南郷(読み)みなみのごう

日本歴史地名大系 「南郷」の解説

南郷
みなみのごう

現都城市南部梅北うめきた町から、その北方と西方、現鹿児島県曾於そお末吉すえよし町にかけての大淀川流域に比定される。「南郷」の読みは、現末吉町南郷が「みなみのごう」とよばれていたことからすると、「みなみのごう」であった可能性が高い。郷内益貫ますのきには島津庄の寄進者平季基の勧請と伝える神柱かんばしら宮がある。建久九年(一一九八)二月二二日の関東御教書案(島津家文書)にみえる南郷は当地であろうか。このとき鎌倉幕府飫肥南おびなん郷などの島津庄内郡司・弁済使の名田とともに、南郷弁済使名田を島津忠久に安堵しており、島津氏が早期に掌握を行おうとした場の一つであった。ただし前年六月成立の建久図田帳には、島津庄一円庄のなかにほん郷・なかん郷・南中みなみなか郷はみえるものの、南郷は記載されていない。一方、同帳の室町期の写である建久図田帳(長谷場文書)には、一円名のうちに南中郷に替わって南郷二〇〇町、島津庄日向方本庄分田数事には南郷一五七町四反三〇がみえる。

南郷の領主で中心的な存在である梅北氏は、大隅国肝属きもつき郡に拠って同郡弁済使職を継承した伴氏一族であった。戦国期の鹿屋周防介覚書(肝付文書)によれば、平安末期、島津庄の開発領主であった大宰大監平季基に男子がなく、伴氏の一族の伴兼貞が季基の婿となり、その子の一人が梅北氏の祖兼高であると伝えている。また梅北には、鎌倉初期に島津庄地頭に補任された島津忠久が館(堀之内御所)を造営したとする伝承が室町期に発生したように(山田聖栄自記)、島津庄の成立と深い由緒をもつ地であった。また島津庄惣鎮守神柱大明神の棟札写(都城島津家文書)によれば、仁安二年(一一六七)に大願主伴朝臣兼景による再建、弘安四年(一二八一)に大願主執行左衛門尉伴兼世による修造が行われたことが確認され、伴氏は庄園鎮守の造営・維持の主体であった。


南郷
みなみごう

中世よりみえる郷村。現末吉町南之郷みなみのごうから宮崎県都城市南東部にわたる一帯に比定される。長谷場本の日向国建久図田帳に島津庄一円庄としてほん郷・なかん郷とともに「南郷二百丁」がみえる。改定史籍集覧本では南中みなみなか郷とあるのが当郷であろう。建久九年(一一九八)二月二二日の関東御教書案(島津家文書)に「南郷弁済使名田」とあり、島津庄内の郡司・弁済使名田などとともに島津忠久に安堵されており、当郷の可能性がある。郷内には末弘すえひろ名や門貫かどのき(現都城市)がある(承久二年八月一〇日「日下部太子園借文」長谷場文書など)


南郷
なんごう

近世の郷名。福知山藩(朽木氏時代)では領内農村部を四郷(南郷・豊富郷・金谷郷・夜久郷)に分けて管轄したがその一郷であり、おおむね福知山藩領の西南部から南部・東部一帯をさした。天明二年(一七八二)奥野部おくのべ村庄屋の覚書(「福知山領田高畑高控」芦田重左衛門家蔵)によると、南郷は福知山城下一五町と土師はぜ前田まえだ多保市とおのいち長田おさだ岩間いわまほり南岡みなみおかむろ市寺いちでら正明寺しようみようじ(木村後ろ町を含む)笹尾さそおあつの諸村(八千一一七石余)である。

この地域はおおむね古代の六部むとべ郷・土師はにし郷・宗そかべ郷・和久わく(和名抄)の地にあたり、中世の六人部むとべ庄・土師庄・和久庄の一部であった。


南郷
なんごう

江戸時代、老人・幼児を保護する目的で島の南東の地に造られた避寒集落。島唯一の集落さとは島の北西部にあり、冬期には季節風が強く生活は厳しかった。島民は各戸ごとに当地に家を建て(かつては里の戸数と同じで二八戸あった)、必要な畑地をもち、一応の生活ができるようになっている。地内には氏義うじよし神社がある。明治時代には戸籍の分籍が行われ次男らがここを住居にしたこともあったが、経済的不況・戦争・高度経済成長政策などによって廃村になっている。


南郷
なんごう

大治二年(一一二七)八月日の江沼郡諸司等解(半井家本「医心方」巻二五裏文書)に南郷司散位大江某がみえるが、詳細は不明。遺称地は現加賀市南郷町で某郷の南郷の意と考えられており、郡家ぐうけ郷または菅浪すがなみ郷の南郷とする説がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「南郷」の意味・わかりやすい解説

南郷(宮崎県北部の地名、旧町名)
なんごう

宮崎県北部、東臼杵(ひがしうすき)郡にあった旧村名(南郷村(そん))。現在は美郷町(みさとちょう)の南部を占める地域。2006年(平成18)同郡西郷村、北郷村と合併して町制施行、美郷町となった。入郷地帯(いりごうちたい)の南部を占める。小丸(おまる)川の上流部にあたるが、旧村域の南部は支流渡川(どがわ)の流域である。九州山地内にあって平地はほとんどなく、わずかに中心地神門(みかど)付近に小丸川沿いの小盆地があるのみである。日向(ひゅうが)市と国道446号で、延岡(のべおか)市と国道388号で結ばれる。江戸時代は延岡藩領であった。農林業が主体でシイタケ栽培が盛ん。神門にある神門神社は三十三面の古鏡(県指定有形文化財)を保存し、本殿は国の重要文化財に指定されている。

[横山淳一]

『『南郷村史』(1996・南郷村)』


南郷(宮崎県南部の地名、旧町名)
なんごう

宮崎県南部、南那珂(みなみなか)郡にあった旧町名(南郷町(ちょう))。現在は日南市(にちなんし)の南端にあたる地域。旧南郷町は1940年(昭和15)町制施行。1956年(昭和31)榎原(よわら)村の大部分を編入。2009年(平成21)日南市に合併。荘園(しょうえん)島津荘(しまづのしょう)に飫肥(おび)南郷の記載がある。風光明媚(めいび)な日南海岸に臨み、背後は丘陵性の日南山地、沖合いに大島がある。JR日南線、国道220号、448号が通る。近世は飫肥藩領で、中村に南郷城跡がある。目井津(めいつ)、外之浦(とのうら)、栄松(さかえまつ)の3漁港があり、マグロ、カツオの遠洋・沖合漁業で知られる。早生ミカンやマンゴーの栽培も多い。沿岸部は日南海岸国定公園に含まれる。

[横山淳一]


南郷(福島県の地名)
なんごう

福島県南西部、南会津郡にあった旧村名(南郷村(むら))。現在は南会津町の北部を占める地域。伊南(いな)川中流部を占め、伊北郷(いほうごう)、伊南郷にまたがる。旧南郷村は、1955年(昭和30)大宮、富田(とみた)の2村が合併して成立。2006年(平成18)田島町および舘岩(たていわ)、伊南の2村と合併して南会津町となった。国道289号、401号が通じる。山間地であるが、伊南川筋に平地が開け、稲作のほかトマト栽培も行われ、京浜へ積み出している。豪雪地帯で南郷スキー場が開設され、界(さかい)地区には黒鉱(くろこう)探査の際に掘り当てた温泉がある。北東部の高清水自然公園には珍しいヒメサユリの群生地がある。

[安田初雄]

『『南郷村史』全5巻(1983~1998・南郷村)』


南郷(宮城県の地名)
なんごう

宮城県中北部、遠田郡(とおだぐん)にあった旧町名(南郷町(ちょう))。現在は美里(みさと)町の南東部を占める地域。旧南郷町は1954年(昭和29)町制施行。2006年(平成18)同郡小牛田町(こごたちょう)と合併して美里町となった。国道346号が通じる。鳴瀬(なるせ)川の東岸に位置し、かつては江合(えあい)川、鳴瀬川などの遊水池であったと考えられる。平安末期以降、開拓が始まったが、しばしば水害にみまわれた。1969年に完成した国営水利事業などによる干拓・排水工事や耕地整理で、生産性の高い水田地帯となった。明治期には開明的な地主によって村有財産制が確立されるなど富裕な農村であったが、過疎化が進み、圃場(ほじょう)整備事業、農村環境改善センターの建設など、農業の基盤整備に努力している。

[境田清隆]


南郷(青森県の地名)
なんごう

青森県南東部、三戸郡(さんのへぐん)にあった旧村名(南郷村(むら))。現在は八戸(はちのへ)市の南部を占める地域。1957年(昭和32)島守(しまもり)、中沢の2村が合併して成立。2005年(平成17)八戸市に編入。国道340号が通じ、八戸自動車道の南郷インターチェンジがある。北上高地北部に位置し、新井田(にいだ)川が北流しわずかな耕地があるが水田は少ない。農産物は雑穀やリンゴなどの畑作物が主で、葉タバコの生産は県下一である。島守の福一満虚空蔵菩薩堂(ふくいちまんこくぞうぼさつどう)は名高い。旧暦4月に、竜興山神社(りゅうこうざんじんじゃ)と合同で行われる例祭には数万の参拝者が訪れる。

[横山 弘]

『『南郷村誌』(1982・南郷村)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「南郷」の意味・わかりやすい解説

南郷
なんごう

宮崎県南部,日南市南部の旧町域。日南海岸の中部に位置し,日向灘に面する。1940年町制。1956年榎原村の一部を編入。2009年日南市,北郷町と合体して日南市となった。江戸時代は飫肥藩領。丘陵性の山地が過半を占め,中央を潟上川が流れる。産業の中心は水産業でカツオ,マグロの水揚げが多い。目井津港がその基地で,南部の外浦港は良港であったが江戸時代に一部が埋め立てられた。虚空蔵島(こくぞうじま)の亜熱帯林は国指定天然記念物。海岸部一帯は日南海岸国定公園に属する。

南郷
なんごう

福島県南西部,南会津町北西部の旧村域。只見川の上流伊南川流域に位置する。 1955年大宮村,富田村が合体して成立。 2006年田島町,舘岩村,伊南村と合体して南会津町となった。大部分が山地であるが,米作と野菜・花卉の栽培が盛ん。伊南川の漁具を集めた奥会津南郷民俗館や,宮床湿原などがあり,冬はスキー客が多い。

南郷
なんごう

宮崎県中北部,美郷町西部の旧村域。小丸川の上流域にある。 2006年西郷村,北郷村と合体して美郷町となる。江戸時代は延岡藩領。大部分が山林で,木材,シイタケを産する。南部の小丸川支流の渡川 (どかわ) に渡川ダムと発電所がある。神門神社本殿は国指定重要文化財。

南郷
なんごう

宮城県北東部,美里町南東部の旧町域。鳴瀬川下流左岸にある。 1954年町制。 2006年小牛田町と合体して美里町となる。北東部はかつての名鰭沼 (なびれぬま) であったが,1947年に干拓された。仙北平野の代表的な水田地帯。米作のほか施設園芸が行なわれる。

南郷
なんごう

青森県南東部,岩手県境の山地にある八戸市南部の旧村域。 1957年中沢村,島守村の2村が合体して南郷村が成立。 2005年八戸市に編入。リンゴ,タバコ,ソバを産し,酪農も行なわれる。

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百科事典マイペディア 「南郷」の意味・わかりやすい解説

南郷[町]【なんごう】

宮崎県南部,南那珂(みなみなか)郡の旧町。日向灘(ひゅうがなだ)に面し,沖の大島を含む。農漁業が主で,外浦(とのうら),目井津(めいつ)を中心にマグロ・カツオ漁が盛ん。日南線が通じる。2009年3月南那珂郡北郷町と日南市へ編入。63.17km2。1万1614人(2005)。

南郷[町]【なんごう】

宮城県中部,遠田(とおだ)郡の旧町。鳴瀬川下流左岸を占め,米作を基幹産業とする。低湿地は排水・堤防工事により水田化された。2006年1月,遠田郡小牛田町と合併し町制,遠田郡美里町となる。39.52km2。7052人(2003)。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「南郷」の解説

なんごう【南郷】

福島の日本酒。酒名は、蔵が旧茨城街道の奥州最南端に位置し、この地方が「南郷」と呼ばれていたことにちなみ命名。大吟醸酒、純米吟醸酒、吟醸酒、純米酒、本醸造酒がある。平成2年度全国新酒鑑評会で金賞受賞。原料米は山田錦、五百万石、アケボノなど。仕込み水は久慈川の伏流水。蔵元の「藤井酒造店」は天保4年(1833)創業。所在地は東白川郡矢祭町戸塚。

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改訂新版 世界大百科事典 「南郷」の意味・わかりやすい解説

南郷(宮城) (なんごう)


南郷(宮崎,旧村) (なんごう)


南郷(福島) (なんごう)


南郷(宮崎,旧町) (なんごう)


南郷(青森) (なんごう)

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