フランス音楽(読み)フランスおんがく

改訂新版 世界大百科事典 「フランス音楽」の意味・わかりやすい解説

フランス音楽 (フランスおんがく)

十数世紀にわたる音楽の流れを若干の特質に要約するのは,時代による差異を忘れるおそれがあり危険な仕事だが,一応のめやすを置くにとどめるという限定の上でこれを試みることにする。フランス音楽の精神は,ドイツ・オーストリア音楽を中心とする北方的なそれのように,重く情緒的あるいは抽象的・思弁的でもなく,またイタリア音楽に代表される南方的なそれのように,感性的・感情的なものの流露をとりわけ優先させもしない。いわばその中間にあるのだが,むろん折衷の結果としてではない。自発的・積極的に諸要素の均衡と全体の均整をはかり,主知主義的・直観的な傾向が強く,明晰,節度,洗練を美徳とする。これを総じて古典主義的といってよかろう。そしてしばしば具象的な音楽感覚を愛し,しかも好んでその向こうに〈感受性における幻想のごときもの〉(ドビュッシー)を求めるのである。音楽と舞踏が結びつくのは,おのおのの本質からして,どの国にあっても当然認められることであるが,バレエがフランスで初めて芸術として確立され集大成された事実にみられるとおり,舞曲とそのリズムへの愛好にはなおまたフランスならではのものがある。調性体系の理論化にまず大きく寄与したのがラモーであるにもかかわらず,19世紀でさえ旋法への傾きがとかくフランス音楽にはうかがわれる。以上の特質は,いうまでもなく,フランスの地理・風土・言語上の諸条件と,深いところでかかわりをもっているだろう。

 デュフルクNorbert Dufourcq(1904-90)の《フランス音楽》(1949。増補版1970)によれば,フランス音楽はこれまでに4度の黄金時代をもった。まず多声音楽の出現・成長期である9~14世紀。次に多声音楽の盛期で近代的語法が成立に向かう15~16世紀。第3は,1660年より1760年に至るベルサイユ楽派の時代。そして第4は,フォーレ,ドビュッシー,ラベルを頂点にいただく1860年以後の1世紀である。これは一つの見方にすぎぬかもしれないが,フランス音楽がヨーロッパにあって最も古く輝かしい歴史を誇る音楽の一つであることは,語ってくれるだろう。

4~8世紀,キリストの教会の一分枝であるガリア教会は,独自の典礼と聖歌を実践していた。資料が乏しいためその実体は不詳だが,フランク国王ピピンが,政治的理由と広域にわたっている臣下を一つの精神的な共同体に包み入れる目的とで,754年ローマ教会の典礼と聖歌(グレゴリオ聖歌)を用いることに踏み切ったのち,後者にガリア聖歌ほかの地方的な聖歌は吸収されていったようである。ただし今日のグレゴリオ聖歌の曲目には,8~9世紀ガリア地方で形成されたものが多いと考えられている。メッスの聖堂がその形成の指導的中心で,〈メッスのネウマ〉として知られる記譜法を用いていた。9世紀以後リモージュのサン・マルシアル修道院,ルーアンに近いジュミエージュの修道院がこの形成に大きく寄与するようになり,12世紀のアウグスティヌス会修道士で詩人のアダン・ド・サン・ビクトールAdam de Saint-Victorによって,高い水準に達することになる。

 世俗音楽は初めのうち跡を残していないので,事実をとらえるのが難しい。10世紀は,ネウマで記譜されラテン語の歌詞をもつ,王国の英雄たちを歌った一筆写譜を伝えている。11世紀以降,国語によるといえる世俗音楽の二つのジャンルが発展する。一つは武勲詩,もう一つは南フランスのトルバドゥールによるオック語の歌である。後者は13世紀になると北のトルベールによるオイル語の歌にとってかわられる。以上は騎士階級の単旋律の歌であるが,13世紀末には市民も交って作詩作曲するようになり,その代表が音楽劇《ロバンとマリオンの劇》をつくったアダン・ド・ラ・アルAdam de la Halle(1237ころ-87?)である。また彼らの介添役も務めた旅芸人ジョングルールたちの存在を忘れるわけにはいかない。

 ゴシック芸術が当初からフランスで栄えたのと並行して,音楽も多声語法をフランスが先導して豊かにした。10世紀はシャルトル大聖堂ほか,11世紀末から12世紀初めにかけてサン・マルシアル修道院,12世紀中ごろから13世紀にかけてパリのサン・ビクトル修道院,ことにノートル・ダム大聖堂が,その発展の中心であったことから,ノートル・ダム楽派の名も生まれ,レオナンLéonin,ペロタンPérotinが同楽派を代表し,ペロタンの4声部の〈オルガヌム〉は,多声音楽の進展に重要な一時期を画するものと評される。宗教的な〈モテット〉のほかに世俗的なモテットも書かれ,さらにアダン・ド・ラ・アルの3声の〈ロンドー〉が示すように,音楽における世俗的なものが比重を増すにいたる。そして14世紀には,ビトリーPhilippe de Vitry(1291-1361)ほか,とりわけマショーが,リズム構成に新機軸の際だつ新しい様式を作り上げる。それをビトリーは〈アルス・ノバ〉と呼んで誇った。マショーはミサ音楽に曲としての統一を与えようと,構造上のくふうをこらす。またシャンソンなど多くの世俗音楽も作曲した。

15世紀は,中ごろまで,フランス東部・北部よりフランドル地方までを領有したバロア公のブルゴーニュ公国から出た音楽家たちが,ヨーロッパ音楽の推進力となっていた。バンショア,デュファイの作品によって,このブルゴーニュ楽派は代表される。イギリスのダンスタブルの名なども,この楽派に加えることがある。中世末期の複雑さと対照的に,(3度音程を含む)調和的な響きの快い均整のとれた抒情的な多声音楽によって,ミサ曲,モテット,シャンソンなどが作曲された。

 15世紀中ごろより16世紀末まで,現在の北フランスからオランダに至るフランドル地方に優れた音楽家が輩出し,ヨーロッパ各地で,ブルゴーニュ楽派を引き継ぎながら,もっと声部が均等化して多数声部間で模倣しあう対位法的な書法による,宗教音楽やシャンソンを書いた。このフランドル楽派を代表する名として,オケヘム,オブレヒト,A.ブリュメル,ジョスカン・デ・プレ,ピエール・ド・ラ・リュー,L.コンペール,J.ムトン,N.ゴンベール,ラッススをあげておく。彼らはとりたててフランス的・国民的な着想を主張したわけでないが,その形成にフランスの演じた役割を認めないのも,穏やかでないであろう。

 16世紀にフランスは政治上の統一を達成し,王室の権威を確立した。王室の日常にあって音楽の占める場所は小さくなく,フランソア1世は宮廷礼拝堂の音楽家たちのほかに,宮廷室内楽団と野外奏楽隊とを置いた。新興の市民階級は音楽の世俗的傾向を促進し,そこには新しいルネサンスの精神が反映されている。ジャヌカン,セルトンPierre Certon(?-1572),セルミジClaudin de Sermisy(1495ころ-1562),グディメルClaude Goudimel(1514ころ-72)らのシャンソン,マドリガルは,フランドル人の巧妙・博識を捨てて,もっと民衆的な直截さに立ち帰っている。言葉に属する要素が音楽を微妙に左右したり,あるいは描写的・擬音的な表現で耳を楽しませたりする。ただし16世紀中ほどからイタリア音楽の影響で世紀初めの素朴な性格は薄れた。

 しかしイタリア文明との出会いは,非キリスト教的古代への関心を誘い,詩人のJ.A.deバイフは勅許を得て1570年に〈文芸音楽アカデミー〉を設立,古代に学んで詩の韻律的な律動を厳密に追っていくシャンソンの作法を唱道し,ル・ジュヌClaude Le Jeune(1528から30-1600),コートレGuillaume Cotelay(Costeley)(1530ころ-1606)らが佳品を残した。

 ル・ジュヌ,グディメルはユグノーの音楽家でユグノー詩編に作曲した。反宗教改革側もこれと競い,17世紀カトリックの強い神秘主義へと道を通じる。なおこの世紀に音楽の上でも国民性の意識がしだいにめざめていったことを,忘れてはならない。

17世紀より18世紀中ごろまでのフランス音楽には,大づかみにいって三つの特色がある。(1)は古典主義。(2)ルイ14世治下で頂点に達する王の威信を輝かすための宮廷音楽の展開(すなわちベルサイユ楽派の名がある)。(3)にイタリアの影響との葛藤。(1)と(2)は多く結びつくが,それへの緊張関係を(3)は多少とも内在させる。(1)については,当時のフランス文明の趨勢であることを指摘するにとどめるが,ドイツ,イタリア偏重の西洋音楽史観とは衝突するかもしれない。

 (2)については,まず宮廷歌謡と宮廷バレエとをあげよう。前者は対位法的な複雑さを避けて趣味の洗練を重んじる,短い有節歌曲であった。宮廷バレエはアンリ2世の妃カトリーヌ・ド・メディシスの催した〈王妃のバレエ・コミック〉(1581)に端を発するとされ,王自身をも演舞者とするならわしがあった。ルイ14世のときリュリ,ボーシャンPierre Beauchamp(1636-1705)らによって確立され,オペラ・バレエを経てやがてバレエの歴史をリードするフランス・バレエの光輝ある伝統を築くことになる。

 一方,こうした宮廷芸術への反発が,たとえば枢機卿マザランにイタリア歌劇の招待上演を企てさせたが,フランスは同歌劇に隷属しない独自の悲歌劇を創りあげた唯一の国である。作曲家カンベールRobert Cambert(1628ころ-77)と台本作者P.ペランによる独自の歌劇の構想を,リュリの《カドミュスとエルミオーヌ》(1673)がさらに芸術的に高度なものとしたことで,その基礎が固まる。それはフランス語の特質を朗誦に生かし,台本の文学性を重んじ,合唱,バレエを多く取り入れて華麗な舞台効果をも追究した。その壮美な趣は,王(ルイ14世)の威信を輝かすのにふさわしいものであった。以後リュリの後にM.A.シャルパンティエ,カンプラ,デトゥシュAndré Cardinal Destouches(1672-1749)らが出て,イタリアの影響におりおりさらされながらも,フランス歌劇は偉大な作曲家であり理論家であったラモーを迎える。

 しかしラモーのころ,時代は反古典主義の兆しをみせはじめていた。イタリアの喜劇一座によるペルゴレーシの幕間劇《奥様になった女中》の上演(1752)が,イタリア歌劇支持のJ.J.ルソーほか百科全書派をラモーたちフランス伝統派に挑戦させた一種の新旧論争であった〈ブフォン論争〉の火ぶたを切らせた。その際ルソーは自ら《村の占師》(1752)を作曲したが,これはオペラ・コミックに新しい道を準備したものといえるであろう。F.A.ダニカン・フィリドール,P.A.モンシニー,グレトリーらがその道を歩むことになる。なお革命前夜グルックもパリで成功してイタリア派の挑戦を受けるが,決着はつかなかった。

 宗教音楽は17世紀初めにはまだ対位法的な声楽であったが,たとえばモテットは通奏低音と協奏的様式とをしだいに少しずつ受け入れていく。ルイ14世のベルサイユ宮廷礼拝堂では,これまた〈威信〉にふさわしい大規模なモテットが鳴り響くのを常とした。しかしF.クープランの作品は,もっと簡素な手段で深い真実な感動を伝えている。彼はシャンボニエールの確立したクラブサン音楽(クラブサン楽派)でも一頂点をきわめ,そしてJ.F.ダンドリュー,ラモーとつづくが,同音楽に先立ってエヌモンEnnemond Gaultier(1575ころ-1651)とドニDenis,G.(1603-72)の2人のゴーティエによるリュート音楽の隆盛があったのである。J.ティトルーズ,G.G.ニベール,L.マルシャン,L.C.ダカンのオルガン音楽,バイオリンのためのJ.F.ルベルのソナタとJ.M.ルクレールの協奏曲。ゴセックが作曲した初期の交響曲は,1753年に初演された。

ゴセックは革命後のフランスのために積極的な姿勢で音楽を書いた。É.N.メユール,J.F.ル・シュール,C.S.カテルもそうであった。しかしフランス革命は,その思想がベートーベンを鼓舞したにせよ,彼に匹敵する音楽家をフランスに与えるどころではなかった。ただ革命政府は,1795年,既存の施設を基盤にしてフランスの誇るパリの国立コンセルバトアール(パリ音楽院)を新しく発足させた。

 コルシカ出身のナポレオンは,パイジェッロ,F.パエル,スポンティーニらイタリアの音楽家をひいきにした。そして19世紀になっても大勢は依然オペラが第一であった。しかも,D.F.A.オーベールの《ポルティチの啞娘》,J.F.アレビーの《ユダヤの女》あたりを例外として,もっぱら外来者ケルビーニ,ロッシーニ,とりわけドイツ系ユダヤ人の折衷主義者マイヤーベーアの《鬼のロベール》以降の諸作が,オペラ・ロマンティックすなわちグラントペラgrand opéra(グランド・オペラ)に君臨していた。かたわら1780年代以降の〈ロマンス〉流行を反映してか,多くのフランス人作曲家(ボイエルデュー,オーベール,F.エロール)は,オペラ・コミックの作曲に励む。また,オッフェンバックのオペレッタが人気をさらう。この劇場優位の下で,交響音楽も宗教音楽もずっと振るわなかったが,真のロマン主義者と呼べるフランスで唯一人の音楽家ベルリオーズの出現が,その劣勢を大きく挽回する。ただしこれは後世からみての話で,この標題交響曲(《幻想交響曲》ほか)の創始者,《レクイエム》の作曲家の天才を,当時正当に認めた者はごく少数であった。

 フランス音楽の再生は,むしろグノーとサン・サーンスに始まるというべきであろう。グノーの《ファウスト》は劇場からマイヤーベーアとイタリア人を遠ざける最初の一撃となり,《マノン》のマスネー,フランス的なレアリスムに立つ《カルメン》のビゼーと《ルイーズ》のG.シャルパンティエら,フランス的な感性を主張する歌劇作家が後に続いた。一方,サン・サーンスは器楽復興の推進者であった。彼は自ら交響曲,協奏曲を書くとともに,声楽家R.ビュシーヌと語らって1871年〈国民音楽協会〉を設立,〈アルス・ガリカArs gallica(フランスの芸術)〉を旗印に掲げて多くの同志を集め,現存のフランス人作曲家による室内音楽と管弦楽曲の紹介に努めた。

 国民音楽協会の主導権をサン・サーンスに代わってやがて握ったのが,フランクとその弟子たち(デュパルク,ショーソン,とりわけダンディ)である。フランクはJ.S.バッハと晩年のベートーベンから教訓を引き出した。その教育を受け継ぐべく1896年に音楽学校〈スコラ・カントルム〉をC.ボルドやF.A.ギルマンと設立したダンディは,ワーグナーの影響をも進んで強く受けていた。いきおいフランク一派はフランス音楽をドイツ化しようとした,と批判されもしたが,その罪は〈まじめな音楽〉(ミュジック・セリューズmusique sérieuse)をフランスに取り戻した功と背中合せであろう。

 〈まじめな音楽〉を育てたのは,19世紀後半,しだいにフランスを魅惑したワーグナーの影響でもある。異国趣味の色彩家ラロも諧謔と活力にあふれたシャブリエも,歌劇を志すとワーグナー派になった。ワーグナーの影響は音楽上の現象にとどまらず,象徴主義文学に助けられ,ドイツ理想主義の湿潤な北風となって,フランスの知的風土全体の上を吹きまくった。〈まじめな〉音楽家なら拒むにせよ迎えるにせよ無関心ではいられなかった。

 これを評価しながら染まらなかったのがフォーレで,いったん受け入れながら,それを厳しく拒む過程で新しい領域を開いたのがドビュッシーである。フォーレは,内省的な抒情を抑制のきいた筆触により洗練された微妙な感覚に包んで聴かせ,ピアノ曲,歌曲,室内楽曲に優れ,デュパルク,ドビュッシーとともにフランス芸術歌曲をドイツ・リートに匹敵する位置にまで高めた。またドビュッシーは象徴主義の風土に触れて自らを形成していき,同派の詩人たちが詩的言語に対してしたように音楽語の意味を問いただすことによって,語にイニシアティブをゆだねる新しい排列の仕方をたずねた。その最初の成果が,マラルメの詩に寄せた《牧神の午後への前奏曲》(1894)であった。

ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》の初演(1902)はフランス音楽史にとって最も重要な日付の一つとなった。その勝利が,ワーグナーで大綱としては行きつくところまで行きついていた長調・短調の体系から音楽を解放して,20世紀への道を開いたからであり,それが同時にドイツより西欧音楽の主導権を奪回したことになったからである。解放は(《牧神の午後への前奏曲》の後をうけて)ドビュッシーの音楽が全音音階まで含めた意味での旋法性を(再)発見したことにより可能となり,その上で音(響)すなわち色彩とリズムづけられた時間とのそれ自体の価値をあらためて見いだす方向へ既に歩みはじめたところに,勝利の基因があった。しかもそこでは直観された音(響)の変化・持続の向こうに,想像的なものつまり前出の〈感受性における幻想〉が,豊かな広がりをもつことも可能だ。

 M.ラベルは,ドビュッシーと通じあうところの多い作風で出発してやがて肩を並べたが,より客観的・主知主義的で技巧を重んじ,しだいに古典主義的な姿勢を明確にした。それがジャズを採り入れるといったモダニズムと幸せに結びついて,時代の趨勢の先端に立つ。彼の音楽は20世紀フランス音楽の最良のモデルの一つとなるにいたる。スコラ・カントルム出身のルーセルは,フランクとドビュッシーの影響を消化した上で,多声性とリズムの積極的主張に重点をおき,堅固な造形に力動感のみなぎる記念碑的な交響曲を残した。なおラベルにもルーセルにもバレエ音楽の秀作がある。このほかデュカース,F.シュミット,C.ケクラン,A.カプレの名をあげておこう。

 サティは,ドビュッシーとほぼ同年輩であるが,第1次世界大戦後その単純でむきだしな音楽が,戦前の美意識--ワーグナー,ロマン派,ドビュッシー--への反逆の先鞭をつけた。そしてJ.コクトーを仕掛け人としてオネゲル,ミヨー,プーランクらの〈六人組〉が戦後最初の前衛活動をおこし(1918),次にきたソーゲHenri Sauguet(1901-89)はR.デゾルミエールらとサティを先達と仰ぐグループ〈アルクーユ楽派〉を結成した。一方,亡命ロシア人ストラビンスキーが,既に大戦前夜《春の祭典》ほかで衝撃的な存在になっていたが,戦後は新古典主義を志向しつつ影響の範囲を広げた。六人組の各人はやがて各自の個性を追求していくのであるが,両大戦間の動向をフランスに関して大づかみに要約すれば,新古典主義的モダニズムということになるであろう。シェーンベルクらの試みは,フェルーPierre Octave Ferroud(1900-36)らの現代音楽発表のための国際的機関である室内楽協会〈トリトン〉が鋭意紹介に当たったが,大勢は占めなかった。

 その間にみられた当時の音楽のある種の抽象性に抗議して,メシアン,ジョリベ,ダニエル・ルシュール,Y.ボードリエら4人がグループ〈ジュヌ・フランス〉を1936年に結成した。彼らは抒情性,人間的な感動,誠実さを音楽に取り戻そうと意図したのである。しかも同時にメシアンは,音楽語法更新の必要性を理解し,とくに旋法性とリズムの面で独創とその組織化とを追求する。

 第2次世界大戦後,ジョリベととりわけメシアンは,〈六人組〉の世代に代わって巨匠の位置を獲得する。メシアンはパリのコンセルバトアールで教鞭をとり,そこで教えたことのなかにシェーンベルク,ウェーベルンら20世紀ウィーン楽派の音楽があった。同楽派のためにポーランド出身のレイボビッツが,精力的な教育宣伝活動を展開した。2人に師事した青年たちのうちにブーレーズがいて,しだいに頭角を現す。彼はメシアンの探求と十二音音楽の方法論とを結合した上で,バレーズの〈組織された音響〉からも示唆を受け,音楽の諸構成要素を全面的に組織化(セリー化)する試みに向かった。もっとも20世紀中ほどからのこうした試みは,フランスに限られたことでなく,国際的な規模にわたって進められ,他国に影響を与える一方で,ケージの偶然性(不確定性),ポーランドの前衛たちのトーン・クラスター(密集音響)などを取り込んでいった。その国際性は,たとえば1977年以来ブーレーズを中心に活動を始めたIRCAM(音響・音楽の探求と調整の研究所)の事業と人的構成にも反映されている。シェフェールらのミュジック・コンクレートにしても,アイメルトの電子音楽との交流によって電子音響(エレクトロ・アクースティック)音楽を推進することができた。蓋然性の音楽で注目を集めている作曲家クセナキスは,ギリシアの音楽家である。こうした新しい音楽へのかつてない要求を回避せず,しかも伝統的なフランス音楽を継承していこうとする,デュティユーらの存在を,決して忘れるわけにはいかないであろう。
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フランスの民謡,民俗音楽は,すべてが中庸で,調和のとれた穏やかな風土,環境から生まれた。その特色を一言で表すなら,フランス民謡は,ふだん親しんでいるヨーロッパの古典音楽から聴き取るものと同じ土台に立つもの,〈汎ヨーロッパ的要素〉から成り立つものである。メロディを調性からみると,長調のものが大きな割合を占め,短調のものがそれに次ぐ。歌詞の1音節に一つの音符を当てはめる,〈シラブル式〉(八木節型)のものが多く,〈メリスマ式〉(追分節型)すなわち一つの音節を多くの装飾音で飾っていく行き方は,まれである。拍子は6/8,2/4,4/4などが多く,本質的に規則正しいもので,意表に出るような変則的リズムは使われない。フランス民謡のほとんどが,もと都市から出て地方に,あるいは社会の上層から出て下層に定着した〈沈降文化〉の典型だといわれるのも,それらが以上のように,いわば近代ヨーロッパの洗練された音楽と本質的に等しい特色をもつことにより納得できる。しかしフランス民謡の中には,たとえ率は低くとも,近代的な長調・短調によらない古風な旋法に立つものも見のがせない。これらはギリシア旋法や中世教会旋法の影響を告げるもので,さらに古くケルト族固有の〈土の歌Chants de Sol〉--畑のすき返し歌などに例がある--のなごりもあると考えられる。民謡をその機能別にみると,生活に即したものが多く,子守歌,わらべ歌,恋歌,踊り歌,仕事あるいは職業の歌,宴会の歌(酒飲み歌chansons à boireは陽気なゴール気質を反映してこの国に盛んである),壮丁の歌chants de conscrits(徴兵に取られた若者の別れの歌),兵士の歌,行進曲,郷土愛の歌,宗教歌(多くの種類があるが,クリスマスの歌〈ノエルnoël〉はとくに重要),挽歌(葬礼の歌)など多種類のものがある。このうち〈仕事の歌〉には,すき返し,種まき,麦刈り,草刈り,ブドウつみといった野良の歌,牧畜の盛んな地方では牛飼いや羊飼いの歌がある。ほかに木こり,水夫,大工,石屋,機織りなどの仕事に伴う歌も多く伝わっている。〈踊り歌〉あるいは舞曲の中で特筆されるのは中央部に残っているブーレbourré(ベリー地方のものは2拍子,オーベルニュのものは速い3拍子など変化がある)や左右にステップを踏みながら左回りに輪になって踊るブランルbranleなど,古典組曲の中できく舞曲が,民俗的な姿で残っていることであろう。各地に残る郷土舞踊として,手をつなぎあった男女がガルーベgaloubet(小さな縦笛)とタンブラン(長太鼓)の音楽に合わせて踊る南部プロバンス地方のファランドールfarandole,プロバンス語farandouloなどは名高い。〈物語歌〉もフランス民謡の一つの特色をなし,たとえばトルバドゥール,トルベールの伝統を汲むもの,女たちが糸車を繰りながら歌った〈紡ぎ歌chansons à toile〉のなごり,伝説的あるいは小説的なテーマを扱った悲劇的な内容の〈哀歌complante〉の伝承などが認められる。フランス民謡の形の上での特色は,クープレ(詩節)とルフラン(折返し句)の組合せにもみられる。詩の1節ごとに一定の折返し句をはさんでいくという形はフランス人にとりごく親しいもので,現代のパリのシャンソンもこの形を基本にしている。フランス民謡は,いったいに自然なゆとりのある発声で,あまり誇張した表現や,むずかしい声の技巧を使わずに歌われる。本来は単旋律(大勢で歌うときも斉唱)のものといえるが,19世紀以来,ポリフォニックな合唱様式が民間に定着している地方もある。民俗楽器としてはバイオリン,ギター,アコーディオンなども用いられるが,より古いものとして,ビエール(ハーディ・ガーディ)とバッグパイプなどを用いる習慣も地方により残っている。ほかに,ボンバルドbombarde(素朴なオーボエ),前述のガルーベなどの管楽器も散見される。なお民謡の歌詞はおおむねそれぞれの地方の言語あるいは方言に即し,たとえば南部ではプロバンス語,南西部のピレネー山麓ではバスク語,中部山地ではオーベルニュ方言,北東部ではアルザス方言(ドイツ語系),北西部の岬ではブルターニュ方言(ケルト語系),コルシカ島ではコルシカ方言(イタリア語系)の歌が歌われている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「フランス音楽」の意味・わかりやすい解説

フランス音楽
ふらんすおんがく

870年にフランク王国が分割され、西フランク王国となった地域がほぼ現在のフランスに相当する。この時期から音楽面でも独自性を示すようになり、イタリア、ドイツとともにヨーロッパ音楽の変遷のなかで中心的な役割を果たし続けた。

[美山良夫]

歴史

中世

キリスト教が伝えられたのち、4世紀ごろから独自の地方的典礼と聖歌が育成された。これはガリア聖歌chant gallicanとよばれるが、教会聖歌の統一が推進されると衰退、かわって北東フランスのメッスなどが統一的な聖歌であるグレゴリオ聖歌の歌唱と記譜法発達のうえで重要な場所の一つとなった。9世紀以後は、グレゴリオ聖歌の一種であるセクエンツィアの創作、聖歌をもとにしたポリフォニー音楽発展の中心となった。後者はオルガヌムとよばれ、当初は北フランスが、12世紀には南西部のリモージュが発展の中心であった。12世紀後半に都市の形成が進むと、オルガヌム創作も都市が中心となり、なかでもパリのノートル・ダム大聖堂の音楽家レオニヌスは、聖歌をもとにした長大なオルガヌムを多数残した。

 世俗音楽では、12世紀に南部および南西部フランスの宮廷でトルーバドゥール(吟遊詩人)とよばれる詩人兼作曲家が活躍、騎士道精神を背景にした宮廷的恋愛をテーマにした歌を残した。この芸術は中部および北部フランスに伝えられ、トルーバドゥールによる歌曲創作をもたらした。トルーバドゥールの活躍の中心は13世紀で、宮廷的恋愛のほか、十字軍に関連した歌が生まれた。13世紀にはポリフォニーが世俗音楽にも導入され、複数の俗語歌詞を同時に歌うタイプの音楽はモテットとよばれた。

 14世紀には、同じリズム・パターンを楽曲中で何度も反復するという新しいリズム原理(イソリズム)が創案された。これを説明したフィリップ・ド・ビトリの理論書の題名『アルス・ノバ』を、この世紀の音楽を表すことばとして使うこともある。ビトリとともにこの世紀を代表する音楽家はギヨーム・ド・マショーで、彼は詩人、外交官として活躍する一方、詩の形式を生かしたバラード、ロンドー、ビルレーという世俗歌を作曲、人間感情を細やかに、より意識的に音楽に盛り込むことを目ざした。

[美山良夫]

ルネサンス

15世紀初頭から力をもったブルゴーニュ公国は、北フランス、フランドルも勢力下にして繁栄、芸術創作の活性化を促した。公国の音楽家バンショアGilles Binchois(1400ころ―60)は三声のシャンソンを多く作曲、優美で洗練された表現を開拓した。他方、ダンスタブルに代表されるイギリス音楽の、和音の豊かな響きを求めたスタイルはフランスに強い影響を与えた。この二つの要素を総合したのはギヨーム・デュファイで、技巧的でありながら調和と均衡感に満ちたポリフォニー書法は、ルネサンス音楽の方向を決定づけた。この時代の指導的音楽家の大半は北フランスおよびフランドル地方出身で、国境を越えヨーロッパ各地で国際的に活躍した。そのためデュファイ、ジョスカン・デ・プレ、ラッススらこの地方出身の音楽家はフランコ・フランドル楽派ないしフランドル楽派とよばれ、彼らはヨーロッパ各地でミサ曲などの宗教曲、各国語による世俗歌を残した。

 フランコ・フランドル楽派の影響を受けつつ、16世紀にはいっそう庶民的な内容、明快なスタイルによるシャンソンの創作が隆盛化した。その代表的作曲家はクレマン・ジャヌカンで、彼の作品は当時始まった楽譜の活版印刷により広く流布した。1570年にはパリに「詩と音楽のアカデミー」が設立され、プレイアード詩派の詩人と音楽家の協力による声楽曲創作が試みられた。

[美山良夫]

バロック

ルイ王朝による中央集権的な支配により、音楽活動はパリとベルサイユに集中した。宮廷の音楽は、野外、室内、教会の3部分に分割され、それぞれ王権を象徴する壮麗な様式を求めた創作が行われた。宮廷の音楽をすべて支配したリュリは、フランス様式のオペラ創作に尽力、1670年代からその成果を発表した。クープランのロココ的繊細さをもったクラブサン(チェンバロ)音楽と室内合奏曲、ラモーのオペラは、18世紀を代表するものである。フランス革命期には時代に呼応した軍楽が盛んになったが、芸術的に目だった音楽創作は乏しかった。

[美山良夫]

19世紀

1830年前後は、ロッシーニ、マイヤベーア、オーベール、アレビーによる壮大なスペクタクル的見せ場をもつグラン・トペラ(グランド・オペラ)が流行したが、19世紀後半はグノー、ドリーブ、トマ、マスネらによる優美で甘美な音楽様式を備えたリリック・オペラが人気を獲得した。また、ビゼーは『カルメン』(1875)により、リアリズムをフランス・オペラに導入した。オペラ以外では、ベルリオーズによる標題音楽の発展(『幻想交響曲』1830)、国民音楽協会(1871設立)によるフランス独自の器楽、室内楽の推進が注目される。また、グノー以後、詩のディクションを音楽と自然に結び付ける歌曲の創作が盛んになった。

[美山良夫]

19世紀末~20世紀

ドビュッシーによる印象主義音楽(『牧神の午後への前奏曲』1894)がロマン主義を克服して、新しい音響像をつくりあげた。ラベル、サティら多くの個性を輩出したのち、第一次世界大戦後には19世紀の最後の10年余に生まれた世代が、反ロマン主義の立場から、明快な構造と新鮮な和声による音楽づくりを目ざした。この代表はミヨーとプーランクであり、ともに「六人組」とよばれる作曲家に属している。1930年代から作品を発表したメシアンは、リズムや和声などの作曲技法、神秘主義的な表現で、20世紀フランスのもっとも重要な作曲家とみなされた。またセリーという作曲技法を独自に展開したブーレーズは、新しい表現と音楽構成の可能性を探求、75年には国立の音響・音楽研究所IRCAM(イルカム)の所長になった。

[美山良夫]

特徴

フランス音楽は、イタリア音楽の歌唱性の追究、ドイツ音楽の内的感情の表現への傾斜をともに排し、表現と内容との調和や均衡、理性と節度をもった表情を求めた。次に、ことばのリズム、抑揚についてつねに敏感であり、ルネサンス時代のシャンソン、リュリのオペラ、近代歌曲など、一貫して詩のディクションをいかに自然に音楽化するかに努力が払われてきた。これは、フランス語自体の洗練と擁護を目標としたフランスのアカデミズムと結果的に軌を一にするものである。

 第三の特徴は、優れた色彩感覚にある。バロック時代から楽器の改良を通じて、軽く透明で多彩な音色を求める傾向は明らかになったが、ベルリオーズは著書『近代の楽器法と管弦楽法』で、管弦楽における楽器の使用法を探究、体系化し、多様な音色、色彩効果を駆使する道を開いた。色彩感覚は、ドビュッシー、ラベル、メシアンらの近代フランス音楽のなかでも、重要な要素になっている。

 第四に、作品の精緻(せいち)な構成、論理的な構造も特徴となっている。無限定な作品の拡大は好まず、むしろ規模を制限し、作品の構成原理を明確に論理化し、細部に至るまで一つ一つの響きや音を選びぬく傾向は、とくに近代・現代の音楽に顕著である。しかし、14世紀のイソリズムとよばれるリズムを軸にした曲の構成技法などに、この傾向はすでに示されていたとも考えられよう。そしてこのような傾向は、フランス文化の伝統である明晰(めいせき)な批評精神とつながるものである。

 また、フランス音楽は、音楽以外の具体的なイメージと結び付くことが多い。クープランは自作のクラブサン曲について、「多様な機会が作曲の源泉となり、標題はその際の私の楽想に対応している」と述べている。バロック時代においてすでに、抽象的なフーガやパルティータを好まず、詩的・空想的な標題音楽を好む傾向は明らかになっていた。19世紀における交響曲、協奏曲でも標題をもつ作品が多く、他方、ソナタや弦楽四重奏曲など抽象性の強いジャンルの創作は低調であった。印象主義の音楽も、外的なイメージが精神に投げかけたものを音楽に置換するという点で、従来と同じ意味での標題はもたないものの、巨視的にはこの系列に属するものといえよう。

 さらに、フランス音楽におけるバレエの重要性も強調されねばならない。フランスの舞踏、バレエ愛好は、ルネサンス時代に際だった特徴となり、パバーヌなどの典雅な宮廷舞曲、『王妃のバレエ・コミック』(1581)に始まる宮廷バレエの作曲が盛んになった。バレエはバロック時代から19世紀までフランス・オペラの欠かせぬ要素であり、ワーグナーはパリで自作を上演する際に特別にバレエの場面と音楽を付加したほどであった。

[美山良夫]

民族音楽

ブルターニュ、プロバンス地方などには、特有の民謡や舞曲が伝えられているが、そのほか都市から地方、社会の上層から下層へと広がった沈降型の文化のなかに民俗音楽もある。そのため、その特徴は芸術音楽に類似している。こうした民俗音楽の多くは長調が多く、規則的な拍子、ルフラン(反復楽句)をもった構成をとる。また、他の西欧諸国の民俗音楽と比べると、教会旋法や3拍子系の曲の比率が高い。民謡は1シラブルが1音符の型が主体で、歌謡的旋律優位のイタリアとの相違が際だっている。このような、ことばと音とのバランスへの配慮や前記構成上の特色は、近現代のシャンソンの基本でもある。ブルターニュ地方は2拍子系が主流で他の地方と大きく異なるが、これは、イギリスとの密接な関連の結果であろう。

[美山良夫]

『N・デュフルク著、遠山一行・平島正郎他訳『フランス音楽史』(1972・白水社)』『ロベール・ピトルー著、藤原裕訳『フランス音楽の11人――グノーからドビュッシーへ』(1973・音楽之友社)』『今谷和徳著『バロックの社会と音楽 上巻』(1986・音楽之友社)』『遠山一行著『遠山一行著作集 第4巻』(1987・新潮社)』『ピエール・ベルナック著、林田きみ子訳『フランス歌曲の演奏と解釈』(1987・音楽之友社)』『E・ユラール・ヴィルタール著、飛幡祐規訳『フランス六人組――20年代パリ音楽家群像』(1989・晶文社)』『磯田健一郎著『近代・現代フランス音楽入門――サティのように聴いてみたい』(1991・音楽之友社)』『井上さつき著『パリ万博音楽案内』(1998・音楽之友社)』『ジョスリン・ゴドウィン著、高尾謙史訳『音楽のエゾテリスム――フランス「1750-1950」秘境的音楽の系譜』(2001・工作舎)』『浅井香織著『音楽の「現代」が始まったとき――第二帝政下の音楽家たち』(中公新書)』『パイヤール著、渡辺和夫訳『フランス古典音楽』(白水社・文庫クセジュ)』『E・ルーテル著、小松清・二宮礼子訳『フランス歌曲とドイツ歌曲』(白水社・文庫クセジュ)』『James R.AnthonyFrench Baroque Music ; From Beaujoyeulx to Rameau(1974, W.W. Norton, New York)』『Isabelle CazeauxFrench Music in the Fifteenth and Sixteenth Century(1975, Oxford University Press, New York)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「フランス音楽」の意味・わかりやすい解説

フランス音楽
フランスおんがく

中世においては,リモージュのサン・マルシャル修道院を中心に行われたグレゴリオ聖歌に基づくセクウェンツィア,トロープスや,吟遊詩人トルバドゥールトルベールによる世俗音楽が盛んであった。またこれらを発展させたサン・マルシャル楽派,ノートル・ダム楽派さらにアルス・ノバにみられる初期ポリフォニー音楽などが現れ,レオニヌス,ペロティヌス,G.マショーらを生んだ。ルイ 14,15世治下のベルサイユ宮廷は J.リュリ,A.カンプラ,クープラン,ラモーらによってオペラ,クラブサン曲など種々のジャンルに輝かしい作品を残した。 19世紀末にはドビュッシーらの印象主義音楽が現れ,その後 G.オーリック,A.オネゲル,D.ミヨーらの「六人組」やメシアン,A.ジョリベらの「若きフランス」といわれるグループによりフランスの伝統を守ろうとする傾向がある一方,12音音楽,ミュジック・コンクレート,さらに電子音楽にいたる進歩的な活動も盛んに行われている。最近の前衛的な作曲家の代表としては P.ブーレーズがいる。

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