本州の西端部を占める地方で、近畿地方の北西部から西方に突出し、東西約350キロメートル、南北約45~140キロメートルの半島状の地形を呈し、北側は日本海を隔ててアジア大陸東辺の朝鮮半島や沿海地方に相対し、南側は瀬戸内海を挟んで四国地方を望み、南西端は狭い関門(かんもん)海峡をもって北九州に近接している。日本海側は比較的単調な海岸線であるが、島根半島の北方約40キロメートルには日本海の離島隠岐(おき)諸島がある。瀬戸内海側は島や小半島の多い複雑な海岸線となり、周防(すおう)大島や倉橋(くらはし)島、因島(いんのしま)など大小多数の島嶼(とうしょ)が分布している。行政上は、鳥取、島根、岡山、広島、山口の5県からなり、面積は3万1909平方キロメートル(1996)で、全国土の8.5%を占めている。「中国」地方という呼び名は、古代、畿内(きない)を中心に近国、中国、遠国に区別したとき、九州地方の遠国に対して、この地方のほとんどが中国に相当することから、そうよばれるようになったといわれるが、その起源はかならずしもはっきりしてはいない。
中国地方は、古代から大陸文化受容の先進地であった北九州と、大和(やまと)朝廷の中心地域であった畿内との中間地帯を占め、文化、政治、経済の回廊地帯としての地域性をもっていた。とくに瀬戸内海とその沿岸の山陽地方は、東西に延びる海陸の交通幹線路として重要な役割を果たしてきた。現在でも、とくに石油化学や鉄鋼の高能率の大工場が内海沿岸各地に展開し、瀬戸内工業地域を形成、太平洋ベルト地帯の一部を占めている。
地方区分では中国・四国地方として扱われることが多い。これは、地質構造のうえから、また気候環境のうえからも、中国地方の山陽沿岸、瀬戸内海、北四国のいわゆる瀬戸内地域が共通した歴史的背景や産業経済をもっているからである。中国地方の地域区分としては農業、水産業中心の山陰沿岸、牧畜、林業の盛んな中国山地、先進的農業や重化学工業化の顕著な山陽沿岸のそれぞれ特色ある地域に分けられる。
[三浦 肇]
中国地方は大部分が山地や丘陵で、その間にいくつかの盆地が並び、海岸部はおおむね沈水海岸をなす所が多く、平野は小規模である。
中国地方を山陽と山陰に分ける脊梁(せきりょう)山地が北寄りに高度800~1300メートルで東西に連なるが、なだらかな高原状の地形をなし、高位侵食平坦(へいたん)面の遺物と考えられている。代表的な山として、氷ノ山(ひょうのせん)(1510メートル)、那岐山(なぎさん)(1255メートル)、道後山(どうごやま)(1271メートル)、恐羅漢山(おそらかんざん)(1346メートル)、冠山(かんむりやま)(1339メートル)などが高く、いずれも国定公園に含まれている。脊梁山地の南側には高度500メートル前後の広大な吉備高原(きびこうげん)が広がり、広島、岡山両県の大半を占め、その中に津山(つやま)、勝山(かつやま)、西条(さいじょう)、三次(みよし)、山口などの盆地が発達している。吉備高原は西日本ではまれな隆起準平原として知られ、中位侵食平坦面とみなされている。島根県西半部にも同じ性質の石見高原(いわみこうげん)があり、山口県も大半はこれらの高原の連続する地形にあたるが、侵食が進んで小山塊に分かれている。吉備高原の南側には海岸近くまで、高度100~200メートルの丘陵地が分散的に発達し、とくに山口県宇部(うべ)北方付近に広く典型的にみられ、福山平野周辺や岡山平野周辺の丘陵地も同じ性質の地形である。これらは瀬戸内面とよばれ、低位侵食平坦面と考えられている。
中国脊梁山地の北側には白山(はくさん)火山系に属する鳥取県の大山(だいせん)(1729メートル)、島根県の三瓶山(さんべさん)(1126メートル)、青野山(あおのやま)(907メートル)などの火山群が噴出し、山陰沿岸には三朝(みささ)、皆生(かいけ)、玉造(たまつくり)、三瓶、温泉津(ゆのつ)など多くの温泉が分布している。また、石灰岩が各地に分布し、岡山県の阿哲台(あてつだい)、広島県の帝釈台(たいしゃくだい)、山口県の秋吉台(あきよしだい)などでは溶食作用による特殊な窪地(くぼち)(ドリーネ、ウバーレ)の地形が発達し、台地下には多数の洞穴が形成され、とくに秋吉台の秋芳洞(あきよしどう/しゅうほうどう)は特別天然記念物に指定されている日本屈指の大鍾乳洞(しょうにゅうどう)として知られる。
中国地方の河川は一般に短い。もっとも長い江の川(ごうのかわ)は延長194キロメートルでその流域面積は3870平方キロメートル、三次盆地を貫流し、中国山地を横断して日本海に入る。短い川の多い中国地方では平野も小規模で、岡山平野と出雲(いずも)平野がやや大きい平野である。岡山平野は、吉井川や旭(あさひ)川、高梁(たかはし)川のつくった三角州平野に近世以降の干拓地も加わった中国地方最大の平野で、先進的な機械化農業や園芸農業で有名である。山陰側の出雲平野は、島根半島の内側の陥没地帯が斐伊(ひい)川の盛んな堆積(たいせき)作用によって埋められてできた三角州平野で、埋め残された宍道湖(しんじこ)は面積79.1平方キロメートル(日本第7位)、最深部6メートルの浅い湖で、その東につづく中海(なかうみ)は弓ヶ浜砂州で陸封された湖で、面積86.2平方キロメートル(日本第5位)、ともに汽水(きすい)湖である。
海岸線は山陰側が比較的単調であるのに対して、瀬戸内側は出入りが多く、小半島や島、瀬戸(海峡)が交錯して複雑である。これは、完新世(沖積世)初めごろから海面が上昇して低地に海水が浸入し瀬戸内海を形成したためである。山陰側の海岸は日本海に臨んで季節風が強く、鳥取砂丘や弓ヶ浜のように砂丘の発達がみられることが特徴である。
気候は中国山地を境に、曇天の多い山陰型と、降水量の少ない山陽(瀬戸内)型に分かれるが、年平均気温(1971~2000平均値)は鳥取14.6℃、岡山15.8℃で、日本海の対馬(つしま)暖流の影響もあって、山陰、山陽であまり差はない。年降水量は鳥取1897.7ミリメートルに対して岡山1141ミリメートルで、山陽側は日本でも少雨地域として知られる瀬戸内型に属し、中国山地と四国山地が季節風を遮って、山陽沿岸は温暖少雨の特色を示す。しかし、西瀬戸内沿岸ではやや降水量も多く、広島1540.6ミリメートル、下関(しものせき)1684.9ミリメートルで、山口県は台風の来襲頻度も高く、九州型に近い。
中国地方の植生帯は大部分が暖温帯広葉樹林帯に属し、中国山地のうち高山の一部に冷温帯落葉樹林帯がみられる。西日本の自然植生は平地のタブ林、丘陵のシイ林、山地のカシ林で代表されるが、縄文時代以降の人間活動によって著しく改変を受け、中国地方はとくに他地方に比べて自然林の破壊が進んでいて、沿岸地帯ではクロマツ林、内陸に入るとかなりの高度まで、ほとんどアカマツ林を主とする二次林によって置き換えられている所が多い。また自然植生で注目されるのは、太平洋沿岸に広くみられるウバメガシを主とした特殊な広葉常緑樹林で、乾燥に強く、降水量の少ない瀬戸内沿岸や島嶼(とうしょ)にとくによく発達していることである。
冷温帯林を代表するブナ林は山口県では高度700メートル付近から出現するが、山陰側では冬の季節風や積雪の影響で、高度500~600メートルからみられ、林床にチシマザサを伴う日本海型である点が、四国山地のブナ林と異なっている。比婆(ひば)山のブナの純林は国の天然記念物として有名である。中国山地では1300メートルを超える山はわずかで、四国山地のような亜高山帯の針葉樹林(たとえばシコクシラベ林)がみられないことが注目される。
[三浦 肇]
産業別就業人口比率(1995)は、第一次産業が8.3%で全国平均の5.9%よりやや高く、とくに山陰側の島根県と鳥取県が全国8位、7位の高率であり、岡山県、山口県は全国平均よりやや高く、広島県はほぼ全国並みである。これに対し中国地方の第二次産業は32.1%を占め、全国平均の31.5%に近い。とくに山口県と広島県が全国並みで、岡山県が全国平均よりやや高い。第三次産業は59.1%で、広島県はほぼ全国並みであるが、他の4県は全国平均61.8%を下回っている。
農業は早くから開発が進み、よく耕地化されてきたが、近年は減少が著しい。農家1戸当り耕地面積(1994)は0.7ヘクタールで、全国平均の1.4ヘクタールよりはるかに狭く、農家数は全国の10.9%を占めるのに、耕地面積は5.8%、農業粗生産額(1994)も5.6%を占めるにすぎない。水稲収穫量(1994)は中国5県で全国の7.6%を占める。1994年の反当り収量は全国平均(544キログラム)に比べてやや低く、鳥取県(569キログラム)のみが高かった。5県のうち収穫量では岡山県が多く、中国地方の28%を占める。果樹栽培(1995)では各県によってそれぞれ特色があり、岡山県はブドウが全国4位、モモが6位で全国的に知られた果物県で、広島県は柑橘(かんきつ)類が多く、ミカンが8位、ネーブルオレンジが2位、山口県はナツミカンが10位、イヨカンが4位である。鳥取県は全国のナシの14%を占めて1位の生産をあげ、また砂丘を利用した砂地農業の先進地で、ラッキョウ、ナガイモ、ネギ、スイカの特産で知られる。畜産は中国山地や吉備高原で盛んで、島根、岡山両県が飼養頭数が多い。蒜山(ひるぜん)高原の酪農、広島県北部の神石(じんせき)牛、比婆(ひば)牛、大山(だいせん)周辺の伯耆(ほうき)牛などの肉用牛が知られ、山間盆地の津山や三次(みよし)は牛市でにぎわう。
林業は、用材の生産で全国の7.6%を占め、私有林が多く、かつて木炭生産で重要な地位を占めていたが、現在は衰えた。鳥取県智頭(ちず)付近のスギの美林(学術参考保護林)や山口県滑(なめら)国有林のアカマツ林が有名である。
暖流や寒流の流れる日本海と、波静かな瀬戸内海を控えて、水産業は盛ん。沿岸に多くの漁港が発達し、漁獲量(1994)は全国の約12.8%に及び、島根県は全国4位、鳥取県は8位である。境(さかい)、恵曇(えとも)、浜田、仙崎(せんざき)、下関などが主要漁港である。日本海では島根半島と隠岐諸島の間の隠岐堆(おきたい)やその北方の大和堆(やまとたい)が好漁場をなし、巻網(まきあみ)によるアジ、サバ、イワシ、底引網によるマツバガニ、カレイが多く水揚げされる。瀬戸内海は複雑な海況によって漁法も多様で、魚種も多いが、沿岸埋立地の工業化や都市化の影響で漁獲量は減少し、零細漁家が多い。ハマチやクルマエビなどの養殖、栽培漁業への転換が図られつつある。なお、広島湾のカキ養殖はすでに江戸時代に始まり、特産として全国に知られている。
工業では、早くから山地におけるたたら製鉄、明治以降の製塩業とソーダ工業、石灰石の開発とセメント工業、ろう石の採掘と耐火れんが工業、ワタ作と綿紡績工業などのように、地元の原料や資源を利用した工業が各地に発達した。現在では中国5県の工業出荷額(1995)は全国の7.0%を占め、岡山、広島、山口の3県全域を瀬戸内工業地域とした場合は6.3%に及び、全国的にも京浜、阪神、中京、北関東に次ぐ重要な地位を占めている。これは、重化学工業とくに鉄鋼業や石油化学工業を中心に、機械、化学、金属工業など、日本の経済高度成長期に大工場が集中的に進出、拡充されたことによる。倉敷市水島(みずしま)の石油化学、製鉄、自動車をはじめ、呉(くれ)市の造船、福山市の製鉄、広島市の自動車、岩国市、大竹市の石油化学、周南(しゅうなん)市のソーダや石油化学、宇部市の化学肥料などが主要な近代工業である。また、倉敷市の花莚(はなむしろ)、福山市松永の下駄(げた)、府中市のたんす、備前(びぜん)市の備前焼や萩(はぎ)市の萩焼などの伝統工業も全国的に知られている。一方山陰側でも、米子(よなご)市、境港(さかいみなと)市を中心にパルプ、鉄鋼、水産加工が発達し、江津(ごうつ)市などでは石見瓦(いわみがわら)の生産が盛んである。
[三浦 肇]
山陽沿岸を走るJR山陽本線、東海道・山陽新幹線と、これに並走する国道2号、内陸部を縦貫する中国自動車道と山陽沿岸を貫ぬく山陽自動車道が中国地方のみならず、国土全体の交通動脈の一部をなす陸上幹線交通路である。これらはすべて中国地方西端の下関市に集まり、関門海峡をはさんだ北九州と関門鉄道トンネル、新関門トンネル、関門国道トンネル、関門橋によって密接に結ばれている。山陰沿岸は山陰本線とこれに並走して国道9号と191号(益田(ますだ)以西)があり、中国山地を横断して、これら東西方向の交通路を南北に結び付けるJR因美(いんび)線、津山線、伯備(はくび)線、木次(きすき)線、芸備(げいび)線、山口線などや国道53号、54号、187号など多くの陰陽連絡路線があり、高速自動車道も中国横断自動車道(広島浜田線、尾道松江線、岡山米子線、姫路鳥取線)の整備が進みつつある。また鳥取、隠岐(おき)、米子(よなご)、出雲(いずも)、岡山、広島、山口宇部、萩・石見の諸空港があって、東京や大阪などと連絡している。
産業運河ともいうべき瀬戸内海の海上交通は、とくに北九州と阪神を結ぶ東西方向の航路が早くから発達しているが、沿岸の水島、福山、尾道(おのみち)、広島、岩国、徳山、下関などの諸港での貨物取扱い量が多い。また山陽沿岸都市と島嶼(とうしょ)を結ぶ沿岸航路のほか、広島―松山、柳井(やない)―松山間のように中国・四国連絡航路も発達している。新しい交通革命に対応して、本州四国連絡橋が計画され、尾道―今治ルートでは大三島(おおみしま)橋(1979)、因島(いんのしま)大橋(1983)などに続き、1999年(平成11)5月多々羅(たたら)大橋(生口(いくち)島―大三(おおみ)島)、来(くる)島海峡大橋(大島―今治)が開通した。これで約60キロメートルの今治―尾道ルート(瀬戸内しまなみ海道)は全面開通となった。児島(こじま)―坂出(さかいで)ルートの瀬戸大橋も1988年(昭和63)に開通しており、新内海交通時代が開かれようとしている。
[三浦 肇]
1950年(昭和25)の国土総合開発法のもとで、特定地域として大山出雲(だいせんいずも)、芸北(げいほく)、錦川(にしきがわ)の3地域が指定され、大山の香取(かとり)などでは開拓団によって酪農村が生まれ、芸北では樽床(たるとこ)ダム、錦川では菅野(すがの)ダムなどが建設され、電力や工業・都市用水の利用開発が進められた。1963年の全国総合開発計画では地域格差是正を目的として、地方都市を開発の拠点とする岡山県南、中海(なかうみ)の2新産業都市と、すでにある程度の発展基盤を備えている備後(びんご)、周南(しゅうなん)の2工業整備特別地域が指定された。いずれの地域でも干拓、埋立てが行われ、鉄鋼、石油化学を中心として、機械、金属、化学の重化学部門の産業が大きく伸びたが、原燃料を多く輸入に依存する臨海型の重化学工業に偏り、装置型産業であったため、地域への波及効果はそれほど大きくなく、むしろ内海沿岸には新しい公害や環境問題をもたらした。1984年の通産省(現、経済産業省)による開発構想では、近年急速な発達をみた先端技術などの新産業と、学術研究機関の融合を目ざす高度技術集積都市いわゆるテクノポリスの計画地域として、吉備(きび)高原と広島中央(呉(くれ)を含む)、宇部の3地域があげられ、地方の活性化を図ろうとしている。一方、中国山地の農山村は全国的にも深刻な過疎化地域として知られるが、島根県奥出雲町のように、複合経営を目ざす国営の農地開発を試みる地区もあり、鳥取県では砂地農業の先進地鳥取砂丘のほかに、北条砂丘や弓ヶ浜砂丘などでは用水の開発によって新しい園芸酪農地域が形成されつつある。
[三浦 肇]
1920年(大正9)の第1回国勢調査による中国地方5県の人口は497万人、その全国比は8.9%であるから、中国地方の面積の全国比8.5%に比べるとわずかながらこれを上回っていた。その後、四大工業地帯の発達、第二次世界大戦後の巨大都市への人口集中の影響で、中国地方の人口も大きく変動した。1955~1965年(昭和30~40)の10年間に699万人から687万人に減少し、高度経済成長期にはとくに鳥取、島根、山口3県の減少率が高かった。1975年以降は各県とも増加に転じ、1975~1995年の20年間に736万6000人から777万4000人に増加したが、この時期の5県の増加率は広島県の8.9%が最高で、全国平均12.2%に比べればいずれも低い。2005年(平成17)の中国地方の人口の全国比は6.0%を占めるにすぎず、全国的にみて人口の少ない地方といえるであろう。とくに過疎地域市町村数が全市町村数308のうち172に及び(2003、総務省自治行政局過疎対策室「過疎対策の現況」平成15年7月)、面積においても広く、中国山地、吉備高原にわたって55.5%を占めていることは注目される。
人口分布のうえからみると、山陽3県の人口が中国地方の82%を占め、山陰2県の人口はわずか18%でしかない。さらに岡山、倉敷、福山、呉、広島、周南、宇部など瀬戸内海沿岸部の都市群の占める人口は56%以上に及び、山陽沿岸に人口が集中していることがうかがえる。人口集積のもっとも多い地域をあげると、呉付近から広島平野を中心に岩国に至る広島湾岸一帯、岡山平野から倉敷平野にかけての地域、下関市とその周辺、島嶼部の因島などが、人口密度1000人を超える高密度地域をなしている。山陰地方では米子平野が1000人以上の高密度地域であり、鳥取市や松江市の県庁都市の周辺では人口密度500人以上の人口分布がみられる。中国山地や高原内では津山、勝山、新見(にいみ)、庄原(しょうばら)、三次(みよし)などの山間盆地にややまとまった人口が分布している。
[三浦 肇]
日本列島がまだ大陸と陸続きで、瀬戸内海が陸地であった更新世(洪積世)の時代の旧石器を出土する遺跡が、岡山県宮田山や備讃(びさん)瀬戸の井島、櫃石(ひついし)島(香川県)などで発見されている。この石器はサヌカイトを石材とする瀬戸内技法とよばれる特色ある作製法によるものとして注目されている。瀬戸内に海が浸入し始めた縄文早期の貝塚としては岡山県黄島(きしま)があり、内陸では広島県帝釈峡馬渡岩陰(まわたりいわかげ)遺跡が有名である。縄文前期以降になると、山陰の中海沿岸や山陽の児島(こじま)湾岸に貝塚が集中して分布し、縄文後期、晩期になると、各地に広範に遺跡が発見されており、狩猟や漁労の採集生活を主とするが、低地にも進出し、農耕も始まっている。
大陸から稲作を主とする弥生(やよい)文化が北九州に登場すると、西日本一帯の沿岸低地、盆地にも急速に伝播(でんぱ)、定着して、弥生前期には早くも北九州と畿内(きない)を中心とする二大文化圏が成立し、中国地方はその中間にあってとくに瀬戸内沿岸は東西を結ぶ回廊地帯となった。このころには銅矛・銅鐸(どうたく)など大量の青銅器群を出土した荒神谷(こうじんだに)遺跡や加茂岩倉遺跡があり、特異な四隅突出墓(よすみとっしゅつぼ)の分布する出雲地方が異色の文化圏をつくっていたし、4世紀から7世紀にかけての古墳時代には、異色ある伝統的方墳形態を含む古墳文化をもつ出雲地方や、天皇陵に次ぐ大規模な前方後円墳をいくつも築造した吉備地方には特色ある地域的な文化圏が形成されていたが、のちには畿内を中心とする大和朝廷の統一政権の勢力下に組み入れられてしまった。奈良時代以降律令(りつりょう)制下においては中国地方は美作(みまさか)、備前(びぜん)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)、安芸(あき)、周防(すおう)、長門(ながと)、因幡(いなば)、伯耆(ほうき)、出雲、石見(いわみ)、隠岐(おき)の12か国からなり、それぞれ国府が置かれた。とくに山陽沿岸の6か国の国府を連ねる山陽道は、瀬戸内海水路とともに中央と大宰府(だざいふ)を結ぶ国土の交通幹線であり、七道中唯一の大路として重要視された。古代における農地開発の特徴は条里制による耕地区画の斉一化で、方一町を基本とする方格地割の遺構は岡山平野をはじめ福山平野、津山盆地、防府(ほうふ)平野、山口盆地などの小平野にもよく残されており、山陰側では鳥取平野、倉吉平野、松江平野などにもみられる。古代における製塩は内海沿岸で広く行われ、備讃(びさん)諸島の師楽(しらく)式土器で知られる製塩遺跡は有名で、同じような土器製塩跡は西瀬戸内の宇部沿岸まで分布している。一方中国山地には良鉄を産し、『延喜式(えんぎしき)』には伯耆、美作、備中、備後が鉄、鍬(くわ)の産地としてあげられており、長門、周防は産銅国として知られ、ともに国府の近くに鋳銭司が置かれた。古代末、律令(りつりょう)政治の衰退と荘園(しょうえん)の発達、武士の台頭などがあり、治安の乱れに乗じて瀬戸内海は海賊が横行し、その討伐に功のあった平氏が内海沿岸を中心に西日本一帯に強大な勢力を培い、中央政権を掌握するが、まもなく東国に興った源氏によって、内海西端の長門壇ノ浦に滅亡した。
鎌倉時代になると、関東から中国地方に、土肥(どい)、佐々木、武田、毛利など有力御家人(ごけにん)が守護や地頭(じとう)として入部して勢力を得、また京都加茂(かも)社、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)、東大寺、高野山(こうやさん)など中央社寺の荘園も各地に開発されて、大小の豪族、領主が割拠したが、承久(じょうきゅう)の乱、蒙古(もうこ)襲来を機に、北九州とともに中国地方は国防上の要地として重視され、長門や石見の海岸には防塁が築かれ、長門(中国)探題が置かれて、北条氏一門による幕府の統制が強化された。
1332年(元弘2)後醍醐(ごだいご)天皇が隠岐配流となり、南北朝争乱の時代には内海の海賊は、航路上の要所に築城して警固料を取り立て、その一部は海外に出て倭寇(わこう)となった。室町時代に日明(にちみん)貿易に進出して経済力を蓄えた周防守護大名大内氏は北九州、西中国を制して、中央にもその勢力を伸ばし、その城下周防山口は東の小田原と並んで中世都市としての繁栄をみ、西の京都とよばれた。
応仁(おうにん)の乱(1467~1477)に始まる戦乱の時代には、出雲の尼子(あまこ)氏、周防の大内氏にかわって安芸の毛利氏がほぼ中国地方を統一したが、徳川氏によって周防、長門2国に封じられ、幕藩封建体制下に組み込まれた。中国地方の12か国は20以上もの大小の藩によって分知されたが、10万石以上の藩は鳥取藩、松江藩、津山藩、岡山藩、福山藩、広島藩、長州藩の各藩があった。各藩とも新田開発に努めて藩財政の拡充を図ったが、とくに内海沿岸は好適な土地条件に支えられて、児島湾沿岸、高梁(たかはし)川、太田川、錦川(岩国川)、佐波(さば)川などの河口低地が干拓されて広大な水田や塩田に造成された。新田では米麦作のほかにワタ、イグサ、ナタネ、サトウキビなど工芸作物も栽培され、児島地方の綿織物や備後地方の畳表(たたみおもて)は特産として知られた。また製塩では四国沿岸のものも含めて瀬戸内十州塩田とよばれ、全国の90%を占める生産をあげた。このような産業開発は、西廻(にしまわり)航路の発達によって画期的な瀬戸内海水運時代を迎えたことと相まって、とくに山陽地方は農村工業や商品流通の先進地をなしたのである。
幕末、維新の変革期に長州藩は主導的な役割を果たし、明治新政府に多くの人材を送り込んだ。1871年(明治4)の廃藩置県後、旧藩域の分合を繰り返し、1881年に現行の県域区画が成立した。
明治以降の産業の近代化に伴い、山陽沿岸では早くも明治10年代に玉島、岡山、広島、倉敷に紡績所が設置され、その後の工業化の先駆的役割を果たしたのに対して、山陰沿岸では明治20年代になってから松江や倉吉に製糸業がおこった。交通上も山陽線が1891年笠岡(かさおか)まで通じ、1901年(明治34)には下関まで全通したが、山陰線は松江までが1908年、益田(ますだ)まで開通したのは山口線開通と同年の1923年(大正12)、下関まで全通したのは1931年(昭和6)であった。この間に、山陽沿岸では呉(くれ)鎮守府の設置による造船業、宇部海底炭田の開発と化学工業の発達をみ、農業面でも岡山平野一帯の機械化農業と果樹栽培の著しい展開がみられ、一方山陰沿岸の鳥取でも二十世紀ナシの栽培に改良が加えられ特産地を形成してきた。
[三浦 肇]
日本神話のなかにも登場するように、中国地方のなかでは、「出雲」は特色ある地方である。中央との交流の深かった山陽沿岸とは異なった言語(方言)、生業風俗、年中行事、民俗芸能などがみられる。伯耆(ほうき)地方も含めて出雲地方特有の方言は山陽諸県とは対照的で、むしろ東北日本に共通するもっとも古い日本語の要素を残しているといわれている。
出雲平野に散居する農家に巡らされた築地松(ついじまつ)はきちんと刈り込まれ、屋敷の西側と北側に並んで防風林の機能をもっている。茅葺(かやぶ)きの民家の大棟も両端が急角度に反り上がった特有の反り棟となり、出雲らしい風格ある景観である。近年は生活の変化に伴い、築地松の景観も減少してきた。島根半島や隠岐の海村では築地松にかわって母屋(おもや)の軒より高い竹垣を設けているものが見られる。民家の瓦(かわら)は出雲がほとんど旧来の黒瓦であるのに対して、石見(いわみ)に入ると雪に強い赤瓦(石見瓦)となり、中国山地から山口県西部内陸まで分布している。中国地方の民家の屋根型は一般に寄棟(よせむね)であるが、山陰では倉吉平野、山陽では福山平野以東では入母屋(いりもや)型が多くなる。これは畿内(きない)型民家の西漸を意味し、古民俗文化圏の境界を示すものと思われる。
古代から頻繁に大陸や北九州、畿内の文物の往来した瀬戸内海の沿岸には伝統的な古俗を伝えるものが多くみられた。とくに古代海人(あま)族の習俗を残す「家船(えぶね)」は現在では姿を消したが、近年まで家族が漁船をすみかとし、内海各地を漂泊しながら漁労し、妻女が漁獲物を売りに出かけ、かつてはカエコト(物々交換)も行われていた。その親村は広島県三原瀬戸の能地(のうじ)や吉和(よしわ)で、江戸時代以降各地に定着するようになり、沿岸に100にも及ぶ枝村ができた。早くから人口過剰であった内海の島々のなかには、広島県の田島や山口県の八島(やしま)、祝島(いわいしま)などのように九州五島(ごとう)有川方面まで鯨組舸子(くじらぐみかこ)として出稼ぎ、米を持ち帰ったり、山口県長島の白井田(しらいだ)のように塩田浜子や大坂淀(よど)川の舸子として、出稼ぎに出かけていた所もある。
屋敷の一隅に祀(まつ)られる屋敷神は地主(じぬし)神とも荒神(こうじん)ともよばれるが、これは鳥取県、島根県、山口県にかけて多く分布し、普通、本家の屋敷にある場合が多く、同族神を祀る古い信仰を伝えるものといわれている。なお山口県では土地開墾時に荒神を祀った例も多い。
埋め墓と詣(まい)り墓と二重に墓をつくる両墓制は、近畿、関東に濃密に分布する特色ある日本の墓制であるが、九州には皆無で、中国地方はその中間地帯にあるが、鳥取県と島根県東端部および岡山県がこの両墓制地方に含まれる。近年、広島県、山口県でもその例が知られるようになり、山口県周南(しゅうなん)市三丘(みつお)、柳井市平郡(へいぐん)島でこの風習のあったことがわかり、両墓制分布の最西端にあたるものとして注目される。
田植の季節になると、サンバイという田の神を祀る「囃し田(はやしだ)」や「大田植」「花田植」の行事が、東は島根県日野郡地方から西は山口県阿武(あぶ)郡地方にかけての中国山地の農山村に広く残っていたが、近年は少なくなった。その貴重な民俗を伝える広島県北広島町の花田植(国指定重要無形民俗文化財)や島根県浜田市三隅(みすみ)地区の黒沢囃し田などは、飾り牛や早乙女(さおとめ)たちによる華麗な行事として知られる。
盆踊りの行事は太鼓や笛の伴奏や口説(くどき)節にあわせた緩調のものが多いなかで、広島県三原市の「やっさ踊り」は阿波(あわ)踊りのような熱狂的なテンポに特色がある。一方、旧暦10月は神無月(かんなづき)というが、出雲のみは神在月(かみありづき)で、出雲大社ではお忌み祭が行われる。しかし、もともとは神魂(かもす)神社、朝酌下(あさくみしも)神社、佐太(さだ)神社など7社にも古く伝えられていたもので、出雲らしい祭事として注目される。
[三浦 肇]
中国地方の口承資料は、雑誌『郷土研究』(1913)に発表された島根の昔話を嚆矢(こうし)とする。鳥取県には早く『因伯(いんぱく)童話』『因伯昔話』があった。また岡山県からは『御津(みつ)郡昔話』、広島県からは『安芸国昔話集』がそれぞれ昭和初期に刊行されている。1931年(昭和6)に雑誌『旅と伝説』が昔話を求めた刺激を受けて、山口県下からも資料が残される機運が生じた。中国地方は、いったいに早くから研究者の目が向けられていたといえる。大勢として、昔話、伝説は山間地帯によく行われ、定着している。しかし、海村や島嶼(とうしょ)部では伝承分布は希薄である。瀬戸内笠岡(かさおか)諸島では「歌はおうたい話はおやめ、話は仕事のじゃまになる」といった。そこには労働の厳しい生活から話をはじき出す姿をみることができる。
岡山県阿哲(あてつ)地方には400話を語る媼(おうな)が、また鳥取県八頭(やず)地方にも200余話を伝承する媼がいたが、伝承者に共通するのは、話し上手であることである。総体的に、昔話は短略化され、筋立てにもあまりとらわれない自由さがある。じっくりと語り込むよりも、自由で軽妙洒脱(しゃだつ)、伸縮自在な話法を用いる。それは、中国地方の話者全体の特色としてもいいうる。先進的な話柄を絶えず取り込み、話者はそれに熟達しようとする姿勢が認められる。あたかも話芸をもっぱらにする咄家(はなしか)の芸にも通うものである。その気風は、この地に行われる彦八(ひこはち)話の隆昌(りゅうしょう)と無縁ではない。彦八話は、才智(さいち)、才覚をもって聞こえた彦八を主人公にした笑い話である。この笑い話は、この地方を席巻(せっけん)し、勢力圏、伝承分布は中国地方一帯とほぼ合致する注目すべき伝承である。また笑いを好む風土のうえに愚か話もよく行われる。広島の越原左衛門(おっぱらせえもん)、鳥取の佐治谷(さじだに)話、俣野(またの)話、岡山の星山話、湯船話、山口の杢路子(むくろうじ)話、山代話など一連の愚か村話が知られる。
[野村純一]
『『日本地理風俗大系 中国地方』(1960・誠文堂新光社)』▽『『図説日本文化地理大系 中国Ⅰ・Ⅱ』(1961、1962・小学館)』▽『『日本の地理 中国・四国編』(1961・岩波書店)』▽『『日本の文化地理 14・15』(1969・講談社)』▽『内藤正中著『山陰の風土と歴史』(1976・山川出版社)』▽『谷口澄夫・後藤陽一著『瀬戸内の風土と歴史』(1978・山川出版社)』▽『地方史研究協議会編『日本産業史大系 中国四国地方編』(1960・東京大学出版会)』▽『網野善彦ほか編『日本民俗文化大系 全14巻・別巻1』(1994・小学館)』▽『日本地誌研究所編『日本地誌16~17巻 中国地方』(1981・二宮書店)』▽『大明堂編集部編『新日本地誌ゼミナール6 中国・四国地方』(1987・大明堂)』
本州胴体部の中部日本から西へ半島状にのびる地方。東西約400km,南北の幅100km内外,面積は3万1922km2で全国総面積の8%,人口は約756万(2010)で全国の6%を占める。北側は日本海に面し,隠岐(おき)以外目だつ島はないが,南側の瀬戸内海には大小多数の島々が浮かび,対岸に四国の連山が並ぶ。日本最初の行政区画である五畿七道の中の山陰道と山陽道,すなわち山陰道に属する因幡,伯耆,出雲,石見,隠岐の5ヵ国,および山陽道の美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の7ヵ国を含む。
現在は鳥取,島根,岡山,広島,山口の5県からなる。一般的に中国山地を境として北側の鳥取,島根の2県と山口県北部を山陰地方,南側の岡山,広島の2県と山口県南部を山陽地方という。
→山陰地方 →山陽地方
地質構造からみると西南日本内帯に属し,古生層とその変成岩,中生代の花コウ岩類,流紋岩類が広い面積を占める。このほか,山陰側には第三紀層が多く,また大山(だいせん),三瓶(さんべ)山などの火山も点在する。第三紀末以降,基盤岩を浸食・削剝して平たん面が形成され,それらの遺物は現在,標高1000~1200mの中国山地や標高400~600mの吉備(きび),石見,周防の諸高原,さらに瀬戸内海沿岸の標高200m以下にゆるやかな山頂平たん面や山麓緩斜面となって残っている。山陰と山陽の分水界をなす中国山地はやや日本海寄りを東西に走るため,その北斜面を流下する千代(せんだい)川,天神川,日野川,斐伊(ひい)川,高津川の諸河川は短小かつ急こう配で,地形も険しい。例外は江の川で,上・中流域を中国山地の南側に有する。南斜面には津山,三次(みよし)などの内陸盆地があるが,その北縁部を除けば山地から高原への移行は漸移的である。高原上を南流する吉井川,旭川,高梁(たかはし)川(以上岡山県),芦田川,太田川(以上広島県),錦川(山口県)の各河川は高原南縁部を深く刻み込み,高原内部より険しい地形をつくっている。したがって,中国地方の自然地域として中国山地を境とする山陰,山陽の二分法とは別に,山陰と同義の日本海沿岸,山陽南半部の瀬戸内,および山陽北半部を含む広義の中国山地という三分法もよく用いられる。気候においても,冬季に曇天が続き積雪の多い日本海型と,年間を通じて降水量が少なく夏の暑さがきびしい瀬戸内型のほかに,冬は季節風の影響を受けて曇天と低温が続き夏の暑さも瀬戸内ほどではない中国内陸型の気候がある。
大規模な平野はないが,日本海沿岸には鳥取,倉吉,米子,出雲の諸平野が形成され,都市周辺に田園地帯がなお広く残っているが,瀬戸内沿岸の岡山,福山,広島の諸平野ではほぼ全域が都市化されている。
中国地方には広島県の帝釈(たいしやく)峡遺跡群をはじめ各地に旧石器時代からの遺跡があり,縄文~弥生時代の遺跡も瀬戸内・日本海沿岸に多数分布する。弥生~古墳時代に水稲農耕やたたらによる鉄器文化を基盤として成立していた吉備地方や出雲地方,また三次盆地周辺の有力豪族は,大和朝廷の全国統一の過程において無視できない政治勢力であった。大化改新以降,中国地方は大和朝廷のある畿内と,北九州,さらには大陸とを結ぶ回廊として山陽・山陰の両道,および瀬戸内海航路が整備され,東西交通が進展した。平安中期以降,内海一帯に平氏の勢威が及んだが,その滅亡後は関東の御家人が中国各地の守護・地頭に配された。戦国の群雄割拠の中で山陰の山内氏,防長の大内氏が有力であったが,やがて毛利氏が中国地方一帯を掌中に収め広島に拠った。関ヶ原の戦後,毛利氏は防長36万石に減らされ,中国地方は安芸広島の福島氏(のち浅野氏),備前岡山の池田氏,出雲松江の堀尾氏(のち松平氏),因幡鳥取の池田氏などに分割されて,明治の廃藩置県に至った。したがって,中国地方は東西の通過地帯として外来の文物にたえず接しはしたが,一度も政治中心とはなりえず,固有の文化圏を形成するまでに至らなかった。今日の陸上・海上交通体系においても山陽本線,山陰本線,国道2号,9号線,中国縦貫自動車道,阪神~九州間内海航路など東西交通に比べて,陰陽を結ぶ南北交通の不備が目だち,独自の経済圏や生活圏の形成を困難にしていた。しかし中国横断自動車道広島浜田線(広島自動車道,浜田自動車道),同岡山米子線(岡山自動車道,米子自動車道)が開通し,これに山陽自動車道の全通と西瀬戸自動車道(瀬戸内しまなみ海道)の開通を加えると,中国地方の高速交通体系の整備は格段と進捗したことになる。
中国地方の製造品出荷額は全国比7.2%(1994)であり,その9割を広島,岡山,島根の3県が占める。交通に恵まれない鳥取・島根両県には1960年代末まで工業の集積がほとんどみられなかった。明治以降,瀬戸内地域における近代工業は綿,塩,木造船など近世から続く在来産業を基盤として出発した。倉敷紡績を中心とする岡山県南部の紡績工場,呉軍港開設にともなう呉,広島,下関,因島(いんのしま),玉野などの造船所および関連機械工場,地元の塩を原料とする徳山のソーダ,石灰岩・石炭を近くに産する小野田,宇部のセメント工場などである。満州事変から第2次大戦終了に至る昭和前期は,工業が点から地区に,質的には重化学工業へと成長した時期である。前記諸都市は機械金属,石炭,石油化学,人絹などの業種を加えて拡大し,防府(ほうふ),光,徳山,岩国,大竹,三原,尾道,福山などに新たな工業地点が形成された。この時期には西の九州から原料を仕入れ,東の阪神や京浜に送り出す〈通過型〉工業が多く,原料や半製品を積んだ船が内海をはげしく往来した。
第2次大戦後,多くの工場は軍需から民需への転換に成功し,さらに1960年以後は石油化学,鉄鋼など大型臨海装置型工業の立地や自動車工業の急成長によって,瀬戸内地域は一つの工業地帯にまで発展した(瀬戸内工業地域)。新産業都市の岡山県南(水島),工業整備特別地域の備後(福山),周南(徳山)が,1966年の中海地区の新産業都市指定を契機に木材,食品加工業の集積が見られ,また豊富な労働力に吸引された電気機械工業の鳥取進出もあった。
ところが,1973年の石油ショック,85年の円高傾向の中で瀬戸内の重厚長大型産業は深刻な不況に陥る。しかも高速交通網整備(空港を含む)の遅れや工場適地の不足などから,軽薄短小型ハイテク企業の誘致に失敗し,産業構造の転換が遅れぎみであった。90年のバブル経済の崩壊はこれに拍車をかけ,製造品出荷額等の全国シェアは75年の8.4%をピークに低下傾向を示している。
鉱産資源は中国山地の砂鉄,石見の銀,宇部の炭田など古くから知られているが,ほとんどが閉山している。例外として,30~60%の高い全国シェアを示すロウ石,耐火煉瓦,石灰などがあり,それぞれ地場特産的な意味をもつ。
中国地方の農業は,稲作主体ながら種々雑多な作物の採用と零細規模の兼業農家によって特徴づけられる。高原状のゆるやかな地形が多いこの地方では,古くから谷の上流まで人が住みつき水田耕作や牧牛が行われていた。多くの人口を支えるため,藩政時代から商品作物の導入に積極的で,ワタ,アイ,サトウキビ,タバコなど,恵まれた気候を利用した労働集約型の作物を栽培していた。それらの多くは明治中期に輸入ものに押されて消滅したが,新たに瀬戸内海の島々にミカン,ジョチュウギク,岡山県南にブドウ,モモ,鳥取にナシなどが導入され,高原状の内陸地域では肉牛の飼育が盛んとなった。米は各市町村の農業粗収入の第1位を占めるが,農家は零細で兼業が9割をこえる。1960年以降は瀬戸内地域の工業化・都市化に影響されて農地の壊廃,労働力の不足をきたし,イグサ,ミカン,肉牛などが九州へ立地拡大し,今また貿易自由化の荒波をじかにかぶっている。減反政策への対応や交通網の整備により,従来の和牛に加えて乳牛,豚,鶏の飼育,高冷地のキャベツ,キュウリ,ピーマンなどのハウス栽培が急増し,野菜の特産地形成が中国山地の内部において急速に進んでいる。
執筆者:藤原 健蔵
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