ムーア(英語表記)Moore, Gordon

デジタル大辞泉 「ムーア」の意味・読み・例文・類語

ムーア(Thomas Moore)

[1779~1852]アイルランドの詩人。独立運動に参加、国民詩人として名声を博した。「アイルランド歌謡集」、長詩「ララ‐ルーク」など。

ムーア(moor)

湿原のこと。
英国にみられる、ヒースの群生する荒れ地。

ムーア(George Edward Moore)

[1873~1958]英国の哲学者。分析哲学を提唱。新実在論を説き、倫理学上の善は直接的に自明な本有的価値であり、定義不可能とした。著「倫理学原理」など。

ムーア(Henry Moore)

[1898~1986]英国の彫刻家。生命感あふれる、有機的形態の抽象彫刻を制作。

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精選版 日本国語大辞典 「ムーア」の意味・読み・例文・類語

ムーア

  1. [ 一 ] ( George Edward Moore ジョージ=エドワード━ ) イギリスの倫理学者、哲学者。スペンサー、J=S=ミル、カントらの自然主義を批判し、善を単純で定義できない独自の性質とした。主著「倫理学原理」「倫理学」「哲学研究」「G=E=ムーアの哲学」。(一八七三‐一九五八
  2. [ 二 ] ( George Augustus Moore ジョージ=オーガスタス━ ) アイルランドの詩人、小説家。アイルランド文芸復興運動に参加。小説「役者の妻」「一青年の告白」など。(一八五二‐一九三三
  3. [ 三 ] ( Thomas Moore トマス━ ) アイルランドの詩人。抒情詩集「アイルランドの歌」、物語詩「ララ‐ルーク」など通俗的ではあるが、情感あふれる詩を書いた。(一七七九‐一八五二
  4. [ 四 ] ( Marianne Craig Moore メリアン=クレイグ━ ) アメリカの女流詩人。好んで動物を主題に選び、知性と機知に富んだ作品を書いた。代表作に「観察」など。(一八八七‐一九七二
  5. [ 五 ] ( Henry Moore ヘンリー━ ) イギリスの彫刻家。生命感あふれる単純な造形の抽象彫刻を制作。代表作に「横たわる像」など。(一八九八‐一九八六

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ムーア」の意味・わかりやすい解説

ムーア
Moore, Gordon

[生]1929.1.3. カリフォルニアサンフランシスコ
[没]2023.3.24. ハワイ,ワイメア
ゴードン・ムーア。アメリカ合衆国の科学者,技術者。フルネーム Gordon E. Moore。世界最大の半導体メーカー,インテルロバート・ノイスとともに設立した。
カリフォルニア大学バークリー校で化学を学んだにち,1954年カリフォルニア工科大学で化学と物理学の博士号を取得。卒業後,メリーランド州ローレルのジョンズ・ホプキンズ大学応用物理学研究所研究員となり,対空ミサイルに使われる固体ロケット推進薬の物理化学に取り組んだ。1956年,トランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞したウィリアム・B.ショクリー教授の誘いで,シリコンバレーパロアルトに開設されたショクリー半導体研究所に加わり,シリコンをベースとしたトランジスタの研究を行なった。同僚ら 8人で 1957年に独立し,サンタクララにフェアチャイルドセミコンダクタを設立。ノイスとともに集積回路 ICの開発に成功した。シリコンウェハーの開発・製造に限界を感じたムーアは 1968年,ノイスとともにフェアチャイルドを離れ,サンタクララにインテルを設立。1968~75年副社長,1975~79年社長,1975~87年最高経営責任者 CEO,1979~97年取締役会長。インテルはコンピュータの情報を処理するマイクロプロセッサの開発・生産で急成長し,世界最大手の半導体メーカーとなった。1965年に "Electronics"誌で,半導体の処理能力(集積度)は 1年で倍増すると予測した(1975年には 2年で倍増と修正)。この指摘は「ムーアの法則」として知られ,実際に 1961年からの 40年間で 1年半ごとに倍増してきたことが立証されている。1990年ナショナル・メダル・オブ・テクノロジー受章。1993~2000年カリフォルニア工科大学理事長。

ムーア
Moore, Henry

[生]1898.7.30. ヨークシャー,カッスルフォード
[没]1986.8.31. ハーフォードシャー,マッチハダム
イギリスの彫刻家。炭鉱労働者の子として生れ,第1次世界大戦に従軍し,退役後彫刻家を志し,1919~21年リーズ美術学校,21~24年ロンドンのロイヤル・アカデミーに学ぶ。この間,大英博物館の原始彫刻,古代彫刻に強い影響を受けた。 29年メキシコの雨の神チャック・モールに示唆を受けて最初の『横たわる人』を制作,これは以来ムーアの重要なモチーフとなった。 25年奨学金を得てフランス,イタリアに遊学。 25~32年ロイヤル・アカデミー講師。 28年ロンドンで最初の個展。 32~39年チェルシー美術学校講師。 1930年代ハンプステッドに住み,B.ニコルソン,B.ヘップワース,リードらの前衛芸術家と交わり,作品の抽象化が進んだ。 40年ロンドン郊外のマッチハダムに移住。第2次世界大戦中,従軍芸術家としてロンドンの地下鉄での市民の避難風景を描き,再び具象性を回復し岩や木の根を思わせる人体像を制作。戦後各地の国際展で受賞し,大規模な回顧展も開催され世界的名声を得た。モニュメンタルな構築性となめらかな起伏を伴う有機的輪郭線が特色である。主要作品『北風』 (1928,ロンドン地下鉄本部) ,『聖母子』 (43~44,ノッティンガム,セント・マシュー聖堂) 。

ムーア
Moore, Grace

[生]1898.12.5. アメリカ合衆国,テネシー,スラブタウン
[没]1947.1.26. デンマーク,コペンハーゲン
アメリカ合衆国のオペラ歌手,女優。フルネーム Mary Willie Grace Moore。オペラ界と映画界で人気を博し,批評家にも高く評価された。メリーランド州チェビーチェイスの音楽学校に在学中の 1919年,ワシントンD.C.のナショナル・シアターで開かれたリサイタルに出演し,初めて公の場で歌声を披露。その後,学校を中退してニューヨークに移り住み,ナイトクラブで歌手として働きながらレッスンを受けた。1920年にブロードウェーでデビューしたのち,オペラの修業を積むためフランスに渡る。1927年ニューヨークのメトロポリタン歌劇場の所属歌手となった。1930年ハリウッドに進出し,『恋の一夜』One Night of Love(1934)で主役に抜擢。フルオーケストラを従えたオペラの収録という先駆的な試みにより大ヒットを記録した。他の出演作に『陽気な姫君』The King Steps Out(1936),『間奏楽』When You're in Love(1937)などがある。1947年,コペンハーゲンで行なわれた公演の帰路に飛行機事故で死亡した。

ムーア
Moore, George Edward

[生]1873.11.4. ロンドン
[没]1958.10.24. ケンブリッジ
イギリスの哲学者。ケンブリッジ大学教授 (1925~39) として,また哲学雑誌『マインド』の編集主幹 (21~47) としてイギリス哲学界における主導的役割を果した。 1903年『倫理学原理』 Principia Ethicaおよび『観念論の論駁』 The Refutation of Idealismを発表,この2作は当時のイギリス哲学界に流行していたヘーゲル主義的,カント主義的観念論を批判したもので,新実在論と呼ばれるムーア自身の哲学の出発点であった。彼は体系的哲学を否定し,言語分析あるいは論理分析により哲学上の諸問題に光を当てて,さらに新しい問題を発見してゆくという分析的方法を主張した。主著『哲学研究』 Philosophical Studies (22) ,『常識の擁護』A Defense of Common Sense (25) ,『哲学の主要問題』 Some Main Problems of Philosophy (53) など。

ムーア
Moore, Marianne Craig

[生]1887.11.15. セントルイス
[没]1972.2.5. ニューヨーク
アメリカの女流詩人。ブリン・モー・カレッジ卒業後,教職についたりしながら,『詩集』 Poems (1921) ,『観察』 Observations (24) を発表。 1925~29年文芸誌『ダイアル』の編集にたずさわり,29年以後ニューヨークに移って文筆活動に専念し,多くの詩集を出した。なかでも『詩選集』 Selected Poems (35) と『全詩集』 Collected Poems (51) には T.S.エリオットが序文を寄せ,後者はピュリッツァー賞をはじめ文学賞を独占した。知性と機知とで対象を的確にとらえる詩風で,客観主義の詩人といわれる。ほかにラ・フォンテーヌの『寓話詩』の韻文訳"The Fables of La Fontaine" (54) ,評論集『偏愛』 Predilections (55) などがあり,68年にはその後の作品を含む『全詩集』 Complete Poemsが出た。

ムーア
Moore, Henry Ludwell

[生]1869
[没]1958
アメリカの経済学者。ジョーンズ・ホプキンズ大学で学位を取得し,1896年同大学講師,スミス・カレッジを経て 1902年コロンビア大学教授。計量経済学の先駆者の一人であり,賃金論や景気変動論でもすぐれた貢献をし,部分均衡理論に基づく個別的需要関数の統計的導出を初めて行なった。しかし彼を著名にしたのは主著『総合経済学』 Synthetic Economics (1929) で,従来の経済学が概して経済変数間の関数関係を抽象的解明にとどめていたのに対し,関数関係を統計的実証的に計測し,理論と実証との結合による総合的な経済学の確立を目指した点で世界の経済界に大きな影響を与えた。ほかに"Law of Wages" (11) ,『経済循環期の統計的研究』 Economic Cycles: Their Law and Cause (14) ,"Forecasting the Yield and Price of Cotton" (17) などがある。

ムーア
Moore, Charles Willard

[生]1925.10.31. ミシガン,ベントンハーバー
[没]1993.12.16. テキサス,オースティン
アメリカの建築家。 1947年ミシガン大学を卒業後,プリンストン大学大学院で建築を学んだ。エール大学建築学部長を務めるなど,アメリカの多くの大学で教鞭をとる。 1962年に北カリフォルニアに週末共同住宅シーランチを設計。 24フィートを基本とする立方体群に片流れの屋根をかけた 10戸の住宅が中庭を取囲む緊密な形態で一躍注目を集めた。その後は R.ベンチューリとともにポスト・モダン建築の主導者として活躍。代表作に各種の歴史的モチーフをふんだんに引用したイタリア広場 (1978,ニューオーリンズ) の設計がある。 1991年,アメリカ建築家協会賞受賞。

ムーア
Moore, George (Augustus)

[生]1852.2.24. メーヨー,バリグラス
[没]1933.1.21. ロンドン
アイルランドの小説家。父は国会議員。パリで文学者や画家のグループと交わり,フランス自然主義文学,特にゾラの影響を受けた小説をもってロンドンの文壇に登場。その後しばらく故国に定住,イェーツ,グレゴリー夫人らに協力してアイルランド文芸復興運動に参加したが,晩年はロンドンに戻った。代表作は『旅役者の妻』A Mummer's Wife (1885) ,『エスター・ウォーターズ』 Esther Waters (94) など。ほかに『一青年の告白』 Confessions of a Young Man (88) ,『わが死せる生活の回想』 Memoirs of My Dead Life (1906) などの一連の自伝や歴史小説がある。

ムーア
Moore, Thomas

[生]1779.5.28. ダブリン
[没]1852.2.25. ウィルトシャー,デバイジス
アイルランドの詩人。アイルランド古謡の調べに合せて作詞した抒情詩集『アイルランド歌曲集』 Irish Melodies (1807~35) によって,アイルランドの国民詩人と称された。ほかに東洋的な物語詩『ララ・ルーク』 Lalla Rookh (17) ,摂政の宮に対する風刺詩『2ペンスの郵便行嚢』 The Twopenny Post-Bag (13) ,愉快な書簡詩『パリのファッジ家』 The Fudge Family in Paris (18) などがある。またシェリダン,バイロンの伝記を書いた。

ムーア
Moore, Gerald

[生]1899.7.30. ウォトフォード
[没]1987.3.13. バッキンガムシャー
イギリスのピアニスト。現代最高の伴奏ピアニストとして世界的に知られた。特にディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ,エリザベス・シュワルツコフの伴奏者として知られ,従来の伴奏の域をこえた音楽をつくりだした。一方室内楽奏者としても知られた。1967年引退。著書に『伴奏者の発言』The Unashamed Accompanistなどがある。

ムーア
Moore, Sir John

[生]1761.11.13. グラスゴー
[没]1809.1.16. コルニア
イギリスの軍人。アメリカ独立戦争に参加したのち,一時下院議員をつとめた。 1796年西インド諸島,97~99年アイルランドで軍務につく。 1801年 R.アバークロンビー指揮下のエジプト遠征に参加。 08年イベリア半島に任地が移り,同地区のイギリス軍司令官に昇進したが,当地のフランス軍優勢のため,アストルガからコルニアまで退却し,コルニアでフランス軍と戦ったが,イギリス軍の勝利を目前にして戦死した。

ムーア
Moore, Stanford

[生]1913.9.4. シカゴ
[没]1982.8.23. ニューヨーク
アメリカの生化学者。 1938年ウィスコンシン大学で学位取得。ロックフェラー研究所医学部門研究員 (1939) ,ロックフェラー大学教授 (52) 。各種蛋白質から得られるアミノ酸,ペプチド類のクロマトグラフィーによる分析,特にリボヌクレアーゼの構造決定で知られる。 72年 C.B.アンフィンセン,W.H.スタインとともにノーベル化学賞を受賞した。

ムーア
Moore, Edward

[生]1712
[没]1757
イギリスの劇作家。喜劇『ジル・ブラス』 Gil Blass (1751) ,悲劇『ばくち打ち』 Gamester (53) の作者。いずれもドルアリー・レーン劇場で上演された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ムーア」の意味・わかりやすい解説

ムーア(George Edward Moore)
むーあ
George Edward Moore
(1873―1958)

イギリスの哲学者。ロンドン郊外に生まれ、ケンブリッジ大学トリニティー・カレッジを卒業、のちに同大学教授。古典研究専攻ののちに哲学に関心を移し、ラッセル、ウィットゲンシュタインとともにケンブリッジ分析学派を代表する一人。

 理論哲学では初期の論文『観念論論駁(ろんばく)』(1903)でバークリーやイギリス・ヘーゲル学派の観念論を批判して20世紀実在論の傾向を代表した。また『常識の擁護』(1925)などで、外界の実在や時間の存在を否定するイギリス・ヘーゲル学派の言説を批判して常識と日常命題を擁護し、日常言語学派の発展に影響を与えた。『倫理学原理』(1903)では善の概念を単純・非定義的な基本概念と考え、それを「快楽」とか「真の自己実現」のような事実的性質で定義することを「自然主義的誤謬(ごびゅう)」と名づけて伝統的倫理学の諸立場を批判し、道徳の自律性を主張した。倫理概念の基本性や定義をめぐるムーアの批判的考察は、彼以降、英米で盛んになる、倫理言語の広義の論理学としての「メタ倫理学」の嚆矢(こうし)となった。ただし、ムーアは、何が善であるかの決定は直覚によるとし、また「人間間の愛情」と「美的対象の享受」を善とする規範的主張を同書の結論とし、目的論的な耽美(たんび)的功利主義を提唱したが、これは義務論者やプラグマティストとの論争を生んだ。著書はほかに『倫理学』(1911)、『哲学研究』(1922)、『哲学の主要問題』(1953)などがある。

[杖下隆英 2015年7月21日]

『深谷昭三訳『倫理学』(1977/新装版・2011・法政大学出版局)』『深谷昭三訳『倫理学原理』新版(1977・三和書房)』


ムーア(Henry Moore、彫刻家)
むーあ
Henry Moore
(1898―1986)

イギリスの彫刻家。ヨークシャーのカースルフォードに、坑夫の7人目の子として生まれる。初め同地の小学校の教師となったが、1917年、第一次世界大戦に一兵士として従軍、フランス戦線で毒ガスに冒され、本国に送還されたが、翌年再度従軍した。戦後リーズ美術学校からロンドンの王立美術学校に進み、ロンドン定住によって大英博物館を訪れる機会を得、古代オリエント彫刻やプリミティブな彫刻に初めて接して感銘を受け、ここを絶えず訪れることになる。この経験から彼の受けたものは終生続いた。「プリミティブ」ということばは「未開」を連想させて使いにくいが、「プリミティブ芸術」はそれなりに一つの完璧(かんぺき)な文明の所産だ、と彼はいう。価値の多元化した20世紀の文明における一つの重要な提起である。1933年、グループ「ユニット・ワン」の結成に参加、43~44年には聖マシュー寺院に聖母子像を制作し、以後いくつかの大作には群像がある。第二次大戦中、ロンドンの地下鉄の中で「防空壕(ごう)シリーズ」のデッサンを連作し、戦後も鉱山で働く地底の坑夫の姿を描き、対象と、それがそこにいる空間についての新しい造形観念を展開した。

 ムーアの作品は多様だが、基本的には「有機的抽象」ともいえる作風で、素材も材料もすべての対象は生命をもっていて、本質的に手に負えぬ存在としてみている。彼が「じか彫り」を強調するのもそのためで、作者はまるで不在であるかのように遠くにいて、すぐには結論を出さない。いわば、結論は、素材のあり方と、見る者に預けるという、相互の親頼関係を樹立しようとする。またムーアには、一つの作品で、大きく切断された複数の部分から構成されているものもある。これらの多くは野外に置くことが強調されるが、それも「もの」と空間との関係についての彼の考え方をよく示しているといえよう。

[岡本謙次郎]

『J・ラッセル著、福田真一訳『ヘンリー・ムア』(1985・法政大学出版局)』


ムーア(Wilbert Ellis Moore)
むーあ
Wilbert Ellis Moore
(1914―1987)

アメリカの社会学者。産業問題、社会変動論がおもな研究分野。ワシントン州に生まれる。リンフィールド大学、オレゴン大学を経てハーバード大学に進み、パーソンズ門下として機能主義社会学理論を学んで、1940年博士の学位を得た。ペンシルベニア州立大学の講師、助教授を経て、1943年プリンストン大学に移り、助教授を経て教授。初め人口問題に興味をもったが、しだいに産業化とそれの人間および社会への影響に関心を集中し、アメリカにおける産業社会学の確立に貢献した。そして、産業化現象を基盤として近代社会の構造と変動を巨視的にみる社会変動の理論の構築を目ざした。1964年ラッセル・セイジ財団に招聘(しょうへい)され、1966年にはアメリカ社会学会会長を務め、1970~1987年デンバー大学教授。主著は『産業関係と社会秩序』(1946)、『産業化と労働』(1951)、『社会変動』(1963)、『産業化の社会的影響』(1965)など。

[杉 政孝 2018年11月19日]

『松原洋三訳『社会変動』(1968・至誠堂)』『井関利明訳『産業化の社会的影響』(1971・慶応通信)』『T・ボットモア、R・ニスベット編、W・E・ムーア著、石川実訳『社会学的分析の歴史9 機能主義』(1986・アカデミア出版会)』


ムーア(Gerald Moore)
むーあ
Gerald Moore
(1899―1987)

イギリスの伴奏ピアノ奏者。若いころ名歌手の独唱会を聞き、ピアノ伴奏の魅力に取りつかれてこの道に進んだ。ロンドンを中心に活躍、シャリアピン、ハンス・ホッター、シュワルツコップフィッシャー・ディースカウなど多くの名歌手の伴奏を受け持ち、1967年に引退。歌い手の持ち味を十全に生かし、20世紀最高の歌曲伴奏者といわれた。著書に『伴奏者の発言』(1943)、『歌手と伴奏者』(1953)などがある。

[岩井宏之]

『大島正泰訳『伴奏者の発言』(1959・音楽之友社)』『大島正泰訳『歌手と伴奏者』(1960・音楽之友社)』『萩原和子・本澤尚道訳『お耳ざわりですか――ある伴奏者の回想』(1980・音楽之友社)』


ムーア(Marianne Craig Moore)
むーあ
Marianne Craig Moore
(1887―1972)

アメリカの女流詩人。セントルイスに生まれる。実験的な詩誌『アザーズ』(1915~1919)に属して、W・スティーブンズやW・C・ウィリアムズらと新しい客観主義的手法を開拓した。詩集『観察』(1924)によってT・S・エリオットに認められ、ダイアル賞を受け、1925年から1929年まで『ダイアル』誌編集者としてアメリカの前衛文学運動に寄与した。初期の有名な作品「詩」のなかで従来の叙情詩を否定して、「事務書類や教科書類」も詩から排除するのはよくない、と散文的伝統を強調した。『全詩集』(1951)でボーリンゲン賞、ピュリッツァー賞を受け、ほかに『ラ・フォンテーヌの寓話(ぐうわ)』(1954)の翻訳がある。

[新倉俊一]

『片桐ユズル訳『観察(抄)/選詩集(抄)』(『世界名詩集大成11 アメリカ』所収・1959・平凡社)』


ムーア(Stanford Moore)
むーあ
Stanford Moore
(1913―1982)

アメリカの生化学者。イリノイ州シカゴで生まれる。父が法学部教授を務めたバンダービルト大学に入学、当初は航空工学を選択したが、のち化学に転じた。ついでウィスコンシン大学に学び、1938年に有機化学分野で学位を取得した。翌1939年ロックフェラー医学研究所(現、ロックフェラー大学)に入る。第二次世界大戦中は陸軍に所属したが、終戦後ロックフェラー医学研究所に戻り、1952年に教授となった。

 同じ研究所のW・H・スタインとともにタンパク質の研究に取り組み、自動アミノ酸分析機を考案、ウシの膵臓(すいぞう)のリボヌクレアーゼのアミノ酸配列順序を完全に決定した。この業績によって、1972年に同僚のスタイン、アミノ酸配列と立体構造の関係について研究したアンフィンゼンとともにノーベル化学賞を受賞した。

[編集部]


ムーア(Bobby Moore)
むーあ
Bobby Moore
(1941―1993)

イングランドのプロサッカー選手。ボビー・ムーアとよばれる。本名ロバート・フレデリック・チェルシー・ムーアRobert Frederick Chelsea Mooreでボビーはニックネーム。4月12日、ロンドンのバーキングに生まれる。イングランド代表として108試合に出場した。「生まれながらのキャプテン」といわれ、冷静沈着なセンターバックとして知られる。22歳にしてイングランド代表のキャプテンに任命され、4年後の1966年に地元で開催されたワールドカップで優勝、エリザベス女王からジュール・リメ杯を受ける栄誉に浴した。所属クラブでは、1964年にウェスト・ハムWest Ham(イングランド)初のビッグタイトルであるFAカップ優勝、さらに1965年にはヨーロッパ・カップウィナーズ・カップを制した。1993年2月24日、病没。

[西部謙司]


ムーア(Henry Ludwell Moore、統計経済学者)
むーあ
Henry Ludwell Moore
(1869―1958)

今日の計量経済学、実証的経済研究への先駆的貢献をしたアメリカの統計経済学者。メリーランド州に生まれる。1896年ジョンズ・ホプキンズ大学で学位を取得し、同大学講師、スミス大学教授を経て、1902~29年コロンビア大学教授。既存の経済理論を、データを用いて実証的に検証しようとする彼の一連の仕事のうち、『経済循環――その法則と原因』Economic Cycles : Their Law and Cause(1914、邦訳書名『経済循環期の統計的研究』)では、景気循環を、農産物の収穫量に関する周期性の観測を通して、降雨量の循環性と結び付けて説明し、さらに、農産物の需要関数に関する実証的研究をも行った。のちに、経済理論と実証分析との統合という彼の考え方は、『総合経済学』Synthetic Economics(1929)なる著書によって集大成された。

[高島 忠]

『蜷川虎三訳『経済循環期の統計的研究』(1926・大鐙閣)』


ムーア(George Augustus Moore)
むーあ
George Augustus Moore
(1852―1933)

イギリスの小説家。アイルランド生まれ。青年時代パリに渡り、ゾラなどの文学者、モネなどの画家と親しく交わり、新しい大陸の芸術を肌で体験して帰国、フランス風の自然主義小説を根づかせようと努力した。その後にイェーツらとともにアイルランド文芸復興運動に参加したりしたが、晩年にはカトリックへの関心が強まり、宗教的な色合いの濃い小説を書いている。『役者の妻』(1885)、『エスター・ウォーターズ』(1894)のほか、自叙伝『ある若者の告白』(1888)などが代表作である。

[小池 滋]


ムーア(Thomas Sturge Moore)
むーあ
Thomas Sturge Moore
(1870―1944)

イギリスの詩人、著述家。もっぱら古典神話に準拠した古風だが高雅な調子の文体をもつ詩集『葡萄(ぶどう)園丁ほかの詩』(1899)、『選詩集』(1934)などで知られるが、木版画家でもあり、またW・B・イェーツの詩集『塔』や『螺旋(らせん)階段』の表紙の装丁者としても著名。コレッジョ、デューラー、ブレイクに関する評論もある。イェーツとの『往復書簡集1901~37』(1953)も有名。

[富士川義之]

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改訂新版 世界大百科事典 「ムーア」の意味・わかりやすい解説

ムーア
Henry Moore
生没年:1898-1986

イギリスの彫刻家。ヨークシャーのキャッスルフォード生れ。第1次大戦従軍のため,20歳を過ぎてから美術学校へ入学したが,学校よりも大英博物館へ通って原始彫刻や未開彫刻の影響を大きく受けた。とくに関心を寄せたのはメキシコの先コロンブス期の石彫で,それがムーアの出発点となった。1929年トルテカのチャク・モール像の形態に示唆されて人体の横臥像に興味をもち,最初の《横たわる人体》を制作し,これが生涯のモティーフとなった。初期の作品は比較的再現性が強いが,ブランクーシの作品の単純な形からの影響,シュルレアリスムの〈オブジェ〉の思想の影響などによって,しだいに再現性を薄れさせ,30年代には完全に非再現的な構成的作品を生むに至り,イギリスの抽象美術運動の推進者の一人となった。しかし,第2次大戦では従軍美術家として多くの素描(《防空壕》シリーズなど)を描くとともに,人体の具象性への関心が再燃し,再び人体像が作られるようになった。そこにはオブジェ思想のこだまがみられるというべきか,人体のかたちと岩や木塊のかたちの共通性が示され,それによって人間の中にある自然性が強調されている。それはまた,岩や木に生命力を見いだすということでもあって,ストーンヘンジへの最近の関心はそれと無関係ではないだろう。穴とかくぼみを重視し,それによって従来の量感優先の彫刻観を大きく動かした功績も見逃せない。パリのユネスコ本部にある横臥像(1957)が有名。
執筆者:


ムーア
George Augustus Moore
生没年:1852-1933

アイルランドの詩人,小説家。メーヨー県ムーア・ホールに生まれる。国会議員を務めた地方名士の子。1873年パリに赴き,当時の前衛芸術家たち,マラルメをはじめとする象徴派詩人や印象派の画家たちの間で青春を過ごし,初めは《情熱の花》(1878)などの象徴派風の詩作にふけった。79年に帰国後は小説に転じ,転落した女の悲惨な生活を描いたゾラ風の小説《役者の妻》(1885),《エスター・ウォーターズ》(1894)などでイギリス自然主義の代表的作家となった。生涯反カトリックの姿勢を貫きながら,同時に,美貌のオペラ歌手が精神上の煩悶からついに修道院に入る《イーブリン・イネス》(1898)やその続編《尼僧テレサ》(1901)などの作品もあり,さらに1916年には,十字架上のキリストに材をとった《ケリス川》(1916)を著すなど,アイルランド出身者らしい宗教的関心も示している。一時アイルランド文芸復興にも関係した。パリ時代を扱った《若い男の告白》(1888)をはじめとして自伝的な作品も多く,これらはその中に見られる誇張や気取りも含めて世紀末の文学やアイルランド文芸復興の貴重な資料である。
執筆者:


ムーア
Gerald Moore
生没年:1899-1987

イギリスのピアニスト。1920年代半ばから伴奏ピアニストとして活動を始める。67年に引退するまでおよそ40年にわたってF.I.シャリアピンH.ホッターE.シュワルツコップV.デ・ロス・アンヘレスD.フィッシャー・ディスカウらと組んでステージに上り,シューベルトからウォルフやR.シュトラウスに至るドイツ・ロマン派の歌曲,あるいはフォーレやドビュッシーの近代フランス歌曲にすぐれた解釈を示した。レコードも多い。また欧米各地で伴奏法についての講演を行い,著作も少なくない。
執筆者:


ムーア
Marianne Moore
生没年:1887-1972

アメリカの詩人。セント・ルイス生れ。名門女子大学ブリン・モアを出て,1925-29年ニューヨークで前衛的な文芸誌《ダイアル》の編集に携わる。以後,終生ニューヨークに住み,独身を通した。彼女の詩には,英語詩には珍しくことばを音節単位に細分するなど,流動的で,きわめて繊細な音の流れをもつエキセントリックなものが多い。日常の生活語を用い,一見散文のように見えるが,リズム,ことばの色彩,イメージの組合せから起こる機知などによって,高度の詩的緊張を生み出している。優雅だが,したたかな知性の裏づけもある。詩集には,《蟻喰》(1936),《それでもなお》(1944),《全詩集》(1951。ピュリッツァー賞受賞)などがある。またJ.deラ・フォンテーヌの英訳《ラ・フォンテーヌの寓話》(1954)も有名である。
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ムーア
Thomas Moore
生没年:1779-1852

アイルランドの国民詩人。自由,愛,思い出をテーマに美しくもの悲しい旋律の抒情詩を書いた。故郷のポピュラーな民謡に歌詞をつけた《アイルランド歌曲集》10巻(1807-34)は有名で,なかに日本でも知られている哀愁の詩〈夏の最後のバラ〉(邦題〈庭の千草〉),〈しずかな夜〉〈タラの館に鳴りしハープ〉などがある。このほかエキゾティックな物語詩《ララ・ルーク》(1817)のロマンスや,《書簡詩とオード》(1806),《パリのファジ家》(1818)のような風刺詩に才能を発揮,伝記《バイロン》(1830)や翻訳《アナクレオンのオード》(1800)もすぐれている。
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ムーア
George Edward Moore
生没年:1873-1958

イギリスの哲学者。初めF.H.ブラッドリーの新ヘーゲル主義の影響を受けたが,やがて外的事物や時空をはじめとして常識で〈ある〉とされるものはみな存在すると考えるようになる。その考察は緻密・執拗で,認識,存在,倫理の諸原理を概念分析によってとらえようとするもので,その方法は日常言語分析の先駆とされる。ラッセルとともに感覚所与理論を提唱し,倫理学においては善を分析不能な単純なもので,自然的事物やその性質とは本質的に異なるものとしながらもその客観性を認め,それは一種の直観によってとらえられるとする。主著《倫理学原理》(1903)。
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ムーア
Albert Joseph Moore
生没年:1841-93

イギリス,後期ビクトリア朝を代表する新古典主義の画家。肖像画家の父に手ほどきを受けたのち,生地ヨークのデザイン学校を経て,ローヤル・アカデミー・スクールに学ぶ。ラファエル前派の影響を受け,また,パルテノン彫刻,日本の版画に強い刺激を受けた。彼の興味は常に色彩を追求することにあり,テーマを古代ギリシア婦人に定め,その日常的なポーズの組合せをくりかえし描いた。
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百科事典マイペディア 「ムーア」の意味・わかりやすい解説

ムーア

英国の彫刻家。ヨークシャーに坑夫の子として生まれる。奨学金を得て美術学校に進むが,学校よりも大英博物館で見たメキシコの先コロンブス期の石彫をはじめとする原始彫刻や未開彫刻に関心を持つ。1929年には《横たわる人体》を制作,横臥像は生涯のモティーフになった。その後ブランクーシシュルレアリスムの影響を受け,抽象的な作品を手がける。第2次大戦後は再び人体像を制作した。海辺の小石など自然の形態に学んだ,有機的なフォルムのうちにヒューマンな情感をたたえた造形と穴やくぼみを重視した空虚空間の強い効果で知られる。
→関連項目アーミティジカロクラークチャドウィック彫刻の森美術館ヘップワースユネスコ(UNESCO)

ムーア

アイルランドの詩人,小説家。青年期パリで絵を学ぶ。《エスター・ウォーターズ》(1894年)などのフランス自然主義の影響を受けた小説や自伝的小説《若い男の告白》を書く。1901年―1910年アイルランドで文芸復興運動に加わる。宗教的小説《ケリス川》(1916年)のほか,詩,戯曲もある。

ムーア

英国の哲学者。ケンブリッジ大学教授。1903年《マインド》誌上に〈観念論論駁〉を発表,T.H.グリーン,ブラッドリー,ボーザンケトらのヘーゲル主義的観念論に反対し,意識外部の対象の存在とその直接的認識の可能性を説き,日常言語分析や感覚所与理論の先駆者となった。著書《倫理学原理》(1903年)ほか。

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化学辞典 第2版 「ムーア」の解説

ムーア
ムーア
Moore, Stanford

アメリカの生化学者.1935年バンダービルト大学卒業.1938年ウィスコンシン大学で学位を取得.その後,ロックフェラー医学研究所(現ロックフェラー大学)に入り,M. Bergmannの助手となる.第二次世界大戦中は化学戦部局などで国防研究に従事した後,研究所に戻り,W.H. Stein(スタイン)とともにタンパク質を構成するアミノ酸の分離定量の研究に携わった.1952年同研究所教授.Steinとともにイオン交換クロマトグラフィー法を開発し,リボヌクレアーゼの一次構造を決定した(1960年).酵素のアミノ酸配列をはじめて決定したこの業績で,1972年C.B. Anfinsen(アンフィンセン),Steinとともにノーベル化学賞を受賞した.

出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のムーアの言及

【モロ族】より

…16世紀後半にフィリピンを占領したスペイン人植民者によって命名された。スペイン人は8世紀にアフリカ北西部(ローマ時代のマウレタニア,現在のモロッコ,モーリタニア地方)からイベリア半島へ進出してきたアラブやベルベル人をモロ(ムーア人)と呼んだ。マウレタニアの住民を指すラテン語マウルスmaurusがその語源である。…

【唯美主義】より

…作品の価値はそこに盛られた思想あるいはメッセージではなく形態と色彩の美にある,と主張する。イギリスの詩人スウィンバーンがA.J.ムーアの絵《アザレア》(1868)を〈この絵の意味は美そのものだ。存在するということだけが,この絵の存在理由だ〉と絶賛した言葉が,唯美主義を端的に示している。…

【感覚】より

…〈感覚与件sense‐datum〉の語はアメリカの哲学者J.ロイスに由来し,いっさいの解釈や判断を排した瞬時的な直接経験を意味する。代表的な論者にはB.A.W.ラッセルおよびG.E.ムーアがおり,そのテーゼは事物に関する命題はすべて感覚与件に関する命題に還元可能である,と要約される。マッハに始まるこれら現代経験論の思想は,要素心理学や連合心理学の知見,およびそれらの基礎にある恒常仮定(刺激と感覚との間の1対1対応を主張する)とも合致するため,19世紀後半から20世紀初頭にかけて大きな影響力をもった。…

【善】より

…分析哲学では,自体的善と手段としての善という伝統的な形式的区別を踏まえて,自体的善としての道徳的善は自然的な諸性質を表す語では定義できないことを明らかにする試みがなされた。その源流に位置するのが,道徳的善はある単純な定義できない性質だとするG.E.ムーアの主張である。デューイも,その形而上学的考察,特に人間の経験に関するその見解から,善についてのいっさいの経験に共通の性質としての究極的な自体的善の探究は失敗すべく運命づけられているという,分析哲学の場合と同様な結論に達した。…

【当為】より

…また,理論理性と実践理性を区別するとともに自然的傾向性からの道徳的当為法則の独立性を説いたカントに方法二元論を帰する見解もあるが,これには異論もある。方法二元論が明示的に提唱されるようになったのは大陸においては新カント学派,とくに西南ドイツ学派以降であり,英語圏においては20世紀初頭に〈自然主義的誤謬〉批判(倫理的言明を自然的事実言明に還元するのは論理的誤謬であるという批判)を展開したG.E.ムーア以降である。 また,大陸における方法二元論はラートブルフやケルゼンのような法哲学者の思考様式を規定する一方,19世紀末から20世紀初頭にかけての社会科学方法論争の焦点となったM.ウェーバーの没価値性テーゼの哲学的基礎をもなしている。…

【日常言語学派】より

…言語使用のあり方は人工言語学派の考えるように形式的に法則化できず,とくに使用の具体的条件に依存すると考えるからである。日常言語への定位は,存在や善の概念を分析したケンブリッジ大学のG.E.ムーアによって先鞭をつけられ,日常的言語使用のあり方は中期以降のウィトゲンシュタインの考察の中心となった。一方,オックスフォード大学のJ.L.オースティン,G.ライル,ストローソン等もやや独立に日常言語の分析から哲学的問題に接近した。…

【ブルームズベリー・グループ】より

…メンバーは,姉妹のそれぞれ夫になるクライブ・ベル,レナード・ウルフをはじめ,J.M.ケインズ,リットン・ストレーチー,ロジャー・フライ,E.M.フォースターらで,美術評論家,政治評論家,経済学者,小説家など多分野にわたっているが,いずれも同世代でケンブリッジのトリニティ,キングズ両学寮で学んだ。そして当時の哲学教師G.E.ムーアの《倫理学原理》(1903)の中の〈最も価値あることは人の交わりの喜び,美しいものを享受すること〉という文句に影響されていた。彼らの姿勢は既成のこわばった道徳観念の打破,柔軟な不敬の念,進歩・自由への信念,美への専心ということに集約される。…

【分析哲学】より

…言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。 言語分析は20世紀の初頭,B.A.W.ラッセルG.E.ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。…

【イギリス美術】より

…その中でわずかに注目されるのがフランスからやってきたゴーディエ・ブルゼスカHenri Gaudier‐Brzeska(1891‐1915)で,抽象的な作品により新境地を開いたが,24歳の若さで戦死した。1930年代になって,真の国際的名声と影響力をもったイギリス最初の彫刻家といえるH.ムーアとヘプワースBarbara Hepworth(1903‐75)が制作を開始する。共にヨークシャー出身で,しなやかな曲線でかたどられたその形態は,いわゆる生体的(バイオモーフィック),有機体的なふくらみやボリュームを見せる。…

※「ムーア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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