翻訳|rose
アメリカのプロ野球選手(右投左右打)、監督。本名Peter Edward Rose Sr.。大リーグ(メジャー・リーグ)のシンシナティ・レッズ、フィラデルフィア・フィリーズ、モントリオール・エクスポズ(現、ワシントン・ナショナルズ)で一塁手、二塁手、三塁手、外野手としてプレー。全力プレーで「チャーリー・ハッスル」とよばれて親しまれた。4256本の通算最多安打記録の保持者。1984年からはレッズで監督も務めた。
4月14日、オハイオ州シンシナティで生まれる。1960年、レッズに入団。1963年大リーグに昇格し、打率2割7分3厘、ホームラン6本、打点41、盗塁13をマークして新人王に選ばれた。1965年に打率3割1分2厘をマークすると、1973年まで9年連続して打率3割以上を記録。その間、1968年、1969年、1973年と3回首位打者を獲得した。なかでも1973年は地区優勝に貢献し、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。1975年から、ふたたび5年連続打率3割以上をマーク。当時、チームは黄金時代を迎えており、万能二塁手ジョー・モーガンJoe Leonard Morgan(1943―2020)、長距離砲ジョージ・フォスターGeorge Arthur Foster(1948― )、主砲ジョニー・ベンチらとともに強力な打線を形成して「ビッグレッド・マシン」とよばれ、1975年と1976年に2年連続してワールド・シリーズを制した。1978年にはナショナル・リーグのタイ記録となる44試合連続安打を達成。翌1979年にフィリーズへ移籍。1984年にはエクスポズに移ったが、同年途中でレッズに戻り、監督兼任となった。1986年限りで選手としては解雇されて引退となったが、引き続き監督として指揮はとった。しかし、野球賭博(とばく)により1989年8月に永久追放となった。以降、球界への復権運動を続けていた。
選手としての24年間の通算成績は、出場試合3562、安打4256、打率3割3厘、本塁打160、打点1314。獲得したおもなタイトルは、新人王、首位打者3回、最多安打7回、MVP1回、ゴールドグラブ賞2回。監督としての通算成績(6年)は412勝373敗。
[山下 健]
『ピート・ローズ著、土屋一重訳『ピート・ローズのハッスル野球教室』(1979・報知新聞社)』▽『ピート・ローズ、ボブ・ハーツェル共著、池田郁雄訳『ピート・ローズの野球教室』(1981・ベースボール・マガジン社)』▽『ピート・ローズ著、伊東一雄監修・訳『挑戦する624人の大リーガー』(1988・日之出出版)』
プロ野球選手(外野手:左投左打)。8月21日、アメリカのオハイオ州生まれ。タフィ・ローズとよばれる。1986年大リーグ(メジャー・リーグ)のドラフトでヒューストン・アストロズから3巡目に指名されて、ウェスタンヒルズ高からプロ入り。俊足の外野手として期待され、1990年大リーグにデビューした。1993年のシーズン途中でシカゴ・カブスにトレードされたが、94年には史上初となる開幕戦での3打席連続ホームランで注目を浴びた。1996年(平成8)日本に渡り近鉄バファローズ(後の大阪近鉄バファローズ。2005年オリックス・ブルーウェーブに吸収合併されてオリックス・バファローズとなる)へ入団。最初の3年間はホームラン20本台と2桁(けた)盗塁を維持し、4年目の1999年にはホームラン40本と101打点で二冠王となった。2001年には2回目の本塁打王に輝き、しかも、王貞治(さだはる)に並ぶプロ野球タイ記録(2007年現在)となる55本目を松坂大輔(だいすけ)から放ち、日本中を沸かせた。同年、近鉄は12年ぶりのリーグ優勝、その原動力となったことが評価され、最優秀選手(MVP)にも選ばれた。2002年は2回目の打点王を、03年は本塁打王を獲得。読売ジャイアンツ(巨人)に移籍した2004年はホームラン45本を打ち、セントラル・リーグでも本塁打王となった。2005年は右肩の故障で不本意な成績に終わったうえ、審判員に対する暴言で退場させられるなどマナーの悪さへの批判も重なり、シーズン終了後に球団から戦力外通告を受けた。2006年2月には大リーグ復帰を目ざしてシンシナティ・レッズとマイナー契約を交わすが、オープン戦で結果を残せず、現役引退を発表した。その後、日本球界への復帰を熱望。2007年からはオリックス・バファローズでプレーすることとなった。
[出村義和]
大リーグでの6年間の通算成績は、出場試合225、安打132、打率2割2分4厘、本塁打13、打点44。2007年までの日本での通算成績は、出場試合1448、安打1563、打率2割8分5厘、本塁打402、打点1089。獲得したおもなタイトルは、本塁打王4回、打点王2回、最優秀選手(MVP)1回、ベストナイン6回。
[編集部]
イギリスの南アフリカ植民地行政官、鉱山主。16歳のとき、結核療養のため、ナタール植民地で綿花栽培に従事していた長兄を頼ってアフリカに渡った。1871年に、ダイヤモンド鉱が発見されたキンバリーに移って鉱山業に転じ成功を収め、1891年には世界のダイヤモンド生産の90%を支配するに至った。1887年にはトランスバール共和国で発見された金鉱にも出資し、事業を拡大した。一方、1889年からは、南アフリカ特許会社(イギリス南アフリカ会社)を通してマジュナ人、マタベリ人の土地を攻略し、イギリス本国の4倍を超える広大な地域の統治権をイギリス政府から承認され、彼の名にちなんでローデシアと命名した。彼の最大の目的は、イギリスの支配する世界帝国建設にあり、1881年にケープ植民地議会議員として政界入りし、1890年同植民地首相に就任後は、いわゆる三C政策を提唱して北方への植民地拡大を企てた。しかし、1895年トランスバール共和国への侵攻作戦を強行して失敗(ジェームソン侵入事件)、辞任を余儀なくされた。以後再起はならず、1902年失意のうちにケープで死去した。なお、彼の学問への愛着は著しく、オックスフォード大学の学士号を8年がかりで取得、遺産の一部は同大学のローズ奨学金設立にあてられた。
[石井摩耶子]
『鈴木正四著『セシル・ローズ』(1980・誠文堂新光社)』
アメリカの生化学者。ニューヨーク州生まれ。ワシントン州立大学を卒業後、第二次世界大戦終戦時までアメリカ海軍の無線技師を務める。1949年にシカゴ大学で生化学の博士号を取得。その後、アメリカで初めて設立された国立癌(がん)センターであるフォックス・チェイス癌センターの研究者となった。同センターを退職した後は、カリフォルニア大学アーバイン校医学部生理学・生物物理学科の専門研究員となる。
イスラエルからサバティカル休暇(研究などのための長期休暇)でフォックス・チェイス癌センターに来たイスラエルの生化学者チカノバー、ハーシュコとともに、1970年代からタンパク質の分解に関するメカニズムを研究した。その研究でアミノ酸が76個つながっている小さなタンパク質ユビキチンに注目。ユビキチンはアデノシン三リン酸(ATP)によって活性化することを発見し、生体で不要になったタンパク質に結合するとそれが合図となり、タンパク質プロテアソームという分解酵素によって分解されることを解明した。このメカニズムが明らかになるとともに細胞の分裂、デオキシリボ核酸(DNA)の修復、タンパク質の品質管理、免疫のシステムなどに関する仕組みもわかるようになった。この業績により、2004年にチカノバー、ハーシュコとともにノーベル化学賞を受賞した。
[馬場錬成]
イギリスの農芸化学者。小地主の家に生まれ、オックスフォード大学でドーベニーC.G.B. Daubeny(1795―1867)に学ぶ。リービヒの植物の栄養は無機物でよいとする考えに影響を受け、1842年糞石(ふんせき)や燐灰(りんかい)石(アパタイト)に硫酸を作用させて過燐酸石灰をつくる特許を取得し、翌1843年デットフォードに工場を建て、最初の人造肥料過燐酸石灰の生産を行った。また、リービヒ門下のギルバートとともに、故郷のハートフォードシャー、ロザムステッドに最初の農事試験所を設けた。
[道家達將]
『J.R. PartingtonA History of Chemistry(1964, Macmillan)』
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イギリスの政治家。帝国主義者として知られる。南アフリカの鉱山王。イギリス南アフリカ会社の創設者。イギリスのハートフォードシャー生れ。1870年健康を害し,兄を頼って南アフリカのダーバンに移った。当時南アフリカはダイヤモンド・ラッシュで,ド・ベールス鉱業会社を興し成功した。ラント(ウィットウォーターズランド)で金鉱が発見されると南アフリカ金鉱会社をつくり,弱小の諸会社を買収・統合してラントの金鉱山を支配した。その経済力を背景に政界に乗り出し,80年ケープ植民地議会議員,90年にケープ植民地首相となった。この間,北方のヌデベレ族のローベングラ王から鉱業採掘権を入手し,1889年にはイギリス政府より特許をとってイギリス南アフリカ会社を興し,アフリカ人の土地を支配した。この地域は彼の名にちなんでローデシアRhodesia(現在のザンビア,ジンバブウェ)と命名された。95年ボーア人の国トランスバールの金鉱をイギリスの支配下に置くことを目的に,親友のL.ジェームソンらをトランスバールに侵入させたが,失敗した。ローズの帝国主義的野望は暴露され,その責任をとって翌96年首相の地位から降りた。その後イギリス南アフリカ会社を通してローデシアの開発に取り組むとともに,長年の夢である三C政策を実現しようとしたが,1902年3月26日ケープで死去した。
執筆者:林 晃史
イギリスの農学者。ケンブリッジ大学卒業後,故郷のロザムステッドに帰る。1843年にロザムステッド農業試験場を創設し,長期の肥料試験をJ.H.ギルバートとともに開始した。この施肥試験は同じ畑を用いてつづけられ,施肥の方法は52年に一部変更されたが,以後は同じ設計で現在までも継続され,100年余にわたって肥料が施用されると土はどのように変化するかなどについて貴重なデータを提供している。彼はまたこの圃場(ほじよう)試験を通じてJ.F.vonリービヒが当時唱えた〈植物はアルカリ分やリン酸,硫酸があれば生育し,窒素は空気中から得ることができる〉という考えの誤りを訂正した。またリービヒはリン酸肥料などは,水に不溶性のものでないと土壌から雨水で流されると考えて,あまり肥効のない不溶性の肥料を製造していたのに対し,1843年に水溶性の過リン酸石灰を製造し実際上の効果をあげた。
執筆者:茅野 充男
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1853~1902
イギリスの植民地政治家,富豪。1870年南アフリカに移住,ダイヤモンド採掘で巨富を得,トランスヴァールの金鉱業でも成功して,90年ケープ植民地首相となった(在任1890~96)。本国政府と呼応して拡張主義政策を追求,イギリス南アフリカ会社を指揮してリンポポ川以北のアフリカ中央部に進出,自分の名にちなんだローデシアを建国(現ザンビア,ジンバブエ)。95年トランスヴァール共和国転覆計画に失敗,首相を辞した。
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…またリービヒは,窒素は植物が空中から固定すると信じていたので,窒素肥料は不要と考えた。これに対しイギリスのJ.B.ローズは,骨粉やリン鉱石に硫酸を作用させる方法で,水溶性の過リン酸石灰をつくり,その有効性を圃場(ほじよう)試験で示し,1843年には過リン酸石灰の生産,販売を開始した。また,ローズは有名なロザムステッド農業試験場の圃場試験で,窒素も肥料として必要なことを示した。…
…また化学工業全体からみると肥料工業は出荷額で2%弱でしかない。化学肥料工業の基礎は,1843年イギリスのJ.B.ローズがドイツのJ.vonリービヒの農業化学理論を応用し,過リン酸石灰の製造を開始したときに築かれた。19世紀の間,工業製品としての肥料は過リン酸石灰のみであったが,20世紀に入ると窒素肥料の工業的製造法が相次いで開発された。…
…1888年C.ローズがヌデベレ族の首長ローベングラから鉱業利権を得,リンポポ川以北の開発と入植を目的として翌89年に設立した会社。理事にはアバコーン公爵,ファイファ公爵などが名をつらねた。…
…1896年および1902年の教育法は,地方教育当局による中等教育,さらには大学への奨学制度の整備を促進し,07年の教育法は公費の援助を受ける中等学校に対して総定員の25%にあたる無償席(無月謝入学者のための特別入学定員枠)を設けることを義務づけている。セシル・ローズの遺産により,オックスフォード大学へ進学するための学資を与えることを目的としたローズ・スカラシップは1903年に創設され,歴史を誇っている。日本における奨学制度の最古のものは勧学田の制度とされる。…
…販売は同グループの中央販売機構Central Selling Organization(CSO)が担当し,世界のダイヤモンド市場の85%を支配している。1888年C.J.ローズのデ・ビアス・マインズ社とキンバリー・マインズ社の合併によりデ・ビアス・コンソリデーテッド・マインズ社が設立された。19世紀後半ダイヤモンドは乱掘状態にあったため,ローズはロスチャイルドの資金援助を得て,生産の集中と寡占によって価格の安定を図ったのである。…
…86年同国のウィットウォーターズランドで金の大富鉱が発見されると,イギリスは直ちに同国の併合を企てた。当時ケープ植民地首相であったC.ローズは,トランスバールのイギリス系白人(アフリカーンス語でアイトランダースと呼ばれた)を保護するという名目で,95年友人のジェームソンとその部下の軍隊を派遣したが失敗に終わり,ローズは責任をとって政界から引退した(ジェームソン侵入事件)。しかしイギリス植民地相のJ.チェンバレンは併合をあきらめず,A.ミルナーをケープ長官に任命し,トランスバールに対し露骨な内政干渉を行った。…
…ボーア人は80年10月武力蜂起し,翌81年2月マジュバ・ヒルの戦でイギリス軍を破り,主権を回復した(第1次ボーア戦争)。 86年トランスバールのラント(ウィットウォーターズランド)で金の富鉱が発見されると,ケープ植民地首相C.ローズは,トランスバールに居住するイギリス人(アイトランダースと呼ばれた)の権利保護を名目に,95年L.ジェームソンらを同国に侵入させたが失敗し,政界から引退した。しかしイギリス植民地相J.チェンバレンは,A.ミルナーをケープ行政長官として派遣し,トランスバールに対し露骨な内政干渉を始めた。…
…2年後姿を現したヌクルマネとその支持者たちは王位奪還をねらって戦いをいどんだが,ローベングラとその軍隊はこれを撃退し,以来王国発展に尽力した。しかし80年代末からヨーロッパ人帝国主義者との対応に忙殺され,88年にはC.ローズに鉱業採掘権を与える協定を結んだ。イギリス人はこの協定を盾に土地領有権まで主張したため,彼は強く反発して戦おうとしたが,ヌデベレ族の中に支持する者が少なく,結局消極的抵抗をするにとどまった。…
※「ローズ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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