康正二年(一四五六)一二月八日の寄進状によれば、「目洗」にある一段の田地を高木宝蔵坊が寄進している。同証文集の永禄三年(一五六〇)一〇月四日の納所注文には「タカキ」とある。江戸時代初期の領主は加納城(現岐阜市)城主奥平氏で、慶長郷帳では高八三三石余、寛永九年(一六三二)同家断絶ののち、幕府領となる。正保郷帳では田方七三六石余・畑方八九石余、紙木高四石余、山年貢二石余で、紙木高が他村に比して大きい。
高木村
たかぎむら
[現在地名]赤碕町宮木
金屋村の南に位置する。地名は寛仁年間(一〇一七―二一)に当地に住みつき田畑を開墾したとされる高木九兵衛にちなむという(「池田家系図略記」池田家文書など)。応永年間(一三九四―一四二八)に池田七郎定久という者が備前国から来て、西の山に城を築いたと伝える。俗に真道成仏の城と称したといい、池田家系図略記によれば、本丸は縦二二間で横一〇間、二の丸は縦一六間で横一〇間、三の丸は縦一一間で横六間であったという。永享(一四二九―四一)の頃に落城。定久が高木家に入ったのを機に同家は池田を姓とするようになった。安政五年(一八五八)「船上山遺事」を著した正墻適処は、池田家のことを「旧家も多き中に、かく迄久しく相続して、火災もなく、古記、宝物、書類迄持伝へたるは稀有の家なり」と記している。
高木村
たかぎむら
[現在地名]安城市高木町
現安城市の東に位置、古くは枚田庄大岡郷に属す。村の東を西鹿乗川が南流する。「延喜式」神名帳に記す日長神社については、中島の神明社(現岡崎市)をあてるのが定説となっているが、「特選神名牒」によると、高木の日長神社をあてるのも一考に値すると説き、また一書に高木村の県大明神は古くは神籬日長神社で、日長神社へ長享二年(一四八八)供米と記す古い書付があるという。中世松平氏の家臣高木氏は、高木を領して村名を姓とした。
高木村
たかきむら
[現在地名]松阪市高木町
祓川と櫛田川に村域の東西を挟まれ、北は井口村・中河原村に接する。年不詳であるが三月二五日付沢太菊宛北畠具教判物(沢氏古文書)に「来月御参宮候間、高木渡橋之儀、如先規宮原新二郎奉行申付候、被相続厳重可被申付候也」とあり、参宮の道筋で渡橋の行われたことがわかる。参宮古道は清水から櫛田川を渡り当地に入ったといわれ、「五鈴遺響」は「上世ノ街道ニシテ櫛田ヨリ櫛田川ノ渉口ナリ。コレヨリ東シテ稲木川(祓川)ヲ渉リ多気郡坂本ニイタリ斎宮ニ入ルノ順次ナリ」と記している。
高木村
たかぎむら
[現在地名]富山市清水
鼬川の右岸、清水村の東に位置した。江戸初期は加賀藩領、万治三年(一六六〇)の領地替で富山藩領となる。寛永一七年(一六四〇)の神尾直次等宛新川郡内知行所付状(神尾家文書)に、高木村は高四六石余、免四ツ八厘とある。明暦二年(一六五六)の村御印留では草高七八石、免三ツ五歩。元禄一一年(一六九八)の郷村高辻帳によると、親村の大泉村の北東五町にある枝村新田で高七八石。
高木村
たかきむら
[現在地名]小矢部市高木
浅地村の南東、小矢部川左岸に位置。村内で小原道から南へ向かう道が分岐、北は今石動への道が通る。元和五年(一六一九)の家高新帳に村名がみえ、役家数六、高木組に属する。正保郷帳では高二八四石余、田方一八町四反余・田方五反、新田高二二一石余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高三〇三石・免四ツ六歩(三箇国高物成帳)。
高木村
たかぎむら
[現在地名]松山市高木町
松山平野の北平坦部に位置する農村。東は大内平田村・和気志津川村、西は安城寺村、南は和気志津川村、北は馬木村に接する。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の和気郡の項に「高木村」とある。
古代には、和気郡高尾郷(和名抄)に属したと推定される。
高木村
たかぎむら
[現在地名]中央町中郡
岩下村の西方、緑川の左岸近くに位置する。北は上益城郡船津村(現甲佐町)で、西には大沢水村と山林で境する。慶長国絵図や郷帳に村名の記載はなく、神園村のうちに含まれていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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