ヨーロッパ南東部,黒海とカスピ海に挟まれ,アジアとヨーロッパの境とされたカフカス山脈を中心とする地域。ギリシア語名カウカソスKaukasos,英語名コーカサスCaucasus。北のマニチ低地から南のイラン,トルコとの国境まで,面積は約44万km2,大カフカス山脈の北の北カフカス(前方カフカスとも呼ぶ)と南側のザカフカス(南カフカス,外カフカス)に二分される。北カフカスはロシア連邦に属して,ダゲスタン,北オセティア,カバルディノ・バルカル,チェチェン,イングーシの各共和国,ロストフ州,クラスノダル地方(アディゲイ共和国を含む),スタブロポリ地方(カラチャイ・チェルケス共和国を含む)からなり,ザカフカスはアルメニア,アゼルバイジャン,グルジアの3共和国からなる。
カフカスの名は,ヒッタイト語で黒海南岸の民族を呼んだカズカズKazkazから生まれたと考えられる。地名としてはアイスキュロスの《縛られたプロメテウス》(前5世紀)に見えるのが最初である。中世グルジアでは南オセティアの山地を称し,イスラム文献では世界の果てにあるカーフ山と関係づけて考えられた。
地形は次の四つに区分される。(1)北カフカス・ステップ 東のクマ川右岸,テレク川流域と西のドン川下流,クバン川流域で,両者の間は丘陵地帯である。東部は降水量が少なく,遊牧地,西部は黒土地帯で雨も多く,穀作地帯である。(2)大カフカス 中心部の北西から南東に延びる山岳地帯で,エリブルス山(5642m),カズベク山(5033m)などの高峰が連なって北風を防いでいる。(3)ザカフカス低地 分水嶺のスラミ山脈によって,黒海に流れるリオニ川流域のコルヒダ(コルキス)低地とカスピ海に面するクラ川,アラクス(アラス)川低地に二分される。カスピ海のアプシェロン半島では,火山活動が盛んである。西部は多雨の亜熱帯気候であるが,東部では乾燥し,アプシェロン半島南岸では年降水量200mm以下である。(4)最南部 小カフカス山脈(最高峰はナヒチェバンの東のカピジク山,3904m)とアルメニア高原になっている。この高原では火山活動が盛んで,アラガツ山(4090m),国境を越えてトルコ側にはアララト山(5165m)がそびえる。地震も多い。
一般に黒海沿岸は気候温暖で,海水温度が高いため,ソ連邦有数の保養地となっており,大カフカスへの登山客も多い。鉱物資源はカスピ海岸の石油のほか,ザカフカスでは,銅,鉄,マンガン,石炭,ミョウバン石などが豊富である。
北カフカスは,古来キンメリア人,スキタイ,フン族,アラン,ハザル族,キプチャク(ペチェネグ,クマン)などの諸民族の活動の場で,彼らはしばしばザカフカスに侵入し,文化や人種的形質に痕跡を残した。13世紀にはモンゴル帝国に征服され,チンギス・ハーンの孫バトゥの建てたキプチャク・ハーン国領になり,次いでクリム・ハーン国,アストラハン・ハーン国の支配下に置かれた。その後ロシア系農民が移住してコサック集団を形成し,16~19世紀しだいにロシア領に編入された。
ザカフカス最初の国家はウラルトゥであった(前9~前6世紀)が,メディア,スキタイ連合軍に滅ぼされた。ギリシア人は古くから西グルジアに移住しており,前6世紀にはその影響下にコルキス(エグリシー)王国が成立した。アルメニアにはアケメネス朝とアレクサンドロス大王の宗主権下にエルバンド(オロンテス)朝王国が,前4世紀には東グルジアにイベリア王国が成立した。遅れてアゼルバイジャン北部にダゲスタン語派系の民族によるアルバニア王国(カフカス・アルバニア王国)も成立した。ローマ,パルティア,ビザンティン,ササン朝などの東西の列強による征服,分割の後,7世紀にはアラブに征服されたが,9世紀にはアルメニア・バグラト朝,アゼルバイジャンにシルバンシャー朝が,10世紀にはグルジア・バグラト朝が成立した。セルジューク・トルコの支配後,グルジア・バグラト朝は,12~13世紀初期最盛期を迎え,ザカフカスの全域を支配したが,ホラズムとモンゴルに敗れた。モンゴル人の支配は100年余りで終わり,次いでティムール朝,カラ・コユンル朝,アク・コユンル朝など外来勢力の侵入が続いた。やがて16世紀には西グルジアをオスマン帝国が,それ以外の全ザカフカスをイランが支配する体制が成立した。18世紀に,グルジアは五つの王国と公領に,アルメニアとアゼルバイジャンは多数のハーン国,マリク領に分割された。18世紀末にはイランのカージャール朝に征服された。
執筆者:北川 誠一
16世紀アストラハン・ハーン国,18世紀クリム・ハーン国を併合し北カフカスのステップ地帯を押さえたロシア帝国は,さらに北カフカス山岳部とザカフカスへの南下を図った。ザカフカスは16世紀以降トルコ(イスラム教スンナ派),イラン(イスラム教シーア派)の角逐の場となり,ロシア(ロシア正教)も18世紀に入ると本格的にこの角逐に加わった。グルジア(グルジア正教),アルメニア(アルメニア・グレゴリウス派)などのキリスト教諸民族のイスラム教のトルコ,イランによる支配・抑圧に対する抵抗,危機感,ロシアとの提携をさぐる動きなど,ロシアは宗教的契機を最大限に利用しており,また複雑に錯綜した現地諸民族の軋轢や矛盾をも利用した。
18世紀後半ザカフカスの有力な国家に発展した東グルジアのカルトリ・カヘチ王国は,1783年ゲオルギエフスク条約を結んでロシアの保護国となったが,95年イラン軍の侵攻にロシア軍の救援もないまま,首都は陥落,破壊された。1801年アレクサンドル1世の詔書によって,ロシアはこの東グルジアの王国を廃して直接併合した。それはロシア帝国によるザカフカス併合の嚆矢(こうし)をなすものであった。西グルジアも03年メグレリア,04年イメレチ,10年アブハジア(帝国の行政支配機構に直接組み込まれたのは1864年)など,漸次併合された。アゼルバイジャンについては,18世紀前半カスピ海沿岸地方を一時的に占領したロシアは,19世紀に本格的に侵攻してイランと1804~13年争奪戦を重ねて併合を進め,13年ゴレスターン条約でイランにアゼルバイジャン北半分のロシアへの併合を追認させた。かくしてアゼルバイジャンはロシア領とイラン領として南北に二分された。アルメニアをめぐるトルコ,イランの永年の勢力争いに,18世紀ロシアも介入した。イランと戦って,ロシアは28年トルコマンチャーイ条約によりエリバン,ナヒチェバン・ハーン国を併合し,イランはカフカスから敗退した。かくしてアルメニアは,ロシア領となった東アルメニア(ザカフカス)といわゆるトルコ領アルメニア(トルコのアルメニア高原)とに分かたれた。さらにカルスなどをめぐってロシアとトルコは一進一退の争奪戦を繰り返した。
北カフカスの山岳部の征服は,ロシア帝国に困難で長い戦争を強いるものとなった。最も熾烈に長期にわたり抵抗,解放闘争を行ったのは北カフカスのダゲスタン,チェチェンの山岳諸民族であり,そのカフカス戦争は1817-64年にわたった。解放闘争の主力となったのはロシアの植民地化政策に対する聖戦を唱える戦闘的教団であった。イスラムの一宗派ミュリディズムを奉じ,宗教的指導者イマームの絶対的権威の下で解放闘争を行い,20年代末~30年代初めダゲスタン,チェチェンにイマーム国家を築いた。特に34年3代目イマームとなったシャミーリは,以後25年間にわたりロシア軍を撃破してイマーム国家の最高指導者として君臨したが,59年圧倒的なロシア軍の包囲下に降伏した。この北カフカスの山岳諸民族の軍事的制圧は,近代ロシアの転換点となるアレクサンドル2世の〈大改革〉とちょうど同時期にあたる。そして露土戦争後の78年のアジャリア,カルスなどの併合をもってロシア帝国のカフカス征服が完了した。44年ツァーリに直属し,この地方の軍政・民政の全権を持つ統治者としてカフカス総督が導入され,総督府は古くから軍事・統治の要衝であったグルジアのチフリスに置かれた。総督府制は81年末廃止され,世紀末カフカス民政長官に就任したG.S.ゴリツィンの1903年のアルメニア教会資産没収等の強圧路線は激しい抵抗運動を招いた。革命運動の昂揚に直面して,1905年2月カフカス総督府制が復活された。総督I.I.ボロンツォフ・ダシコフは,革命運動への厳しい弾圧と並行して,アルメニア民族の懐柔(1903年法の撤廃),地方的改革案の提示など,状況への対処を図った。08年首相ストルイピンはボロンツォフ・ダシコフの政策を〈危険な破滅的な宥和〉と非難し〈異族人との断乎たる闘争〉を主張し,カフカス統治策をめぐる論争となった。19世紀初め以来,カフカス支配をめぐる帝国官僚の間の路線の対立と統治制度の変動は顕著であり,ロシア帝国にとって諸民族が複雑に錯綜したこの地域の支配は困難で重要な課題であった。
執筆者:高橋 清治
複雑な歴史を反映して,この地域の住民の構成は複雑であるが,言語の上からカフカス諸語系,インド・ヨーロッパ語族系,アルタイ諸語系に三分することができる。カフカス諸語に属する言語を用いた諸民族がこの地域の先住民族で,かつては今日より広く中東に分布していたと考えられる。カフカス諸語はさらにアブハズ・アディゲ語群,ナフ・ダゲスタン語群,カルトベリ語群(それぞれを西・東・南カフカス諸語とも呼ぶ)に分類されており,このうちアブハズ・アディゲ語群系の諸民族は,黒海沿岸からカフカス中部の各地に約59万7000人が住むが,中世初期にはアゾフ海岸までが彼らの住地であった。チェルケス人,カバルダ人,グルジアに住むアブハジア人もこのグループに属する。チェチェン人やイングーシ人の用いるナフ(ベイナヒ)語派の言語は約76万3000人の話し手をもつ。〈言語の森〉と呼ばれるダゲスタンの民族の大部分は,ダゲスタン語派の言語の使用者で,136万9000人にのぼる。これらの人々はカバルダ人の一部を除けば,すべてイスラム教徒である。グルジア語はカルトベリ語群に属し,カフカス諸語の中で使用者の数も最も多く,唯一古い文章語としての伝統をもつ。グルジア人はアジャリア自治共和国,アゼルバイジャンのザカタリ地方の住民を除きキリスト教徒である。
インド・ヨーロッパ語族系の言語使用者はアルメニア人(415万1000),オセット人(54万2000),ウクライナ人(30万),クルド人(11万6000),ターティ(2万2000)などであるが,このグループで最も多いのはロシア人で,北カフカスでは地域全人口の76%を示した(1951)が,ロストフ州,クラスノダル,スタブロポリ両地方を中心に住み,ザカフカスでは10%程度である。ロシア人など近代の移住者を除くと,アルメニア人とオセット人の一部がキリスト教徒,他はイスラム教徒である。
アルタイ諸語を話すトルコ系諸民族も重要なグループで,北カフカスにクミク(22万8000),ノガイ族(6万),カラチャイ(13万1000),バルカル(6万6000),ザカフカスにアゼルバイジャン人(548万)が住む。アゼルバイジャン人はシーア派の,他はスンナ派のイスラム教徒である。なお,ユダヤ人はダゲスタンとグルジアに多いが,近年出国する者も少なくない。
人種形質は,比較的新しい移住者であるスラブ系諸民族がコーカソイドの東ヨーロッパ型,ノガイ,カフカス・トルクメンがモンゴロイド型を示すほかは,アルメノイド型である。総人口は約3249万8000(1989)。トビリシ(126万),エレバン(120万),バクー(115万),ロストフ(102万)など主要都市への人口集中現象が進んでいるが,都市人口率は北カフカス,ザカフカスとも57%台である。
カフカス諸民族の伝統的衣装は,着丈,色,装飾は異なるものの,裁断は同一である。最も特徴的な男子服であるチェルケスカは腰の部分でひだをとった,通例は襟なしのコートである。縁なし毛皮帽(パパハ)は現在でも広く用いられている。グルジア,カバルダ,チェルケス,オセットなどの女性は,ぴたりと身体に合った胴着とゆったりしたスカートを組み合わせている。しかし今日では,伝統的衣服を着用するのは年とった女性に限られている。
カフカスのパンは,今日大部分の国営商店で売られているものは発酵パンであるが,元来はナン系の半発酵パンであった。ヤギ,羊の乳からつくる塩辛いチーズと生のまま食べる緑野菜は日常生活に欠かせない。ジャガイモとトマトも,ロシアと同じく家庭料理になくてはならないものである。グルジア以外では豚肉を食べることは少ない。アゼルバイジャンでは各種のピラフを食べる。グルジア料理では各種のソースが発達しており,アルメニア料理ではトルマ(ロール・キャベツの一種)が有名である。
現代住宅が,材料の面でも様式の面でも画一的であるのに反し,伝統的民家は著しい地域間の違いを見せていた。ダゲスタンとオセティアでは,斜面に石と土で建てられたテラスつきのサクリ。東グルジア,アルメニア,アゼルバイジャンでは,平屋で屋根を疑似ボールトにした家が見られ,それぞれダルバジー,ギハトゥン,カラダムと呼ばれた。ダゲスタン高地,グルジアの山地,オセティアの民家は,倉庫と避難所兼用のがっしりした石造多層の塔をもっていた。西グルジアの民家は木造,高床で傾斜屋根,正面に回廊をつけたものが多かった。
カフカスと呼ばれる固有の社会は存在せず,いくつかの小社会の雑多な集合である。それらのうちのいくつかは,この地域や共和国の国境を越えて広がっている。ロシア語が普及し,異民族間の共通語として,かつてのトルコ語やペルシア語の地位を占めるようになり,帝政期からソ連時代を通じて,物質文化の面でのモスクワ中心主義が強いにもかかわらず,非ロシア人社会のロシア化はさほど進行せず,特にザカフカスには民族主義の傾向が強い。通婚圏の例をあげるとアゼルバイジャン人の89.8%が同じ民族間結婚を行っている(1969)。伝道が禁止されているにもかかわらず,宗教活動は徐々に盛んになってきている。北カフカスではタリーカと呼ばれるイスラム教団の活動が活発化している。グルジアやアルメニアのキリスト教会でも老人のみならず若い,特に女性の参拝が顕著である。
家族は,単婚小家族が基本であるが,アルメニアの農村部のようにかつての大家族(ゲルダスタン)は崩壊したものの,未解体家族も少なくない。家庭生活が重視され,家族間の連帯が強く,家長や父親の権威は大きい。離婚率は低く,ザカフカスで1%程度(旧ソ連平均の1/3)である(1967)。しかし女性の地位は,社会的進出が著しいにもかかわらず概して低く,今日でも結婚後労働に就かず家庭にとどまることが好まれている。またカフカス地方は長命者が多いことでも知られ,とくにアブハジア自治共和国は世界有数の長寿地域の一つに数えられている。
執筆者:北川 誠一
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黒海とカスピ海の間を走るカフカス山脈の北側および南側一帯の地域。語源は不詳だが、古代に黒海北岸に居住したカスカス人に由来するとの説があり、古典ギリシア劇『鎖に繋(つな)がれたプロメテウス』にその名が登場する。英語ではコーカシアCaucasiaまたはコーカサスCaucasus。歴史的地域名であるためその南北限を特定することは困難であるが、ロシアでは、北はカスピ海クマ川河口とアゾフ海マニチ川河口を結ぶクマ‐マニチ低地(第四紀初めまでカスピ海が黒海と通じていた地溝帯)で限られ、南はジョージア(グルジア)、アルメニア、アゼルバイジャンとトルコ、イランとの国境までと考えられている。これに従えば、カフカス地方はさらにカフカス山脈分水界により二分され、北半はプレドカフカスПредкавказье/Predkavkaz'e(前カフカスの意。北カフカスとも訳される。英語名シスコーカシアCiscaucasia)、南半はザカフカスЗакавказье/Zakavkaz'e(後カフカス=南カフカス。英語名トランスコーカシアTranscaucasia)とされる。
部分的には広い低地もあるものの、一般にかなりの高度差をもつ山岳地方で、また複雑な民族・部族の分布をみる地方であり、ロシア人からみれば南の暖かい保養地という感じが強い。標高は、カスピ海沿岸低地の海面下28メートルからカフカス山脈の最高峰エリブルース山(5642メートル)までを含み、差が大きい。地形上は、北部では広い低地に南から突出したスタブロポリ高原(600~700メートル)が高まり、その南はさらにカフカス山脈の広い山麓(さんろく)に移行する。南部(ザカフカス)ではカスピ海西岸にクラ‐アラクス低地、黒海東岸にコルヒダ低地があり、その南には小カフカス山脈、ザカフカス丘陵、火山性のアルメニア高原が複雑な山系をつくって高まる。気候は、沿岸部で温帯海洋性から乾燥気候までさまざまであり、月平均気温は1月零下2℃~零下6℃、7月23℃~28℃である。標高2000メートルの山中では、1月零下8℃、最暖月である8月13℃となる。年降水量も地域により大差があり、カスピ海岸のクラ‐アラクス低地で200ミリメートル、黒海東岸コルヒダ低地で1800ミリメートルである。山地では2500ミリメートルを超え、とくに黒海北東岸のカフカス山脈南斜面では4000ミリメートルに達する。植生も同様に多様である。
カフカス地方は地下資源に富み、石油、天然ガス、鉄鉱石、モリブデン、マンガン、タングステン、亜鉛、建築用石材(花崗(かこう)岩など)、ミネラルウォーターなどを産する。ザカフカスではこれらの資源を利用した石油精製、化学、冶金(やきん)、機械などの工業も発達し、大経済地域を形成している。また、多くの自然保護区とともに、登山、スポーツ、保養、療養を対象に多くの旅行基地が設けられている。たとえば鉱泉をもつ北カフカスの保養地群(中心はミネラーリヌイエ・ボードゥイ)、エリブルース北麓および西部(プリエルブルーシエ、ドンバイ)、黒海北岸の保養地群(ソチ、ガグラ、バトゥーミなど)では、大規模な保養施設や国際競技の開けるスポーツ施設がつくられている。
[渡辺一夫]
紀元前9~前6世紀にウラルトゥ王国が生まれ、前6世紀にはアルメニア、ジョージアの両民族が形成された。アルメニアは、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王に征服されるが、セレウコス王国がローマに滅ぼされると独立し、前1世紀に繁栄した。アルメニア、ジョージアは紀元後3~6世紀にキリスト教を国教とした。7世紀以降アラブの支配下に入るが、アルメニアは9世紀末バグラト王朝の下で統一、ジョージアも10世紀後半に統一され、12~13世紀タマラ女帝のときにもっとも栄えた。11世紀にはアゼルバイジャン民族も形成されるが、13世紀初めモンゴルがカフカス全域を席巻(せっけん)し、その後イラン、トルコが分割する。
ロシア帝国は1810年までにジョージアを併合、1813年イランからムスリムのアゼルバイジャンを、1828年アルメニアを獲得した。20世紀初頭、アゼルバイジャンのバクーは大石油産地として、ジョージアのチフリス(現、トビリシ)は鉄道集結点として、労働者を集め、カフカスの革命運動の拠点となった。しかし、民族ごとに宗教も異なり、歴史的背景もあって、民族主義諸政党が勢力をもっていた。1917年の十月革命後、北カフカスでは1918年3月までにソビエト政権が勝利したが、ザカフカスでは、バクー・ソビエトとチフリスのザカフカス委員部が対立、前者は1918年夏に崩壊、後者は、アゼルバイジャンのムサバト政権、アルメニアのダシナクツチュン政権、ジョージアのメンシェビキ政権に分裂、それぞれ、1920年4月、11月、1921年2月にソビエト政府にとってかわられた。この三つの共和国は1922年、ザカフカス連邦共和国に結合、ロシア、ウクライナ、ベラルーシとともにソビエト連邦を結成した。1936年にはふたたび3共和国に分離した。
ソビエト政府のもとで、アゼルバイジャンは石油と綿花の生産を柱に発展、アルメニアは工業も発展させたが、牧畜、果樹栽培も伸ばし、ぶどう酒やコニャックは日本にも輸出されている。ジョージアも遅れた辺境の地位から、工業、農業をともに発展させた社会主義共和国へ脱皮した。マンガンなどの鉱物資源、水力発電はよく知られているが、近年は茶の生産を一挙に拡大し世界的製茶国となった。1991年、アゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア3共和国はソ連解体に伴い独立した。
ソ連解体後のロシア連邦に属する北カフカスは小民族が集中しており、とくにダゲスタン共和国は人口207万3000(1997)にすぎないが構成民族は30にも達する。言語、宗教を異にする多くの民族が、どのように協力しつつ経済、文化を発展させてきたかを歴史的に明らかにすることは、国際的、民族的協力がますます必要になってきているこれからの世界にとって有意義であろう。チェチェン人、イングーシ人は、1943年末~1944年にドイツ軍に協力したとして、中央アジアに民族まるごと移住させられたが、1957年に名誉回復され、大部分もとの地域に帰り、チェチェノ・イングーシ自治共和国を構成した。さらにソビエト連邦解体後の1992年チェチェンとイングーシェチアの2共和国に分離した。
[木村英亮]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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