積雪期の登山で、雪が多く通常の歩き方では進めない場合に、道を切り開いて進む歩き方。通常は数人で行う。先頭を歩く人は、膝で前に雪を押し付けながら進む。雪が胸まである場合は、同時にスコップで雪をかき出す。後続は雪を踏み固める。先頭の負担が大きいため、5分や10分などと時間を決めて最後尾に回り、全員で交代していく。雪に沈まないよう、登山靴にスノーシューや輪かんじきなどの歩行具を装着することも多い。
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イギリスの哲学者、数学者。
貴族の家系に生まれ、ビクトリア女王のもとで総理大臣を務めたジョン・ラッセルを祖父にもつ。ケンブリッジで初め数学を、ついで哲学を学んだ。一時期ヘーゲル的な観念論の立場をとったが、ムーアの先導によって極端な実在論へと転じた。この時期の代表作は『数学の原理』Principles of Mathematics(1903)である。この著作の執筆中に、のちに「ラッセルのパラドックス」とよばれることになる、集合論の背理を発見し、以後数年間この解決に専念した。その過程で、記述の理論とタイプの理論とが生まれ、それらは、ホワイトヘッドと共同で執筆された大著『数学原理』Principia Mathematica(1910~1913)の基礎となった。第一次世界大戦が始まると、平和主義者として反戦運動を展開し、1916年にはケンブリッジを追われ、1918年には6か月間入獄することにもなった。この獄中で執筆されたのが『数理哲学序説』(1919)である。1916年から1930年代の後半まで、急進思想のため定職が得られず、著述と講演で生計をたてたが、とくに、教育および性道徳についての評論は多くの論議をよんだ。1938年にアメリカに渡り、いくつかの大学で教えたが、1940年にはニューヨーク市立大学教授の任命が反対運動によって無効にされるという事件も起こった。1944年にイギリスに戻ってケンブリッジ大学に復帰した。1950年、人道主義的な理想と思想の自由を擁護する多様な著作が評価され、ノーベル文学賞を受けた。晩年はベトナム反戦運動や原水爆禁止運動に尽力した。第二次世界大戦後の代表的著作としては、『西洋哲学史』(1946)、『人間の知識』(1948)、『私の哲学の発展』(1959)、『自伝』3巻(1967~1969)がある。
[飯田 隆 2015年7月21日]
ラッセルの哲学的経歴は実に長く、しかも、扱った主題が多岐にわたるだけでなく、哲学的立場もさまざまな変遷をみせている。しかし、もっとも重要と評価され、その後の哲学に大きな影響を与えた仕事は、1903~1914年のほぼ10年間に発表されたもののうちにある。この期間の仕事の中心的主題は、数学の基礎づけということであった。その探究の動機は、数学の確実性はどのようにして示されるか、という問いにあり、彼の与えた解答は、数学を論理学に還元することであった。この立場は『数学の原理』ですでに明確であり、そこでは主要な数学的概念を純粋に論理的な概念に分析することが企てられている。前述のパラドックスに対して彼がとった解決策がタイプの理論であり、これが、論理学の分野におけるラッセルのもっとも独創的な貢献であると考えることができる。『数学の原理』における極端な実在論は、記述の理論を契機としてしだいに弱まってゆき、独自に存在者を措定するかわりに、すでに存在が認められている対象からの論理的構成が用いられるようになる。この手法は、『外部世界はいかにして知られうるか』(1914)では、物理的世界を感覚与件(センス・データ)から構成するという形で用いられている。
記号論理学の手法を駆使した分析によって哲学的問題を解決しようとするラッセルの哲学のスタイルは、20世紀の哲学に比類のない影響を与えた。しかし、彼の哲学の根本にあるモチーフがデカルト以来の確実性の探究であるということは、ラッセルの哲学を評価するうえに重要なことである。
[飯田 隆 2015年7月21日]
『『バートランド・ラッセル著作集』14巻・別巻1(1959~1960・みすず書房)』▽『日高一輝訳『ラッセル自叙伝』3巻(1968~1973・理想社)』▽『市井三郎訳『西洋哲学史』3巻(1970・みすず書房)』▽『野田又夫訳『私の哲学の発展』(1997・みすず書房)』▽『碧海純一著『ラッセル』(1961/新装版・2007・勁草書房)』▽『A・J・エイヤー著、吉田夏彦訳『ラッセル』(1980・岩波書店)』
イギリスの映画監督。サウサンプトン生まれ。本名はヘンリー・ケネス・アルフレッド・ラッセルHenry Kenneth Alfred Russell。1944年パングブーン海上大学卒業後、軍隊に所属。除隊後短い期間ダンサー、ついで俳優となる。その後写真家として雑誌で働いたのち、BBCでドキュメンタリー製作に携わり、作曲家ディーリアスの晩年を描いた『ケン・ラッセル/ソング・オブ・サマー』(1968)など芸術家の伝記テレビ映画で注目され、同時に自主映画を撮りはじめる。劇場映画では、「ジャック・タチ風映画」という注文のもとに作られた処女作『フレンチ・ドレッシング』(1963)、ジェームズ・ボンドのテレビ版ハリー・パーマー・シリーズを劇場映画化した『10億ドルの頭脳』(1967)を製作したのち、D・H・ローレンスの小説を映画化した第三作『恋する女たち』(1969)で国際的評価を得る。やがて劇場映画においても芸術家の伝記が創作の柱となり、芸術家の全面的賛美ではなく、人間性と創作との関係を照らし出そうとするラッセルの作品の批評的視点によって、その後の伝記映画の流れは決定的に変えられることになった。また物語の展開に故意に欠落部分をつくったり、過去と現在あるいは事実と幻想を自在に交錯させることによって、因習的なストーリーテリングから映画を解放しようとする点もまた、ラッセル作品のもう一つの重要な特徴であった。チャイコフスキー(『恋人たちの曲 悲愴(ひそう)』(1970))、マーラー(『マーラー』(1974))、ルドルフ・バレンチノ(『バレンチノ』(1977))、シェリー(『ゴシック』(1986))、オスカー・ワイルド(『サロメ』(1988))など芸術家の生涯が、いずれも史実と幻想のきわめてあいまいな境界のなかに描かれている。超能力者として知られる実在の人物の一生を、予言される未来まで含めて描いた『超能力者 ユリ・ゲラー』(1996)にも同じ特徴が顕著にみられる。伝記映画以外では、『レインボウ』(1989)、『チャタレイ夫人の恋人』(テレビ版1993、劇場版1995)とローレンスの小説を繰り返し取り上げ、『アルタード・ステーツ 未知への挑戦』(1980)、『白蛇伝説』(1988)などのSF映画、また1920年代のイギリス・オペレッタと1930年代ハリウッドへのオマージュ『ボーイフレンド』(1971)、フーの音楽による映画史上はじめてのロック・オペラ『Tommy トミー』(1975)などのミュージカルも手がけた。
[芳野まい]
フレンチ・ドレッシング French Dressing(1963)
10億ドルの頭脳 Billion Dollar Brain(1967)
恋する女たち Women in Love(1969)
恋人たちの曲 悲愴 The Music Lovers(1970)
肉体の悪魔 The Devils(1971)
ボーイフレンド The Boy Friend(1971)
狂えるメサイア Savage Messiah(1972)
マーラー Mahler(1974)
Tommy トミー Tommy(1975)
リストマニア Lisztomania(1975)
バレンチノ Valentino(1977)
アルタード・ステーツ 未知への挑戦 Altered States(1979)
アルタード・ステーツ 未知への挑戦 (1980)
クライム・オブ・パッション Crimes of Passion(1984)
ゴシック Gothic(1986)
アリア Aria(1987)
サロメ Salome's Last Dance(1988)
白蛇伝説 The Lair of the white worm(1988)
レインボウ The Rainbow(1989)
ボンデージ Whore(1991)
逆転無罪 Prisoners of Honour(1991)
チャタレイ夫人の恋人 Lady Chatterley(1993)
超能力者 ユリ・ゲラー Mindbender(1996)
カーシュ夫人の欲望 The Insatiable Mrs. Kirsh(2002)
デス・ルーム Trapped Ashes - The Girl With Golden Breasts(2006)
『Ken HankeKen Russell's Films(1984, Scarecrow Press, Metuchen)』
アメリカの天文学者。ニューヨーク州に生まれ、1897年プリンストン大学を卒業。カーネギー財団の援助でケンブリッジ大学に留学し、年周視差の写真測定法を修業、帰国後、母校の講師となり、1911年に教授兼天文台長に昇進、1947年までその任にあった。1912年食連星を観測しその光度曲線と速度曲線とを解析して、主星と伴星の質量・距離などを算出する方法を考案。またその内部構造を推定して、連星の発生と高密度化の過程について論及した。1913年恒星視差の測定から定めた絶対光度をスペクトル型と対応させてHR図を発表、これは恒星進化論の基礎資料となった。1920年太陽の吸収スペクトルの量的分析から、太陽大気中では水素量が圧倒的であることを検出し、またカルシウム、チタン、鉄など重元素線の相対強度について経験法則を展開した。国際天文学連合の委員長を務め、イギリスの王立天文協会から金賞を受けた。
[島村福太郎]
イギリスの政治家。ホイッグ党の名門貴族ベッドフォード公爵家に生まれ、1813年に下院議員となった。議会では人身保護法の停止に反対し、審査法廃止や議会改革を主張するなど、つねに自由主義的な姿勢を崩さなかった。ホイッグ党グレー内閣が成立すると、選挙法改正法案の起草委員の一人となり、1831年には与党の代表として法案(翌1832年成立)を下院に提出した。1835年にメルバーン内閣の内相、下院与党の指導者となって以後、歴代のホイッグ党、自由党内閣で要職につき、二度にわたって内閣を率いた(1846~1852、1865~1866)。その間、外相としてイタリアの民族運動を強く支持したこともある。1861年に伯爵。1866年の辞任後隠退し、グラッドストーンに党首の座を譲った。
[青木 康]
イギリスのSF作家。1931年以来、イギリス本国よりもアメリカの雑誌での活躍が多く、アメリカ人以上にアメリカナイズされた作風の持ち主。処女長編『超生命バイトン』を39年、『アンノウン』vnknown誌の創刊号に発表して一流作家の仲間入りをした。これは従来の地球侵略テーマを一歩進めて、人類が実は他の高等生物の家畜であったというプロットで、最初の「人類家畜テーマ」のSFである。このほかに地球侵略テーマの『金星の尖兵(せんぺい)』(1955)、SFスパイ小説『宇宙のウィリーズ』(1958)、スペース・オペラ『大いなる爆発』(1962)などの長編があり、短編にはユーモラスなものに優れたものが多い。
[厚木 淳]
『井上一夫訳『金星の尖兵』(創元推理文庫)』
本名スジロフスキーСудзиловский/Sudzilovskiy。ロシアの革命家、医師。白ロシア地方に生まれ、ペテルブルグ大学、キエフ(キーウ)大学に学ぶ。ナロードニキ主義の立場にたってさまざまな社会運動にかかわる。1875年に国外に亡命、初めバルカン諸国の運動に足跡を残したのちハワイに渡り、土着住民のために活動。日露戦争期には日本にきてロシアの戦争捕虜に対する革命宣伝に従事、「在長崎露国革命党首領」と称された。1910年、取締りの厳しくなった日本を去りフィリピンに移住、その後一時長崎に帰るが、晩年は中国の天津(てんしん)で過ごし、同地で死去した。
[原 暉之]
アメリカ抽象絵画の先駆者。ニューヨーク生まれ。ヘンライに学び、1909年からパリでマチスに師事したのち、スタントン・マクドナルド・ライトとともにシンクロミズムsynchromismの創始者となった。ロベール・ドローネーのオルフィスムと並行した実験として13年に試作を発表しており、アメリカ人による最初の純粋色彩の試みといえる。三次元の立体的な量感を、平面に並置した色面のハーモニーによって表現しようというのがシンクロミズムで、明るい色彩をリズミカルに展開する快適な近代感覚に基づいている。
[桑原住雄]
イギリスの哲学者,論理学者,平和運動家。ノーベル文学賞受賞者(1950)。伯爵。ケンブリッジ大学に学び,幾何学の基礎にかんする研究で母校のフェロー資格を得,のち講師となる。数学の基礎の研究を志したが,一方で新ヘーゲル主義の影響を受け,一時世界は分析不可能な全体だと考える。しかし20世紀初めころから世界を単純なものの複合体と考え,その単純なものとして感覚所与sense-datumをとるに至る。ここに至るには主語-述語形式を命題と存在の基本と考えるライプニッツの存在論の批判があずかって力があった。こうして古典的な主語-述語の論理学の代りに関係の論理学を唱導し,さらに数学者ペアノ,フレーゲの業績に触発されて新しい数理論理学を構想。これとともに数学(解析学)を論理学に還元することをはかる。その成果は《数学の諸原理》(1903)に盛られたが,その出版直前に集合論における重要なパラドックス(ラッセルのパラドックス)を発見(1901)。これはのちの論理学,数学基礎論,意味論の動向に大きな影響を及ぼすものであった。ラッセルはタイプ理論の案出によってこのパラドックスを解決し(1908),師A.N.ホワイトヘッドとともに大著《プリンキピア・マテマティカ》(1910-13)を著して数理論理学と数学を論理学に還元する論理主義の金字塔を建てた。一方,いわゆる〈記述〉理論を発表して(1905),見かけ上の主語-述語形式言明を存在言明におきかえる方策を案出,これをもとに存在の種類をできるだけへらす唯名論的な存在論を完成せんとした。それは言語分析・論理分析を哲学に役だてた模範である。ラッセルにとってこのときの基本的存在者(実体)は感覚所与ないし〈事件event〉であり,物と心,時空的位置などはこれから構成されるものであった。しかし彼はかならずしもこの一元論に徹底したわけではなく,しばしば物との二元論に傾き,知覚の因果説に立ったり,心的働きの位置づけに苦労したりもした。この方面では《哲学の諸問題》(1912)から《人間の知識》(1948)に至るまで多くの著作がある。しかしその立場は基本的にいってむしろ正統的な経験主義である。
同様なことは倫理学や社会・政治思想についてもいえる。ラッセルはきわめて強い道徳的信念と旺盛な社会的関心の持主であった。自由と平等,反戦,反権力を主張しただけではなく,そのために闘った。男女両性の平等と自由恋愛を主張しただけではなく身をもって実践した。第1次大戦に反対してケンブリッジ大学から追放されただけではなく,投獄の憂目にもあったが,ビキニの水爆実験(1954)以来核兵器廃絶運動に身を挺し,アインシュタインとともにパグウォッシュ会議を主催し(1957年以降),イギリスにおいて〈百人委員会〉を組織したりした(1960)。またアメリカのベトナム戦争に反対してサルトルらと〈ベトナム戦犯国際法廷〉を開いてこれを糾弾した(1967)。しかしラッセルの倫理社会思想は,だいたいにおいてJ.S.ミル流の個人主義,功利主義,民主主義である。ただいっそう急進的で無神論的である。彼の特色はつねに明快な結論を追求し,得た結論はどんな障害があってもごまかさずに実行しようとしたところにあるといえよう。
執筆者:中村 秀吉
アメリカの天文学者。ニューヨーク州出身。プリンストン大学に学び,1897年に〈火星による小惑星エロスの軌道長半径に対する一般摂動〉に関する研究で博士号を取得。卒業後体調をくずし静養していたが,1902年イギリスに渡り,キャベンディシュ研究所,ケンブリッジ天文台に滞在,A.R.ヒンクスと恒星視差の決定に従事した。04年に帰国,05年からプリンストン大学の教職につき,11年教授,12年から47年の退官までプリンストン天文台の台長を務めた。1921年よりウィルソン山天文台での観測にも従事,退官後はリック天文台,ハーバード天文台でも研究を行った。天体物理学の多くの分野で業績をあげたが,食変光星の光度曲線の解析,スペクトル・等級図に基づく恒星進化論,太陽スペクトルの解析による組成分析,原子スペクトルの準理論的解析などが知られている。とくに彼の発案になる恒星のスペクトル・等級図は,現在ヘルツシュプルング=ラッセル図として広く用いられ,恒星物理学の研究に不可欠なものとなっている。また,F.A.サンダースとともに考案したL-S結合は,複数の価電子をもつ原子やイオンのスペクトルを説明するのに役だっている。太陽物質の大部分が水素であることを最初に見抜いたのも彼である。
執筆者:小平 桂一
イギリスの政治家。名門のホイッグ貴族,第6代ベドフォード公の三男。1813年に下院議員となり,以後,20年代から60年代にかけてホイッグ,自由党内に重きをなし,数々の自由主義的な改革を推進した。まず28年,カトリック教徒の公職就任をはばんできた審査法に反対,同法の廃止と翌29年のカトリック解放法の成立に尽力,30-32年の第1次選挙法改正に際しては,法案の作成に参画,同法を下院に上程,これを通過させた。35年からメルバーン内閣(1835-41)の内相,ついで陸相兼植民相を務め,46-52年に首相となり,47年には10時間労働法を成立させた。その後,台頭したパーマストンとともに自由党を指導し,パーマストンの死後,再度首相(1865-66)となり,第2次選挙法改正の実現を目ざした。だが同法案は成立せず,首相を辞任,以後,党の指導権をグラッドストンに譲った。貴族的なホイッグ党を市民的な自由党に脱皮させるうえで功があった。
執筆者:村岡 健次
イギリスの天文学者。初め醸造業をしていたが,独学で天文学を学び,リバプール近郊に私設天文台をたて,反射望遠鏡の製作に従事し,口径121cmに達するものをつくり,観測も行った。1846年海王星の衛星トリトン,48年ボンドG.P.Bondと同時期に土星の第7衛星ヒペリオン,51年天王星の衛星アリエル,ウンブリエルを発見。さらに600個の星雲も発見する。49年王立天文学会ゴールド・メダル,58年ローヤル・メダルを受賞する。
執筆者:日江井 栄二郎
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1792~1878
イギリスの政治家。ホイッグ党の名門に生まれ,1813年下院に入り,自由主義的改革に尽くした。28年の審査法廃止,29年のカトリック教徒解放法,さらに32年の選挙法改正法など彼の努力に負うところが大きい。35年以降閣僚を歴任し,穀物法廃止で失脚したピールのあとをうけて首相(在任1846~52,65~66)となり,チャーティスト運動に対応するとともに,公衆衛生法,工場法を成立させた。65年パーマストン死去をうけて再度組閣。いっそうの選挙法改正を試みたが,失敗して辞任。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…〈感覚与件sense‐datum〉の語はアメリカの哲学者J.ロイスに由来し,いっさいの解釈や判断を排した瞬時的な直接経験を意味する。代表的な論者にはB.A.W.ラッセルおよびG.E.ムーアがおり,そのテーゼは事物に関する命題はすべて感覚与件に関する命題に還元可能である,と要約される。マッハに始まるこれら現代経験論の思想は,要素心理学や連合心理学の知見,およびそれらの基礎にある恒常仮定(刺激と感覚との間の1対1対応を主張する)とも合致するため,19世紀後半から20世紀初頭にかけて大きな影響力をもった。…
…われわれは自分自身を反省するまでもなく,いつもすでにおのれを非対象的,非定立的に意識しており,したがって人間のどんな在り方も自由な選択の結果にほかならないというわけであった。(2)しかし,われわれがつねに自己意識をもっているかどうかは問題であって,現代でも経験主義的な立場では,コギトを単なる〈意識内容(コギタティオ)〉の告知とみなし,コギトをむしろIt thinks within me(ラッセル)と言い換えようとする傾向がある。(3)それにしても,経験の統一ということを考えれば,われわれもカントのように,〈すべての表象には‘われ思う’が伴いえなければならない〉と言うことはできる。…
…定理〈どんな集合Mについても,Mの部分集合全体の集合はMより大きい濃度をもつ〉。また,〈すべての集合の集合〉MはM自身も含むという変なことになるので,B.A.ラッセルは1905年に,〈自身を元としては含まない集合全部の集合〉Nを考え,次のような矛盾を指摘した。N∈NならNの定義によって,N∉N。…
…ところが,19世紀末G.カントルによって創設された集合論はまもなく逆理を生じた(パラドックス)。カントル自身が発見した逆理(1899),ブラリ=フォルティの逆理(1897)やラッセルの逆理(1903)がそれである。集合論におけるすこぶる有効な用法ときわめて類似したしかたによって容易にこれらの逆理が導かれるのみならず,同時期に提出されたリシャールの逆理(1905)〈25字以内の字数によっては定義されない最小の自然数は,現にこの文章によって25字で定義されている〉とともに,ほとんど形式論理の範囲内で現れることから数学は重大な危機に陥った。…
…B.A.W.ラッセルが1901年に発見したいわゆる〈ラッセルのパラドックス〉を解決しようとして提出した理論(1908)と,その単純化,制限の解除,および変形の総称。階型理論ともいう。…
…1955年7月に出された〈ラッセル=アインシュタイン宣言〉の呼びかけを具体化するものとして,第1回の会議がカナダ,ノバ・スコシア州のパグウォッシュで開かれた。以来,年1~2回の割合で世界各地で開かれてきているが,最初の開催地にちなんでパグウォッシュ会議と呼ばれている。…
…集合論のパラドックスは最大の順序数ないし基数を考えるときにブラリ・フォルティおよびG.カントルのパラドックスとして現れた。B.A.W.ラッセルは,すべての集合を自分自身を元とする第1種の集合と自分自身を元としない第2種の集合との2種類に分けるとき,第2種の集合の全体(これも一つの集合である)をとるとパラドックスが導かれることを見いだした(1901)。つまりこの集合を第1種としても第2種としてもその反対が帰結されるのである。…
…A.N.ホワイトヘッドとB.A.W.ラッセルの共著。3巻。…
…言語の分析にかぎらず広く言語の考察から哲学的問題に迫ろうとする哲学をすべて〈分析哲学〉と呼ぶこともあるが,これは不正確である。 言語分析は20世紀の初頭,B.A.W.ラッセルとG.E.ムーアによって始められたといってよい。彼らは当時イギリスにおいて盛んであった,世界は分析しがたい一つの総体だとするヘーゲル的思考に反対して,世界は複合的なものであり,要素に分解しうるとし,この考えを実体間の外在的関係の理論によって論理学的,形而上学的に基礎付けた。…
… 1965年2月の北爆開始以降の戦争のエスカレーションは,反戦運動を一挙に拡大させた。世界各地で数万,数十万単位の抗議集会がもたれ,またB.ラッセルらの呼びかけによる〈アメリカの戦争犯罪を裁く国際法廷〉(1967年5月,ストックホルムで開催。通称ラッセル法廷)や,たびたびの国際反戦統一行動デー(たとえば1967年10月21日)など,国際的連携による活動も盛んだった。…
…さらにK型かM型の巨星になると,その半径は太陽半径の数十倍から数百倍に達する。このような星の存在は20世紀初頭にE.ヘルツシュプルングやH.N.ラッセルにより明らかにされた。すなわち当時集積しつつあった恒星視差のデータをもとに星の絶対等級を推定することが可能となり,その結果とくにG,K,M型の星ではスペクトル型が同じでも絶対等級の明るい星と暗い星の2種類があることが明らかにされた。…
※「ラッセル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
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