インド洋(読み)インドヨウ(英語表記)Indian Ocean

翻訳|Indian Ocean

デジタル大辞泉 「インド洋」の意味・読み・例文・類語

インドよう〔‐ヤウ〕【インド洋】

三大洋の一。アジア・オーストラリア・アフリカの各大陸に囲まれ、南極海に続く。面積は約7344万3000平方キロメートル、平均の深さは3963メートル。

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精選版 日本国語大辞典 「インド洋」の意味・読み・例文・類語

インド‐よう‥ヤウ【印度洋】

  1. アジア、アフリカ、オーストラリア、南極の四大陸に囲まれた、世界三大洋の一つ。古くから東西交易の航路が開けた。付属海は、ベンガル湾、アラビア海、ペルシア湾など。

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改訂新版 世界大百科事典 「インド洋」の意味・わかりやすい解説

インド洋 (インドよう)
Indian Ocean

世界三大海洋のうち,第3位の大洋で,北はアジア,西はアフリカ,東はオーストラリア,南は南極の各大陸で囲まれる。面積7491万7000km2,容積2億9194万5000km3,平均水深3897m,最大水深7437mである。付属海は北辺沿いに発達し,西から東へ紅海,アデン湾,ペルシア湾,アラビア海,ベンガル湾とつらなり,ジャワとオーストラリアの間にはティモール海とアラフラ海がある。インド洋中には世界第4の大島マダガスカル島やセイロン島をはじめ,特に西部に島嶼が散在するが,島の数は少ない。

 なお,南極大陸から一般に南極収束線(インド洋では南緯50°付近)までの海を南極海という。南極海はインド洋,太平洋,大西洋の一部であるが,気象,海流,生物分布などについて共通する部分が多いため,それらについては〈南極海〉の項目で述べる。
執筆者:

ギリシア人はエリュトラ海(紅海,ペルシア湾,インド洋の総称)が大西洋に続いていることを古くから知っていた(ヘロドトスの著作や《エリュトラ海案内記》に見られる)。古代地理学の集大成者プトレマイオス(2世紀)になると,かえってインド洋は周囲を陸地で囲まれた内海とされる。イスラム地理学者たちは,インド洋を〈インドの海〉〈ザンジュの海〉〈エチオピアの海〉と呼び,インド洋を内海とは見なさなかったが,プトレマイオスの影響は根強く,彼らの地理書では,アフリカの南端は中国の対岸までずっと東に延ばされている。ビールーニーal-Bīrūnī(11世紀)になると,この東への延びは半島規模に縮小され,インド洋と大西洋を結ぶ水路の存在がアフリカ南部に予測されている。そしてバスコ・ダ・ガマのインド洋横断の水先案内人を務めたといわれるイブン・マージドは,それ以前にすでに上述の水路の存在をより明確に予測していた。12世紀以後の中国の地理書はアラブからの情報などをもとにマダガスカル島あたりまでの東アフリカ沿岸をかなりよく記しており,15世紀初頭の朝鮮の世界地図ではアフリカは南をさし,ほとんど正確な三角形となっている。
執筆者:

他の二大海洋にくらべて大陸棚の発達が悪い。アフリカ東岸でマダガスカル島に向けて流出するザンベジ川沖合,インダス川のつくりだす海底扇状地より成るアラビア湾,ガンガー(ガンジス)川の排出による海底扇状地から成るベンガル湾は,例外的に広い大陸棚である。散在する島の多くは大陸型の地殻をもち,火山性の海洋島は少ない。マダガスカルをはじめ,南方に続くマダガスカル海嶺,モザンビーク海台,マスカリン海嶺,チャゴス・ラカディーブ海嶺,東経90度海嶺,ブロークン海台,ケルゲレン海台,プリンス・エドワード・クロゼ海台などは,花コウ岩質の大陸型地殻をもち,地震源をもっていない。他方,中央を南北に走るインド洋中央海嶺と,その南端で南西と南東へ枝分れする海嶺,あるいは北西へ転じてアデン湾に続くカールズバーグ海嶺は玄武岩質の海洋型地塊をもち,浅発地震源となっており,大洋底拡大軸と考えられている。これらの海嶺は南北性の,おもなものだけでも6本に及ぶ断裂帯,2本以上の東西性断裂帯で切られている。ディアマンティナ断裂帯はブロークン海台南縁につらなる,そうした東西性断裂帯の一部と見なされる。ジャワ海溝は,インドネシアのスンダ列島の下へ,インド洋の西オーストラリア海盆底がもぐりこむ過程で生じた海溝である。

海底は,ザンベジ川,インダス川,ガンガー川の沖合を除くと,ほとんどが陸源砂泥のまれな遠洋性堆積物で占められている。水深約4000m以浅の海嶺上では,石灰質の殻を分泌するプランクトンの遺骸より成る石灰質軟泥が発達するが,深い海盆部では石灰質が溶解するため褐色粘土ケイ質軟泥が卓越する。同じようにケイ質軟泥とはいえ,南緯5°を中心に分布するものは赤道海流と反流の間で生じる湧昇流に基づくプランクトン大発生帯によるもので,放散虫の殻を主成分とする。南極収束線もプランクトン大発生地帯(南緯60°を中心)でケイ質軟泥が発達するが,こちらはケイ藻の殻を多量に含む。南極収束線にかけて生物生産量が増大し,堆積速度も早くなるため,海底地形は南に向かうほど厚く堆積物で覆われ,起伏が目だたなくなる。サンゴ礁はインドより西方において北緯約15°から南緯30°に至る浅海域に発達し,特にチャゴス・ラカディーブ海嶺上のものは19世紀末以来,よく研究されている。その多くは基盤が大陸型地殻であって,太平洋におけるように火山岩のものは,西オーストラリア海盆でC.ダーウィンが発見したココス環礁など少数である。

インド洋はアフリカ,南アメリカ,南極,オーストラリア,インドなどがひと塊となって形成していたゴンドワナ大陸が分裂したあとにできたものと考えられている。数多くの島や海嶺が大陸型地殻をもっているのは,分裂後に残された大陸の残片と考えられる。深海ボーリングによると,最古の海洋堆積物はジャワ海溝沖合のジュラ紀後期のものである。しかし本格的に大洋底拡大が始まったのは,約1億4000万年前の白亜紀初期で,南西インド洋海嶺を軸にオーストラリアと南極大陸が他から分離し始めた。白亜紀半ばからは,インドが他から分離し,北上し始めるが,オーストラリアとは東経90度海嶺を拡大軸として分離した。その後同海嶺は,断裂帯へ変身してゆく。オーストラリアと南極との分離は,ずっと遅く約4000万年前の後期始新世に始まり,南極環流が形成されるほど開くのは始新世を過ぎてからである。同海流は南極大陸氷河を生じ,海底に厚いケイ質軟泥を積もらせるもととなった。カールズバーグ海嶺の北西端はオーエン断裂帯で切られるが,その延長はアデン湾を経て紅海とアフリカ大地溝帯に至り,そこでは現在拡大中であると考えられている。

紅海中央部では1960年代に重金属を大量に含む泥が発見され,亜鉛,銅,銀に富んだ熱水鉱床として注目されている。マンガン団塊はインド洋全体に広く分布し,その中央部や西オーストラリア海盆中央部にかなり濃集しているが,本格的採鉱はまだ予定されていない。リン鉱床はアフリカ南端沖以外は望みが薄い。海底油田,ガス田はペルシア湾で開発されているほか,インドのボンベイ(現,ムンバイー)沖,オーストラリア北西部の大陸棚,地質的にジャワ・スマトラの延長であるアンダマン,ニコバル諸島域と,ベンガル湾などに埋蔵が予想される。
執筆者:

11月から3~4月までアジア大陸には高気圧が発達し,熱帯インド洋は低気圧域になる。大陸から南に向かって吹き出る風はコリオリの力によって進路を西寄りに曲げられて北東の風(季節風)になる。5月から9月ころまでは気圧配置は逆になり,海から大陸に向かう南西の季節風が吹く。1年を通じて200日以上にわたって季節風が吹く海の面積は世界中の海の面積の10%足らずであるが,インド洋北部の全部と東南アジア海域の一部はこの典型的季節風帯に覆われており,大西洋や太平洋のように貿易風に広く覆われた大洋とは違った特徴を示す。南インド洋は近くに大きな大陸がないから,太平洋や大西洋とほぼ同じように1年を通じて南緯10°~30°では南東貿易風が,その南では偏西風が吹く。インド洋に発生する熱帯低気圧の数は1年に20足らずで,世界中で発生する総数の約1/3に当たる。

インド洋全体としては蒸発量が降水量と河川水量の和を上回るから海水は煮つめられる形になって平均表層塩分は一般に高くなる。ベンガル湾やアンダマン海に降水量が非常に多い上にブラフマプトラ川イラワジ川から大量の淡水が流れこむために雨季(北半球の夏)には塩分がいちじるしく低くなる。この低塩分水は冬に北東季節風によってアラビア海へ押し出されるが,夏の南西季節風によって再び押し戻される。このため,ベンガル湾やアンダマン海の表層塩分の年変化は1~3‰に達し,大洋での通常の値よりも1桁は大きい。紅海では蒸発量が降水量よりもずっと大きいため塩分は40~41‰に達する(世界中での平均値は34.7‰)。アラビア海はこの紅海につながっており,流れこむ大河としてはインダス川しかないので,塩分は高い(約36‰)。オーストラリアの西側の塩分も同じ程度に高い。

熱帯インド洋では季節風の影響を受け,海洋の流れが冬と夏とで変化するという他の大洋では見られない特徴をもつ。北半球の冬の熱帯インド洋の流れは太平洋や大西洋と大差がない。赤道に沿って表層海水は西へ流れ,その直下では,太平洋や大西洋ほどにははっきりしないが,赤道潜流が東へ流れる。北半球の夏にはソマリア沿岸を夏にしか現れないソマリア海流が北上する。これは,赤道の北では南西季節風がソマリア沖の海水を沖合に運ぶが,赤道の南では南東貿易風がケニアやタンザニア沖に海水を吹き寄せることによる。このため海面は赤道を挟んで南で高く,北で低くなる。海水はこの斜面を下って流れ,ソマリア海流になる。この海流は北緯8°あたりで東へ向きを変える。これに伴ってソマリア沖では下層から冷たい水が湧き上がる(この現象を湧昇と呼ぶ)。沿岸域と遠い沖合とでは表層水温が10℃も違うことがある。この海域では湧昇が強いので生物生産性は高く,プランクトンは豊かであるが,水温が低すぎるためにサンゴ礁はほとんど見られないし,しばしば濃霧が発生するので航海の難所となっている。北東季節風のもとでは赤道の両側で水位に差がないのでソマリア海流は消滅し,弱い流れがソマリア沖を南下する。

 南インド洋は東西にも南北にも広いので,南太平洋や南大西洋と同じように時計と逆回りの循環が一年中存在する。
執筆者:

外洋域の表層における植物プランクトンによる1次生産の生産量やその分布は季節により異なる。北東季節風期(北半球の冬)には,東アフリカやインドネシアの沖合に0.5~0.7gC/m2・dayの高生産量(gCは炭素固定量のグラム数)が見られるほかは,大部分が0.05gC/m2・day程度の低生産量域となっている。南西季節風期には,低生産量域の値が全体に2~3倍高まるほかに,季節的な湧昇流を生ずるアラビア海西部のオマーン沖合では1.5gC/m2・dayの高生産量を示す。しかしインド洋南半部の中心付近に生ずる渦流域では低生産量のままで,この直下の深海底でもベントス(底生生物)の現存量が低く,0.05g/m2以下の貧栄養域となっている。

 インド洋の沿岸は大部分が熱帯域で,サンゴ礁も散在しているが,最南部に当たる南アフリカとオーストラリア南西部のみが亜熱帯・暖帯域となる。熱帯性沿岸域の生物相は,西太平洋との間にはかなり多数の共通種がありながら大西洋とは共通性が希薄なので,海洋生物地理学上は通常〈インド・西太平洋生物地理区〉として一括されている。しかしインド洋の固有種・亜種も少なからず存在し,特にインド半島以西の西部インド洋では東部より固有種が多く,また紅海のみに限られるものもある。逆に西太平洋との共通種は西部より東部に多い。
執筆者:

インド洋北部を通るいわゆる南海路は,中央アジアを通る西域路(シルクロード)と並んで古来東西交通の二大幹線をなしてきた。その意味で南海路は〈海のシルクロード〉ともいえよう。実際,南海路もまた重要な絹の輸送路であった。南海路はまた香料類をはじめとするインド洋周辺部の熱帯・亜熱帯産の珍貴な特産品を東西の諸国に提供するルートとして,〈香料の道〉とも呼ばれ,また12世紀以後中国の陶磁器が大量に輸出されたルートとして,〈陶磁の道〉とも呼ばれる。しかし,インド洋とその周辺部は,何よりもまず,長い人的・物的相互交流と融合の歴史をもつ〈インド洋世界〉とでもいうべきひとつの広い交流圏であった。

 相互交流の始期は不明であるが,アフリカのサバンナ地帯の雑穀類のインドへの伝播や東南アジアからアフリカへの栽培種バナナの伝播は前2000年かそれ以前と考えられており,前2300年ころには,すでにメソポタミア,インダス文明間にペルシア湾経由の沿岸航路が発展していた。紅海沿岸では,前10世紀にイエメンのサバ王国がインドの香料貿易の仲介で繁栄し,さらにフェニキア人,そしてアレクサンドロス大王の遠征以後エジプトを基地としたギリシア人の進出もみた。インド人,アラブ,フェニキア人は季節風(夏の南西風,冬の北東風)の利用法をすでに知っていたと思われるが,1世紀中ごろの《エリュトラ海案内記》は,これを発見したのはギリシア人舵手ヒッパロスHippalosだとする。ともかく,ローマ帝国の出現ともあいまって紅海経由のインドなどとの貿易は飛躍的に発展した。特にインド南西部産コショウの輸入のために大量のローマ金銀貨が流出した。166年には大秦王安敦(ローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスを指す)の使者と称するローマ人が漢朝支配下のベトナムにやって来ている。一部の中国人もセイロン島辺まで行ったようである。3世紀にはいると漢は滅亡しローマも衰退する。1~7世紀,あるいはそれ以後もまたインドと東南アジア,中国との間の海上交通で活躍したのはインドや東南アジアの船乗りであり,前述の中国人も彼らの船を利用したものと考えられている。この間,仏教をはじめインド文化が東南アジアに普及し,広いインド文化圏が成立した。

 7世紀以降のイスラムの成立・拡大,特に8世紀中ごろのバグダードに都するアッバース朝の成立以来,インド洋・ペルシア湾ルートが東西貿易の幹道となり,すでにササン朝末期に中国にまで進出していたペルシア人の後を追ってアラブもインド洋各地へ進出,8世紀後半には中国までの定期的ルートを完成させた。中国の史書に波斯船(ペルシア船。義浄はこの船で渡印した),次いで大食(タージ)船(アラブ船,イスラム船)として現れる彼らの船は,1本マストで三角帆,側板の接合に鉄釘を用いずヤシの繊維の縄で縫ったダウdhowとよばれる小型船であった。後述の中国船と同じく,ペルシア湾の奥から広州まで単純計算で3ヵ月,しかし風向きの関係で実際は1年,往復で2年かかった。唐とアッバース朝が並び立ったこの時代,西域道とともに南海道の貿易は大いに発展した。唐の広州の〈蕃坊(居留地)〉で,黄巣の乱(875-884)のとき,イスラム,ユダヤ,キリスト,ゾロアスター教徒商人,合わせて12万人が虐殺されたとの風聞をアラブの書《シナ・インド物語》は記している。10世紀にアッバース朝が衰退し,エジプトのファーティマ朝が発展して以来15世紀まで,ペルシア湾ルートに代わって紅海ルートが東西の幹線ルートになったといわれる。しかし,ペルシア湾ルートがすたれたわけではなく,湾口に近いキーシュKīsh(11~14世紀前),ホルムズHurmuz(14世紀初頭以後)の二大貿易港が,モンゴル帝国,オスマン・トルコ帝国の内陸貿易ルートとの接点として,また11世紀以来戦闘形態の変化により急増したペルシア馬,アラブ馬のインドへの輸出を独占して繁栄した。この時期に東アフリカ沿岸のアラブ,ペルシア人の居留地が発展し,インドや東南アジアのイスラム化が進展するなど,インド洋周辺でのイスラム世界の拡大と多様化がさらに進んだ。

 宋代,特に12世紀,南宋の頃から中国商船が宋の銅銭,陶磁器,特に磁器などを大量に積んで南方諸国へ積極的に進出し,コショウその他の香料・香辛料,真珠・宝石類,象牙,サンゴ等の南方物産を持ち帰るようになった。彼らの活動は長らくインド南西海岸のキーロン,カリカットを西限としていたが,そのルートではもっぱら中国船が用いられたことは元代のマルコ・ポーロイブン・バットゥータらが証言している。15世紀になると鄭和の7次にわたる遠征隊(1405-33)がホルムズ,南アラビアのアデン,ジュッダ,メッカ,東アフリカのマリンディにまでいたった。12世紀以来の中国のジャンクは,普通3~4本マストの四角帆,鉄釘を用いた大型船で,羅針盤を備えていた。その後,明朝の海禁政策で中国船がインド洋に現れるのはまれとなるが,ジャンクはおそらくベンガル湾でも建造されていく。15世紀のインド洋,特にその東部で活躍したのは,外来,土着を問わず,インドを本拠とするイスラム商人や一部ヒンドゥー商人であった。彼らの運送したインド綿布(13世紀中ごろと推定される糸車の導入で生産が増加した)は,東アフリカで黒人奴隷や象牙の購入に用いられるなど,インド洋全域への最も重要な商品であったが,特に東南アジア産の丁子(クローブ),ニクズク(ナツメグ)などの香料入手に不可欠で,彼らは新興のマラッカ王国で大きな影響力をもった。

 15世紀初めに経済危機に悩むエジプトのマムルーク朝が香料の国家専売制を導入したことが,結果的に15世紀末のポルトガル人のアフリカ南端迂回ルートによるインド洋への進出を招いた。船上での火器の使用技術に優れたポルトガルの香料貿易独占政策にもかかわらず,16世紀後半には紅海経由のコショウ貿易が復活した。17世紀にオランダ,イギリス,フランスが進出すると,紅海経由のヨーロッパとのコショウ貿易は重要性を失ったが,インド洋周辺地域相互間の貿易パターンにはあまり変化がなく,その中でのヨーロッパ諸国の取引量の占める割合も少なかった。しかし,アジア諸国の植民地化,勢力圏化が進展し,インド綿業などが破壊されると貿易パターンも変化し,プランテーション労働力などとして多数のインド人移民が東南アジアや東・南アフリカへ送られるという事態も生じた(1890-1920年にインドを出た移民数は1200万人余にのぼる)。インド洋周辺諸国がほぼ政治的独立を回復した今日,それら諸国から船(伝統的な木造帆船も含めて)や飛行機でアラブ産油国へ出稼ぎに行く者やメッカへの巡礼者が多いこともインド洋周辺部相互間の結びつきの強さを示している。今日,インド洋は産油国をめぐる米ソ両超大国の勢力争いの場ともなっている。
東西交渉史
執筆者:

15世紀末にバスコ・ダ・ガマがインド西岸に到着して以後,アフリカ東岸,南アジア,東南アジアにはポルトガルの勢力が広がった。まもなくイギリス,フランス,オランダがこれを追ってインド洋に現れ,互いに勢力を争った。しかし海軍力に優れたイギリスは沿岸の大部分の地域を植民地化し,喜望峰,スエズ地域,セイロン島,マラッカ海峡などの要点を支配して,一時はインド洋を〈マーレ・ノストルムmare nostrum(われらの海)〉とした。フランスもマダガスカル,レユニオンその他洋上の島を領有した。しかし第2次世界大戦後,沿岸諸地域や島嶼の政治的独立によってイギリス,フランスの勢力は大きく後退し,これに代わってアメリカ,ソ連の進出が著しくなった。ソ連は1968年以来インド洋に艦隊を常駐させ,沿岸諸国の港湾拡張工事を援助,アメリカはチャゴス諸島(イギリス領)のディエゴ・ガルシア島に軍事基地を獲得,ソ連も南イエメンとエチオピアに基地を獲得した。これは資源地帯としてのインド洋の重要性,とりわけペルシア湾沿岸産油地帯の戦略的重要性と結びついている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「インド洋」の意味・わかりやすい解説

インド洋
いんどよう
Indian Ocean

太平洋、大西洋と並ぶ三大洋の一つ。三大洋中最小で、地質的にもっとも若い。

[半澤正男・高野健三]

範囲と大きさ

北はインド、パキスタン、バングラデシュ、西はアラビア半島およびアフリカ、東はマレー半島、スマトラ、ジャワの列島線およびオーストラリア、南は南極大陸に囲まれた海洋である。太平洋との境界は通常便宜的にタスマニアの経度線(東経147度)、大西洋との境界はアガラス岬(アグリアス岬)の経度線(東経20度)である。付属海も含めると面積は約7500万平方キロメートルで全海洋面積のほぼ21%、容積は約2億9000万立方キロメートル、平均の深さは約3900メートルである。付属海のペルシア湾とはホルムズ海峡で、紅海とはバブ・エル・マンデブ海峡でつながっている。低緯度海域に海上交通が集中しているので、インド洋は熱帯の海と考えられやすいが、実際は南極圏まで広がっている。

[半澤正男・高野健三]

歴史

古名をエリトラ海(エリトレア海)Erythraean Seaというが、これは、紅海、ペルシア湾、アラビア海と、現在のインド洋北西部をさしたものと考えられている。古代の大航海としては、マケドニアのアレクサンドロス大王(紀元前356―前323)の軍隊のインド遠征(紀元前327~前323)からの帰航がある。大王が船に乗っていたわけではないが、インダス川を下ってペルシア湾に入り、陸路を帰国中の本隊に合流するまで5か月に及ぶ航海だったという。これよりも前、紀元前16~前15世紀にフェニキア人はペルシア湾やアフリカ東南部沖を航海していたという説があるが、フェニキア人は彼らが開いた航路をほかの国々に知られることを嫌って航海記録を残していないので、その活動状況は明らかではない。

 アフリカ沖については、カルタゴ人ハンノ(紀元前500年ころ)の西岸沖航海が名高いが、アフリカには魅力のある交易商品が乏しかったので、人々の関心は東方に向かった。ペルシア、インド、中国などの絹、宝石、香辛料は価値の高い商品だった。ローマ時代には多数の船が季節風と海流を利用してインド洋を西から東へ、東から西へ航行していた。海岸沿いに航行するよりも、ずっと南に航路をとって、季節風と季節によって変わる海流を利用するほうが航海日数が短くなることはすでに知られていた。

 ローマ帝国が滅びると、アラビア人が東方への陸路と海路をほぼ独占することになった。中世に科学・技術は著しく進歩したわけではないが、人手が以前ほど得やすい社会ではなくなったため、人力を動力でおきかえる工夫が必要となり、科学・技術の応用面では進展があり、近代社会へ発展するための基礎が固められていった。中国では7世紀に舵(かじ)が船尾材に固定され、12世紀には羅針盤が広く使われていた。十字軍(1096~1270)がアラビアを経て中国からヨーロッパへ磁石を伝えたのが12世紀である。北ヨーロッパに羅針盤が導入されたのは13世紀であり、船尾材に舵を固定した船がヨーロッパで初めてハンザ同盟で使われたのも13世紀である。ある場所の緯度を知るには天体の高度(仰角)を測ればよいことはフェニキアの昔から知られていた。高度を測る器具にも改良があって、船体構造と航海術の両面で帆走能力は高まった。

 東方への新しい航路――アラビア人の支配下にない航路――を求めて西ヨーロッパ人はアフリカ西沖航海を再開した。ハンノの航海から約2000年もたっていた。ディアスBartholomeu Diaz (Dias)(1450ころ―1500)は、アフリカ南端をまわって1488年に大陸のインド洋側にヨーロッパ人としては初めて到達した。彼はこの南端を「嵐の岬」と名づけたが、のちにポルトガル王の命名で喜望峰となった。そのあと、ガマVasco da Gama(1469―1524)は1498年にインドに到達した。ポルトガル人らによる喜望峰沖経由の航海は増え、東方交易でのアラビア人の独占を阻んだ。これがアラビア人の勢力衰退の一因となった。

 一方、東洋人の最初のインド洋航海は、確実な資料では、明(みん)の鄭和(ていわ)による。永楽帝の命を受け、1405~33年の間に7回にわたりインド洋を航海し、インド西岸、ペルシア湾、アフリカ東岸などに遠征した。鄭和隊のインド洋航海はバスコ・ダ・ガマよりも数十年早い。

 日本で、記録がはっきり残っていてもっとも古いのは1582年(天正10)、キリシタン大名の大友宗麟(そうりん)、有馬晴信、大村純忠(すみただ)が、伊東マンショ、千々石(ちぢわ)ミゲルを正使とする使節団(天正遣欧使節)をローマ法王に送った航海である。彼らはインド洋を横断し、85年にローマ入りをしている。

 一方、インド洋の海洋学的解明は19世紀に至るまでほとんど行われなかった。19世紀中葉から20世紀前半にかけて、イギリスのチャレンジャー号による海洋大探検ののち、ドイツ、オランダなどの海洋探検がある。20世紀なかばからはいくつもの国際共同研究・調査が行われている。

[半澤正男・高野健三]

海底地形と地質

海洋底は海嶺(かいれい)によって大きく三つの部分に分けられている。海嶺のうち最大のものは中央インド洋海嶺で、アデン湾からインド洋中央部に逆Y字形に走っている。この海嶺の北東部分には、ほぼ東経90度に沿う東経九十度海嶺がある。これらの海嶺によって分かれた海盆の深さは、ほとんどが5000メートル以上である。ジャワ、スマトラに沿って走るスンダ海淵(かいえん)はインド洋における唯一の海淵で、最深部の深さは7455メートルである。

 中央インド洋海嶺によって分けられた北東部には、アンダマン、中央インド洋、西オーストラリア、南オーストラリア海盆が、南部にはクローゼー、大西洋・インド洋、南インド洋海盆とケルゲレン海台が、北西部にはソマリ、マダガスカル、アグリアス、ケープ海盆とマスカリーン海台がある。アラビア海盆とソマリ海盆との間にある中央海嶺の一部はカールスベルク海嶺とよばれる。紅海裂谷の最深部は2835メートルであるが、紅海の入口バブ・エル・マンデブ海峡の深さは125メートルにすぎない。中央インド洋海嶺東部の深海堆積(たいせき)物は、主として赤粘土、西部はグロビゲリナ軟泥、南極大陸の近くは珪藻(けいそう)軟泥である。

[半澤正男・高野健三]

気象

インド洋の北部および赤道域の気象の特徴は、季節風(モンスーン)の存在である。インド洋南部(南極海)では年間を通じ大気環流の季節変化は小さい。

 北半球の冬、すなわち12月から2月まで赤道域の低圧部はほぼ南緯10度にあり、北オーストラリアの低圧部とつながっている。一方、アジア大陸には強い勢力の冬の高気圧がある。この結果、赤道以北では強い北東の季節風が吹く。これは赤道を越え、熱帯内収束帯に達する前に北西風となる。南半球の亜熱帯高圧帯の尾根は南緯35度付近にあり、南緯40度以南では強い西風が卓越する。南極大陸周辺を回る低気圧の多くはここで発生し、発達する。「ほえる40度」the roaring fortiesとはこの付辺の暴風圏のことをいう。

 6月から8月の北半球の夏には、イラン付近に中心をもつ低圧部がアジア大陸に発達する。南半球の亜熱帯高圧帯の尾根はやや北に偏り、オーストラリアの高圧帯とつながっている。赤道を南から北に南西季節風が吹く。この季節風はインド、バングラデシュ、ミャンマー(ビルマ)などに雨期をもたらし、多量の降水をもたらす。6月から8月にかけての北半球の風は、冬期の2月に比べはるかに強い。南半球においては西風帯は約5度北に偏り、偏西風は南緯30度あたり以南で吹くようになる。そして南半球が冬であるこの時期、南極大陸周辺の西風は強い。

[半澤正男・高野健三]

海流

インド洋の海洋循環は風系にもっとも強く影響されている。南半球の南緯35度以南では強い西風が卓越しているため、西から東へ向かう流れがある。西風がもっとも強くなる南緯50度付近では周南極海流が西風海流(西風皮流)とともに流れている。南インド洋の亜熱帯海域では海洋の循環はおおむね反時計回りである。これは、南緯10~20度を流れる南赤道海流、マダガスカル島とアフリカ大陸の間のモザンビーク海流、その延長で南アフリカ沖を流れるアグリアス海流(アガラス海流)と西風海流からなる。

 北緯10度以北では季節風のため海流の様相は季節によりまったく異なる。2月、すなわち北東季節風の時期、赤道以北の流れはほぼ西向きで、北赤道海流がもっとも発達する。これはソマリア沿岸で南に向かい、さらに東に向きを変え、南緯2~10度を東向きに流れる赤道反流となる。8月、すなわち南西季節風のときは、南赤道海流は南緯10度以北にまで達し、その大部分はソマリア沿岸で北転して強いソマリ海流を形成する。赤道以北ではおおむね西から東に流れる。これを季節風海流(モンスーン海流)という。その一部はスマトラ島沖で南転し、南赤道海流となって西に向かう。

 インド洋の沿岸部では季節によっては顕著な湧昇(ゆうしょう)がみられる所がある。5月から9月の南西季節風の時期には、湧昇はバンダ海、ジャワ島南沖、ソマリア沿岸およびアラビア沖にみられる。このうちもっとも著しいのはソマリア沖のもので、この海域は湧昇に伴う豊かな漁場としても知られている。

[半澤正男・高野健三]

水温

海面水温の様相も夏と冬で大きく異なる。2月、熱帯内収束帯がほぼ南緯10度にあるとき、熱赤道は南半球にあり、赤道から南緯20度までの海面水温は約28℃である。ベンガル湾北部やアラビア海では水温はこれより低く、20℃以下の所もある。南半球では、水温は緯度が高くなるとともに低下するが、アフリカ沖とオーストラリア西岸沖には一部に温暖水が存在する。

 ソマリ海流はアフリカ沖の湧昇による冷たい海水を北に運ぶ。塩分の分布は海面からの蒸発、降水、陸水の流入によって決まるが、36psu(psuはpractical salinity unitの略、実用塩分単位)以上の高塩分域は、蒸発量が降水量より多い南半球の亜熱帯域に存在する。一方、南極大陸周辺では降水量が多いため塩分は低い。インドネシア海域からマダガスカル島に至る南緯10度に沿う海域では降水量が多いため、塩分は低い。ベンガル湾は巨大河川の流入のため塩分は低く、ときに30psu以下となる。蒸発の盛んなアラビア海では塩分が高く、36.5psu以上となる所もある。ペルシア湾(38psu以上)や紅海(41psu以上)は大半を陸地に囲まれた乾燥気候の影響で高塩分を示す。年間を通じ塩分分布のパターンの変化は小さい。

 潮汐(ちょうせき)大潮の潮差はアラビア海沿岸で大きく、アデンで1.4メートル、ムンバイ(ボンベイ)で3.4メートルである。ベンガル湾一帯は潮差が大で、ビルマ沿岸はとくに大きく7メートルに達する。スマトラ、ジャワ沿岸では1~2メートルであるが、オーストラリア西岸では大きく6~10メートルである。南アフリカ沿岸の潮差は1.5~2メートルの所が多いが、モザンビーク海峡では3~5メートルに達する。

[半澤正男・高野健三]

『長沢和俊著『日本人の冒険と探検』(1973・白水社)』『家島彦一著『海が創る文明――インド洋海域世界の歴史』(1993・朝日新聞社)』『尾本惠市他編『モンスーン文化圏』(2000・岩波書店)』


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百科事典マイペディア 「インド洋」の意味・わかりやすい解説

インド洋【インドよう】

アジア,アフリカ,オーストラリア,南極大陸に囲まれる大洋。英語でIndian Ocean。7342.7万km2,水深は平均3872mで,最大水深は7125m。付属海に紅海アラビア海ペルシア湾ベンガル湾アラフラ海があり,主要な島はマダガスカル,スリランカなど。西寄りの中央インド洋海嶺と東寄りの東インド洋海嶺などにより3部分に分けられ(大洋中央海嶺),マダガスカル海盆,中央海盆,西オーストラリア海盆などの深部がある。インド西岸とオーストラリア北岸・南岸には大陸棚が発達する。赤道海域の表面水温は25〜29℃,南緯30℃付近の塩分は36‰と高い。海流は北半球で季節風海流とソマリア海流,赤道付近で赤道反流,赤道潜流,南半球で南赤道海流,西風皮流,アフリカ東岸にモザンビーク海流がある。熱帯インド洋では,11月〜4月に北東の,5月〜9月に南西の季節風が吹く。
→関連項目アンダマン海グレート・オーストラリア湾ティモール海マイオット島モルディブ諸島

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「インド洋」の意味・わかりやすい解説

インド洋
インドよう
Indian Ocean

世界三大大洋中最小の大洋で,アジアの南,アフリカオーストラリア大陸の間に位置し,南は南極大陸に及ぶ。アフリカ南端のアガラス岬から東経 20°線に沿って南極大陸の海岸までの線が大西洋との境界とされ,南東における太平洋との境はタスマニア島の南東岬から南極までの東経 147°線に沿った線とされる。東での太平洋との境界はスンダ列島のマラッカ海峡スンダ海峡,ティモール海峡などとされるが,明瞭な定義はない。紅海ペルシア湾などの付属海を含めない面積は約 7344万km2,平均深度 3960m,最大深度 7450m。海底の調査はまだ十分ではないが,インドから南極大陸近くまで延びているインド洋中央海嶺によって東西に二分されている。マダガスカル島,セイロン島など大陸性の島がわずかにある。流入する大河川は比較的少なく,海底堆積物のほとんどが遠洋性堆積物である。海岸線は,湾や付属海が入り込んだ北部を除けば,一般にゆるやかな凹凸をなしている。

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世界大百科事典(旧版)内のインド洋の言及

【アガラス[岬]】より

…沖合はバンク(堆)で,好漁場となっている。なお,インド洋と大西洋を分けるのに,この岬をもってする考えと,インド洋からのアガラス暖流が岬のさらに西方のフォールス湾に流れこむので,喜望峰のあるケープ半島を境界とする海洋学的見解とがある。【編集部】。…

【モンスーン】より

…インド洋および南アジア,東南アジアにおいて,夏季は南西から,冬季は北東から吹く季節風のこと。アラビア語で〈季節〉を意味するマウシムmawsim(mausim)に由来する。…

※「インド洋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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