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ローマ史 ローマし Ab urbe condita libri

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ローマ史
ローマし
Ab urbe condita libri

ローマの歴史家リウィウスの史書。 142巻。前 27年あるいは 25年から何回にも分けて出版された。伝説的ローマ建国時代から前9年のドルススの死とアウグスツスの統治までを扱う。序文によれば,執筆の目的は,世界を支配する民族の事績を記念し,ローマを偉大に導いた人々とその生き方,および前1世紀の動乱を招いた道徳的退廃を描写して,読者に適切な教訓を提供することにある。

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ローマ史
ローマし
Roman history

前7世紀テベレ川東岸にいくつかのラテン人サビニ人の共同体が,通商上の理由から集住して都市国家を形成したのが起源。初期はゆるやかな王政をとり,一時エトルリア人の支配下に入って文化にも大きな影響を受けた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ローマ史
ろーまし

概観と時代区分

 ローマ人は、イタリア半島中部テベレ川下流域に紀元前数百年のころから小さな共同体集落をつくっていたが、やがてギリシアのポリスと同じような構造をもった都市国家に発展し、前4世紀初めごろからしだいに近隣の都市国家や種族を征服し、前3世紀末には地中海西部の覇者となり、前2世紀にはすでに地中海東部をもその支配下に入れるほどの大帝国をつくりあげていた。このような海外領土の獲得は、紀元後1世紀から2世紀初めに至るまで間断なく続き、117年には最大版図を実現した。それはほぼライン、ドナウ両川の線(一部はそれを越える)、ティグリス川を越えて今日のイランに食い込む線、それと黒海に囲まれるすべての地中海北岸の地域、地中海東岸のシリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、それにアフリカ北部の砂漠以北の地域とエジプト全土、さらにイングランドとウェールズを包含するものであった。歴史上これらの広大な地域が一つの政治的支配の下に置かれたことは、後にも先にもこのとき以外にはなかった。この大帝国は、紀元後4世紀末に東西分治が最終的に定まり、476年に西の帝国が事実上消滅するまでの長年月、幾多の消長は経つつも存続した。東の帝国は、1453年に滅亡するまで、コンスタンティノープルを首都として国際場裏に長く威容を誇った。
 ローマ帝国の支配によって、これらの地方に栄えたそれ以前の諸文明、諸文化間の交流が生まれ、経済的交易圏としてもこの広大な地域がまとめられ、帝国以後の中近東、東西ヨーロッパ、やがてイスラム化する北アフリカの諸地域の発展する素地をつくった。
 この長いローマの歴史は、前6世紀までの先史時代と王政期、それ以後前1世紀末までの共和政期、それ以後紀元後5世紀後半までの帝政期とに3区分して説明されるのが便宜である。この時代区分はおもに政体の変化によるが、発展の時期区分としても妥当である。
 なお、西ローマ帝国滅亡後の東ローマ帝国の歴史については、別項「ビザンティン帝国」を、また、ローマの法律、神話、文学、演劇、美術については、それぞれ「ローマ法」「ローマ神話」「ラテン文学」「ローマ演劇」「ローマ美術」の項目を参照されたい。[弓削 達]

先史時代と王政期

 ローマ人以前のイタリア半島には、まずテラマレ文化と総称される青銅器文化、それを吸収したビラノバ文化とよばれる鉄器文化がすでに存在していたところへ、紀元前8世紀ごろには南部にギリシア人の植民が始まり、同じころ中北部にエトルリア人が定住した。その後におそらく北から移住してきたのがインド・ヨーロッパ語系諸族で、そのうちの一派ラテン人の一部がテベレ川下流域に小集落をつくった。これがローマの始まりで、前6世紀の初めまでに近くの七つの丘に分散定住していた彼らが集住して都市国家をつくった。考古学はこれを前575年以前と考えている。
 この最初期の歴史については、考古学的証拠以外には伝説しか残っていない。伝説は、トロヤの敗将アエネアスの子孫のロムルスとレムスなる双子の兄弟のうち、前者が初代の王となり、続いて、ヌマ・ポンピリウス、トゥルス・ホスティリウス、アンクス・マルキウス、タルクイニウス・プリスクス、セルウィウス・トゥリウスおよびタルクイニウス・スペルブスの6代の王がたったことを語るが、この王政時代はさまざまな徴候から北方エトルリアの勢力下に入ったことが確実視されている。
 この時期には、軍事、政治、祭祀(さいし)をつかさどる王に対して、有力氏族の長たちの構成する元老院がこれを補佐し制肘(せいちゅう)したので、王の権力は独裁的ではなかった。人民は氏族を基礎として3部族(トリブス)に分かれ、各部族は10クーリアに分かれた。クーリアは兵士提供の基礎とされた。重要な国事や氏族の裁量を超える問題はクーリア民会で決められたから、これがこの時期の政治・軍事組織であったわけである。人民は、特定の家柄に属し多数の被護民(クリエンテス)を擁する貴族(パトリキ)と、それ以外の平民(プレブス)とに分かれていた。[弓削 達]

共和政期


第一期(前509~前264)
紀元前509年、ローマ人はエトルリア系の王タルクイニウス・スペルブスを追放し、王の権限を受け継いだ任期1年の2人の最高政務官(コンスル)と元老院を中核とする共和政を始めた。初めの250年ほどは貴族と平民の身分闘争が激しく、前494年には平民が大挙して聖山に立てこもり、共同体の分裂の危機を迎えたが、平民に、平民の権利を守る護民官などの設置、平民だけの民会(平民会)の開設などを認めた貴族の譲歩によってこの危機は切り抜けられた(聖山事件)。このころ全市民総会の意味をもつケントゥリア民会が最重要な民会として存在していたが、これは財産額によって等級づけられた不平等な投票権によって運営されるもので、貴族と平民の富裕な上層だけで決議が決まる差別的民会であった。前5世紀前半には、旧来の氏族を基礎にした3トリブス制を廃し、地域を基礎にした新トリブス(区)制が設けられた。区は領土の拡大に伴って増加し、前241年には35になった。ローマ市民はすべて区民として登録され、トリブス単位で投票するトリブス民会も設置され、ケントゥリア民会とトリブス民会は、政務官選挙、法案決議などに関して機能を分けて運営された。
 平民に対する貴族の政治的譲歩はさらに続き、前367年には、従来貴族によって独占されていたコンスル職が平民にも開かれ、プラエトル(法務官)職、ケンソル(戸口調査官)職もこれに続いて開放され、前287年には平民会決議が全市民を拘束する法と同価とされるに及んで、貴族、平民間の身分闘争は終わった。前4世紀以後は、貴族にかわって、コンスルを出す平民最上層の家柄と貴族とからなるノビリタス(名門)が国家の支配層となった。
 このように貴族が平民に譲歩を続け共同体の分裂を回避したのは、この時期に近隣諸種族との戦争が続き、それに勝つための軍事的必要からであった。この時期の戦争としては、前5世紀のエトルリア人との戦い、サビニ人など東部の山地種族との激しい戦闘があったが、前396年には最強のエトルリア都市ウェイイを陥落させた。しかし、前387年には北からケルト人が侵入し、ローマ市に放火、略奪した。この痛手から立ち直る間もなく、ラテン諸都市との全面戦争に入り、前338年これに勝利を収めてラティウムを勢力下に置いた。その支配は、ラテン諸都市の市民に完全なローマ市民権を、非ラテン系諸市の市民には、ローマでの投票権は欠くがローマ人との対等の通婚権、通商権を含む不完全なローマ市民権を、それぞれ与え、他の都市を同盟市とするというやり方で、このような等級づけられた市民権の付与と同盟関係の網の目による把握は、後のローマ帝国支配の構造の原型となった。その後、前275年までに南東部のサムニテス(サムニウム人)を服属させ、北東部の諸種族と同盟し、南部にも進出して、ポー川以南のイタリア半島を制覇するに至った。前273年にはプトレマイオス王国と友好条約を結ぶなど、ギリシア世界とも対等の関係をもつまでに至った。[弓削 達]
第二期(前264~前133)
イタリア半島を統一して西地中海の雄となったローマは、カルタゴ、スペイン、ヘレニズム諸王国などとの戦争に突入する。まず、カルタゴとは三次にわたるポエニ戦争(前264~前146)でこれを徹底的に破壊し、この間、シチリア、サルデーニャ、スペイン、アフリカを次々と海外領として獲得し、これを属州として設置した。イタリア北部の諸種族をも前3世紀末から前2世紀前半にかけて制圧し、さらにアドリア海に沿ったダルマチア海岸にも勢力を植え、前2世紀なかば過ぎにはマルセイユからポー川以北のイタリアを通ってバルカン半島西部に至るまでの一帯を勢力下に置いた。
 東部に向かっては、前3世紀末の二度にわたるイリリクム戦争に勝ち、さらに、第二ポエニ戦争に際してローマを苦しめたカルタゴの将軍ハンニバルと同盟したマケドニア王国との二度にわたる戦争と、同じくハンニバルの亡命を受け入れたシリア王国との戦争にも勝利を収めた(前2世紀初め)。第三次マケドニア戦争をピドナの戦い(前168)の勝利で終わらせると、ローマの対東方政策は苛酷(かこく)となり、諸都市への課税、ギリシア諸都市からの1000人の人質の獲得、エペイロスでの15万人の住民の奴隷化、マケドニアの属州化、コリントスの破壊と全住民の奴隷化、などが次々と実行された。こうした情勢をみて、ペルガモン王アッタロス3世は遺言で王国をローマに贈った(前133)。ローマはこれを属州アシアとした(前129)。
 海外領の獲得はローマ社会を変質させた。騎士身分の富裕者は海外領での徴税請負人(プブリカーニ)となってますます富み、属州総督になった元老院議員は不当な仕方で私腹を肥やした。一方、農民は兵士として長期間出陣したため農地の経営がうまくゆかず、その農地を富裕になった元老院議員や騎士身分の者が買い集めた。こうして大土地所有が生まれるが、ここでは大量の捕虜奴隷を用いてオリーブやブドウなどの商品作物が生産され、また牧畜も拡大した。家内奴隷も増加し、ここに世界史上ユニークな奴隷制社会が生まれた。土地を失った貧農は大都市とくにローマに流入し、国家の扶養に頼る遊民化した。他方、富裕者の奢侈(しゃし)は極端化し、富裕な家の女性の権利と自由(性の問題を含めて)は高まった。ヘレニズム文化の流入も伝統的な質朴さを破壊した。こうした社会的変質はローマ兵士の弱体化をもたらし、その現実は、ケルティベリア(ケルト・イベリア)人と長く戦わねばならなかったスペインで顕著となった。この危機もヌマンティアの攻略(前133)でいちおう切り抜けられた。前125~前121年には南ガリアの諸種民も制圧され、ここもローマの属州となった。[弓削 達]
末期、内乱期(前133~前31)
しかし、ローマ社会の変質からくる軍事的危機は去らなかった。この問題を解決すべくグラックス兄弟は土地の再分配を中心とする改革運動を行ったが、いずれも反対派に殺された。その結果は、北アフリカのヌミディア王ユグルタとの戦争における苦戦、北方からのゲルマン諸種族の侵入に際しての敗戦、アラウシオにおけるローマ軍の全滅(前105)となって現れた。そこで、名門出身ではない将軍マリウスは、武装自弁能力のある有産農民を徴募する従来の兵制を改めて、貧民からの志願兵を募ってこれに武装を与える新制度を導入し、ようやくゲルマン人を敗退させることができた。
 一方、この時期には帝国各地で奴隷蜂起(ほうき)が多発した。とくに前130年代アテネ、デロス、ペルガモン、シチリアに起こり、ことにシチリアのそれは二度にわたって本格的奴隷戦争となり、一時奴隷の王国すら生まれた。前73~前71年には、イタリアにおいてグラディアトル(剣闘士奴隷、剣奴)のスパルタクスを首領とする蜂起が最大時には4万の軍勢を集め、いずれもローマ正規軍の出動によってかろうじて鎮圧された(スパルタクスの蜂起)。これらは、ローマの支配の果実としての奴隷制の肥大化がもたらしたしっぺ返しであったが、他方ローマの支配に手を貸したイタリア同盟諸市は、ローマの利己的政策に憤慨し、反ローマの総反乱に立ち上がった。この同盟市戦争は、ポー川以南の全イタリア人へのローマ市民権付与(ローマ人との完全平等化)によって収拾された(前91~前87)が、この措置は、都市国家としてのローマが事実上終わったことを意味していた。
 ローマの国家構造は全面的に変革されねばならなかった。変革の方途をめぐってポプラレス(民衆派)とオプティマテス(閥族派)との内戦となり、その権力闘争のなかでマリウス、スラ、キンナ、ポンペイウス、クラッスス、そしてカエサルらの将軍が権力を握っては倒れた。彼らは、この権力闘争に勝つための権力基盤を属州や近隣王国のクリエンテラ(被護関係)化に求めたため、この内乱期にかえってローマの支配領域は拡大した。ポントス王ミトリダテス6世に対してはスラ、ついでポンペイウスが攻めてこれを滅ぼした(前63)。この間に、ガリア・キサルピナ(ポー川以北のイタリア)、ビティニア、キリキア、クレタ、キレネ(リビア)が属州とされ、前64年にはシリアもポンペイウスによって属州とされた。カエサルは前58~前50年ガリアに遠征してケルト人を鎮圧し、これを属州とした。その後起こったカエサルとポンペイウスとの内戦では、ポンペイウスが敗戦を続け、エジプトに逃げ込もうとしたが、上陸寸前に殺された。彼を追ってきたカエサルは、エジプトのプトレマイオス王国の女王クレオパトラ7世を自己の勢力下に置いた。しかし彼も独裁的傾向の強化が嫌われて、ブルートゥスらの共和主義者に暗殺された(前44)。
 カエサル暗殺後の混乱を、カエサルの姪(めい)の子でカエサルの遺言で養子・相続人とされたオクタウィアヌスと、カエサルの武将アントニウスとで収拾しようとしたが、アントニウスがエジプトのクレオパトラ7世と結婚して帝国の東半分を私したので、両雄の対決となった。アクティウムの海戦でのアントニウス側の敗戦(前31)、翌、前30年のアントニウスとクレオパトラの自殺によって、100年の内乱は終わり、オクタウィアヌスが帝国の唯一の権力者として残った。[弓削 達]

帝政期


第一期(前27~後68)
紀元前27年、元老院はオクタウィアヌスに「アウグストゥス」(尊厳なる者)の尊称を贈り、全帝国の属州を彼と元老院とで分掌統治することを定めたが、アウグストゥスの管轄する属州に軍隊の大部分が駐屯したことから、彼は全ローマ軍の総司令官としてほぼ全軍を掌握し、最大の富者であることも加わって、彼は事実上の皇帝となった(在位前27~後14)。しかし彼はカエサルの轍(てつ)を踏むことを恐れて王号を避け、自らを「プリンケプス」(第一人者)とよんだので、彼が始めた政体をプリンキパトゥス(「元首政」と訳される)とよぶ。
 彼は自らを取り巻く官制を整え、ローマ市に帝国の首都としてふさわしい官制と外観を与え、一方、貴族の婚姻と出産・育児を奨励し、上流社会の風紀の立て直し、古来の国家宗教の復興に努めた。対外的にはとくに征服的ではなかったが、ドナウ川まで国境を広げて属州を設置した。しかしトイトブルクの森での3軍団の全滅(トイトブルクの戦い、後9)によってライン国境をエルベ川まで広げる望みは達せられなかった。東部ではパルティア王国と和解し、ガラテヤ、ユダヤに属州を設置した。
 アウグストゥス以後、皇帝はティベリウス(在位14~37)、カリグラ(ガイウス、在位37~41)、クラウディウス1世(在位41~54)、ネロ(在位54~68)と続いたが、アウグストゥスのユリウス家と妻リウィアのクラウディウス家の枠内で帝位が継承されたので、これをユリウス・クラウディウス朝とよぶ。ティベリウスは、元老院と仲が悪く、親衛隊長セヤヌスの専横が加わって内政は暗黒(密告)の恐怖政治となった。次のカリグラは、生前神化を要求するなど常軌を逸したふるまいが多く、暗殺された。クラウディウスは、直属の文官による官僚制の整備に努め、また、ローマ市民権付与政策を行って帝国のローマ化を進めた。この王朝の時期、カッパドキア(小アジア北東部)、マウレタニア(北アフリカ西部)、ブリタニア、リキア(小アジア南部)、トラキア(南ブルガリア)が属州として加わった。王朝最後のネロは、治世の初めは哲学者セネカらの指導に従って公正な政治に努めたが、やがて独裁的かつ狂的となり、64年ローマ市大火にあたっては多数のキリスト教徒を放火犯人にでっち上げて焼き殺すなど暴政を続けたので、各地の軍隊が新皇帝を擁立し、そのなかで自殺した。ネロの末期、ブリタニアではボウディッカ女王の反乱があり、第一次ユダヤ戦争も勃発(ぼっぱつ)した。[弓削 達]
第二期(69~192)
ネロの後を、4人の対立する皇帝のうち、ユダヤ戦争を指揮していたウェスパシアヌス(在位69~79)が継承し、ライン地方とガリアの反乱を鎮圧して権力を確立し、自分と2人の息子、ティトゥス(在位79~81)とドミティアヌス(在位81~96)の3帝からなるフラウィウス朝を開いた。この王朝の下で皇帝はしだいに絶対主義的となり、ドミティアヌスは自分を「主にして神」とよばせた。元老院議員には属州出身者が増加したが、皇帝は側近を重用する政治を行った。国境ではライン川とドナウ川の線を長城(リメス)で固め、スコットランドにも侵入した。しかし、ドミティアヌスの専制政治は密告と反逆罪処刑の暗黒を生み、皇帝の暗殺をもってこの王朝は終わった。
 かわって元老院に推されたネルウァ(在位96~98)が帝位につき、ついでトラヤヌス(在位98~117)、ハドリアヌス(在位117~138)、アントニヌス・ピウス(在位138~161)、マルクス・アウレリウス(在位161~180)が、それぞれ前帝の養子となって帝位を継いだので、ほぼ2世紀を覆うこの時代は「養子皇帝期時代」またはアントニヌス朝とよばれる。この時期、属州における都市化、ローマ化が進み、都市の有産大地主層の負担で都市の美化に力が注がれた。また、経済活動も最高潮に達し、属州の農業や手工業はイタリアを凌駕(りょうが)するまでになり、スカンジナビア、中国、インド洋を通って極東などとも貿易路が結ばれた。属州の軍団駐屯地近くには商人集落(カナバエ)が生まれ、やがて都市に発展した。こうした繁栄のため、この時期はエドワード・ギボンによって「人類のもっとも幸福な時代」とたたえられ、5人の皇帝も「五賢帝」とよばれることがある。しかし、マルクス・アウレリウスが暗愚な息子コンモドゥス(在位180~192)を後継帝に据え、コンモドゥスが元老院と対立して異常な神経で政治を専断したため、彼の暗殺をもって「幸福な時代」は閉じられた。
 この時期、一般的には皇帝と元老院とは良好な関係にあったが、最重要な立法は皇帝の発する勅法となり、元老院議決もその大部分は皇帝の提案によるものであった。民会による立法は、69年を最後として記録されていない。帝国の財政は比較的豊かで、国庫から地主への貸付金を基金に、その利息で農民の子弟に教育費を与えるアリメンタ、コンギアリアなどの制度がイタリアの都市につくられた。
 領土に関しては、トラヤヌス帝がダキア(ルーマニア)、アラビア(ナバテア)のほかペルシアから奪ったアルメニア、メソポタミア、アッシリアを属州とし、国境をティグリス川の東にまで広げたが、ハドリアヌス帝は国境線をティグリス川まで下げた。帝の国境政策は守勢を主とし、ブリタニアでもスコットランドを放棄し、国境に「ハドリアヌスの長城」がつくられた。第二次ユダヤ戦争を鎮圧後、エルサレムを完全破壊し、そのあとにローマ市民植民市を建設した。北方からはゲルマン人諸種族がドナウ諸属州に侵入し、北イタリアにまで達した。マルクス帝はこの防戦に全精力を注いだが、コンモドゥスは父の反抗計画を放棄した。一方、ハドリアヌスの導入した軍団駐屯地徴募制は、軍団と駐屯地住民の結び付きを強め、軍団の属州的性格がここから生まれた。[弓削 達]
第三期(193~284)
コンモドゥスの殺害後、各地に競い立った皇帝たちのうち、セプティミウス・セウェルス(在位193~211)が最終的に帝位を確保し、アレクサンデル・セウェルス(在位222~235)の殺害まで続くセウェルス朝の開祖となった。セプティミウス・セウェルスの統治は軍事政権で、しかもパンノニア出身者が軍隊の指導部を占めるように改革された。国境の守りを固めたが、スコットランドは完全に放棄した。彼の息子カラカラ(在位211または198~217)は212年、帝国の全自由人にローマ市民権を付与し、イタリア人と属州人との完全平等化を図った。エメサの世襲的太陽神官であったエラガバルス(在位218~222)は、帝位につくとローマ市に二つの太陽神神殿を建て、属州化は国教の領域にまで浸透した。この王朝においては、セプティミウスの妻ユリア・ドムナ、エラガバルスの祖母ユリア・マエサ(ドムナの妹)、セウェルス・アレクサンデルの母ユリア・ママエア(マエサの娘)らの女性が、政治の実質的な支配者であった。
 アレクサンデルの殺害後、284年のディオクレティアヌスの登位までの約50年間は、いずれも兵士出身の26人の皇帝が軍隊によって擁立される混乱を極めた「軍人皇帝時代」となる。この混乱のゆえに国境はいずれも危機的となる。ペルシアではアルサケス朝(パルティア)にかわったササン朝がシリアを席捲(せっけん)し、260年皇帝ウァレリアヌス(在位253~260)を捕虜とし、小アジアにまで攻め込んだ。隊商都市パルミラがこれを撃退したが、その女王ゼノビアはやがてローマに対して独立する。西部ではガリアに分離帝国が生まれ、これがブリタニアとスペインを支配下に入れる。このほかゲルマン系諸民族、フランク、ゴート、アラマンニなどがライン国境からバルカン半島までを荒らす。ウァレリアヌスの息子ガリエヌス(在位253~268)は軍隊を騎兵中心の機動軍につくりかえ、この危機を切り抜けた。続いてアウレリアヌス(在位270~275)は、一方ではダキアを放棄したが、他方ではパルミラを攻めて破壊し、ゼノビアを捕虜とし、ガリアを回復し、ローマ市に「アウレリアヌスの城壁」を築いて首都の守りを固めた。彼はまた、パルミラの戦いの勝利はシリアの太陽神の加護によると信じて、エラガバルスの死後エメサに戻されていた太陽神の神体(聖石)をふたたびローマ市に戻し、国家神とした。次のタキトゥス(在位275~276)は小アジアでゴート人を破り、プロブス帝は北部国境の守りを固め、カルス帝はメソポタミアに再進出した。ガリエヌス以来の30年に及ぶこれら諸帝の渾身(こんしん)の努力によってかろうじて危機を乗り切り、ディオクレティアヌス帝の即位をもって軍人帝国時代は終わる。[弓削 達]
第四期(284~395)
ディオクレティアヌス(在位284~305)は、統治と防衛の効率化のために、2人の正帝と2人の副帝の間で帝国を分割統治する四分統治制(テトラルキア)を開いた。彼が305年に自発的に退位すると、ふたたび皇帝間の内乱が起こったが、324年コンスタンティヌス(大帝。在位306~310副帝、310~337正帝)が単独皇帝として残った。彼は首都をローマからビザンティオンに移し、ここに新首都コンスタンティノープルを開いた(330)。
 すでに3世紀後半に帝権の宗教的権威づけが求められ、アウレリアヌスは太陽神にそれを求めたが、ディオクレティアヌスは古ローマの伝統に戻って「ヨウィス(ユピテルの地上の代表者)」と称し、3世紀の間に勢力を増していたキリスト教徒がこれに賛成しないのをみて、303年キリスト教徒に対する大迫害を始めた。しかし、コンスタンティヌスは一転してキリスト教に改宗し、「キリスト教徒の神」の地上における代表者をもって任じ、キリスト教会保護政策を始めた。帝権はいまや最高最強の神による聖化を得て専制化し、皇帝は以前のようにプリンケプスではなくドミヌス(専制君主)とよばれたので、この第四期はドミナトゥス(専制君主政期)とよばれる。これに応じて宮廷儀礼も跪拝(きはい)礼をはじめ皇帝の聖性を強調するもので満たされた。
 この時期には、全帝国を116の属州に分け、数属州で1管区を構成し、数管区から道(「ローマ道」とよばれる)をつくり、全帝国は3道またはときに4道に分けられるというようにきめの細かい統治が行われ、各道はおおむね1人の皇帝、または、いまや財政担当の文官たる親衛隊長によって統轄された。軍隊も国境防衛軍と、皇帝に直属し危地に急行する騎兵機動隊とに分けられ、国防の能率化が図られた。このため官僚群は肥大化し、軍隊は拡大したため、これを維持する国家財政は危機に陥った。
 すでに3世紀以来、日常生活用の銀貨の改悪と増発が甚だしく、貨幣価値を信用できない政府自身が、ディオクレティアヌスが始めた新しい農業課税、カピタティオ・ユガティオ制による納税を現物納とした。その税収を確保するために農民や小作人は農地から移動することを禁ぜられ、332年には逃亡した小作人を、自由人であるにもかかわらず、鎖で縛ることを命じた。都市の有産層すなわち地主も都市全体の納税責任者とされ、その身分は世襲とされた。次々に法律が出され、商人も職人も船主も兵士も世襲身分として国家に奉仕することを命ぜられたので、ローマは一種のカースト制的国家となった。これを嫌った大地主は、都市領域の外に大所領をつくり、納税を逃れて独立化した。いまや教会が大地主の仲間入りをした。この時期、北方国境は危機に陥り、ウァレンス帝(在位364~378)は西ゴート人に敗れて遺体もみつからなかった。テオドシウス(在位379~395)は西ゴート撃退をあきらめ、彼らに防衛義務と引き換えにトラキアに定住地を与えた。彼らは自らの王をいただき、自分たちの指揮官の下でローマ軍に参戦したから、事実上は帝国内のゲルマン国家であった。このことを定めた382年の条約は、ローマ、ゲルマン関係の逆転点であった。
 4世紀の末、ローマ元老院議員シンマクスとミラノ司教アンブロシウスの間に異教対キリスト教の決定的論争が行われ、392年には異教的貴族エウゲニウスの最後の武力抵抗もローマを中心に勃発したが、テオドシウスによって鎮圧され、異教的抵抗は破砕された。[弓削 達]
西ローマ帝国とその滅亡(395~476)
395年テオドシウス帝が死ぬと、帝国の東半分を長男アルカディウス(在位395~408)が、西半分を次男ホノリウス(在位393~423)が皇帝として分治した。ホノリウスの治政の前半はバンダル人スティリコが政治の実権を握り、ホノリウスの死(423)後まもなく即位したウァレンティニアヌス3世(在位425~455)は母ガラ・プラキディア(テオドシウスの娘、ホノリウスの異母妹)の影響下にあった。このテオドシウス朝期の西の帝国は、相次ぐゲルマン人の侵入と帝国領内での建国、帝国政府の直接統治領の縮小、税収の枯渇によって、没落の一途をたどる。
 410年にはアラリック王の指揮下の西ゴート人がローマ市を占領し、3日間これを劫略(ごうりゃく)した。西ゴートはやがてガリアに移動し、その地でアタウルフ王は人質として連行していたガッラ・プラキディアと正式に結婚した。彼女は王が死去してから、ローマに送還され、将軍コンスタンティウス3世と結婚、後のウァレンティニアヌス3世を産んだ。406~407年の冬に、バンダル、スエビ、アラマンの諸民族はライン川を渡りガリアを席捲して、スペインに入った。バンダル人はさらに北アフリカに渡り、ほぼいまのチュニジアの地にバンダル王国を建設した。この間ガリアのアルモリカでは農民の反乱(バガウダエの乱)が続き、ブルグントもガリアに侵入した。そのブルグントはフン人によって殲滅(せんめつ)させられたが、アッティラ王率いるフン人も、ローマの将軍アエティウス指揮下の他のゲルマン諸集団(ローマの同盟集団)の混成部隊にカタラウヌムの戦い(451)で敗れ、アッティラの急死(453)後、フン部隊は急速に瓦解(がかい)した。
 ウァレンティニアヌス3世の暗殺後、相次いでたった短命の数人の皇帝の時期、政治の実権はスエビ人リキメルが握り、465~467年にかけての18か月間は皇帝なしで統治し、やがて東から送り込まれてきた皇帝アンテミウスをも殺したが、彼もその6週間後に死んだ。次に実権を握った将軍オレステスは、ふたたび東から送り込まれた皇帝ネポスを追い出し、息子ロムルス・アウグストゥルス(在位475~476)を帝位につけた。ローマに雇われている同盟部族軍の長スキラエ人オドアケルは、給与の交渉でオレステスと決裂してこれを殺し、ロムルス・アウグストゥルスを帝位から追い(476)、帝冠を東に返し、東の皇帝の権威の下にたつことを選んだ。追われたネポスは、ダルマティアで480年に殺害されるまで、自らが皇帝であると主張していたが、476年の事件は一般に西のローマ帝国の滅亡の年とされる。この間にバンダル王ガイセリックはローマ市を占領、劫略し、サルデーニャ、コルシカも占領、北アフリカでも領土を拡大していた。476年のオドアケルの領域はイタリア、ラエティラ、ノリクムの一部、年金支払いと交換にガイセリックから譲られたシチリアに限られた。ラエティアの大部分は異民族の手にあり、ノリクムも488年には完全に放棄した。これ以外のかつての西のローマ領は、すべて異民族諸王国の領有するところとなっていた。これが西ローマ帝国の滅亡といわれたときの状態である。[弓削 達]

ローマ史の研究史


 ローマ史の批判的・科学的研究は19世紀初めに始まるが、それ以前においても、たとえばルナン・ドゥ・ティルモンらの史料収集、マキャベッリ、ダランベールらの通史的叙述を受けて、ペリゾニウスおよびド・ボーフォールによって文献史料の批判的研究が始められた。それらを土台として、ベルリン大学のニーブールの『ローマ史』(1811、12)の批判的通史が、農制、軍事、社会、政治制度、農民共同体を中心に展開され、科学的歴史学の出発点となる。続いてローマ法学者テオドール・モムゼンの法律・制度を中心にした巨大な研究が現れ、『ローマ法大全』の刊行をはじめ、今日に至るまで研究者の依拠するものを与えている。この巨峰を受けて、イタリアのパイス、デ・サンクティスの批判的通史が現れ、ドイツでは人口史を取り込んだベロッホの叙述がなされる。モムゼンの弟子のなかから、ヒルシュフェルト、デッサウは帝政期に、ゼークは古代末期に巨峰をつくる。
 他方、個人史研究(プロソポグラフィー)の分野で、ミュンツァー、ゲルツァー、イギリスのサイムが巨大な業績をあげて社会史研究に道を開き、ローマ人の主要な概念の研究から価値意識を明らかにしたハインツェもこれに加わった。亡命ロシア人ロストフツェフの『ローマ帝国社会経済史』(1926)は、碑文、パピリ、貨幣ほかあらゆる考古学的史料をも総動員した通史として、前人未踏であると同時に、その後これに匹敵するものはない。アメリカ人フランクは、経済史史料の収集・翻訳(全6巻)によっていまなお研究を益している。
 第二次世界大戦後の顕著な傾向としては古代末期の研究があり、シュタイン、A・H・M・ジョーンズ、フォークトの三大著はその推進役といえる。ローマ宗教史の研究には、戦前からのビッソア、戦後にかけてのラッテ、アルトハイム、テーガーがそれぞれ宗教と政治・社会の関係を明らかにしている。旧ソ連を中心としたマルクス主義史学の立場にたった研究も、いまや膨大な内容をもつに至っているが、とくにそれらに刺激された奴隷制の研究は、フォークトを中心にしたマインツ・アカデミーの奴隷制研究グループを生み出した。最近ではフランスのアナール学派のなかから、ポール・ビューヌの『パンとサーカス』のごとき社会史研究が生まれ、盛んになりつつある。[弓削 達]
『E・マイヤー著、鈴木一州訳『ローマ人の国家と国家思想』(1978・岩波書店) ▽ボールスドン編、長谷川博隆訳『ローマ人――歴史・文化・社会』(1971・岩波書店) ▽ウォールバンク著、吉村忠典訳『ローマ帝国衰亡史』(1963・岩波書店) ▽吉村忠典著『人間の世界歴史4 支配の天才ローマ人』(1981・三省堂) ▽吉野悟著『ローマ法とその社会』(1976・近藤出版社) ▽吉村忠典編『世界の戦争2 ローマ人の戦争』(1985・講談社) ▽長谷川博隆著『ローマ人の世界』(1985・筑摩書房) ▽弓削達著『ローマ帝国の国家と社会』(1964・岩波書店) ▽弓削達著『地中海世界とローマ帝国』(1977・岩波書店) ▽弓削達著『世界の歴史4 ローマ帝国とキリスト教』(1968・河出書房新社) ▽弓削達著『生活の世界歴史4 素顔のローマ人』(1975・河出書房新社) ▽弓削達著『世界の歴史3 永遠のローマ』(1976・講談社) ▽弓削達著『ローマ皇帝礼拝とキリスト教徒迫害』(1984・日本基督教団出版局)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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