改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド文学」の意味・わかりやすい解説
ポーランド文学 (ポーランドぶんがく)
10世紀末キリスト教を受け入れたポーランドでは,まずラテン語の文学が成立し,ルネサンスまで続いた。ガル・アノニム,W.カドウベクの年代記,ドウゴシュの《ポーランド編年史》,聖人伝など宮廷と教会の必要に応える実用的性格をもった作品を残した。ポーランド語による口承文学は,キリスト教以前からあったことが知られるが,記述されたものとしては,14世紀以後の宗教的な文献が最初で,それらはポーランド語が礼拝や祈禱に入るにつれて現れたものである(最古の作品は賛美歌《ボグロジツァ(神の母)》)。15世紀にはクラクフのヤギエウォ大学を中心に学芸が発達し,同世紀中葉には最初の人文主義者の活躍がみられる。
〈黄金時代〉の訪れ
16世紀に入るとシュラフタ(貴族)権力確立の政治運動と人文主義,宗教改革運動が結びついてポーランド文化の〈黄金時代〉が訪れ,政治的著作(モドジェフスキF.A.Modrzewski(1503ころ-72)ら)や宗教文学が栄えた。この時期はまだラテン語の著作がほとんどであったが,〈ポーランド文学の父〉M.レイ(最初のシュラフタ詩人)はもっぱらポーランド語で著作し,ポーランド文語形成に大きく貢献した。またJ.コハノフスキは古代ギリシア・ローマの芸術に範をとった優れた作品や娘の死を悲しんだ《挽歌》によってポーランド詩の芸術性を高め,民族文学の成立に寄与した。反宗教改革の思想が生んだスカルガPiotr Skarga(1536-1612)はポーランド国家の没落の未来図を描いた美しい散文を残し,次の時代との橋渡しとなった。16世紀末から17世紀にかけていわゆる吟遊詩人の風刺文学も栄えた。
17世紀は経済の停滞と休みない戦争で国力が疲弊し,文化も衰退した。詩・散文ともに再び宗教的モティーフが増し,感覚的,技巧的,装飾的なバロック文学が興った。18世紀のザクセン朝諸王支配下の30年間には文化は極度に停滞し,もっぱら偽信的な宗教文学や頌歌が中心となり,崩れたラテン語との雅俗混交文が広まって,ポーランド語を乱れさせた(しかし独特の魅力をもつフミエロフスキBenedykt Chmielowski(1700-63)の《新アテナイ》のような作品も生んだ)。一方,17世紀シュラフタの風俗を活写したパセックJan Chryzostom Pasek(1636ころ-1701)の日記文学やロマンス,シュラフタ伝説に基づく騎士文学など,ジャンルが多様化した。謝肉祭劇,中間劇など町人文学も育った。
18世紀中ごろようやく国家再建の気運が高まり,スタニスワフ・アウグスト王のもと啓蒙主義に基づく政治改革が行われ,国民教育の編制,国民劇場の創設,図書館開設,雑誌の創刊などが進められて,ルネサンス期を思わせる文化の発展がみられた。文学ではポーランド近代小説の創始者I.クラシツキに代表される啓蒙的色彩の濃い古典主義が主流となり,1780年代からは感傷主義やロココの流れが現れた。19世紀初期には擬古典主義(〈ワルシャワ古典派〉)の詩が主流となり,前期ロマン主義の傾向もみられた(ホダコフスキDołęga Zorian Chodakowski(1784-1825)のフォークロア研究)。
祖国解放の文学
S.コナルスキ,S.スタシツ,H.コウォンタイら民族と国家の将来を憂うる人々の改革の努力にもかかわらず,ポーランドは18世紀末に3度の分割を受けて独立を失い,以後19世紀半ばまでポーランド史は民族蜂起で埋められる。このような条件のもとで成立したポーランド・ロマン主義は,強い民族的・愛国的特徴を帯びることになった。ポーランド・ロマン主義はビルノ(現,ビルニュス)に始まり,1820年代にワルシャワに移って擬古典派との論争を経て古典主義の伝統と決別した。十一月蜂起の敗北はロマン主義を国内と亡命地の二つの流れに分裂させた。そのうちパリには,A.ミツキエビチ,J.スウォバツキ,Z.クラシンスキら当時最高の知性が結集し,愛国的精神と独立回復の願望を表現したポーランド文学史上不朽の作品を残した。しかし祖国解放の展望が遠のくにつれ,民族の受難の必要を説くトビャンスキAndrzej Towiański(1799-1878)らのポーランド・メシアニズムが強まり,しだいに国内の現実から遊離していった。この期に形成された予言者,民族の精神的指導者としての詩人像は,のちの文学の中に絶えずよみがえることとなる。亡命地ロマン主義の特異な存在にC.ノルビトがおり,国内のロマン主義では多くの歴史風俗小説を残したクラシェフスキJózef Ignacy Kraszewski(1812-87),啓蒙主義の伝統から出たポーランド最大の喜劇作家フレドロAleksander Fredro(1793-1876)が特筆される。
蜂起史上最も凄惨な戦いとなった一月蜂起の敗北ののち,西欧に比して著しく立ち遅れているこの国の社会的・経済的発展を通じて祖国の解放を準備しようとするポーランド実証主義の主張・運動が広まった。それはロマン主義が培った政治理念や社会意識を克服するために実証哲学の前提を援用して,社会を基底から改革(女性の解放など)しようとする実利的性格の濃い運動であった。また学校など諸機関のロシア化が進むなかで,この新理念の実現を文学とその媒体としての雑誌が担わねばならなかったため,文学にもその名が冠せられることになった。小説の分野ではE.オジェシュコバ,シェンキエビチ,B.プルスが三大家とされるが,ノーベル賞作家シェンキエビチは後期の歴史小説ではロマン主義の伝統に立ち返った。詩ではM.コノプニツカ,アスヌイクAdam Asnyk(1838-97)が群を抜いている。80年代には資本主義的矛盾が深まり,調和的な社会進歩の幻想が崩れるに伴い,自然主義が盛んになった(ザポルスカGabriela Zapolska(1857-1921)ら)。
→ポジティビズム運動
実証主義期の作家が20世紀に入ってもなお活躍を続ける一方,1890年代には西欧モダニズムの流れを汲む〈若きポーランド〉の運動が始まった。S.プシブイシェフスキらがデカダン主義と唯美主義(〈芸術のための芸術〉)を唱えたが,20世紀に入るにつれ民族運動や労働運動の高揚を背景に民族的・社会的な思潮が主流を占め,末期にはミチンスキTadeusz Miciński(1873-1918)らの表現主義の傾向が姿を現した。この期はS.ジェロムスキやノーベル賞作家W.S.レイモントらの小説,S.ビスピャンスキの劇作のみならず,形而上学的な詩のカスプロビチJan Kasprowicz(1873-1918),古典主義的傾向の強いL.スタフ,ポーランドの代表的な象徴派B.レシミャンらの抒情詩の全盛期でもあった。
戦間期の文学
第1次大戦が終わると,ポーランドにも反伝統を掲げた西欧の新文芸思潮が流入する。それと同時に独立直後の国民的統合を推進するために,芸術の各分野にも民族的要素の高揚が要請されるようになる。両大戦間期20年間のポーランド文学は,このような複雑な状況の中で出発した。散文では初め,〈若きポーランド〉の巨匠たちが社会に受け入れられ,若い世代もその偉業を継ごうとしたために,いきおいモダニズムの色彩の濃い作品が主流を占めた。カデン・バンドロフスキJuliusz Kaden-Bandrowski,ストルクAndrzej Strug,ヤボルスキRoman Jaworski,初期のJ.イバシュキエビチにそれがみられる。しかしやがて民族解放のテーマはおのずと遠く押しやられて,モダニズムを脱し,新たな現実と取り組もうとする流れが生まれた。フロイトと19世紀リアリズムの影響とから育ったZ.ナウコフスカ,M.ドンブロフスカ,クンツェビチョバMaria Kuncewiczowaら心理小説がそれであった。1930年代に入ると,ポーランド・ロマン主義の伝統とは無縁な,グロテスクを現実把握の原理とする最も20世紀的な作家群(S.I.ビトキエビチ,B.シュルツ,W.ゴンブロビチ)が出た。またクルチコフスキLeon Kruczkowski(1900-62),バシレフスカ(ワシレフスカヤ)らのプロレタリア小説もこの期に特徴的なものである。
新芸術運動の波はさまざまな思潮が渾然として流入したために,アバンギャルドと総称されるおもに詩と演劇と美術の運動として1920年代に興った。表現主義の流れ,未来派(ヤシェンスキ(B.ヤセンスキー),シュテルンAnatol Stern(1899-1968)ら),都市技術文明を賛美した〈クラクフ・アバンギャルド〉(パイペルTadeusz Peiper(1891-1969),J.プシボシ),そして30年代に破局への予感を表現していた〈第2アバンギャルド〉(ミウォシュCzesław Miłosz(1911- ),チェホビチJósef Czechowicz(1903-39)ら)が主要なものであった。アバンギャルドとは一線を画しながらも反モダニズム,〈日常性の詩〉を唱えた〈スカマンデル〉集団からはJ.トゥビム,スウォニムスキAntoni Słonimski(1895-1976),ビェジンスキKazimierz Wierzyński(1894-1969),イバシュキエビチら,この時期最高の詩人が輩出した。ロマン主義の伝統を継ぐプロレタリア詩のW.ブロニエフスキもこの集団に近い。諧謔とグロテスクを基調とするガウチンスキKonstanty Ildefons Gałczyński(1905-53)の詩は特異な位置を占める。
新しい文学を目ざして
第2次大戦とナチス・ドイツによる占領の時期,文学は地下か亡命地に身を隠すしかなかった。占領下でデビューし,ワルシャワ蜂起で戦死したバチンスキKrzysztof Kamil Baczyński(1921-44),ガイツィTadeusz Gajcy(1922-44)らの詩は世代の悲劇への省察に満ちている。人民政権成立後,文化・芸術は国家に保護されることになったが,同時に国益という枠をはめられ,文学の自律的な発展に制約が生じることになった。その極端なあらわれが文学の可能性をほとんど閉ざした社会主義リアリズムの時期であったが,56年の〈雪どけ〉以降もその基本的構造に変化はない。その結果戦後文学は常に政治的変動の直接的影響のもとに揺れ動くことになった。
戦後すぐの文学は,ナチスの犯罪へのヒューマニズムの立場からの抗議(Z. ナウコフスカの《ロケット》),〈収容所文学〉(ボロフスキTadeusz Borowski(1922-51)),人民政権をめぐるドラマとその道徳的問題(J.アンジェイェフスキの《灰とダイヤモンド》,ブラトヌイRoman Bratny(1921- )の《コロンブスたち》)のような戦争体験を主題とした作品が中心となった(ほかにもブランディスK.Brandys,ルドニツキA.Rudnicki,ジュクロフスキW.Żukrowski,プトラメントJ.Putrament,ブレザT.Breza,ディガトS.Dygatら多くの作家によって取り組まれた)。この時期の豊かな文学の芽は,とくに1950年以降の社会主義リアリズムの押しつけによって摘みとられてしまった。56年政変で文化政策が緩和され,多くの新人が現れた(フワスコMarek Hłasko(1934-69),ノバコフスキMarek Nowakowski(1935- ),カルポビチT.Karpowicz,グロホビャクS.Grochowiak,ブルイルE.Bryll,ヘルベルトZ.Herbert,シンボルスカW.Szymborska(1923- 。96年ノーベル文学賞),ビャウォシェフスキM.Białoszewski,ハラシモビチJ.Harasymowicz,ムロジェクSławomir Mrożek(1930- )ら)。これらの作家には戦後現実に対する不信がさまざまに表現された。自由化とともに伝統的なリアリズムの手法を脱し,〈意識の流れ〉を取り入れた実験も始まった(アンジェイェフスキ《天国の門》,コンビツキTadeusz Konwicki《現代夢判断》など)。その後の新人たち(グウォバツキJ.Głowacki,ボイチェホフスキP.Wojciechowski,クラシンスキJ.Krasiński,ムイシリフスキW.Myśliwski,レドリンスキE.Redlińskiら)の活躍も目ざましい。また世界的SF作家S.レムの業績も特記される。
執筆者:小原 雅俊
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