実相寺(読み)じつそうじ

日本歴史地名大系 「実相寺」の解説

実相寺
じつそうじ

[現在地名]西尾市上町 下屋敷

上町かみまち集落のやや南に寄って三千八四五坪の境内地をもち松林の中にある。瑞境山実相安国禅寺と号し、臨済宗妙心寺派。京都東福とうふく寺のもと末寺。如意輪観世音菩薩を本尊とする。釈迦堂に釈迦三尊が祀られ、「西野町のお釈迦さん」とよばれる。文永八年(一二七一)吉良氏の祖、西条さいじよう城主吉良長氏の遺志により、二代満氏が建立(「吉良氏系図」養寿寺蔵)


実相寺
じつそうじ

[現在地名]富士市岩本

富士川左岸の岩本いわもと山南麓にある日蓮宗寺院。山号は岩本山、本尊は十界曼荼羅。文永五年(一二六八)八月日の実相寺衆徒申状写(北山本門寺文書)によれば、駿河国加島かじま庄実相寺は久安年中(一一四五―五一)頃に鳥羽法皇勅願寺として比叡山横川よかわの智印が創建した天台宗寺院で、加島庄領家藤原中納言が寺領六町を寄進したという。のち第三代院主道暁に乱行があったため寺僧が鎌倉幕府に訴え、執権北条泰時から院主改補の折には当寺の住僧から選ぶことを約束された。しかしこの約束は守られず、他の寺から選ばれた第四代院主らは本堂などの修理をせず、女淫・殺生などを繰返したため、当寺の衆徒らは幕府に院主罷免を要求した。文永五年の前掲衆徒申状はこの罷免要求を行った際のものである。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]南区上鳥羽鍋ヶ淵町

正覚山と号する日蓮宗の寺院。本尊は十界大曼荼羅。寺伝によれば日像の弟子妙実大覚によって南北朝期に開創されたと伝えられる。「東寺長者補任」に観応二年(一三五一)二月二九日「左兵衛入道帰京先ツ被入東寺ノ実相寺」とみえ、文和三年(一三五四)八月二四日の円真田地作職請状(東寺百合文書)には、「実相寺西弐段田」と寺名をみせるが、開創以後の当寺の寺歴については明らかでない。応永一四年(一四〇七)九月二四日、将軍足利義教が京都に地口銭を課して、実相寺の修理料にあてるということがあったが(「管領斯波義教奉書」東寺百合文書)、廿一口方評定引付(同文書)文明元年(一四六九)二月二一日条によれば、兵乱による「乱世窮困」が著しく、住持の諸法会出仕が免ぜられるという有様であった。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]津田町津田

津田の古い町並の西寄りにある。自然山十輪院と号し、真言宗善通寺派。本尊地蔵菩薩。享保二年(一七一七)の実相寺縁起によると、天平五年(七三三)行基草創、弘仁年間(八一〇―八二四)空海十大弟子の一人真済が中興、子院として字神野こうのみなみ坊・最勝さいしよう坊、字羽立はりゆう慈眼じげん寺などがあったが、のちに火災で灰燼に帰した。また真済はきた山山上にしようがん寺を建て実相寺奥院とした。長宗我部氏進攻により堂宇は焼失したが本尊地蔵像が残ったため、元禄四年(一六九一)住持宥賢が庄屋長町賀茂と相談のうえ寺地を現在の地に移し、地蔵堂・護摩堂・祖師堂を建立して実相寺を復興したと伝える。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]岩出山町 大学町

岩出山城の西方、江合えあい川支流蛭沢びるざわ川右岸の丘陵中腹にある。諸法山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。寺蔵の縁起によれば、応永一五年(一四〇八)大崎家臣氏家弾正が良旭を開山に迎え、南沢の新田みなみざわのしんでんに一宇を建立したのが始まりと伝える。その後、天正年中(一五七三―九二)氏家三河(詮継)岩手沢いわてさわ(岩出山)城に移った折に現在地に移転したといわれる。天正一九年、徳川家康が岩出山修築を指揮した際、当寺に止宿(「貞山公治家記録」同年八月一〇日条など)、約四〇日間逗留したといわれ、家康使用の膳椀が寺宝として残る。またこのとき、家康の威光を恐れて逃散した岩手沢領百姓たちの還住を求め、被官人たちの横暴停止を保証した同年八月一八日の榊原康政の書付(前掲治家記録所収)は、当寺ならびに当寺百姓中宛となっており、その頃の当寺の勢力が盛んだったことをうかがわせる。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]武川村山高

東流する黒沢くろさわ川と大武おおむ川に挟まれた地にある。大津山と号し、日蓮宗。本尊十界勧請曼陀羅。もとは山高の大津やまたかのおおつにあった真言宗の草庵だったが、文永一一年(一二七四)日蓮の教化により改宗。永和年中(一三七五―七九)波木井実氏が出家、日応と名乗り中興した。永禄年中(一五五八―七〇)蔦木越前守が現在地に移した。寺地は一条忠頼の城跡(寺記)とも、山高五郎左衛門の館跡(甲斐国志)ともいう。近世は身延山久遠くおん寺の末。天正二〇年(一五九二)二月一四日の加藤光政身延山末寺屋敷免許状(久遠寺文書)に「武川山高実相寺」とみえ、寺地五〇八坪の坪銭が免除されている。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]伊予三島市豊岡町大町

大町の高野たかのにある。高野山真言宗。豊岡山蓮華院と号す。本尊は千手観音

享保六年(一七二一)の大町村明細帳に「真言宗 実相寺 境内東西二拾間南北拾間 茅葺北向客殿梁行三間棟行五間高サ三間 同東向庫裏 観音堂(中略)本尊長三尺三寸行基作」とある。寺伝によると学蓮がくれん(岡銅村、廃寺)と光蓮寺(大町村)を併せて一寺とし、本堂を移築し、新長谷しんちようこく(西寒川村)から千手観世音菩薩像を譲り受けて本尊としたというが、その後火災もあり、伝承の域を出ない。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]会津若松市馬場本町

五之ごの町の中ほどより、北へ折れて入った正面にある。安吉山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊聖観音。元徳二年(一三三〇)蘆名氏の四天宿老の一人富田祐義の帰依により大光が開いた。その場所は郭内興徳こうとく寺の東隣で、東は甲賀町こうかまち口郭門に至る広大な地域を占めていたという。文禄元年(一五九二)蒲生氏郷の町割によって、現在地に移され、東西五二間半・南北一町四三間の寺地と寺領一五〇石が与えられた。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]一戸町一戸

一戸町の中心部、大沢おおさわにあり、諸法山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、僧円忍は京都にいたが保元・平治の乱を避けて金田一きんだいち(現二戸市)へ下り、一宇を草創して願海がんかい院と名付けた。寺はそののち福岡ふくおか(現同上)を経て当地に至り実相寺と号したという。「邦内郷村志」によれば一戸村に実相寺があり、金田一村には実相庵があるという。寛保三年(一七四三)の「奥州南部糠部順礼次第」によれば、糠部三十三観音の第三二番札所として実相寺観音があげられる。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]西方村元 峰

大字もとの西部山麓にある。那智山と号し、曹洞宗。本尊阿弥陀如来。慶長五年(一六〇〇)の創建と伝え、開基は結城晴朝、開山は結城孝顕こうけん(現茨城県結城市)より移った大祐。寺地は空海遊歴の勝地と伝え、古来弥陀霊境とうたわれた。結城晴朝は慶長五年当寺に寺中境内・門前の安堵について三ヵ条と附項一条の定書(寺蔵)を出しており、東西一五町など寺地の支配特権を保障している。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]総和町水海

水海みずうみの東南部に所在。当寺および付近の正蔵しようぞう寺・吉祥きちじよう寺・普舜ふしゆん院を水海四ヵ寺という。当寺は宝樹山と号し日蓮宗。土地では赤門あかもん寺とよぶ。本尊は大曼荼羅。寺伝によると天平一一年(七三九)行基がこの地に一宇を建立し、法相宗の寺として開いたといい、また同年下総国分寺として創立されたとも伝えられる。その後、天台宗・真言宗と改宗し、文永二年(一二六五)日蓮の両毛巡化の時に日蓮宗に改宗。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]泉市市名坂 実相寺

曹洞宗、捻華山と号し、本尊釈迦如来。もと洞雲どううん寺塔頭泉龍せんりゆう院末。伝えによると、かつて寺域内に文殊堂があり、慈覚大師作の像を安置していた。暦応年中(一三三八―四二)僧明峰が庵を結び止住、妙音山実相寺と号した。その後捻華山と改めた。永正一七年(一五二〇)泉龍院の南庭が開山となって中興(封内風土記)。寺伝では永禄三年(一五六〇)当地領主である国分盛顕の後援で中興したという(南庭は天正一七年没)


実相寺
じつそうじ

[現在地名]鎌倉市材木座四丁目

来迎らいこう寺の南にある。日蓮宗、弘延山実相寺と号する。開山日昭、本尊は一尊四士。寺伝では、日蓮の佐渡配流後、日昭は法華堂を建てて門下僧俗を統率し法灯を守護したので、堂は浜土はまどの法華堂とよばれて信仰されたが、弘安五年(一二八二)日蓮が没すると、風間信濃守信昭なる者が法華堂の傍らに一寺を建立し、日昭を開山に請じて妙法華みようほつけ寺と称したのが実相寺の前身という。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]軽米町小軽米

雪谷ゆきや川北岸の字外角地そとかくちに位置。曹洞宗で、山号の鶏頭山は寺東方の山々の形に由来するという。文禄四年(一五九五)陸奥三戸郡の報恩ほうおん(現盛岡市)六世梵積が開山と伝える。本尊は延命地蔵で脇侍は文殊菩薩普賢菩薩。文政九年(一八二六)本堂・庫裏・鐘楼を全焼し、天保一三年(一八四二)に一三世金台によって再建された。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]木造町 千代町

木造駅に通じる道路の西側にある。法光山と号し、日蓮宗。本尊一塔両尊。水虎様も祀る。慶長二年(一五九七)下古川しもこがわ(現柏村)の前身の大原おおはらという集落に法華庵を創立、開基は日道という。


実相寺
じつそうじ

[現在地名]福山市北吉津町

神辺かんなべ街道の藪路やぶろ峠への登り口にあり、もと日蓮宗、現在は単立。見照山を号していたが、のち法鏡山と改める。開山は妙了院日達。福山藩水野氏時代の家老上田玄蕃直重の香花院であった(福山志料)


実相寺
じつそうじ

[現在地名]大和郡山市矢田町通

旧郡山城下南東部にある。無漏山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来および脇侍像。中尊は鎌倉時代の作とみられている。慶長年間(一五九六―一六一五)正誉開基、現本堂は慶安四年(一六五一)の再建。寺宝に絹本著色地蔵菩薩立像一幅、春日曼荼羅一幅(ともに南北朝時代頃)、香山(郡山城主柳沢信鴻)自筆三部経一巻などがある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「実相寺」の解説

実相寺

山梨県北杜市にある日蓮宗の寺院。境内にあるエドヒガンザクラの古木「山高神代桜」は日本最古の桜ともいわれ、国の天然記念物に指定。

出典 小学館デジタル大辞泉プラスについて 情報

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