ラッセル(英語表記)Bertrand Arthur William Russell

デジタル大辞泉 「ラッセル」の意味・読み・例文・類語

ラッセル(Bertrand Russell)

[1872~1970]英国の数学者・哲学者。記号論理学を集大成、ホワイトヘッドとともに「数学原理」を著し、分析哲学における人工言語学派の始祖の一人となった。平和運動の国際的指導者としても活躍。1950年ノーベル文学賞受賞。著「数理哲学序説」「西洋哲学史」など。

ラッセル(Russell)

ニュージーランド北島北部、ノースランド半島東岸、ベイオブアイランズの町。19世紀初頭に捕鯨基地が置かれ、同国で最初にヨーロッパ人が定住した地として知られる。かつて近郊のオキアトがラッセルという名を冠する首府だったが、火災を機に同地にその名が移された。同国に現存する最古の教会であるクライスト教会をはじめ、歴史的建造物が多く残っている。

ラッセル(russell)

[名](スル)ラッセル車の発明者の名から》
ラッセル車」の略。
登山で、深雪をかき分け、雪を踏み固めて道を作りながら進むこと。「交替でラッセルしながら登る」

ラッセル

《〈ドイツ〉Rasselgeräuschから》⇒ラッセル音

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精選版 日本国語大辞典 「ラッセル」の意味・読み・例文・類語

ラッセル

  1. [ 一 ] ( 3rd Earl Bertrand Russell サード=アール=バートランド━ ) イギリスの哲学者、思想家、文明評論家。数学者として出発し、大著「数学原理」(ホワイトヘッドとの共著)で今日の記号論理学・分析哲学の基礎を築いた。また、フェビアン主義・平和主義・世界連邦主義の立場から政治・教育・文化の各分野で広範な著作活動を展開するとともに、第二次世界大戦後は核兵器反対運動を指導。一九五〇年ノーベル文学賞を受賞。(一八七二‐一九七〇
  2. [ 二 ] ( Henry Norris Russell ヘンリー=ノリス━ ) アメリカの天文学者。スペクトルを研究、恒星の進化段階を推定し、太陽大気の組成を分析するなど天体物理学の基礎を築いた。(一八七七‐一九五七

ラッセル

  1. 〘 名詞 〙 ( ラッセル雪掻車の発明者、アメリカ人 Russell から )
  2. ラッセルしきゆきかききかんしゃ(━式雪掻機関車)」の略。
    1. [初出の実例]「ラッセルを三台備へて雪を待つ、国境の山であった」(出典:雪国(1935‐47)〈川端康成〉)
  3. ( ━する ) 登山やスキーで、雪の深い時、道を開きながら進むこと。
    1. [初出の実例]「余り抵抗の多い生地は深雪をラッセルして登る時等に不都合が多いやうである」(出典:錬成スキーと雪・冬山(1944)〈河上寿雄〉一〇)

ラッセル

  1. 〘 名詞 〙 ( [ドイツ語] Rasselgeräusch の略 ) 肺を聴診する時、通常の呼吸音に混じて聞こえる異常音。肺胞や気管支内の分泌物が空気と混じて流れる時に生じる水泡音や、気管支狭窄による乾性ラ音など多くの種類がある。ラッセル音。ラ音。
    1. [初出の実例]「咳も強いし、〈略〉ラッセルも聞えると云ふから暫く静養したいと」(出典:ブルジョア(1930)〈芹沢光治良〉二)

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改訂新版 世界大百科事典 「ラッセル」の意味・わかりやすい解説

ラッセル
Bertrand Arthur William Russell
生没年:1872-1970

イギリスの哲学者,論理学者,平和運動家。ノーベル文学賞受賞者(1950)。伯爵。ケンブリッジ大学に学び,幾何学の基礎にかんする研究で母校のフェロー資格を得,のち講師となる。数学の基礎の研究を志したが,一方で新ヘーゲル主義の影響を受け,一時世界は分析不可能な全体だと考える。しかし20世紀初めころから世界を単純なものの複合体と考え,その単純なものとして感覚所与sense-datumをとるに至る。ここに至るには主語-述語形式を命題と存在の基本と考えるライプニッツの存在論の批判があずかって力があった。こうして古典的な主語-述語の論理学の代りに関係の論理学を唱導し,さらに数学者ペアノ,フレーゲの業績に触発されて新しい数理論理学を構想。これとともに数学(解析学)を論理学に還元することをはかる。その成果は《数学の諸原理》(1903)に盛られたが,その出版直前に集合論における重要なパラドックス(ラッセルのパラドックス)を発見(1901)。これはのちの論理学,数学基礎論,意味論の動向に大きな影響を及ぼすものであった。ラッセルはタイプ理論の案出によってこのパラドックスを解決し(1908),師A.N.ホワイトヘッドとともに大著《プリンキピア・マテマティカ》(1910-13)を著して数理論理学と数学を論理学に還元する論理主義の金字塔を建てた。一方,いわゆる〈記述〉理論を発表して(1905),見かけ上の主語-述語形式言明を存在言明におきかえる方策を案出,これをもとに存在の種類をできるだけへらす唯名論的な存在論を完成せんとした。それは言語分析・論理分析を哲学に役だてた模範である。ラッセルにとってこのときの基本的存在者(実体)は感覚所与ないし〈事件event〉であり,物と心,時空的位置などはこれから構成されるものであった。しかし彼はかならずしもこの一元論に徹底したわけではなく,しばしば物との二元論に傾き,知覚の因果説に立ったり,心的働きの位置づけに苦労したりもした。この方面では《哲学の諸問題》(1912)から《人間の知識》(1948)に至るまで多くの著作がある。しかしその立場は基本的にいってむしろ正統的な経験主義である。

 同様なことは倫理学や社会・政治思想についてもいえる。ラッセルはきわめて強い道徳的信念と旺盛な社会的関心の持主であった。自由と平等,反戦,反権力を主張しただけではなく,そのために闘った。男女両性の平等と自由恋愛を主張しただけではなく身をもって実践した。第1次大戦に反対してケンブリッジ大学から追放されただけではなく,投獄の憂目にもあったが,ビキニの水爆実験(1954)以来核兵器廃絶運動に身を挺し,アインシュタインとともにパグウォッシュ会議を主催し(1957年以降),イギリスにおいて〈百人委員会〉を組織したりした(1960)。またアメリカのベトナム戦争に反対してサルトルらと〈ベトナム戦犯国際法廷〉を開いてこれを糾弾した(1967)。しかしラッセルの倫理社会思想は,だいたいにおいてJ.S.ミル流の個人主義,功利主義,民主主義である。ただいっそう急進的で無神論的である。彼の特色はつねに明快な結論を追求し,得た結論はどんな障害があってもごまかさずに実行しようとしたところにあるといえよう。
執筆者:


ラッセル
Henry Norris Russell
生没年:1877-1957

アメリカの天文学者。ニューヨーク州出身。プリンストン大学に学び,1897年に〈火星による小惑星エロスの軌道長半径に対する一般摂動〉に関する研究で博士号を取得。卒業後体調をくずし静養していたが,1902年イギリスに渡り,キャベンディシュ研究所,ケンブリッジ天文台に滞在,A.R.ヒンクスと恒星視差の決定に従事した。04年に帰国,05年からプリンストン大学の教職につき,11年教授,12年から47年の退官までプリンストン天文台の台長を務めた。1921年よりウィルソン山天文台での観測にも従事,退官後はリック天文台ハーバード天文台でも研究を行った。天体物理学の多くの分野で業績をあげたが,食変光星の光度曲線の解析,スペクトル・等級図に基づく恒星進化論,太陽スペクトルの解析による組成分析,原子スペクトルの準理論的解析などが知られている。とくに彼の発案になる恒星のスペクトル・等級図は,現在ヘルツシュプルング=ラッセル図として広く用いられ,恒星物理学の研究に不可欠なものとなっている。また,F.A.サンダースとともに考案したL-S結合は,複数の価電子をもつ原子やイオンのスペクトルを説明するのに役だっている。太陽物質の大部分が水素であることを最初に見抜いたのも彼である。
執筆者:


ラッセル
John Russell
生没年:1792-1878

イギリスの政治家。名門のホイッグ貴族,第6代ベドフォード公の三男。1813年に下院議員となり,以後,20年代から60年代にかけてホイッグ,自由党内に重きをなし,数々の自由主義的な改革を推進した。まず28年,カトリック教徒の公職就任をはばんできた審査法に反対,同法の廃止と翌29年のカトリック解放法の成立に尽力,30-32年の第1次選挙法改正に際しては,法案の作成に参画,同法を下院に上程,これを通過させた。35年からメルバーン内閣(1835-41)の内相,ついで陸相兼植民相を務め,46-52年に首相となり,47年には10時間労働法を成立させた。その後,台頭したパーマストンとともに自由党を指導し,パーマストンの死後,再度首相(1865-66)となり,第2次選挙法改正の実現を目ざした。だが同法案は成立せず,首相を辞任,以後,党の指導権をグラッドストンに譲った。貴族的なホイッグ党を市民的な自由党に脱皮させるうえで功があった。
執筆者:


ラッセル
William Lassell
生没年:1799-1880

イギリスの天文学者。初め醸造業をしていたが,独学で天文学を学び,リバプール近郊に私設天文台をたて,反射望遠鏡の製作に従事し,口径121cmに達するものをつくり,観測も行った。1846年海王星の衛星トリトン,48年ボンドG.P.Bondと同時期に土星の第7衛星ヒペリオン,51年天王星の衛星アリエル,ウンブリエルを発見。さらに600個の星雲も発見する。49年王立天文学会ゴールド・メダル,58年ローヤル・メダルを受賞する。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ラッセル」の意味・わかりやすい解説

ラッセル

英国の論理学者,哲学者,数学者。第1次大戦中,反戦行為によってケンブリッジ大学を追われ,以後,著述と社会運動の面で活躍。論理学ではA.N.ホワイトヘッドとの共著《プリンキピア・マテマティカ》3巻(1910年―1913年)によって,記号論理学・数学基礎論の発展に貢献。哲学では科学的合理主義を標榜(ひょうぼう),ムーアとともに〈新実在論〉を説いたのち,世界は純粋に論理的に結合された感覚的所与からなるとする〈論理的原子論〉に転じた。社会運動家としては,現代平和運動に積極的に貢献し,原水爆禁止運動パグウォッシュ会議),ベトナム戦争反対運動などの先頭に立った。1950年ノーベル文学賞。著書《哲学の諸問題》(1912年),《人間の知識》(1948年)ほか多数。
→関連項目記号論理学数学基礎論ラッセルルイスロートブラット論理主義

ラッセル

英国の自由主義政治家。名門のホイッグ貴族第6代ベッドフォード公の三男。1813年下院議員となり,以後1860年代末までホイッグ,自由党の重鎮として,審査法の廃止(1828年),カトリック解放法(1829年)をはじめとする多くの自由主義改革を推進し政界に重きをなした。グレー内閣の閣僚として1830年以降選挙法改正の法案作成,議会対策などに尽力して,その実現に寄与。1835年からメルバーン内閣の内相と陸相兼植民相。1846年穀物法廃止による保守党の分裂をうけて自由党内閣を組閣(−1852年),アバディーン連立内閣では外務大臣を務めたが,1855年クリミア戦争の処理に失敗して辞任。1859年第2次パーマストン内閣の外相となり,パーマストンの死後再度首相となったが(1865年−1866年),第2次選挙法改正につまずき,党の指導権をグラッドストンに譲って引退。哲学者のバートランド・ラッセルは孫。

ラッセル

英国の映画監督。サウサンプトン生れ。軍隊,バレエ団などをへて,写真学校で学ぶ。写真家として活動する一方,《アメリアと天使》(1957年)などの短編映画を手がけたことがきっかけとなり,BBCで作曲家ディリアスの晩年を追った《ソング・オブ・サマー》(1968年)など芸術家の伝記映画を監督。同様のテーマは,後の《マーラー》(1974年),《リストマニア》(1975年)でも繰り返された。劇場用映画の第1作は《フレンチ・ドレッシング》(1964年)。その後《恋する女たち》(1969年),《肉体の悪魔》(1971年),《トミー》(1975年),《アルタード・ステイツ》(1979年),《ゴシック》(1986年),《白蛇伝説》(1988年)などを発表。特異な映像表現とスキャンダラスな設定により異端の映画作家と称されたが,初期の《ボーイフレンド》(1971年)では抒情的な側面を見せることもあった。
→関連項目エルガージャーマンレッドグレーブ

ラッセル

米国の天文学者。1912年プリンストン大学天文台長。天体物理学を多方面に研究,なかでも星のスペクトル型と絶対等級の関係を示すヘルツシュプルング=ラッセル図の考案で知られる。また恒星や太陽の大気の化学組成,連星のスペクトルや物理的状態等も研究した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ラッセル」の解説

ラッセル
John Russell

1792~1878

イギリスの政治家。ホイッグ党の名門に生まれ,1813年下院に入り,自由主義的改革に尽くした。28年の審査法廃止,29年のカトリック教徒解放法,さらに32年の選挙法改正法など彼の努力に負うところが大きい。35年以降閣僚を歴任し,穀物法廃止で失脚したピールのあとをうけて首相(在任1846~52,65~66)となり,チャーティスト運動に対応するとともに,公衆衛生法,工場法を成立させた。65年パーマストン死去をうけて再度組閣。いっそうの選挙法改正を試みたが,失敗して辞任。

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旺文社世界史事典 三訂版 「ラッセル」の解説

ラッセル
Bertrand Arthur William Russell

1872〜1970
イギリスの数学者・哲学者・評論家
数学者として出発し,大著『数学原理』によって数理哲学および記号論理学に貢献した。フェビアン社会主義・世界連邦主義の立場から,政治・社会・文化の各方面について多くの著書を書き,鋭い現状批判を行った。第一次世界大戦に際しては非戦論を唱えて投獄され,また第二次世界大戦後は核兵器反対運動を展開し,ヴェトナム戦争犯罪裁判を行って注目を集めた。1950年にはノーベル文学賞を受賞。著書には『社会改造の原理』『西欧哲学史』などがある。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ラッセル」の解説

ラッセル Russel', Nikolay Konstantinovich

1850-1930 ロシアの革命家。
1850年12月15日生まれ。ナロードニキ主義にたち各国で活動。日露戦争中の明治38年(1905),日本に抑留されたロシア人捕虜への革命宣伝のため来日した。戦後も長崎などにすみ,大正9年日本人妻とともに中国へ移住した。1930年4月30日死去。79歳。白ロシア出身。本名はニコライ=コンスタンチノビッチ=スジロフスキー。

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デジタル大辞泉プラス 「ラッセル」の解説

ラッセル

《Russell》イギリス海軍の戦艦。ダンカン級。1901年進水、1903年就役の前弩級戦艦。名称は、英蘭戦争、大同盟戦争などで活躍したイギリスの軍人・貴族、エドワード・ラッセルの名にちなむ。1916年、第一次世界大戦中の「ガリポリの戦い」から帰還したマルタの港でドイツ軍の機雷に触れ沈没。

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世界大百科事典(旧版)内のラッセルの言及

【感覚】より

…〈感覚与件sense‐datum〉の語はアメリカの哲学者J.ロイスに由来し,いっさいの解釈や判断を排した瞬時的な直接経験を意味する。代表的な論者にはB.A.W.ラッセルおよびG.E.ムーアがおり,そのテーゼは事物に関する命題はすべて感覚与件に関する命題に還元可能である,と要約される。マッハに始まるこれら現代経験論の思想は,要素心理学や連合心理学の知見,およびそれらの基礎にある恒常仮定(刺激と感覚との間の1対1対応を主張する)とも合致するため,19世紀後半から20世紀初頭にかけて大きな影響力をもった。…

【コギト】より

…われわれは自分自身を反省するまでもなく,いつもすでにおのれを非対象的,非定立的に意識しており,したがって人間のどんな在り方も自由な選択の結果にほかならないというわけであった。(2)しかし,われわれがつねに自己意識をもっているかどうかは問題であって,現代でも経験主義的な立場では,コギトを単なる〈意識内容(コギタティオ)〉の告知とみなし,コギトをむしろIt thinks within me(ラッセル)と言い換えようとする傾向がある。(3)それにしても,経験の統一ということを考えれば,われわれもカントのように,〈すべての表象には‘われ思う’が伴いえなければならない〉と言うことはできる。…

【集合論】より

…定理〈どんな集合Mについても,Mの部分集合全体の集合はMより大きい濃度をもつ〉。また,〈すべての集合の集合〉MM自身も含むという変なことになるので,B.A.ラッセルは1905年に,〈自身を元としては含まない集合全部の集合〉Nを考え,次のような矛盾を指摘した。NNならNの定義によって,NN。…

【数学基礎論】より

…ところが,19世紀末G.カントルによって創設された集合論はまもなく逆理を生じた(パラドックス)。カントル自身が発見した逆理(1899),ブラリ=フォルティの逆理(1897)やラッセルの逆理(1903)がそれである。集合論におけるすこぶる有効な用法ときわめて類似したしかたによって容易にこれらの逆理が導かれるのみならず,同時期に提出されたリシャールの逆理(1905)〈25字以内の字数によっては定義されない最小の自然数は,現にこの文章によって25字で定義されている〉とともに,ほとんど形式論理の範囲内で現れることから数学は重大な危機に陥った。…

【タイプ理論】より

B.A.W.ラッセルが1901年に発見したいわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を解決しようとして提出した理論(1908)と,その単純化,制限の解除,および変形の総称。階型理論ともいう。…

【パグウォッシュ会議】より

…1955年7月に出された〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉の呼びかけを具体化するものとして,第1回の会議がカナダ,ノバ・スコシア州のパグウォッシュで開かれた。以来,年1~2回の割合で世界各地で開かれてきているが,最初の開催地にちなんでパグウォッシュ会議と呼ばれている。…

【パラドックス】より

…集合論のパラドックスは最大の順序数ないし基数を考えるときにブラリ・フォルティおよびG.カントルのパラドックスとして現れた。B.A.W.ラッセルは,すべての集合を自分自身を元とする第1種の集合と自分自身を元としない第2種の集合との2種類に分けるとき,第2種の集合の全体(これも一つの集合である)をとるとパラドックスが導かれることを見いだした(1901)。つまりこの集合を第1種としても第2種としてもその反対が帰結されるのである。…

【プリンキピア・マテマティカ】より

A.N.ホワイトヘッドB.A.W.ラッセルの共著。3巻。…

【分析哲学】より

…言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。 言語分析は20世紀の初頭,B.A.W.ラッセルG.E.ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。…

【ベトナム反戦運動】より

… 1965年2月の北爆開始以降の戦争のエスカレーションは,反戦運動を一挙に拡大させた。世界各地で数万,数十万単位の抗議集会がもたれ,またB.ラッセルらの呼びかけによる〈アメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷〉(1967年5月,ストックホルムで開催。通称ラッセル法廷)や,たびたびの国際反戦統一行動デー(たとえば1967年10月21日)など,国際的連携による活動も盛んだった。…

【巨星】より

…さらにK型かM型の巨星になると,その半径は太陽半径の数十倍から数百倍に達する。このような星の存在は20世紀初頭にE.ヘルツシュプルングやH.N.ラッセルにより明らかにされた。すなわち当時集積しつつあった恒星視差のデータをもとに星の絶対等級を推定することが可能となり,その結果とくにG,K,M型の星ではスペクトル型が同じでも絶対等級の明るい星と暗い星の2種類があることが明らかにされた。…

※「ラッセル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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