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イギリスの哲学者。ロンドン郊外に生まれ、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジを卒業、のちに同大学教授。古典研究専攻ののちに哲学に関心を移し、ラッセル、ウィットゲンシュタインとともにケンブリッジ分析学派を代表する一人。
理論哲学では初期の論文『観念論論駁(ろんばく)』(1903)でバークリーやイギリス・ヘーゲル学派の観念論を批判して20世紀実在論の傾向を代表した。また『常識の擁護』(1925)などで、外界の実在や時間の存在を否定するイギリス・ヘーゲル学派の言説を批判して常識と日常命題を擁護し、日常言語学派の発展に影響を与えた。『倫理学原理』(1903)では善の概念を単純・非定義的な基本概念と考え、それを「快楽」とか「真の自己実現」のような事実的性質で定義することを「自然主義的誤謬(ごびゅう)」と名づけて伝統的倫理学の諸立場を批判し、道徳の自律性を主張した。倫理概念の基本性や定義をめぐるムーアの批判的考察は、彼以降、英米で盛んになる、倫理言語の広義の論理学としての「メタ倫理学」の嚆矢(こうし)となった。ただし、ムーアは、何が善であるかの決定は直覚によるとし、また「人間間の愛情」と「美的対象の享受」を善とする規範的主張を同書の結論とし、目的論的な耽美(たんび)的功利主義を提唱したが、これは義務論者やプラグマティストとの論争を生んだ。著書はほかに『倫理学』(1911)、『哲学研究』(1922)、『哲学の主要問題』(1953)などがある。
[杖下隆英 2015年7月21日]
『深谷昭三訳『倫理学』(1977/新装版・2011・法政大学出版局)』▽『深谷昭三訳『倫理学原理』新版(1977・三和書房)』
イギリスの彫刻家。ヨークシャーのカースルフォードに、坑夫の7人目の子として生まれる。初め同地の小学校の教師となったが、1917年、第一次世界大戦に一兵士として従軍、フランス戦線で毒ガスに冒され、本国に送還されたが、翌年再度従軍した。戦後リーズ美術学校からロンドンの王立美術学校に進み、ロンドン定住によって大英博物館を訪れる機会を得、古代オリエント彫刻やプリミティブな彫刻に初めて接して感銘を受け、ここを絶えず訪れることになる。この経験から彼の受けたものは終生続いた。「プリミティブ」ということばは「未開」を連想させて使いにくいが、「プリミティブ芸術」はそれなりに一つの完璧(かんぺき)な文明の所産だ、と彼はいう。価値の多元化した20世紀の文明における一つの重要な提起である。1933年、グループ「ユニット・ワン」の結成に参加、43~44年には聖マシュー寺院に聖母子像を制作し、以後いくつかの大作には群像がある。第二次大戦中、ロンドンの地下鉄の中で「防空壕(ごう)シリーズ」のデッサンを連作し、戦後も鉱山で働く地底の坑夫の姿を描き、対象と、それがそこにいる空間についての新しい造形観念を展開した。
ムーアの作品は多様だが、基本的には「有機的抽象」ともいえる作風で、素材も材料もすべての対象は生命をもっていて、本質的に手に負えぬ存在としてみている。彼が「じか彫り」を強調するのもそのためで、作者はまるで不在であるかのように遠くにいて、すぐには結論を出さない。いわば、結論は、素材のあり方と、見る者に預けるという、相互の親頼関係を樹立しようとする。またムーアには、一つの作品で、大きく切断された複数の部分から構成されているものもある。これらの多くは野外に置くことが強調されるが、それも「もの」と空間との関係についての彼の考え方をよく示しているといえよう。
[岡本謙次郎]
『J・ラッセル著、福田真一訳『ヘンリー・ムア』(1985・法政大学出版局)』
アメリカの社会学者。産業問題、社会変動論がおもな研究分野。ワシントン州に生まれる。リンフィールド大学、オレゴン大学を経てハーバード大学に進み、パーソンズ門下として機能主義社会学理論を学んで、1940年博士の学位を得た。ペンシルベニア州立大学の講師、助教授を経て、1943年プリンストン大学に移り、助教授を経て教授。初め人口問題に興味をもったが、しだいに産業化とそれの人間および社会への影響に関心を集中し、アメリカにおける産業社会学の確立に貢献した。そして、産業化現象を基盤として近代社会の構造と変動を巨視的にみる社会変動の理論の構築を目ざした。1964年ラッセル・セイジ財団に招聘(しょうへい)され、1966年にはアメリカ社会学会会長を務め、1970~1987年デンバー大学教授。主著は『産業関係と社会秩序』(1946)、『産業化と労働』(1951)、『社会変動』(1963)、『産業化の社会的影響』(1965)など。
[杉 政孝 2018年11月19日]
『松原洋三訳『社会変動』(1968・至誠堂)』▽『井関利明訳『産業化の社会的影響』(1971・慶応通信)』▽『T・ボットモア、R・ニスベット編、W・E・ムーア著、石川実訳『社会学的分析の歴史9 機能主義』(1986・アカデミア出版会)』
イギリスの伴奏ピアノ奏者。若いころ名歌手の独唱会を聞き、ピアノ伴奏の魅力に取りつかれてこの道に進んだ。ロンドンを中心に活躍、シャリアピン、ハンス・ホッター、シュワルツコップ、フィッシャー・ディースカウなど多くの名歌手の伴奏を受け持ち、1967年に引退。歌い手の持ち味を十全に生かし、20世紀最高の歌曲伴奏者といわれた。著書に『伴奏者の発言』(1943)、『歌手と伴奏者』(1953)などがある。
[岩井宏之]
『大島正泰訳『伴奏者の発言』(1959・音楽之友社)』▽『大島正泰訳『歌手と伴奏者』(1960・音楽之友社)』▽『萩原和子・本澤尚道訳『お耳ざわりですか――ある伴奏者の回想』(1980・音楽之友社)』
アメリカの女流詩人。セントルイスに生まれる。実験的な詩誌『アザーズ』(1915~1919)に属して、W・スティーブンズやW・C・ウィリアムズらと新しい客観主義的手法を開拓した。詩集『観察』(1924)によってT・S・エリオットに認められ、ダイアル賞を受け、1925年から1929年まで『ダイアル』誌編集者としてアメリカの前衛文学運動に寄与した。初期の有名な作品「詩」のなかで従来の叙情詩を否定して、「事務書類や教科書類」も詩から排除するのはよくない、と散文的伝統を強調した。『全詩集』(1951)でボーリンゲン賞、ピュリッツァー賞を受け、ほかに『ラ・フォンテーヌの寓話(ぐうわ)』(1954)の翻訳がある。
[新倉俊一]
『片桐ユズル訳『観察(抄)/選詩集(抄)』(『世界名詩集大成11 アメリカ』所収・1959・平凡社)』
アメリカの生化学者。イリノイ州シカゴで生まれる。父が法学部教授を務めたバンダービルト大学に入学、当初は航空工学を選択したが、のち化学に転じた。ついでウィスコンシン大学に学び、1938年に有機化学分野で学位を取得した。翌1939年ロックフェラー医学研究所(現、ロックフェラー大学)に入る。第二次世界大戦中は陸軍に所属したが、終戦後ロックフェラー医学研究所に戻り、1952年に教授となった。
同じ研究所のW・H・スタインとともにタンパク質の研究に取り組み、自動アミノ酸分析機を考案、ウシの膵臓(すいぞう)のリボヌクレアーゼのアミノ酸配列順序を完全に決定した。この業績によって、1972年に同僚のスタイン、アミノ酸配列と立体構造の関係について研究したアンフィンゼンとともにノーベル化学賞を受賞した。
[編集部]
イングランドのプロサッカー選手。ボビー・ムーアとよばれる。本名ロバート・フレデリック・チェルシー・ムーアRobert Frederick Chelsea Mooreでボビーはニックネーム。4月12日、ロンドンのバーキングに生まれる。イングランド代表として108試合に出場した。「生まれながらのキャプテン」といわれ、冷静沈着なセンターバックとして知られる。22歳にしてイングランド代表のキャプテンに任命され、4年後の1966年に地元で開催されたワールドカップで優勝、エリザベス女王からジュール・リメ杯を受ける栄誉に浴した。所属クラブでは、1964年にウェスト・ハムWest Ham(イングランド)初のビッグタイトルであるFAカップ優勝、さらに1965年にはヨーロッパ・カップウィナーズ・カップを制した。1993年2月24日、病没。
[西部謙司]
今日の計量経済学、実証的経済研究への先駆的貢献をしたアメリカの統計経済学者。メリーランド州に生まれる。1896年ジョンズ・ホプキンズ大学で学位を取得し、同大学講師、スミス大学教授を経て、1902~29年コロンビア大学教授。既存の経済理論を、データを用いて実証的に検証しようとする彼の一連の仕事のうち、『経済循環――その法則と原因』Economic Cycles : Their Law and Cause(1914、邦訳書名『経済循環期の統計的研究』)では、景気循環を、農産物の収穫量に関する周期性の観測を通して、降雨量の循環性と結び付けて説明し、さらに、農産物の需要関数に関する実証的研究をも行った。のちに、経済理論と実証分析との統合という彼の考え方は、『総合経済学』Synthetic Economics(1929)なる著書によって集大成された。
[高島 忠]
『蜷川虎三訳『経済循環期の統計的研究』(1926・大鐙閣)』
イギリスの小説家。アイルランド生まれ。青年時代パリに渡り、ゾラなどの文学者、モネなどの画家と親しく交わり、新しい大陸の芸術を肌で体験して帰国、フランス風の自然主義小説を根づかせようと努力した。その後にイェーツらとともにアイルランド文芸復興運動に参加したりしたが、晩年にはカトリックへの関心が強まり、宗教的な色合いの濃い小説を書いている。『役者の妻』(1885)、『エスター・ウォーターズ』(1894)のほか、自叙伝『ある若者の告白』(1888)などが代表作である。
[小池 滋]
イギリスの詩人、著述家。もっぱら古典神話に準拠した古風だが高雅な調子の文体をもつ詩集『葡萄(ぶどう)園丁ほかの詩』(1899)、『選詩集』(1934)などで知られるが、木版画家でもあり、またW・B・イェーツの詩集『塔』や『螺旋(らせん)階段』の表紙の装丁者としても著名。コレッジョ、デューラー、ブレイクに関する評論もある。イェーツとの『往復書簡集1901~37』(1953)も有名。
[富士川義之]
イギリスの彫刻家。ヨークシャーのキャッスルフォード生れ。第1次大戦従軍のため,20歳を過ぎてから美術学校へ入学したが,学校よりも大英博物館へ通って原始彫刻や未開彫刻の影響を大きく受けた。とくに関心を寄せたのはメキシコの先コロンブス期の石彫で,それがムーアの出発点となった。1929年トルテカのチャク・モール像の形態に示唆されて人体の横臥像に興味をもち,最初の《横たわる人体》を制作し,これが生涯のモティーフとなった。初期の作品は比較的再現性が強いが,ブランクーシの作品の単純な形からの影響,シュルレアリスムの〈オブジェ〉の思想の影響などによって,しだいに再現性を薄れさせ,30年代には完全に非再現的な構成的作品を生むに至り,イギリスの抽象美術運動の推進者の一人となった。しかし,第2次大戦では従軍美術家として多くの素描(《防空壕》シリーズなど)を描くとともに,人体の具象性への関心が再燃し,再び人体像が作られるようになった。そこにはオブジェ思想のこだまがみられるというべきか,人体のかたちと岩や木塊のかたちの共通性が示され,それによって人間の中にある自然性が強調されている。それはまた,岩や木に生命力を見いだすということでもあって,ストーンヘンジへの最近の関心はそれと無関係ではないだろう。穴とかくぼみを重視し,それによって従来の量感優先の彫刻観を大きく動かした功績も見逃せない。パリのユネスコ本部にある横臥像(1957)が有名。
執筆者:中原 佑介
アイルランドの詩人,小説家。メーヨー県ムーア・ホールに生まれる。国会議員を務めた地方名士の子。1873年パリに赴き,当時の前衛芸術家たち,マラルメをはじめとする象徴派詩人や印象派の画家たちの間で青春を過ごし,初めは《情熱の花》(1878)などの象徴派風の詩作にふけった。79年に帰国後は小説に転じ,転落した女の悲惨な生活を描いたゾラ風の小説《役者の妻》(1885),《エスター・ウォーターズ》(1894)などでイギリス自然主義の代表的作家となった。生涯反カトリックの姿勢を貫きながら,同時に,美貌のオペラ歌手が精神上の煩悶からついに修道院に入る《イーブリン・イネス》(1898)やその続編《尼僧テレサ》(1901)などの作品もあり,さらに1916年には,十字架上のキリストに材をとった《ケリス川》(1916)を著すなど,アイルランド出身者らしい宗教的関心も示している。一時アイルランド文芸復興にも関係した。パリ時代を扱った《若い男の告白》(1888)をはじめとして自伝的な作品も多く,これらはその中に見られる誇張や気取りも含めて世紀末の文学やアイルランド文芸復興の貴重な資料である。
執筆者:鈴木 建三
イギリスのピアニスト。1920年代半ばから伴奏ピアニストとして活動を始める。67年に引退するまでおよそ40年にわたってF.I.シャリアピン,H.ホッター,E.シュワルツコップ,V.デ・ロス・アンヘレス,D.フィッシャー・ディスカウらと組んでステージに上り,シューベルトからウォルフやR.シュトラウスに至るドイツ・ロマン派の歌曲,あるいはフォーレやドビュッシーの近代フランス歌曲にすぐれた解釈を示した。レコードも多い。また欧米各地で伴奏法についての講演を行い,著作も少なくない。
執筆者:後藤 暢子
アメリカの詩人。セント・ルイス生れ。名門女子大学ブリン・モアを出て,1925-29年ニューヨークで前衛的な文芸誌《ダイアル》の編集に携わる。以後,終生ニューヨークに住み,独身を通した。彼女の詩には,英語詩には珍しくことばを音節単位に細分するなど,流動的で,きわめて繊細な音の流れをもつエキセントリックなものが多い。日常の生活語を用い,一見散文のように見えるが,リズム,ことばの色彩,イメージの組合せから起こる機知などによって,高度の詩的緊張を生み出している。優雅だが,したたかな知性の裏づけもある。詩集には,《蟻喰》(1936),《それでもなお》(1944),《全詩集》(1951。ピュリッツァー賞受賞)などがある。またJ.deラ・フォンテーヌの英訳《ラ・フォンテーヌの寓話》(1954)も有名である。
執筆者:金関 寿夫
アイルランドの国民詩人。自由,愛,思い出をテーマに美しくもの悲しい旋律の抒情詩を書いた。故郷のポピュラーな民謡に歌詞をつけた《アイルランド歌曲集》10巻(1807-34)は有名で,なかに日本でも知られている哀愁の詩〈夏の最後のバラ〉(邦題〈庭の千草〉),〈しずかな夜〉〈タラの館に鳴りしハープ〉などがある。このほかエキゾティックな物語詩《ララ・ルーク》(1817)のロマンスや,《書簡詩とオード》(1806),《パリのファジ家》(1818)のような風刺詩に才能を発揮,伝記《バイロン》(1830)や翻訳《アナクレオンのオード》(1800)もすぐれている。
執筆者:松浦 暢
イギリスの哲学者。初めF.H.ブラッドリーの新ヘーゲル主義の影響を受けたが,やがて外的事物や時空をはじめとして常識で〈ある〉とされるものはみな存在すると考えるようになる。その考察は緻密・執拗で,認識,存在,倫理の諸原理を概念分析によってとらえようとするもので,その方法は日常言語分析の先駆とされる。ラッセルとともに感覚所与理論を提唱し,倫理学においては善を分析不能な単純なもので,自然的事物やその性質とは本質的に異なるものとしながらもその客観性を認め,それは一種の直観によってとらえられるとする。主著《倫理学原理》(1903)。
執筆者:中村 秀吉
イギリス,後期ビクトリア朝を代表する新古典主義の画家。肖像画家の父に手ほどきを受けたのち,生地ヨークのデザイン学校を経て,ローヤル・アカデミー・スクールに学ぶ。ラファエル前派の影響を受け,また,パルテノン彫刻,日本の版画に強い刺激を受けた。彼の興味は常に色彩を追求することにあり,テーマを古代ギリシア婦人に定め,その日常的なポーズの組合せをくりかえし描いた。
執筆者:湊 典子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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アメリカの生化学者.1935年バンダービルト大学卒業.1938年ウィスコンシン大学で学位を取得.その後,ロックフェラー医学研究所(現ロックフェラー大学)に入り,M. Bergmannの助手となる.第二次世界大戦中は化学戦部局などで国防研究に従事した後,研究所に戻り,W.H. Stein(スタイン)とともにタンパク質を構成するアミノ酸の分離定量の研究に携わった.1952年同研究所教授.Steinとともにイオン交換クロマトグラフィー法を開発し,リボヌクレアーゼの一次構造を決定した(1960年).酵素のアミノ酸配列をはじめて決定したこの業績で,1972年C.B. Anfinsen(アンフィンセン),Steinとともにノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
…16世紀後半にフィリピンを占領したスペイン人植民者によって命名された。スペイン人は8世紀にアフリカ北西部(ローマ時代のマウレタニア,現在のモロッコ,モーリタニア地方)からイベリア半島へ進出してきたアラブやベルベル人をモロ(ムーア人)と呼んだ。マウレタニアの住民を指すラテン語マウルスmaurusがその語源である。…
…作品の価値はそこに盛られた思想あるいはメッセージではなく形態と色彩の美にある,と主張する。イギリスの詩人スウィンバーンがA.J.ムーアの絵《アザレア》(1868)を〈この絵の意味は美そのものだ。存在するということだけが,この絵の存在理由だ〉と絶賛した言葉が,唯美主義を端的に示している。…
…〈感覚与件sense‐datum〉の語はアメリカの哲学者J.ロイスに由来し,いっさいの解釈や判断を排した瞬時的な直接経験を意味する。代表的な論者にはB.A.W.ラッセルおよびG.E.ムーアがおり,そのテーゼは事物に関する命題はすべて感覚与件に関する命題に還元可能である,と要約される。マッハに始まるこれら現代経験論の思想は,要素心理学や連合心理学の知見,およびそれらの基礎にある恒常仮定(刺激と感覚との間の1対1対応を主張する)とも合致するため,19世紀後半から20世紀初頭にかけて大きな影響力をもった。…
…分析哲学では,自体的善と手段としての善という伝統的な形式的区別を踏まえて,自体的善としての道徳的善は自然的な諸性質を表す語では定義できないことを明らかにする試みがなされた。その源流に位置するのが,道徳的善はある単純な定義できない性質だとするG.E.ムーアの主張である。デューイも,その形而上学的考察,特に人間の経験に関するその見解から,善についてのいっさいの経験に共通の性質としての究極的な自体的善の探究は失敗すべく運命づけられているという,分析哲学の場合と同様な結論に達した。…
…また,理論理性と実践理性を区別するとともに自然的傾向性からの道徳的当為法則の独立性を説いたカントに方法二元論を帰する見解もあるが,これには異論もある。方法二元論が明示的に提唱されるようになったのは大陸においては新カント学派,とくに西南ドイツ学派以降であり,英語圏においては20世紀初頭に〈自然主義的誤謬〉批判(倫理的言明を自然的事実言明に還元するのは論理的誤謬であるという批判)を展開したG.E.ムーア以降である。 また,大陸における方法二元論はラートブルフやケルゼンのような法哲学者の思考様式を規定する一方,19世紀末から20世紀初頭にかけての社会科学方法論争の焦点となったM.ウェーバーの没価値性テーゼの哲学的基礎をもなしている。…
…言語使用のあり方は人工言語学派の考えるように形式的に法則化できず,とくに使用の具体的条件に依存すると考えるからである。日常言語への定位は,存在や善の概念を分析したケンブリッジ大学のG.E.ムーアによって先鞭をつけられ,日常的言語使用のあり方は中期以降のウィトゲンシュタインの考察の中心となった。一方,オックスフォード大学のJ.L.オースティン,G.ライル,ストローソン等もやや独立に日常言語の分析から哲学的問題に接近した。…
…メンバーは,姉妹のそれぞれ夫になるクライブ・ベル,レナード・ウルフをはじめ,J.M.ケインズ,リットン・ストレーチー,ロジャー・フライ,E.M.フォースターらで,美術評論家,政治評論家,経済学者,小説家など多分野にわたっているが,いずれも同世代でケンブリッジのトリニティ,キングズ両学寮で学んだ。そして当時の哲学教師G.E.ムーアの《倫理学原理》(1903)の中の〈最も価値あることは人の交わりの喜び,美しいものを享受すること〉という文句に影響されていた。彼らの姿勢は既成のこわばった道徳観念の打破,柔軟な不敬の念,進歩・自由への信念,美への専心ということに集約される。…
…言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。 言語分析は20世紀の初頭,B.A.W.ラッセルとG.E.ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。…
…その中でわずかに注目されるのがフランスからやってきたゴーディエ・ブルゼスカHenri Gaudier‐Brzeska(1891‐1915)で,抽象的な作品により新境地を開いたが,24歳の若さで戦死した。1930年代になって,真の国際的名声と影響力をもったイギリス最初の彫刻家といえるH.ムーアとヘプワースBarbara Hepworth(1903‐75)が制作を開始する。共にヨークシャー出身で,しなやかな曲線でかたどられたその形態は,いわゆる生体的(バイオモーフィック),有機体的なふくらみやボリュームを見せる。…
※「ムーア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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