現代医学では,皮膚と骨との間にある皮下組織と筋肉とを肉と言う。《和漢三才図会》には肉は〈肌膚ノ肉ナリ〉,肌は〈膚肉ナリ〉とあり,皮下組織が肉である。また,同書では筋肉を〈骨絡ナリ〉と言い,骨に付着してこれを連結するものとし,肉と区別している。皮下組織と筋肉のどちらも肉と見る今日の考え方とは隔りがあるが,これは中国医学の影響によるものである。中国では古くから皮下組織のことを肉と言った。《五行大義》に〈火有猛毅,故為筋爪。土有持載,故以為肉〉とあって筋は火性,肉は土性と区別しており,《黄帝内経素問(こうていだいけいそもん)》も筋を生ずるのは肝,肉を生ずるのは脾と考えている。明代の医書《類経》も脾が肌肉を支配すると述べているが,肌肉は皮下脂肪を含む柔らかな皮下組織のことである。《書言故事》によれば,唐の楊国忠は酒宴のおりに,多くの女性に机や食膳を持たせてこれを〈肉台盤〉と称し,冬には客のまわりを取り囲ませて〈肉屛風〉と言い,皮下脂肪に富む太った女性を並べて風を防いで〈肉障〉と言った。李漁の作とされる艶書《肉蒲団》は数人の美女と閨房をともにする男の物語である。いずれも柔軟な皮下組織を肉とする考えから出ている。
一方,肉は英語でmeatまたはfleshである。meatはbread(パン)と同様に,食物一般を意味していた。いまもデボンシャーの一部などで,種いもではない食用の馬鈴薯をmeat potatoesと言う。meatが14世紀末ころからしだいに鳥獣の肉や食肉の意味に限られてきたのは,肉食を常とするイギリス人の食習慣の結果である。fleshは今日の〈肉〉が意味するものとほぼ同じで,後述する精神や心と対立する肉体や肉欲のような観念まで包含している。
万物を支持する土が身体の支持組織である肉に化したとみる五行思想は,1万8000年生きた盤古が死んで肉が土になり,女媧(じよか)が土から人間をつくったとする古代中国神話と通じている。土と肉体または人体との密接な関係は,ほかにも世界各地の人間創造神話の中に見られる。ユダヤ伝説では神が土の塵(ちり)(ヘブライ語で〈アダーマー〉)からアダムと彼の最初の妻リリト(リリス)をつくった。ギリシア神話ではプロメテウスが粘土から人間をつくり,エジプトの造物神クヌムも粘土から人間をつくっている。バビロニアではベール(バアル)神の首からほとばしる血と土を混ぜ合わせて人がつくられているし,オーストラリア,ニュージーランド,タヒチ,ペルー,アフリカその他においても,粘土や赤土から人間がつくられたとする伝承がある(J.G.フレーザー《旧約聖書のフォークロア》)。一方,北欧神話では逆で,巨人ユミルの肉から大地が生まれている(《グリームニルの歌》)。旧約聖書のアダムの場合は最も直截で,自分の肋骨からつくられたイブを〈骨の骨〉〈肉の肉〉と呼んでいる。
肉と霊,肉体と精神の二元論は宗教が成立する基盤である。イエスの生誕を〈受肉〉と言うキリスト教のカトリックの教義には七つの秘跡(サクラメント)があり,その一つが聖体または聖餐の秘跡である。別名〈肉と血の秘跡〉で,信者がキリストの肉と血を象徴するパンとブドウ酒を受けることをいい,新約聖書にあるように,キリストが〈最後の晩餐〉のときにこれを定めたとされる。イエスの受肉と現世の肉としての人間を肯定した上で,神への信仰を説き,霊が救済される道を教えるのがキリスト教の正統的な思想である。これに対して,肉は本来悪なのだから完全な善である神が肉の形をとって現れることはなく,イエスの受肉はかりそめの姿にすぎないとして,キリストの受難も否定するいわゆるキリスト仮現論(ドケティズム)があった。《コリント人への第1の手紙》その他,新約聖書の中の数々の手紙は,パウロやヨハネがこの異端説と闘った論難の書であり,〈肉の人〉が〈肉の思い〉や〈肉の欲〉を捨て,神の愛を求めて霊の救いを得るようくり返し説いている。
《雅歌》などで女性の肉体を賛美する旧約聖書にも,肉にとらわれた者を非難する思想はきわめて明確に存在する。例えばアホラ,アホリバ姉妹の淫行を〈その人の肉はロバの肉のごとし〉と糾弾している(《エゼキエル書》23:20)。モーセ以前には近親相姦は排撃されていなかったが,《レビ記》では全面的に禁止されている。モーセの十誡の中の姦淫を禁ずる戒めは,キリストによってさらに厳しく規定され,パウロによって禁欲の思想にまで到達した。ただし現実に肉欲を捨てきれなかったことはボッカッチョの《デカメロン》などに描かれた聖職者たちの生活に明らかである。教皇ユリウス2世やレオ10世などは娼家を公認さえしている。
キリスト教がイエスの生誕から受難の死までを擁護するために肉を肯定したのに対し,古代仏教は肉を不浄として否定する考えを貫いている。《スッタニパータ》《マッジマニカーヤ(中阿含(ちゆうあごん)経)》《ディーガニカーヤ(長阿含(じようあごん)経)》などに,肉身が不浄でいとうべきものであることが詳しく述べられている。頭頂部に烏瑟(うしつ)といって,髻(もとどり)のように肉が盛り上がっているような,常人とは隔絶した三十二相を持つ釈迦の肉身といえども,腐敗の運命を免れない。たいせつなのは心であり法である。死の床にあるバッカリを見舞った釈迦は,自分の腐敗の身を見るのではなく,法を見よと諭した(《サンユッタニカーヤ(雑阿含(ぞうあごん)経)》)。心ないし精神に決定的な優位性をおく肉との二元論がここにもうかがわれる。また,拡大したりより精確に見るための装置を用いずに物を見る際に言う〈肉眼〉は〈心眼〉と二元的に対立する意味を含むが,もとは〈肉眼(にくげん)〉として〈天眼(てんげん)〉〈慧眼(えげん)〉〈法眼(ほうげん)〉〈仏眼(ぶつげん)〉とともに仏教でいう五眼(ごげん)の一つである。物事を皮相にしか見ることができない肉眼とその他の四眼との比較の中にも肉の劣位が示されている。
元来,仏教では五戒の第1に殺生(せつしよう)戒をあげるが,日本でも肉食(にくじき)妻帯を俗世の姿とみなし,江戸末期までは真宗を除き出家に対して肉食妻帯を禁じていた。明治以後は他の宗派も妻帯を認めたが,肉食については現在もなお,精進料理が残っている。殺生戒と肉食の禁止とはほぼ同一の戒律であると考えられよう。一方,中国の道教は肉食ばかりか穀物を摂ることも退けているが(例えば《神仙伝》巻九,介象),その理由は仏教とは異なり,これらを摂取すれば体内の精が血の気によって傷つき,生命を縮めるとして嫌ったためである。他方,肉食を常とする民族の場合にも,キリスト教の四旬節の例などがある。灰の水曜日から復活祭の前日までの6週間半,日曜を除く40日間を断食と斎戒で過ごすのは,聖グレゴリウスによれば四元素からなる肉体が肉の欲望のために十誡を犯すので,その肉体を40回苦しめなければならないためである。四旬節に先立つカーニバル(謝肉祭)のいわれは,断食して〈肉caro,carnisから離れるlevare〉の意のラテン語carnelevamenがイタリア語に訳されてcarnevaleとなった際,valeがラテン語にもあって〈さようなら〉の意なので,カーニバルが肉に感謝しつつ別れを告げる祝祭になったという。それゆえ,この祭りの期間には食欲と性欲を満たすことが公に許される結果になった。上記キリスト教文化圏における二大行事の寓意に満ちた表現を,われわれは,例えばブリューゲルの《謝肉祭と四旬節の戦い》に見ることができる。
→肉食
執筆者:池澤 康郎