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日本演劇 にほんえんげき

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

日本演劇
にほんえんげき

古代には狩猟,漁労,農耕の豊産を祈る祭式が人々の生活と密着して行われていた。それらは民俗芸能としてその跡をとどめている。7世紀頃中国大陸から伎楽 (ぎがく) ,舞楽 (ぶがく) ,散楽 (さんがく) が入り,在来種のものに影響して神楽 (かぐら) ,舞楽,雅楽などとなった。散楽は農耕神事と融合して,田楽・猿楽などを導き出し,それらは室町時代に能・狂言として大成された。江戸時代には歌舞伎が,念仏踊,風流 (ふりゅう) など民俗的な祭り,芸能のなかから登場し,また人形浄瑠璃も盛んになった。これら中世から近世にかけて誕生,成熟した芸能は,伎楽を唯一の例外に,すべて原型をそこなうことなく現存し,演じられ,また多くの観客に享受されている。一方で明治期以降は,新派,新劇,大衆喜劇,ミュージカル,前衛劇など巨視的にみた現代劇が並列的に存在し,古典劇との二重の存在形態にある。また原則として能や狂言は能楽堂で,歌舞伎は歌舞伎劇場で,新劇は西洋風の近代的な劇場で上演されており,一つの演劇は専用の劇場空間と一体化して存在する。 1960年代後半から 70年代にかけて全盛を誇ったアングラ演劇も,テント劇場公演という特色をもった。なお,国立劇場は付属劇団をもたず,財団法人が経営する文楽を除いて,能・狂言は民間の家元制度に,歌舞伎は松竹に掌握され,日本における伝統芸能は国家に保護・管理されるものとは異なっている。地方では職業劇団がきわめて少いが,沖縄では独自の芸能が発展している。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

日本演劇
にほんえんげき

日本人が日本の風土と歴史のなかで生み育てた演劇、芸能、舞台芸術。明治維新前につくられた伝統的なものと、近代・現代に発生成立したものとに大別される。伝統芸能には舞楽(雅楽)、能・狂言、文楽(ぶんらく)(人形浄瑠璃(じょうるり))、歌舞伎(かぶき)、多種多様の民俗芸能(郷土芸能)など、近代・現代のものには新派劇、新劇、オペラ、バレエ、大衆演劇、少女歌劇や、学校劇、児童劇、自立(公共)演劇などがあり、その種類は多い。ことに世界にも比類のない特徴といえるのは、舞楽、能・狂言、文楽、歌舞伎の四大舞台芸術が、昔ながらの舞台様式と演技・演出を生きた姿で今日まで伝えていることである。しかし、演劇も他の諸文化と同じく長い歴史のなかで諸外国の影響を受け、複雑に混交しながら発達したのだから、純日本的要素と外来のものとを厳密にふるい分けるのは容易でない。少なくとも日本の演劇史は、6、7世紀を頂点とする中国隋(ずい)・唐、朝鮮はじめアジア諸地域の文化の流入と、19世紀末から20世紀にかけての西洋の文芸・演劇の流入という二大エポックにおいて、決定的な革新と増幅拡大をみた。ある意味では、日本は世界演劇史の宝庫または博物館だともいえよう。しかし日本は、それら外来のものをただ舶来品として輸入しただけではなく、自らの風土と民族性に適応させ改質させて、日本演劇とよびうるものにつくりあげてきた。そこに独自の演劇観、演劇的発想が内在している。各個のジャンルについてはそれぞれの項目に譲り、以下、日本演劇全体の展開のあとと、外国とくに西洋と対比してみた日本演劇の特異性について述べる。[河竹登志夫]

日本演劇略史


原始芸能時代
これは紀元前から4世紀ごろまでで、この時代は日本でも、古代一般および現存未開社会の例に漏れず、芸能は悪霊や外敵の退散征服、狩猟・漁労・農耕その他、収穫生産の確保などを究極目的とする呪術(じゅじゅつ)的なものであった。すなわち、神・精霊など超自然力を想定し、それを招き慰め一体化して、その意志を自己に有利に向けようとする本能的行動で、シンパセティック・マジック(共感呪術)といわれる祭祀(さいし)的・無意識的芸能である。すでに縄文時代、土偶や土面などが用いられ、農耕文化採用以後は中国・朝鮮、あるいは南方系の、太陽崇拝のシャーマニズム(巫俗(ふぞく))的芸能が行われた。『古事記』『日本書紀』にみえる天鈿女命(あめのうずめのみこと)の岩戸の舞はその顕著な例で、ほかに同じく記紀の海彦(うみひこ)山彦説話にみる被征服者の滑稽(こっけい)なマイム(物真似(ものまね)戯)も、原始芸能の一形態といえる。現存の民俗芸能には、これら古代芸能のおもかげをしのばせるものが少なくない。しかも、この祭祀的性格と賤民(せんみん)芸能という二面は、実は以後ながく日本演劇史の底流をなす重要な二特質なのである。[河竹登志夫]
大陸芸能輸入時代
5世紀から7世紀にかけてで、この時代にはまず朝鮮、ついで中国との交渉が盛んになった。允恭(いんぎょう)天皇崩御の際、新羅(しらぎ)王が楽人80人を入貢せしめた(453)とか、百済(くだら)から楽人渡来(554)などの記録がみえ始める。なかでも百済人味摩之(みまし)が帰化し、遠く西域(せいいき)に源をもつと思われる伎楽(ぎがく)を伝えたことは画期的で、聖徳太子はこの高度に様式化された仮面舞踏戯を、仏教政策の一環として賞揚し、楽戸(がっこ)を設けて伝習せしめた。その残存形態としては、今日まで残る200余の伎楽面、法隆寺ほかの行道会(ぎょうどうえ)(法会のときの行列芸能)の記録、一種のバリエーションとしての伎楽系獅子舞(ししまい)や能の石橋(しゃっきょう)物などがある。続いて舞楽(ぶがく)と散楽(さんがく)が入ってきた。洗練された様式をもつ舞楽は宮廷貴族のものとなり、大道芸的な散楽(曲芸、手品、人形芝居、動物芸、滑稽物真似などの総称)は庶民のなかに根を下ろし、やがて能・狂言や文楽などの成立に大きく参加していくのである。[河竹登志夫]
外来芸能の定着・日本化時代
奈良時代から平安末の12世紀中ごろまでである。平安初期の9世紀に入ると舞楽は日本的に大きく改変され(平安の楽制改革)、四間四方の舞台に左右両舞制などの様式が完成されていった。新たな曲目も加わり、以後、宮廷および大社寺の式楽(儀式典礼の楽舞)として保護伝承され、現在に至る。
 一方、散楽は猿(申)楽(さるがく)とよばれるようになり、田の神への祈祷(きとう)芸能に発する田楽(でんがく)とともに民衆の間に発達した。それらは、歌や舞や寸劇やアクロバットを含む多角的な芸能で、主として芸能を生業とする法師すなわち濫僧(ろうそう)によって演じられ、社寺への奉納を本命とした。ほかに女性による猿楽、田楽、曲舞(くせまい)、白拍子(しらびょうし)舞などもあったが、仏教的禁忌のため社会の表面にたてず、主として遊女兼帯の旅芸人、すなわち歩き巫女(みこ)によるものであった。平安末期には猿楽・田楽は座をつくって定着し、中世にかけて、社寺の縁起譚(たん)や先行並行の説話や謡物(うたいもの)・語物(かたりもの)などを取り入れて劇的内容をもつに至り、猿楽能、田楽能とよばれるようになる。また、これら大衆的な諸芸と雅楽を基調として構成した延年(えんねん)も行われた。日本の芸能史に対話と筋をもつ戯曲が成立し、演劇の形態を整えるのは、これらの芸能においてである。
 なお、この期の初めに輸入(847)された天台声明(しょうみょう)なる仏教音楽は、後の謡曲や浄瑠璃をはじめとする日本の音曲に絶大な影響を及ぼすことになるので、特記しておきたい。[河竹登志夫]
能・狂言の成立時代
鎌倉時代から桃山時代の終わり、すなわち日本の中世にあたる。源平合戦ののち実現した武家支配が真の確立をみる南北朝時代になると、猿楽や田楽の座は急速に武家勢力に結び付く。なかでも足利(あしかが)将軍の寵(ちょう)を受けた観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子は一挙に猿楽を洗練向上させ、仮面歌舞劇の能を大成した。時期的には14、15世紀の境のころであり、それは古代以来の祭祀性を根本とし、猿楽と田楽を融合止揚した「幽玄」の様式をもち、劇文学としても『源氏物語』『伊勢(いせ)物語』や『古今和歌集』『新古今和歌集』などの和歌文芸、および『平家物語』ほかの叙事詩的語物などに取材、仏教理念に強く裏づけられた室町武家的感覚によって、先行の文学と芸能を集大成した純日本的舞台芸術だといえる。「花」によって表される芸術理念や日本芸道特有の「家」や「伝統」の理念が、理論的に基礎づけられたのもこの観世(かんぜ)父子によってであった。これと並行して同じ能舞台上で滑稽な物真似演戯としての狂言も、幕間劇として発達し、ともに現在にほぼそのままの様式を伝えている。[河竹登志夫]
文楽・歌舞伎の生成発展時代
江戸初期の17世紀初めから、明治維新(1868)までにあたる。江戸時代に入ると、能・狂言は幕府や諸大名の式楽として固定し、新たに経済力つまりは文化の実権を握った町人階級が、自らの演劇として文楽(人形浄瑠璃)と歌舞伎を生み、育てた時代である。文楽は、中世に庶民の間に流行した平曲(へいきょく)(平家琵琶(びわ))に発する浄瑠璃という語物と、16世紀後半に琉球(りゅうきゅう)を経て渡来し国産化された三味線と、古代以来民間信仰とともにあった傀儡子(かいらいし)、つまり人形遣いが合体して、1595年(文禄4)ごろに成立したものである。そして、元禄(げんろく)年間(1688~1704)に近松門左衛門と竹本義太夫(ぎだゆう)により劇文学として、また音楽として大発展し、18世紀中ごろに今日のような三人遣い式となり、内容・様式ともにピークに達したが、まもなく衰運に傾いた。
 一方、歌舞伎は、中世庶民の風流踊(ふりゅうおどり)の一派の、出雲の阿国(いずものおくに)を代表とする女芸人の歌舞から1603年(慶長8)ごろおこり、たびたびの弾圧を経て、17世紀後半から、男性芸人による純演劇として発達、独特な女方(おんながた)芸術や、花道・回り舞台その他多くの特徴的要素を生み、文楽とも密接に相関しながら、幕末から明治中期に至るまで、複雑多岐な発展を遂げた。文楽も歌舞伎も、儒教的封建道徳を枠づけとしながら、被支配階級である町人の生活感情に裏づけられて、非写実的、様式的ではあるが、しかも能よりもはるかに卑近な即物的実感と親近をもつ点に特色がある。[河竹登志夫]
明治維新から太平洋戦争まで
舞楽・能狂言・文楽は近代以前すでに古典として完成していたため、維新後も本質的変化はなく、わずかに新作を加えただけで内容・様式ともに伝統を守って今日に至っている。しかし歌舞伎はなお生成発展しつつあったので、近代の波のなかで揺れ動く。1872年(明治5)から鹿鳴館(ろくめいかん)時代にかけて政府は積極的に演劇改良を指導推進した。歌舞伎を国民教化と内外上流の社交場化を目ざして洋化改良しようとするもので、劇場の洋化、作品の高尚化が進められ、脚本検閲が制度化された。この検閲は太平洋戦争終結まで、風俗・思想各面で演劇活動全般を制約することになる。こうした動きのなかから史実偏重の活歴(かつれき)劇、文明開化の新風物を写す散切(ざんぎり)狂言、高雅趣味の松羽目(まつばめ)物などが生まれ、西洋種の新作、西洋戯曲の翻案上演も歌舞伎の世界で始められた。これら改良の機運は86年、政府唱導の演劇改良会創立、翌年の同会企画制作による天覧劇実現をピークとして鹿鳴館時代の退潮とともに衰退し、他の新しいジャンルに改良を譲って、歌舞伎もまた伝統継承を本道とするに至る。
 1888年自由民権運動の手段として発生した書生芝居、壮士芝居は、やがて新派とよばれる新分野を樹立、川上音二郎(おとじろう)・貞奴(さだやっこ)夫妻の劇団は明治30年代に欧米へも巡演、演劇交流の先駆となった。近代女優の嚆矢(こうし)もこの新派劇においてだったが、新派劇ではなお女方が主流で、西洋戯曲の受容も翻案劇という過渡的形態であった。女優を本旨とする近代劇術と西洋劇の翻訳移入により近代演劇樹立を目ざしたのは、次の新劇運動である。1909年(明治42)の文芸協会と自由劇場の発足がその出発点となり、24年(大正13)の築地(つきじ)小劇場創立により新劇は知識階級のなかに根を下ろしていく。一方、1911年に西洋の宮廷劇場に倣って建てられた完全洋風の帝国劇場は、オペラ、バレエなどの伝習移入の拠点となり、日本の洋楽・洋舞成立に貢献、女優養成にも努めた。大正中期、洋楽・洋舞は浅草で庶民の人気を得、浅草オペラ時代を現出、今日のミュージカルや軽演劇の温床ともなった。しかし昭和の戦争時代に入ると、思想・風俗両面で統制弾圧が強化され、40年(昭和15)には左翼的新劇団の強制解散をみるに至り、以後は戦意高揚と慰問のための移動演劇時代となって45年の終戦を迎える。維新後から終戦までの77年間は、伝統と新ジャンルともに日本の近代化と対外戦争の動乱のなかで苦悩しつつ、現代演劇の多様な種子をまき育てた時代といえよう。[河竹登志夫]
第二次世界大戦以降
戦後の演劇は、民主主義化を目ざす占領軍の指示による新劇の解放、仇討(あだうち)や婦女子虐待を扱う文楽・歌舞伎の上演演目禁止と民主的新作の促進、アメリカ現代劇の上演推進などから始まった。だが、やがて、伝統演劇は自由化され、外国演劇も不条理劇、叙事詩劇、全体演劇、ミュージカルなど、諸国のさまざまな戯曲や演劇理念、演出形態が導入されるようになる。一方、日本の文化国家宣言に呼応して、視聴覚教育や文化的生活の向上の面から演劇の重要性が見直された。終戦の翌年には早くも観客組織としての東京都民劇場や文部省(現在は文化庁)主催の芸術祭公演などが発足、まもなく郷土芸能大会が年中行事となり地方芸能への認識が高まるなど、行政面・社会面でも新たな出発点にたった。内容・様式の点で大きな転機となるのは1955年(昭和30)前後である。
 1954年に能がベネチアの世界演劇祭に出演、評価されたことは、演劇の国際交流の契機をなしたうえ、日本人自体に伝統演劇の現代的意義を再発見する機を与えた。そして、55年には能・狂言と新劇や歌劇の俳優が同一舞台で現代劇を上演、伝統と近代の交流、止揚による新しい劇芸術創造への第一歩が刻まれた。この年には大正・昭和前期に低調だったシェークスピア上演も再発足、今日のシェークスピア盛況の起点となる。これらの現象は伝統演劇とシェークスピアへの回帰、再発見とともに、狭い意味の近代劇、あるいは西洋近代劇模倣時代から、超近代への多面的な模索への転機を示すものでもあった。60年代中・後期には早稲田(わせだ)小劇場、天井桟敷(さじき)、状況劇場ほかアングラとよばれた小劇場運動が一斉に開花するが、様式のうえではこれらも55年に始まった超近代志向の一つの現れとみられよう。こうした潮流のなかで55年以降、歌舞伎や能をはじめとする日本演劇の海外公演や、諸外国の舞台芸術の訪日公演が年とともに活発化し、演劇人の交流も盛んになっている。66年には日本最初の国立劇場が誕生した。[河竹登志夫・鈴木国男]

現状と課題

1966年(昭和41)、明治以来わが国の演劇人の悲願であった国立劇場が誕生、現在も歌舞伎・文楽を中心とした伝統芸能の上演、資料収集、人材育成に着実な実績をあげている。以後、79年に演芸場、83年に能楽堂、84年には大阪に文楽劇場、そして97年(平成9)には、オペラ・舞踊・現代演劇を柱とする新国立劇場が開場した。2003年末には沖縄に国立劇場おきなわが完成し、2004年1月に開場した。これによって国立劇場は6種を数えることになった。1970年代後半からは、各地に公立の劇場が設立され、専属劇団や芸術監督を置いて独自の活動を展開するところも現れた。伝統芸能の継承は、何度か危機が叫ばれながらも、21世紀初頭においては各分野とも上演側・観客側とも一定の層を維持しているといえる。そればかりでなく、20世紀後半には伝統演劇の俳優が現代劇に出演したり、異分野との協同作業により新たな創造を試みることも珍しくはなくなった。また海外との交流も盛んになり、1955年以降、歌舞伎のおもな海外公演だけでも40回をゆうに超えている。2001年にはユネスコ(国連教育科学文化機関)の指定した第1回世界無形文化遺産のひとつに能楽が認定された。2003年11月に発表された第2回では人形浄瑠璃文楽が加えられ、歌舞伎もこれに続く見通しである。
 こうした伝統に近代以降のさまざまなタイプの演劇が加わり、日本演劇はほかに類をみない多様性を示し、隆盛に向かいつつあるかにみえる。しかし問題点も少なくはない。第二次世界大戦後、日本人の生活習慣や肉体的条件は著しく変化した。これは伝統芸能の存続する環境に大きな影響を与えているため、伝統の保持と真の創造という二元の道の行く末をしっかりと見極める必要がある。
 現代演劇の状況もさらに混沌(こんとん)としている。新劇の築きあげてきた、ことば重視のリアリズム演劇がその存在を確たるものとして、さらに小劇場運動にみられる肉体重視の超近代の模索が新しい方法論を確立した、という図式にはかならずしもなっていない。ひとことでいえば、新劇と小劇場運動の境が1970年代以降なし崩しに解消したということになる。一方で映画・テレビによる侵食、ミュージカルの隆盛も相まって、アマチュア化と商業化の両極端の合間で、さまざまな試行錯誤が繰り返されている。劇作・演出・演技の三位一体化によって求心力を高める小劇場の手法が一般化した結果、つねに新作を志向し、シェークスピア、チェーホフなど少数の外国作家を除いては、優れた戯曲を繰り返し上演し、解釈と演技・演出の力量を観客に問うという行き方が定着していない。逆に歌舞伎・ミュージカルを含めた商業演劇では、有名作品の再演やロングラン、話題性のある公演での収益確保に偏りがちである。観客の側からすれば、低価格で安定した質の作品を供給する場の保証がなければ、特定の嗜好(しこう)や娯楽に傾きがちになり、それが観客層の偏りを生み、演劇文化の社会への浸透を妨げる結果となる。とはいえ、現代の日本に多種多様な演劇が存在することは紛れもない事実であり、メディアの時代であればこそ、生身の出会いを前提とした演劇のもつ意味が改めて注目されるはずである。演劇の質の向上、観客層の拡大および社会的な認知、そして公的な助成やメセナ(芸術、文化への支援活動)の拡充、この三者の相関関係が、日本演劇の行く末を左右することになるだろう。[鈴木国男]

日本演劇の特質

第一にあげられるのは、歴史およびジャンルの重層性(並存性)である。能は舞楽が変貌(へんぼう)進化したものではなく、文楽・歌舞伎も能・狂言を摂取してはいても、その変形進化したものではない。舞楽、能・狂言、文楽、歌舞伎は、上代の貴族、中世の武家、近世の町人それぞれの芸能として独立に成立、各個独自の歴史と伝統をもって今日に及んでいる。これは、日本国土の閉鎖独立性、社会そのものの重層性、皇統をはじめとする伝承世襲性などに深くかかわり、西洋には類をみない点といえる。
 第二は、この歴史に基づく伝統の肉体性である。日本演劇の伝統ないし古典の理念は、ギリシア劇やシェークスピアがただ劇文学として古典であるのとはまったく違う。戯曲として以上に芸そのもの、舞台様式や音楽などすべてを含む演出それ自体として、生きた伝統をもっている。俳優の世襲制、芸の型、戯曲論よりも芸論・芸談を尊重するなどは、その現れにほかならない。
 第三は、祭祀性・式楽性ないし年中行事性である。西洋はルネサンス以後演劇の祭祀的機能を放棄したが、日本では濫僧や巫女による中世芸能までばかりでなく、文楽や歌舞伎においてさえ祭祀性を遺存していた。町人の饗宴(きょうえん)宴楽の具となりながら、四季折々の民間祭祀や年中行事に対応して、儀式的演目や季節感を配慮したのである。
 第四は様式性である。楽器の種類や関与の仕方などに多少の差はあるが、日本の伝統芸能はほとんどつねに歌舞的要素を強くもっていた。西洋では近代に下るにつれて、科白(せりふ)劇と歌劇と舞踊とに分化発達したのに対し、日本のはむしろワーグナーのいう楽劇(がくげき)Musikdrama、あるいは総合芸術(ドラマと音楽と舞踊の渾然(こんぜん)一体化した演劇)に属する。
 第五はバロック的性格である。音楽・舞踊で様式化されているうえ、幻想、夢幻、変化、別の次元への飛躍、悲喜劇の混在、論理的ドラマ性よりも視聴覚的劇場性の重視などの性格は、アリストテレス流の西洋の劇理念よりも、バロック的ないしシェークスピア的発想に近い。そして、この第四、第五は東洋芸能の共通性ともいえる。しかし、そのなかでは日本の演劇はもっとも西洋的な劇の要素を強くもっており、内容・様式ともに独自、かつ高度であるといってよい。
 第六にあげられるのは、自然と人情ないし情緒への融解・回帰性である。能も文楽も歌舞伎も、西洋のドラマに比べると対立葛藤(かっとう)の徹底した論理的追求は薄く、主情的な局面の視聴覚的ムードによるカタルシス(浄化)性が強い。たとえば、文楽や歌舞伎の時代物の英雄悲劇も、クライマックスは、主君のためわが子を身代りにした親の、肉親感情を強調した家族的悲劇の愁嘆場が多いごときである。これは、七五調の詠嘆的音感と、普遍的情緒を好む日本人の主情的傾向の一つの現れともみられよう。[河竹登志夫]
『伊原敏郎著『日本演劇史』(1904・早稲田大学出版部) ▽高野辰之著『日本演劇史』(1947~49・東京堂出版) ▽河竹繁俊著『日本演劇全史』(1959、79・岩波書店) ▽河竹登志夫著『比較演劇学』正続(1967、74・南窓社) ▽菅井幸雄著『演劇創造の系譜 日本近代演劇史研究』(1983・青木書店) ▽大笹吉雄著『日本現代演劇史』8巻(1985~2001・白水社) ▽小櫃万津男著『日本新劇理念史』3巻(1988~2001・未来社) ▽秦恒平ほか著、日本文学協会編『日本文学講座11 芸能・演劇』(1989・大修館書店) ▽諏訪春雄・菅井幸雄編『講座 日本の演劇』8巻(1992~98・勉誠社) ▽野間正二著『比較文化的に見た日本の演劇――アメノウズメから野田秀樹まで』(1996・大阪教育図書) ▽早稲田大学坪内博士記念演劇博物館編『日本演劇史年表』(1998・八木書店) ▽観世栄夫・羽生清ほか著、京都造形芸術大学編『伝統演劇を学ぶ』(1999・角川書店) ▽日本演劇協会監・刊『演劇年鑑2001』(2001)』

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