浄土真宗(真宗ともいう)本願寺派の坊主や農民,商工業者,武士などの門徒が主導し,あるいは門徒が他の勢力と結んだり,本願寺法主に動員されたりしておこした武装蜂起,闘争の総称。1466年(文正1)から1582年(天正10)に至る約120年間にわたって,近畿,北陸,東海などの諸地域で起き,室町末~戦国時代の政治史の中で,重要な役割を果たした。真宗門徒の中には,当時一向衆と呼ばれた時宗(衆)の門徒が大量になだれこんでいたので,真宗をも一向宗と呼ぶようになったため,その名がある。
鎌倉後期に活躍した親鸞を開祖とする真宗は,その後各派に分かれたが,その中の本願寺派は親鸞の血脈を伝え,8世蓮如が法主になると熱烈な布教を開始した。各地に巡訪して門徒を拡大し,平易なかな交り文の〈御文〉(《蓮如仮名法語》)を門徒たちに与えて信心を固めさせた。親鸞・蓮如の教えは,罪深い人間を救済し極楽往生を実現する阿弥陀一仏の功徳をひたすら信じ,頼むこと(他力本願)によってのみ救済されるというものであった。この教えは,極楽往生の願望の強い中世の女性を含む諸階層の人々に受容されていった。本願寺門徒が量的拡大をとげ一つの社会勢力になると,諸権力や宗教勢力の圧迫も加わり,護法のためにこれに抵抗したり,また門徒自身の社会的・政治的要求に基づいて非門徒の人々と結ぶなどして一向一揆の蜂起が見られた。以下,一向一揆を3期に区分して述べる。
大和,近江,北陸地方などで門徒の拡大が進むと,各地の既成宗教勢力が危機感を持ち抑圧にかかった。大和では興福寺の六方衆が1458年(長禄2)に真宗門徒を襲撃する事件がおき,65年(寛正6)になると延暦寺(山門)西塔の山法師,祇園社の神人,大津・坂本の馬借たちが京都大谷の本願寺を襲い破却してしまう。翌年には,山門の抑圧に抗して琵琶湖東岸(湖東)の赤野井,金森(ともに守山市)などの門徒が蜂起して金森に立てこもる。これが一向一揆の初見である。やがて門徒は城を自焼して解散する。68年(応仁2)には山門勢力は門徒の湖西の拠点堅田を襲撃し(堅田大責),門徒を含む住民はしばらく沖ノ島に逃れる。蓮如は難を避けて,大谷から近江を経て北陸に赴き,71年(文明3)加賀との国境に位置する越前吉崎に御坊を建立して,ここを中心に北陸の布教を本格化した。ここに,吉崎を中心とする北陸の教線が飛躍的に伸張する。これに対して加賀の白山(平泉寺)衆徒,真宗の高田専修寺派,三門徒派などが,守護の富樫氏や近隣在地領主と結託して抑圧にかかり,73年吉崎の多屋衆(在留している門徒)は外からの攻撃に対して要害を構え武力で対抗することを決議した。情勢の緊迫に蓮如は衝突を回避するため吉崎を退去する。このころ,応仁の乱の余波もあって富樫家では当守護幸千代と富樫政親の兄弟は相争い,幸千代は高田門徒と結び,本願寺門徒と白山衆徒は政親を支援し抗争は宗教戦争の様相を帯びた。政親方は74年に蓮台寺城(小松市)を攻め,守護代の小杉を殺し,幸千代を追い,権力を奪取した(文明の一揆)。これによって,門徒の政治的地位は高まり,勢力は拡張される。門徒農民は,各地の荘園で非門徒の農民とともに年貢対捍(たいかん)の闘争を展開している。やがて88年(長享2)には,守護富樫政親の兵粮米賦課に反対する一揆がおこり,加賀,能登,越中,越前の門徒を中心とする一揆衆数万は,政親の高尾城を攻め政親以下を殺して,別家の富樫泰高を守護に推戴した。これは〈百姓トリ立テ富樫〉とか〈百姓ノ持チタル国ノヤウ〉などといわれ,農民勢力を背景にした加賀三ヵ寺(波佐谷松岡寺,若松本泉寺,山田光教寺)などの蓮如一門の寺院や門徒化した国人などの支配する加賀の〈門徒領国〉が実現した。
これに先んじて,1481年東大寺領越中国高瀬荘では年貢問題で百姓と在地領主の石黒光義が争い,井波の瑞泉寺などを中心とする一向一揆が蜂起して石黒氏を滅ぼし,越中西部に門徒の支配権を確立した。このような北陸地方における一向一揆の蜂起は,直接には蓮如の教説や扇動によるものでなく,信心を得ることによって自信を得た門徒が,荘園制の支配やこれに寄生している在地領主,守護,宗教勢力の抑圧に対抗しておこし,結果として地域権力を奪取したものであった。その結果,本願寺は強力な宗教基盤を北陸に確立し(門徒領国),北陸に荘園を持つ中央の貴族,武家,寺社にとって無視できなくなり,中央における政治的地位が著しく高まった。
蓮如の継嗣本願寺9世の実如は,幕府管領で畿内政権を掌握した細川政元を本願寺の外護者と見たて,これと結んで畿内の教線の拡張をはかった。1505年(永正2)永正の乱がおこると実如は,政元の要請にこたえて畠山義英の守る河内誉田(こんだ)城攻めの動員を指令した。このとき,大坂石山御坊(1496年(明応5)設立)を拠点とする弟の実賢や摂津・河内門徒は畠山氏との関係もあってこの命令を拒否した。そこで,実如は実賢らを追放し大坂を接収し(大坂一乱),加賀門徒1000人を誉田城攻めに派遣した。このようにこの時期の本願寺は戦国動乱の中に入りまじって活動し,勢力拡張をし,一向一揆は一つの本願寺の武装勢力として活動した。
1506年,加賀門徒に支援された越前門徒は,高田派,旧仏教勢力と結ぶ朝倉氏と九頭竜川に戦い敗退し,多くの門徒が加賀に逃れた。25年(大永5)法主が本願寺10世の証如とかわり,31年(享禄4)になると,加賀三ヵ寺と越前から逃れて来て加賀に土着した超勝寺・本覚寺の二大勢力が争い大小一揆の乱がおこる。加賀門徒は分裂し,朝倉氏ら周辺の勢力もこれに介入する。本願寺は坊官下間頼盛(しもつまらいせい)らを派遣して超・本二寺方を支援し,6ヵ月の戦闘の末に三ヵ寺方を打倒した。この戦闘は本願寺中央権力による加賀の支配権の確立の意義を持つ。
1532年(天文1)証如は細川晴元の要請で河内飯盛山城に畠山義宣,堺南荘に三好元長を滅ぼし,これに勢いを得た大和一向一揆が蜂起して興福寺を焼き払う。この事件に反発した京都の日蓮宗門徒は蜂起し(法華一揆)山科本願寺を焼き払い,証如は石山に逃れる。この事態の中で細川晴元は本願寺と手を切り石山御坊を攻めた(天文の乱)。証如は各地の支援を得て石山防衛をするが戦利なく,35年主戦派の下間頼盛を追放して晴元と和睦する。この期の一向一揆は,法主の命による軍事動員(具足懸(ぐそくかけ))の場合が多く,これは,本願寺教団自体が上部権力と結びつきながら一つの政治的・軍事的勢力として確立してきたことと,法主を頂点とする集権的な教団組織が形成されてきたことを示す。
またこの時期には,畿内各地に本願寺の御坊・寺院を中心に寺内町が形成される。16世紀中葉以前に,名塩,石山,富田(以上摂津),招提,枚方,出口,久宝寺(以上河内),貝塚(和泉),今井,下市,飯貝(以上大和),山科(山城)などが設立され,少しおくれて59年(永禄2)に富田林(河内)が設立される。これらの寺内町は,真宗寺院を中心に堀をめぐらした区画内に町立てし,周辺地域から門徒を中心として商工業者を移住させて,同時に細川氏などの上級権力から公事免除の特権(不入権)を獲得した。これらは畿内の流通の結節点となるとともに,そこに集積された富と技術は本願寺の経済的基盤となった。
1554年に顕如が11世法主となる。このころになると各地の戦国大名は領国内の一向一揆の蜂起を恐れて,布教を禁止した。越後長尾(上杉)氏,肥後相良氏,薩摩島津氏などその例であるが,一方本願寺は外交手段などによってその禁制の解除を要請した。1514年播磨赤松義村,60年相模北条氏康が禁制を解除しているが,後北条氏の場合,越後上杉氏との対抗の上で北陸門徒の力を借りるためであった。
戦国大名と一向一揆の全面的対決は,1563年秋から翌年にわたって西三河で行われる。松平(徳川)家康は,桶狭間の戦以後今川氏の支配下から独立して織田信長と結び,矢作川流域の西三河の領国支配に着手した。このころこの地域は三河三ヵ寺(佐々木上宮寺,針崎勝鬘(しようまん)寺,野寺本証寺)や一家衆寺院の土呂本宗寺などを中心に,商工業・運輸業者,農民,武士たちの強力な門徒集団が形成されており,家康家臣団の中にも門徒武士が多かった。家康と門徒は寺内町の特権をめぐる紛争を発端として激突し,反松平勢力の荒川,酒井,吉良氏なども一揆側に加わった。戦闘は半年に及び,ようやく家康はこれを鎮圧した。この場合,本願寺自身は命令を出さず,現地の有力寺院が一向一揆を指導した。
1570年(元亀1)から80年(天正8)に及ぶ,戦国争乱の最後の死闘である元亀・天正の争乱は,徳川家康と同盟した織田信長と将軍足利義昭を結節点とした反信長勢力の対決であり,浅井,朝倉,毛利,武田などの反信長連合の中軸に石山本願寺一向一揆があった。一向一揆は大坂石山に籠城し,北陸,近江,紀伊などの門徒は石山救援活動を行う一方で,各地に蜂起して信長軍と戦った。美濃斎藤氏の遺臣と結んだ伊勢長島一揆,浅井氏と結んだ近江一揆,一挙に越前一国を支配下に収めた越前一向一揆,鉄砲隊を率いて石山籠城軍の中心となった紀伊雑賀(さいが)一揆の活躍などによって断続的に10年の戦闘が続いた。80年,多くの同盟軍を信長の各個撃破によって失った本願寺は勅命講和によって事実上の降伏をして,顕如は石山を退城した。ここに120年間に及ぶ一向一揆の幕を閉じることになる。第3期の一向一揆は,統一政権成立過程の一揆で,この一揆を撃砕することによって織田信長の畿内近国の統一は実現したのである。
→英賀(あが)一揆 →石山本願寺一揆 →加賀一向一揆 →雑賀一揆 →浄土真宗 →長島一揆 →本願寺 →三河一向一揆
執筆者:峰岸 純夫
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室町中期から戦国時代にかけて起きた一向宗(東西分派以前の真宗本願寺派(しんしゅうほんがんじは))信者の、教団組織を利用した武装蜂起(ほうき)。1465年(寛正6)の近江(おうみ)金森一揆(かながもりいっき)が最初で、1580年(天正8)の石山本願寺の陥落を最後とするが、一揆の性格により3段階に分けて把握できる。第1段階は15世紀末までの北陸を中心とした教団組織の形成期で、延暦寺(えんりゃくじ)による一向宗弾圧に抵抗して蜂起した護教的な金森一揆に始まる。1474年(文明6)越前(えちぜん)吉崎(よしざき)(福井県あわら市)にあった本願寺蓮如(れんにょ)の指令で、加賀守護富樫(とがし)家の家督争いに介入し、政親(まさちか)を支援して弟幸千代(こうちよ)を倒した加賀一揆(文明一揆(ぶんめいいっき))、1481年国人(こくじん)領主石黒氏を倒した越中礪波郡一揆(えっちゅうとなみぐんいっき)、1487年(長享1)に守護政親の重課と一向宗弾圧に反対して蜂起し、翌年6月に政親を滅ぼした加賀の国一揆(くにいっき)的一向一揆(長享一揆(ちょうきょういっき))である。とくに守護を打倒した加賀では、名目上の守護に富樫一族を擁立し、1530年代からは本願寺法主(ほっす)を主君と仰ぎ、一家衆(いっけしゅう)三か寺、「郡」とその下部の「組」という二重の「一揆」(在地領主連合)による一国支配を、1580年(天正8)まで維持した。なお1485年(文明17)に飛騨一揆(ひだいっき)が内ヶ島氏と戦ったと伝えられる。
第2段階は16世紀前半、本願寺が一つの政治勢力としての地位を確定した時期である。1506年(永正3)管領(かんれい)細川政元(ほそかわまさもと)派となった本願寺実如(じつにょ)の命令により、政元の反対派の越前朝倉(あさくら)、越中畠山(はたけやま)、越後(えちご)上杉(うえすぎ)氏らに対する畿内(きない)、北陸の大一揆が蜂起した。越中一揆は越後守護代長尾能景(ながおよしかげ)を戦死させ、越中西部を加賀と同じく「一揆」支配下に置いた(永正一揆(えいしょういっき))。1531年(享禄4)加賀に権力争いが起こり、本願寺方の大一揆と一家衆本泉寺(ほんせんじ)、松岡寺(しょうこうじ)、光教寺の三か寺方の小一揆が戦い、大一揆が勝利した(大小一揆)。1532年(天文1)畿内の門徒は本願寺証如(しょうにょ)の指令で蜂起し、堺(さかい)に三好元長(みよしもとなが)を攻めて自殺させた。これは外護者(げごしゃ)細川晴元(はるもと)の反対派打倒作戦であった。しかし一揆の力を恐れた晴元が反本願寺に転ずると、畿内門徒の一揆は急速に拡大し、大和(やまと)、河内(かわち)、摂津、和泉(いずみ)、近江などで晴元勢や法華一揆(ほっけいっき)と戦った。初めは晴元を堺から追い出すなど一揆方が優勢であったが、法華一揆に山科本願寺(やましなほんがんじ)を焼かれ、再起した晴元の反撃でしだいに守勢となった。摂津石山(いしやま)(大阪市)に移った本願寺もしばしば晴元勢の攻撃を受けるに至り、1535年に講和が結ばれた。二度の大一揆によって畿内の一大政治勢力としての本願寺の地位は確定した。
第3段階は、16世紀の織田信長との対決、一揆の終結期である。すでに1562年(永禄5)に信長の同盟者となった徳川家康は、1563年に三河一揆と戦っている。一揆は、家康による地方大坊主の寺内不入権侵害に抵抗して蜂起し、家臣団も二分して翌年2月まで激しい戦闘を続けたが、門徒の武士と農民の離間に成功した家康に屈服した。1568年に足利義昭(あしかがよしあき)を奉じて上洛(じょうらく)した信長を「法敵」として、本願寺顕如(けんにょ)は1570年(元亀1)に全国門徒に総決起を指令した。いわゆる石山戦争の開始である。本願寺は武田、朝倉、浅井、六角(ろっかく)、ついで毛利、上杉、荒木ら反信長派大名と結ぶとともに、畿内、東海、北陸での一揆の蜂起によって信長包囲網を形成した。信長は本願寺とは名目的講和を繰り返す一方で、各地一揆の各個撃破を進めた。近江一揆は六角、浅井氏と連携して各地で信長軍と戦ったが、両氏の滅亡とともに瓦解(がかい)した。長島願証寺(がんしょうじ)を中心とした尾張(おわり)、美濃(みの)、伊勢(いせ)の一揆は、信長の弟信興(のぶおき)を攻めて自殺させるなど強大であったが、三度にわたる信長の攻撃で1574年(天正2)壊滅した。越前では信長家臣の勢力争いに乗じて一揆が起こり、加賀一揆の来援を受けて1572年(元亀3)1月に信長家臣を倒して一国支配を実現した。しかし1575年(天正3)8月に総攻撃を受けて壊滅し、加賀南半も信長軍に占領された。紀伊(きい)の雑賀(さいか)五郷の一揆は紀州惣国一揆(そうこくいっき)の一翼で、1577年にいったん信長に屈服したが、反信長派の2郷は再起して多量の鉄砲と水軍で本願寺を支えた。一方、1576年より籠城(ろうじょう)に追い込まれた本願寺は、畿内門徒と毛利氏の援助でしばしば信長軍を破ったが、各地一揆の敗北と毛利の後退で戦力は低下し、ついに1580年3月に講和を結んだ。顕如は紀州鷺森(さぎのもり)(和歌山市)に退去、講和に反対した教如(きょうにょ)も8月には退出し、石山戦争の終結とともに一向一揆は終結した。
一向一揆を蜂起の原因からみると次のように分類できる。すなわち信仰擁護のためのもの、地域で多数派化した門徒が非門徒とも連合して地域または一国の支配権獲得を目ざした国一揆的性格の強いもの、「門跡領主」本願寺の軍事力として動員されたもの、天下統一を目ざす信長との対決などである。いずれの場合も根底には信仰の擁護とともに、重層的な土地所有体制を最大限に利用して、負担の軽減を図った小領主と農民の強い要求があった。それに本願寺法主を主君と仰ぐ国人層の地域支配要求が重なって強大な軍事力となり、本願寺をして戦国時代の一大政治勢力に押し上げ、戦国大名とは異なる封建支配の体制を形成したといえる。それゆえに剰余の一元的収奪体制の構築を図る戦国大名、その覇者としての信長との対決は不可避であったのである。
[新行紀一]
『笠原一男著『一向一揆の研究』(1962・山川出版社)』▽『笠原一男著『一向一揆――その行動と思想』(1970・評論社)』▽『井上鋭夫著『一向一揆の研究』(1968・吉川弘文館)』▽『重松明久著『中世真宗思想の研究』(1973・吉川弘文館)』▽『新行紀一著『一向一揆の基礎構造』(1975・吉川弘文館)』▽『北西弘著『一向一揆の研究』(1981・春秋社)』
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戦国期,本願寺門徒の武士・農民・都市民が,守護大名や幕府の武将と戦うために結成した一揆,またその武装蜂起。本願寺は15世紀半ば第8代宗主蓮如(れんにょ)の時代から,真宗諸派の門徒をはじめ,時宗,あるいは山伏など密教的念仏者ら一向宗とよばれる浄土信仰の徒を結集し,一大教団を形成。門徒らはみずからの信仰や利益を守るために結束して支配者と戦い,また本願寺の指令をうけて政治闘争に介入し,戦国期の一大政治勢力となった。加賀の守護大名を滅ぼし,100年にわたる一揆の自治を実現した加賀の一向一揆,室町幕府末期の足利義昭をめぐる政治抗争のなかで,天下人織田信長と10年に及ぶ抗争を展開した石山合戦などが有名。1580年(天正8)朝廷を通じての和議で顕如が石山本願寺を退去し,組織活動は終わった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
… (1)は中村吉治に代表される見解で,貨幣経済の進展によって解体しかかった中世封建制が,戦国期から織豊政権にかけて,大名領知制の確立や検地,身分統制の強化などによって再編強化され,近世封建制が成立したというものである。(2)は藤田五郎に代表される見解で,夫役経営(労働地代)を基本とする中世の農奴制的封建社会が,土一揆,一向一揆の過程を通じて,本百姓=隷農による小農民経営が成立し,生産物地代を中心とする,より純粋化した形の封建社会が成立したというものである。(3)は服部之総に代表される見解で,土一揆,一向一揆に代表される民衆の闘いと,倭寇から朱印船貿易にみられる海外発展は,あたかもヨーロッパの初期絶対主義時代に相当するという見解である。…
…敏景の越前平定と軌を一にして,71年京都を追われた本願寺8世蓮如は坂井郡吉崎に坊舎を建立して布教を始めると,北陸一帯に急激に門徒が増加し,一向宗教団を形成していった。これが一向一揆の母体となる。越前から放逐された反朝倉勢力はこれら一向一揆と結んでしばしば越前侵攻を試みたが,敏景に続く氏景,貞景の時代はよくこれを撃退して,朝倉の領国支配を維持した。…
…そして将軍のため二条城を造営する一方,殿中掟・事書五箇条を定めて将軍権力を牽制し,70年(元亀1)浅井・朝倉軍を近江姉川の戦に破り,ついで河内に進出したところ石山の本願寺顕如が決起して浅井・朝倉軍に呼応したため退却し,天皇の権威をかりて講和した。ついで将軍の失政を責め,73年(天正1)ついに幕府を倒し,宿敵浅井・朝倉両氏を滅ぼし,翌年伊勢長島の一向一揆を鎮圧,75年には三河長篠の戦に武田勝頼の精鋭を破って鉄砲隊の威力を示し,また丹波・丹後の征服を開始,8月越前の一向一揆を鎮定し,柴田勝家ら直属部将を分封,国掟を与えて専制支配の姿勢を明らかにした。そして濃尾両国を嫡子信忠に譲り,76年近江に安土城を築き,77年羽柴秀吉に西国征伐を命じた。…
…このような状況下74‐75年一部守護勢と一向衆とは,国人層,百姓層,寺社勢力をも糾合し,それぞれの反対勢力打倒の一揆(惣国一揆)をおこした。この文明一揆は主体に一向衆を含む点で,北陸最初の一向一揆ともなった。新守護富樫政親に与同の国人層は,そのとき連合組織〈郡〉を結成した。…
… 第3の特徴は,民衆のさまざまな形をとった反権力的動向の活発化である。これも下剋上的社会動向の一面にほかならないが,とりわけ一向一揆に代表される民衆の動向は,大名権力の存亡にかかわるほどに巨大な力をもち,その鎮圧・解体が織豊統一政権成立の基本的条件であった。したがってそれは単なる下剋上的風潮の問題というより,激しい階級闘争の展開として注目する必要があろう。…
…
[信仰と伝承]
被差別部落の信仰という点では,真宗(浄土真宗)ならびに白山信仰との密接な関係があげられる。中世の末期から近世の初頭にかけての一向一揆においては,各地で少なからぬ被差別民がこれに深く関与していた。事例はあまり多くはなく,また地域も限られてはいるが,近畿で一向一揆の拠点になった集落であることが明確なところが,現代の被差別部落に重なっている事実も,近年の研究で明らかになっている。…
…1532‐36年(天文1‐5)日蓮宗の京都町衆信者(町衆)が中心となって起こした一揆。一向一揆との対比で名付けられた呼称。戦国時代の京都の町屋地域は〈題目の巷(ちまた)〉といわれたほど,日蓮宗が町衆社会に盛行し,洛中には二十一本山と呼ばれた日蓮宗の大寺が栄えた。…
※「一向一揆」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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