森鴎外(年譜)(読み)もりおうがいねんぷ

日本大百科全書(ニッポニカ) 「森鴎外(年譜)」の意味・わかりやすい解説

森鴎外(年譜)
もりおうがいねんぷ

1862(文久2) 1月19日(新暦2月17日)石見(いわみ)国鹿足(かのあし)郡津和野横堀(現、島根県津和野町)に誕生。本名は林太郎
1869(明治2) 藩校養老館で漢学を学ぶ
1872(明治5) 6月上京。10月親戚の西周邸に寄寓、本郷の進文学舎でドイツ語を学ぶ
1874(明治7) 1月東京医学校(のちの東京大学医学部)予科に入学
1881(明治14) 7月大学卒業。12月陸軍軍医に
1884(明治17) 6月ドイツに留学を命ぜられる
1888(明治21) 9月帰国、陸軍軍医学舎教官に
1889(明治22) 1月『東京医事新誌』主筆。3月『衛生新誌』創刊。赤松登志子と結婚(翌年離婚)。8月『於母影(おもかげ)』発表。10月『しがらみ草紙』創刊。12月『医事新論』発刊
1890(明治23) 1月『舞姫』発表。8月『うたかたの記』発表
1891(明治24) 9月坪内逍遙と「没理想論争
1892(明治25) 7月『水沫(みなわ)集』刊。11月『即興詩人』発表(~1901年)
1893(明治26) 5月「傍観機関」論争
1896(明治29) 1月『めさまし草』創刊
1899(明治32) 6月第一二師団軍医部長として小倉
1902(明治35) 1月荒木志げと再婚。3月第一師団軍医部長となり帰京。10月『万年艸(まんねんぐさ)』創刊
1906(明治39) 9月歌会常磐会をおこす
1907(明治40) 3月観潮楼歌会をおこす。11月陸軍軍医総監・陸軍省医務局長となる
1909(明治42) 3月『半日』発表。7月『ヰタ・セクスアリス』発表
1910(明治43) 3月『青年』発表(~1911年8月)
1911(明治44) 3月『妄想』発表(~4月)。9月『雁』発表(~1913年5月)
1912(明治45・大正1) 1月『かのやうに』発表。10月『興津弥五右衛門の遺書』発表
1913(大正2) 1月『阿部一族』発表
1914(大正3) 1月『大塩平八郎』発表
1915(大正4) 1月『山椒大夫』発表。7月『魚玄機』発表
1916(大正5) 1月『高瀬舟』『寒山拾得』『渋江抽斎』(~5月)発表。6月『伊沢蘭軒』発表(~1917年
1917(大正6) 9月『なかじきり』発表。10月『北条霞亭』発表(~1920年)
1922(大正11) 7月9日没、向島弘福寺に葬られる。のち墓は三鷹市禅林寺に移された

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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