デジタル大辞泉 「鐘」の意味・読み・例文・類語
しょう【鐘】[漢字項目]
〈ショウ〉
1 つりがね。「鐘声・鐘楼/暁鐘・警鐘・古鐘・時鐘・半鐘・晩鐘・
2 打楽器の一。かね。「鐘鼓/編鐘」
3 時計。また、時刻。「一点鐘・自鳴鐘」
〈かね(がね)〉「大鐘・早鐘」
[名のり]あつむ
[難読]
楽器。金属を打ったときに発する音を利用する打楽器の一種。発音体が共鳴体にもなる体鳴楽器で、容器を逆さに吊(つ)るした形をしている。発音操作は、鐘(しょう)のように、撞木(しゅもく)や槌(つち)で外側をたたく方式と、鐸(たく)のように、内部に吊り下げた舌(ぜつ)を振り動かして内側に当てる方式とがある。音を出すために中に入れた丸(がん)が落ちないように口を狭くした鈴とは、これらの点で区別される。東アジアでは、大形の鐘は撞木式、小形の鐘は舌式が普通であるが、ヨーロッパでは舌式が一般的である。用途の限られた音楽的な演奏用の鐘のほかは、大部分は報知用の鐘で、時刻を知らせる時鐘や、非常を知らせる警鐘がある。鉄製のものもあるが、多くは銅の合金である。
日本語のカネは金属を意味する語で、金属製の体鳴楽器の一般的呼称にもなっている。そのなかには、板状の磬(けい)、盆状の銅鑼(どら)、さらに口のつぼまった金鼓(きんこ)など、さまざまな形態のものが含まれ、固定の仕方にも、鐘を取っ手の先につけたハンド・ベル型、伏せて置いた形でたたく鉦(しょう)型、口を上に向けて置いてたたく鉢型などがある。
[小島瓔]
日本に金属製の体鳴楽器が出現するのは、弥生(やよい)時代である。弥生時代中期から後期にかけて西日本で用いられた銅鐸(どうたく)が、最古の事例である。日本の銅鐸の源流は、朝鮮の独得な形式をもつ鈕(ちゅう)がつき、舌を伴う有鈕・有舌の小銅鐸であろう。この青銅製の鐸は、もともと木などに吊るし、揺り動かして、内側に下げた舌で本体をたたいて音を出したものらしい。中期の銅鐸には、青銅製の舌を伴って出土するものもある。鳥取県東伯郡湯梨浜(ゆりはま)町出土の銅鐸は、本体が約43センチメートル、舌は2本で、約14センチメートルと9センチメートルである。銅鐸の内側の裾(すそ)近くには、幅1センチメートル、厚み1センチメートルぐらいの凸帯が1条ないし3条あり、磨滅した部分がわかるものもある。これは、舌が当たった跡で、古い形式の銅鐸ほど多くみられ、当初、銅鐸が楽器として用いられた証拠である。後期には、銅鐸は単なる宗教的な儀器になるが、本来は楽器として宝物視されたものであろう。鳥取県の長瀬高浜遺跡からは、古墳時代前期のものという、高さ8.7センチメートルの小銅鐸が舌を伴って出土している。古墳時代は、体鳴楽器は鈴の全盛時代で、鐘鐸(しょうたく)の類は少なく、馬鐸(ばたく)がこの時代の代表である。馬鐸は朝鮮で発達し、日本にも入ってきた。長崎県対馬(つしま)の弥生時代後期の遺跡から、鉄の舌を伴う、約4センチメートルの青銅製の馬鐸が出土しているが、一般には古墳時代後期以後にみられる。15センチメートル前後の鐸で、馬の胸繋(むながい)に下げ、揺れると中の舌が鐸に当たって音を出す。
歴史時代の鐘は、仏教文化とともに広まっている。日本で鐘といえば、まず寺院の鐘楼にかける大鐘、すなわち梵鐘(ぼんしょう)を思い浮かべるが、ほかに、仏堂の檐(のき)に吊るす喚鐘(かんしょう)、すなわち半鐘(はんしょう)や、堂塔の檐の角に下げる風鐸(ふうたく)がある。梵鐘は青銅を材料とし、高さ4~5尺(約1.2~1.5メートル)、径2尺(約60センチメートル)前後の大きさが普通であるが、1614年の京都の方広寺(大仏殿)の鐘のように、高さ4.12メートル、口径2.26メートルという巨鐘もある。梵鐘の本来の目的は、時を知らせる合図である。半鐘は真鍮(しんちゅう)製のものが多く、高さ2尺(約60センチメートル)、径1尺(約30センチメートル)ぐらいが普通である。やはり寺院の法会や座禅などの時を知らせるのに用いた。風鐸は一種の風鈴で、舌の下につけた風招(ふうしょう)が風を受け、舌を動かして音を出す。最古の寺院建築である飛鳥(あすか)寺(元興寺(がんごうじ))にも鐘楼があったと伝えられており、これらの鐘は仏教建築とともに古代社会に浸透していった。
日本の梵鐘の原形は中国の鐘であろう。中国の陳(ちん)の太建7年(575)の銘がある奈良国立博物館所蔵の鐘は、形式が日本の奈良時代の梵鐘に近い。鐘身の断面も中国古代の鐘のぎんなん形と違って円形であり、竜頭(りゅうず)、鐘身の表の袈裟襷文(けさだすきもん)、撞座(つきざ)なども同形式である。鐘身の外面を縦横(たてよこ)に走る線を紐(ちゅう)といい、紐と紐に挟まれた部分を帯といい、この紐と帯とによって区画構成された文様を袈裟襷文という。朝鮮にも古くから梵鐘はあるが、形式はやや異なる。袈裟襷文がなく、撞座も3個や4個のものがあり、竜頭のそばに旗挿(はたさ)しという円筒がついている。新羅(しらぎ)の恵恭(けいきょう)王7年(771)鋳造の新羅の旧都慶州の奉徳寺の梵鐘「聖徳大王神鐘(国立慶州博物館蔵)」は逸品として知られている。筑前(ちくぜん)葦屋の金屋(鋳物師)の大江貞家がつくった応仁(おうにん)3年(1469)の対馬(つしま)仁位(にい)村の清玄寺の旧鐘や、同大江宣秀の享禄(きょうろく)5年(1532)の山口市興隆寺の鐘のように、和朝混交形式の鐘もある。初期の梵鐘には中国や朝鮮からの渡来品が多いが、日本での鋳造の歴史も古い。京都の妙心寺所蔵の梵鐘には、文武(もんむ)天皇2年(698)に筑前国の糟屋郡造(かすやのこおりのみやつこ)、舂米連広国(つきしねのむらじひろくに)が奉納したとの銘がある。
奈良時代以前の鐘には、銘文の長いものはないが、興福寺観禅堂の鐘の銘のように、すでに文学的、宗教的意図の加わっているものもある。平安時代になると、神護寺(じんごじ)の梵鐘「三絶(さんぜい)の鐘」のごとく、当代随一の文人や書家の手になる銘文を刻むなど、鐘銘の意味はますます重くなった。鎌倉時代の『平家物語』の巻頭にある「祇園(ぎおん)精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という句も、当時の鐘銘によく引かれた四句の偈(げ)「諸行無常、是生(ぜしょう)滅法、生滅滅已(めつい)、寂滅為楽」を踏まえている。初夜(そや)の鐘をつくと諸行無常、後夜(ごや)の鐘は是生滅法、晨朝(じんじょう)の鐘は生滅滅已、入相(いりあい)の鐘は寂滅為楽と響くなどともいわれた。鐘をつくことにも宗教的意義を与えるようになり、大津市の三井寺(みいでら)(園城寺(おんじょうじ))では、鐘の声が百八煩悩(ぼんのう)の夢を破ると言い習わし、現に、除夜の鐘も、百八つの鐘の音で煩悩を消滅させるといわれている。特別の祈願を込めて鐘をつく風習もでき、無間(むけん)の鐘といって、これをつくと、死後、無間地獄に落ちるが、現世では富裕をほしいままにできるという信仰も生まれた。鐘の音は、寺院の法域を越えて庶民にもなじみ深く、鐘に関するさまざまな信仰も、このような鐘の宗教性の展開とともに発達したものであろう。
鐘の伝説で類例が多いのは、鐘が水の中に沈んでいるという沈鐘伝説である。三井寺の鐘は竜宮から将来したものであるという伝えは、鎌倉時代からある。水の中で鐘が蛇(へび)に変わっていたという伝えもある。鐘の取っ手を竜の頭の形につくり、竜頭とよぶのも、竜蛇信仰と鐘との深いかかわりを示している。鐘と水界とを結び付ける信仰は外国にもあり、世界史的課題である。鐘を土の中に埋めたとか、土の中から鐘を掘り出したとかいう伝説もある。『今昔物語集』には、鐘を土の中に埋めておくと、自然に時を告げるようになるという話がある。これは、弥生時代後期の銅鐸が土の中に埋めてあったことを連想させる。
金属器を土の中に埋める信仰は東南アジアにもある。鐘に霊性を認めた伝えもある。凶事の前には鐘が汗をかいて、ついても鳴らず、吉事の前には自然に鳴るとか、鐘が元のところに帰りたがったとかいう話は多い。
梵鐘の鋳造には、惣型法を用いた。粘土でつくった原型から型をとって、鋳型の外型をつくる。外型は3段ぐらいの輪切りにする。内型は鐘の厚みを考慮しながらつくる。これが梵鐘の音色に大きな影響を与える。外型と内型を組み合わせ、上方に湯口をつくり、外型と内型の間に、湯壺(ゆつぼ)で溶かした青銅を湯口から流し込む。溶かした金属を湯という。湯が冷えて固まると、鋳型を外し、湯口など余分な湯が流れ込んでいる部分を整形する。鋳物師が、鐘を奉納する寺院のある現地に出向いてつくることもあった。道具と、鐘の原型・鋳型などの材料は鋳物師が用意し、傾斜地を利用して鐘鋳場(かねいば)をつくる。低い土地に鋳型を置き、上方に湯壺や湯壺に風を送るたたらを設ける。たたらは全身で踏む形式で、1か月も練習した村の若者が交代で勤める。2人が調子をとり、交互にたたら唄(うた)にあわせて踏む。鐘鋳場には桟敷(さじき)を設けて住職や村役人が着座する。村人はじめ、大ぜいの見物人が集まる。人々が喜捨した銭を鋳込むと鐘の音がよくなるといい、参集者から銭を集めて鐘に鋳込んだ。女は身に着けた髪挿しなどを寄進したという。女の湯巻(ゆまき)を1枚鋳込まなければ本当の鐘にはならないといい、その湯巻の持ち主の女は、かならず災いがあって死ぬという。一種の生贄(いけにえ)の信仰で、朝鮮の奉徳寺の鐘にも、鋳工の妹の申し出で、妹の娘を人柱として鐘に鋳込み、ようやくりっぱな鐘をつくることに成功したという伝説がある。鐘を鋳るのに女性を忌むというが、鐘供養(くよう)のつき初めの式で、住持に次いで、若い女性が白服に垂れ髪で鐘をつく習慣もあり、かえって、女性の特別な役割を認めていた。女の鏡を集めて鋳た鐘をつくと、鏡を惜しんだ女の執念で、鏡の形に鐘に穴があいたという鏡抜けの鐘の伝説もある。三井寺では、女人禁制の寺内で、女性がひそかに、鐘から鏡の分だけもらいたいと祈念して、鏡の形の地金を得たのが盆の7月15日であったので、この日だけは女性が寺内に入ることを許すようになったと伝える。
寺院以外で、時を知らせるために鐘を用いた歴史は古い。天智(てんじ)天皇10年(671)4月25日に、初めて時を知らせるために鐘と鼓を用い、古代の令(りょう)制でもこれに倣っている。神社の境内に鐘楼をつくり、時を知らせた土地もある。これを、梵鐘に対して、宮鐘(きゅうしょう)、社鐘(しゃしょう)という。鎌倉時代、街道の宿場で、時報に宮鐘を用いた例がある。江戸時代には、城内の鐘楼の鐘で時を告げた所も多い。江戸城の場合は、のちには江戸市中に鐘楼をつくって時を知らせた。時刻を示すのに、子(ね)・午(うま)を九つ、丑(うし)・未(ひつじ)を八つ、寅(とら)・申(さる)を七つ、卯(う)・酉(とり)を六つ、辰(たつ)・戌(いぬ)を五つ、巳(み)・亥(い)を四つとよぶのは、その時刻に打つ鐘の数で、最初、捨て鐘といって三つ鳴らして注意をひき、そのあと時刻の数を鳴らした。この時刻を表す鐘の数は、『延喜式(えんぎしき)』にみえる朝廷の方式と変わっていない。警鐘には、江戸時代以来、半鐘が普及した。火事の場合、近火がスリバン(すり半鐘の略。連打)、以下、距離により、三つ、二つ、一つと打ち分けた。警防団や消防組の招集の合図でもあり、水害などの非常の場合にも用いた。町中(まちなか)の火の見櫓(やぐら)の半鐘や、村の中の柱の上にかけた半鐘は、一つの風物詩でもあったが、警防組織の近代化に伴い、姿を消した所が多い。
[小島瓔]
古代中国では、鐘は支配者たちの祖先の霊廟(れいびょう)の祭礼において用いられる重要な楽器であり、鼎(てい)(かなえ)とともに国家の宝物であった。鐘には呪術(じゅじゅつ)的な力があり、その音によって邪悪な力を退け、祭場を清めることができると信じられていたのである。鐘を鋳るとき、犠牲の動物を殺してその血を塗ったとされたり、災害が起こる前に鐘がひとりでに鳴り出したとかいう伝説が残っていたりするのも、鐘が不思議な力をもつと考えられていたことの表れである。中国古代神話のなかでは、黄帝(こうてい)の工人垂(すい)や、炎帝(えんてい)の孫の鼓延(こえん)が最古の鐘を鋳造したとされている。また、鳧氏(ふうし)が鐘を鋳造したという伝説もあるが、鳧氏というのは、鐘を鋳た古代の職能集団と関係があるらしい。歴史的にみると鐘の使用は殷・周の青銅器時代を通じてもっとも盛んであった。鉦(しょう)とよばれた殷代の鐘は甬(よう)という柄の部分を差し込んで、逆さに立てて用いたが、周代になると、甬を上にして吊るして使うようになった。古代の鐘は、大きいものから小さいものへと順番に並べて音階をつくり出し、木槌で打つことによって音楽を奏でる楽器であった。これを編鐘(へんしょう)というが、やがて単独で吊るして鳴らす特鐘(とくしょう)もつくられるようになった。槌で打ち鳴らす鐘のほか、中に舌(ぜつ)があって柄を持って振り鳴らす鐸(たく)も鐘の一種といえる。とくに馬鐸(ばたく)などは殷代の遺跡からも発見され、日本古代の銅鐸との関係が注目されている。これら古代中国の鉦、鐘、鐸は、いずれも横断面が円形ではなく紡錘形であるという共通の特徴を示す。
[清水 純]
西洋の鐘はカップを伏せたような末広がりの形をもち、普通、内側の空洞に吊るした舌(ぜつ)を、紐(ひも)や針金で引いて鳴らす。バビロンの近くで3000年以上前の世界最古の鐘が発掘されている。この近東が舌付きの鐘の発祥地で、鐘や鈴はここから西へ伝播(でんぱ)し、聖と俗の二つの世界で使われた。神をよぶ合図、預言者の声、儀式の時鐘、御守り、装飾品となった。その後、鐘はギリシア正教会から北アフリカの修道院に伝えられ、そこから6世紀から8世紀にヨーロッパに入った。各国の鐘(フランス語でcloche、ドイツ語でGlocke、オランダ語でklok、古英語でclucge)の語源がケルト語clocであるのは、当時アイルランドの鋳造技術がもっとも進んでいたからである。鐘の鋳造は長い間修道僧によって行われたが、13世紀になってから職人がするようになった。そして14世紀には、形も大きさも今日知られるような鐘になり、15世紀にその技術は頂点に達した。一般には78%の銅と22%の錫(すず)でつくられ、フランドルが鐘の産地として名高い。世界最大の鐘はモスクワのクレムリン宮殿の鐘で、200トン以上の重さがある。ただし、吊り下げられる前に壊れて、一度も鳴らなかった。鐘は鐘楼に吊るすが、アルプスの北側の国々では、ピサの斜塔のような独立の鐘楼はまれで、教会や市役所の塔に吊るした。
鐘の歴史はキリスト教と深いかかわりがある。カトリックではプロテスタントと違って、教会と礼拝堂に鐘をつけることが法で決まっている。敵襲、火事、洪水などの非常、災害時の警鐘を鳴らすのも、教区司教の許可を必要とした。時間と国家の祝日を知らせることは今日も行われている。この鐘には伝承が多い。鋳造段階ではよく親方が弟子の技量をねたんで殺す血なまぐさい話になっている。しかし鐘は聖別の儀式を済ませると、悪魔を支配できるようになり、巨人のトロルも小人も魔女もかなわない。こうして鐘は魔除(まよ)けになり、さらに教会の神聖と正義、奇跡を象徴するようになる。ひとりでに鳴ったり、公正な裁きを受けようとした蛇が鐘の紐を引いたりする。鐘が地中、水中に沈んでいる沈鐘伝説も各地に多く、見えない所で鳴ったり、わからないままだったり、出現したりする。鐘はまた天候を変え、水の出る場所を教え、いろいろ効く薬になるとも信じられている。このほか鐘は楽器としても用いられる。7世紀のフランスに始まるカリヨンは、小さい鐘をたくさん並べ、音色が美しい。
[飯豊道男]
『青木一郎著『鐘の話』(1948・弘文堂)』▽『佐原六郎著『塔のヨーロッパ』(1971・NHKブックス)』▽『坪井良平著『朝鮮鐘』(1974・角川書店)』▽『坪井良平著『梵鐘』(1976・学生社)』▽『坪井良平著『日本の梵鐘』(1970・角川書店)』▽『坪井良平著『梵鐘と古文化』新訂(1993・ビジネス教育出版社)』▽『J・G・フレーザー著、江河徹他訳『旧約聖書のフォークロア』(1976・太陽社)』
イギリスの女流作家J・I・マードックの長編小説。1958年刊。湖畔の修道院の沈鐘伝説をもとに、その鐘を引き上げ、新たに据え付けようとする修養会のグループ内部に繰り広げられる愛の可能性あるいは不可能性の物語。無知だが奔放で愛すべき女ドーラが愛した対象は、実は男しか愛することのできないマイクルだった。一方、マイクルをめぐって、かつての「恋人」ニックとその双生児の妹が関係し、やがて破局が訪れる。善意をもちながらも、その性情ゆえに引き裂かれる、現代における男女の愛の不毛を、鋭く哀切にしかもユーモアを込めて描いている。
[出淵 博]
『丸谷才一訳『鐘』(集英社文庫)』
金属製で,打ち,叩き,撞き,振り鳴らす物,揺れ鳴る物の総称。中国,日本の磬(けい),雲板(うんばん)やイタリアのボローニャ地方の前10~前6世紀の青銅製品のような板状の〈かね〉もある。しかし大多数の〈かね〉は,中空の身(み)をそなえ,上端に鈕(ちゆう)とよぶつり手か柄(え)をそなえている。身の他端は,梵鐘(ぼんしよう)(=釣鐘)のように開いて終わるものが多い。しかし鈴(すず)のように包まれた形のものもある。発音のための構造としては,ヨーロッパの教会の〈鐘(かね)〉や家畜のベルのように身の内側に舌(ぜつ)clapperと呼ぶ棒をつるす場合と,鈴のように丸(がん)を入れる場合,舌,丸いずれももたない場合がある。欧米では,身が板状のもの,中空なもの,鈕,柄の有無,舌,丸の有無の区別をこえてすべてをbell(英語),Glocke(ドイツ語),cloche(フランス語)と呼ぶのに対して,中国では,古来それぞれを違う名で呼び分け,部分名称も詳しい。たとえば鐘(しよう)は本来,甬(よう)と呼ぶ柄に幹(かん)と呼ぶ環を取り付けてつるし叩き鳴らす有柄無舌の〈かね〉をさしたが,後には有鈕無舌の叩き鳴らす〈かね〉をもっぱらさすようになった。日本でも古代以来その意味で使っている。また,鍾は一般には酒器を意味するが,古くは鐘の〈かね〉の意味でも用いられた。したがって有鈕有舌のヨーロッパの教会の〈鐘〉は厳密には鐘ではない。中国では〈鈴〉に2義があり,旗や家畜の頸につるして揺れ鳴る〈かね〉と,有鈕有丸の〈すず〉とを指す(鈴(すず),鈴(れい))。また〈鐸(たく)〉はもっぱら有柄有舌の振り鳴らす〈かね〉をさした。しかし日本では,古代以来,鈴はもっぱら〈すず〉をさし,有鈕有舌の〈かね〉を鐸と呼んでいる。馬につるす〈かね〉を,中国では馬鈴,日本では馬鐸と呼ぶのもそのあらわれである。
執筆者:佐原 眞
一般にいう鐘(かね)は,半球ないし円錘形の金属製打楽器で,外側を槌などで打つか撞木で突いて音が出されるものと,内部の頂上から吊り下げられた舌(ぜつ)で内側から打って音が出されるものがある。後者は鐸および鈴として区別されているが,一般には鐘の字を用いている。楽器分類上のベル,すなわち器体周辺部の振動で発音するものに相当する。
鐘は鈴(すず)とほぼ同じ歴史をもち,植物の実を祖型として初期には土や木なども材料に用いられたことが,現存する世界各地の民族の楽器から推察されている。鐘は冶金・鋳金技術をもつ民族の間で広く作られ,主として災害,病気,魔よけのお守りや宗教的な儀式などに用いられた。初期の鐘は全般的に小型で,頂上につけられた柄を持って振り鳴らす鈴(れい)(ハンドベル)と,鈕がつけられていて衣服に縫い付けられたり,紐でつないで人の手足または家畜の首などに下げて使用されたものとに大別される。材料には地域差があり,東アジアおよび西アジアでは青銅,古代エジプトや中南米では金,銀なども用いられ,アフリカではしばしば鉄を鍛造した鐘が作られた。形状は多様であるが,大別すると開放部の形は円形が最も一般的で,まれに楕円形,四角形,六角形または八角形のほか,特殊な例としては両端のとがった楕円形が古代中国およびアフリカに見られる。側面から見た〈鐘〉の形状は半円形,半楕円形,三角形,矩形などに近いものがあり,また,花をかたどったり動物などの象徴的な飾りをつけた〈鐘〉も少なくない。
現在一般に鐘と称されている大型のものは,前1000年ころまでに最も鋳造技術の進んでいた中国で作られたのが始まりで,周代には既に一定の音高に調律された鐘(しよう)が楽器(特鐘,編鐘)として典礼音楽の中に取り入れられるようになっていた。インドでは前6世紀ころからヒンドゥー教で小型の鈴(れい)は音楽に,蓮の花をかたどった大型の鐘は寺院の入口につり下げられて使用されたといわれている。仏教においても同様に鈴(れい)と鐘が広く用いられたほか,多くの風鐸が寺院や仏塔の軒につられ,風の力で壮大な響きを作り出したが,東方への伝播と共に開放部が円形の鐘が中国でも作られるようになり,さらに鐘の音を信仰心のあらわれとする朝鮮半島の人々の信条から,同地域で巨大な鐘の鋳造が盛んになって中国,日本に及び,この地域独特の梵鐘が誕生した。中央アジアでは,鐘は先史時代から遊牧民族の生活に則した小型のものが用いられ,西アジアでは前1000年ころからまず鈴(れい)が祭礼に用いられ,次いで前500年ころになると,同地域一帯で小型の鐘が動物につけられるようになったといわれている。
ヨーロッパに〈鐘(かね)〉が移入されたのは5世紀以降で,ケルト人によって初めに鍛造のハンドベル〈鈴(れい)〉が広められた。鋳造技術は西アジアからイタリアを経てスコットランドおよびアイルランドに達し,そこからヨーロッパに導入されたといわれるが,また西アジアから黒海沿岸を通って東ヨーロッパ,北欧に達する経路,あるいは北アフリカを経て南ヨーロッパに達する経路などもあったとされており,複雑である。とくに,ギリシアにおいて祭式に参加する民衆のために神殿の前で〈鐘〉を鳴らす習慣が,3世紀から5世紀にかけて北アフリカのキリスト教の儀式に取り入れられ,これがキリスト教会と〈鐘〉が切り離せない関係になった遠因とされている。ヨーロッパで〈鐘〉が鋳造されるようになったのは6世紀末のイタリアにおいてであったといわれるが,〈鐘〉の普及状況や用法には,東・西ヨーロッパの間で種々の相違が見られる。西欧のローマ・カトリック教会では,複数の〈鐘〉が同時に振り動かされるのに対して,遅れて〈鐘〉が取り入れられた東欧のギリシア正教会では〈鐘〉は固定され,舌を紐で引いて打ち鳴らす方法が主体となっている。この両者の打ち方の違いによって,前者では大小の〈鐘〉の音が無秩序に重なり合って波のうねりのように聞こえるのに対し,後者のそれはより旋律的であるといえる。しかし,イギリスやフランスの一部では,例外的に大小の〈鐘〉の動きの周期を統一して交互に鳴らすチェンジ・リンギングの方法も用いられている。
ヨーロッパでは〈鐘〉が宗教的用途に使われたほか,市などの社会的な場でも用いられた。さらに古代中国と同様に音楽にも広げられ,13世紀ころから楽器としての側面が重要になってきた。その結果,音高はもとより複数の〈鐘〉の音の響きが美しくなるように調整された音色が要求され,上部は円筒形に近く,開放部が大きく開いた機能的なベル型となった。これは外部に多くの装飾や銘をもち,鋳造後に音の調整が行われない梵鐘とは好対照をなしている。バルカン半島やトルコなどでは,種々の音高に合わせた大小の〈鐘〉を放牧する家畜の首につけて,自然にかなでられる美しい響きを楽しむ習慣が今なお残っている。
執筆者:郡司 すみ
日本では金属製の器体を打つ打楽器を〈かね〉と総称する。銅鈸(どうばつ)のように円盤を打ち合わせるシンバル型や,磬,鈴(すず)なども含めることもあるが,ベルとゴングの類がとくに〈かね〉と呼ばれる。ベルには鐘の字を当て,梵鐘や小型の半鐘のほか,仏教儀式で用いる鏧(きん)も鐘に属する。ゴングのうち肉厚のものは鉦(かね)と呼ばれ,肉薄の銅鑼(どら)などは鑼として区別される。なお,中国古代の鉦(しよう)は鐘(しよう)に似ており,槌で打って鳴らす楽器で,日本の鉦とは異なる。
鉦は肉厚の平円板の周辺を折り返した縁がさらに外側に折り返されて平らな縁をなす。この本体を槌などで打って鳴らす。伎楽には鉦盤という楽器が使われた。この実物は残っていないが,鉦の類らしい。雅楽の鉦鼓(しようこ)は平安時代以後用いられ,縁に紐をつけて枠につるし凹面を打つ。念仏などの伴奏に用いる双盤(そうばん)は大型の鉦で直径60cmくらいまである。双盤の字の音は鉦盤に似ているが,両者の関係は明らかでない。静岡県の民俗芸能〈遠州大念仏〉の双盤は二つの鉦を対にして枠につり下げて打つ。鉦は共鳴してうなりを発する。佐賀県の民俗芸能〈鉦浮立(かねふりゆう)〉では双盤や小さな鉦が使われる。歌舞伎囃子では木の枠につるして用いられ,寺院の場やにぎやかな雰囲気を表すのに使われる。
鉦は風流(ふりゆう)系の芸能に広く使われる。金属製打楽器の音は悪霊を鎮める力をもつと考えられ,《梁塵秘抄口伝集》巻第十四にも京都紫野のやすらい花の囃子として〈かね〉を記している。鎌倉時代に空也僧が鹿の角のついた杖をかつぎ,胸に鉦をつけて歩いたことが《法然上人行状絵図》に描かれ,時宗(じしゆう)の開祖,一遍が空也をあがめて広めた踊念仏にも鉦が使われている。
現在,各地の念仏踊,祭囃子,盆踊,田植囃子,歌舞伎囃子や寄席囃子などで打たれる鉦は,直径15cmから30cmくらいで,鉦鼓その他さまざまの名称がある。桴(ばち)には鹿の角の頭がついた〈角撞木(つのしゆもく)〉などがある。鉦の縁に紐をつけて左手で下げ,右手の桴で打つのを当り鉦,下げ鉦と呼び,手のひらに持って凹面の中を横に摺って打つのを摺り鉦,つかみ鉦と呼ぶ。例をいくつか挙げると,長野県佐久市大字跡部に伝わる〈跡部の踊念仏〉では踊手が胸に鉦をつけて鳴らし,〈南無阿弥陀仏〉の6字をうたう。京都の祇園囃子の鉦は直径約20cmくらいで,上方から紐でつり下げ,10人くらいがそれぞれ一つずつを打つ。左手で紐を支え右手で鉦の中央部や縁を桴で打って囃子のリズムの基本を刻む。祇園囃子の象徴である〈コンチキチン〉とは鉦の音を模したものであり,鉦自体をコンチキと呼ぶこともある。江戸祭囃子の鉦は四(与)助,太神楽(だいかぐら)の鉦はチャンチキとも呼ばれ,細かく打ち鳴らす。歌舞伎囃子では鉦は祭囃子や町の場面を表すときに使われる。
伏鉦(ふせがね)は鉦の縁に小さな三つ足のついたもので,伏せて上から柳撞木で打つ。念仏講で打つもので,念仏鉦とも呼ばれる。歌舞伎囃子では伏鉦に大・小の型があり,大きいものが一つ鉦,中双盤,小さいものが松虫である。一つ鉦は余韻のある音を発し,寺院や殺し場など陰惨さを表すときに用いる。松虫は音の高さの異なる2個を並べて撞木2本で打ち,寺院の場面などに用い,念仏の鉦を表すほか,虫の鳴声や刀鍛冶の音を描写する。一つ鉦をつり下げて角撞木で打つのが寄席囃子の中双盤である。
鉦はこのように日本の芸能で広範囲に用いられ,金属的な音色を囃子の中で生かしているが,音高を意識して調律し旋律を演奏するという用法は行われていない。
執筆者:奥山 けい子
中国古代の青銅製楽器で,鼎(てい)とならぶ重要な礼楽の器。祭祀・饗宴のときや,軍隊での合図用として他の楽器とともに使用された。横断面が杏仁形をした吊鐘状楽器で,おおよそ3形式がある。器の下底を于(う)というが,それがアーチ状に内湾し,上部にある棒状の甬(よう)に旋(せん)という吊り環がついている形式を鐘あるいは甬鐘と称し,吊り手がコの字形の鈕(ちゆう)になったものは鈕鐘と称する。于が平らで吊り手がコの字形の鈕になったものは鎛(はく)と称する。鐘の各部分については古くからの名称があり,両面の縦の中央帯を鉦と称し,銘文などの多くはここに刻されている。これをはさんで両側に3個ずつの枚または景という突乳が3段あり,その乳列の間にある文様帯を篆(てん)という。于の両端を銑(せん)といい,その上の横帯を鼓(こ)と称し,ここに文様や銘文があるものもある。この中心のくぼんだ部分を隧(すい)と称し,橦木でたたくところである。
一般には音階によって大きさが順次,異なった相似形の鐘を,(きよ)という横木に掛け並べた編鐘(へんしよう)の形式で演奏するが,ときには,大型の鐘(鏞(よう)または特鐘という)1個だけ独立して使用することもある。殷代では石製の磬(けい)という打楽器と鳩笛の一種の吹奏楽器と共に鐃(どう)あるいは鉦という,外形が鐘に似て,上に棒状の柄がついた青銅製の打楽器を手に持って打ち鳴らしていた。鐘はこの打楽器から発展したもので,西周時代中期の陝西省長安県普渡村の墓から出土した,大小3個の甬鐘が最も古い例である。春秋時代になると多く見られるようになり,また鈕のところに虎や虺竜形を飾っている鈕鐘および鎛が現れ,戦国時代になると鈕鐘が多数を占めることになる。編鐘は,西周時代中期は3個1組であるが,西周時代後期から数が増し,少なくとも8個以上がセットになる。春秋戦国時代になると,13~14個がセットをなして音階を構成し,メロディを表現することが可能になった。この音階は現在使用されている七音音階とだいたいにおいて一致している。
1977年に湖北省随県で発見された戦国時代の曾侯乙の墓からは,高さ2.7m,全長が10.8mもある大きなL字形のに,合計65個,総重量2.5tに達する編鐘と編鎛が出土した。このうち一つは大型の鎛で,独立しているが,他は数の異なる八つのセットの編鐘になっている。さらにこの鐘には音楽に関する銘文があって,個々の鐘には音階とともに,律と音階の関係,および曾国と楚,斉,晋などの国の律名と音階名との関係などが銘せられている。実験による測定結果によると,7音階がそなわり,また26に達する律名の存在から,すでに転調もほぼ完全に可能な状態にあったと思われ,古い音楽だけでなく,現代音楽の演奏にも使用され得る。鐘が生まれてきた背景には,西周末期の周王の権威低下,貴族層の強大化,社会機構と秩序の弛緩があり,秩序の回復より自己一族の維持と繁栄を願うことから,人々は多分に享楽的になり,今までの楽器に満足せず,新しい鐘を発明し,これをセットにして編鐘としたらしい。鐘の美しい音は,祭りのときに天上にいる祖先神を招き慰めると同時に自己および一族の繁栄を願ったものである。そのため銘文には,幸福を祈願するものが見られる。音楽は祭礼のためだけでなく,生活の楽しみの一つになってきたところに,大編成の編鐘が生まれる原因があった。孔子が嘆いた淫らな音楽いわゆる〈鄭衛の音〉とはこのような音楽であった。
執筆者:杉本 憲司
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…処女作はサルトルの哲学の唯我性を批判した《サルトル,ロマンティックな合理主義者》(1953)。処女小説《網の中》(1954)で認められ,その後,初期の《砂の城》(1957),《鐘》(1958)から《海よ,海》(1978),《尼僧たちと兵士たち》(1980)などに至るまで,力作長編をほぼ毎年,すでに20冊以上も発表しており,その多くが邦訳されている。現実は人間の望むようなこぢんまりした秩序で成り立つものではなく,人間はすべて不透明で,神秘的な,ほかのなにものにも還元できない独立の存在であるとする立場をとる。…
…交易・売買取引のための会同場所。市場(いちば)ともいう。いろいろな形態の市が,古代から世界のほとんどの社会に認められる。K.ポランニーによれば,人間社会の歴史全体からみると,生産と分配の過程には,三つの類型の社会制度が存在しており,古代あるいは未開の社会から現代諸社会まで,それらが単一にあるいは複合しながら経済過程の機構をつくってきた。それらは,(1)互酬reciprocity 諸社会集団が特定のパターンに従って相互に贈与しあう,(2)再分配redistribution 族長・王など,その社会の権力の中心にものが集まり,それから再び成員にもたらされる,(3)交換exchange ものとものとの等価性が当事者間で了解されるに十分なだけの安定した価値体系が成立しているもとで,個人間・集団間に交わされる財・サービス等の往復運動,の3類型であり,それぞれの類型は社会構造と密接に連関をもって存在している。…
…中空の身の中に,丸(がん)を封じた楽器,鳴物。身は球形で一端に細い口(鈴口(すずくち))をあけるのが一般であるが,扁平なものや砲弾形,多角形のものもあり,また何ヵ所もの口をあける場合がある。比較的小型で,金属のほか土や木でもつくられ,吊り下げるための鈕(ちゆう)をもつ。〈がらがら〉などと同じように,乾燥した木の実などに,その原型を求める説もある。 日本では古く〈須須(すず)〉と書かれ(《和名抄》),その語源は朝鮮語起源説(《東雅》),〈音の涼しきより名づくならむ〉(《和訓栞(わくんのしおり)》)などと諸説あるが,明らかではない。…
…日本の仏教音楽や民俗芸能,下座(げざ)音楽で用いられる楽器で,鉦(かね)の一種。体鳴楽器。鋳造製で肉厚の皿状の形をしたもの。直径40~60cmほどあり木製の枠に吊って撞木(しゆもく)で打つ。仏教ではおもに浄土宗で用いられ,とくに雲版,太鼓などとともに奏する揩定(かいじよう)念仏(六字詰(ろくじづめ)念仏,歌念仏)は有名である。また民衆の中に広まった静岡県の遠州大念仏などの念仏踊でも用いられる。佐賀県の鉦浮立(かねふりゆう)はいくつかの双盤を中心に,太鼓,笛などの合奏によるもので,双盤を用いた民俗芸能の中でも代表的である。…
…仏寺で時を知らせ,衆を集めるために用いる鐘(かね)。〈梵〉はサンスクリットのブラフマンbrahmanの音訳で,〈神聖〉〈清浄〉を意味する。ほとんどが銅とスズの合金(青銅)の鋳造品で,鐘楼や鐘楼門を寺域に建てて吊(つ)るし,撞木(しゆもく)で撞(つ)き鳴らす。俗に鐘,釣鐘(つりがね)とも呼ぶが,古くからその形状や由縁によって多くの異称がある。おもなものに突鐘(つきがね),洪鐘(こうしよう),撞鐘(どうしよう),鴻鐘(こうしよう),蒲牢(ほろう),鳧鐘(ふしよう),九乳(くにゆう),青石(せいせき),華鯨(かげい),霊鐘(れいしよう)などがあげられる。…
…一般にヨーロッパという場合には,地理的概念としてのヨーロッパと,歴史的文化概念としてのヨーロッパとの二つが考えられる。
【地理的概念としてのヨーロッパ】
[自然地理的概念]
地理的にも,自然地理と人文地理によって異なるが,まず自然地理学的意味でのヨーロッパは,東洋の全域を胴体としたユーラシア大陸の西方に突き出た半島にすぎず,その総面積も約1000万km2で,アジア部分の4分の1にも達しない地域である。またもともと陸続きのアジアとヨーロッパとの境界線は,細部についての種々の議論があるにせよ,地理学の方では,大体北から南に走るウラル山脈を基軸として南に下がり,カスピ海から,黒海の入口ボスポラス海峡を結ぶ線とみるのが常識である。…
…大小何個かで簡単な音階をなすように作られた。鐘(しよう)と呼ばれ,祭祀の際に打ち鳴らして祖先の霊を呼び出すのに使われた。この時期,伝統的な饕餮文は觚形尊に残るが,器の目だった所に大きく扱われるものとして鳳凰の類がクローズ・アップされる。…
※「鐘」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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