出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
京都府南端、相楽郡(そうらくぐん)にあった旧町名(加茂町(ちょう))。現在は木津川市(きづがわし)の東部を占める一地区。南は奈良県に接する。1928年(昭和3)町制施行。1951年加茂町は当尾(とうのお)、瓶原(みかのはら)の2村を編入。2007年(平成19)木津、山城(やましろ)の2町と合併し、市制施行して木津川市となる。低い山地に囲まれているが、木津川と支流の和束(わつか)川とが合流する地点には平地が開ける。木津川南岸をJR関西本線、北岸を国道163号が走る。木津川北岸の瓶原には、740年(天平12)に聖武(しょうむ)天皇が平城京からの遷都を図って恭仁京(くにきょう)を開いたが、4年ほどで廃都となり、大極殿跡に山城(背)国(やましろのくに)国分寺が置かれた。金堂と塔の礎石が残り国史跡に指定されている。恭仁京跡東方の銭司(ぜず)は、古代の銭貨である和同開珎(わどうかいちん)が鋳造された所で、近年るつぼや和同銭が発掘された。奈良県境近くには行基(ぎょうき)創建と伝える岩船寺(がんせんじ)や、平安後期の建築の本堂、三重塔(ともに国宝)や、特別名勝・史跡の庭園を残す浄瑠璃寺(じょうるりじ)があり、付近の石仏巡りを兼ね、観光客も多い。また国宝の五重塔をもつ海住山(かいじゅうせん)寺がある。壁紙や襖(ふすま)紙を特産する。
[織田武雄]
『『加茂町史』(1988~ )』
島根県中東部、大原郡にあった旧町名(加茂町(まち))。現在は雲南市(うんなんし)の中北部を占める地区。旧加茂町は1929年(昭和4)町制施行、1934年神原(かんばら)、屋裏(やうち)の2村と合併。2004年(平成16)大東(だいとう)町、木次(きすき)町、三刀屋(みとや)町、掛合(かけや)町、吉田(よしだ)村と合併、雲南市となる。旧町域は、斐伊(ひい)川支流の赤川河谷に発達した盆地にあり、JR木次線と国道54号が縦貫し、松江自動車道の三刀屋木次インターチェンジが近い。斐伊川は堆積(たいせき)作用が著しく天井川となり、河床の低い赤川に逆流して湖沼状をなした。市街地は江戸中期まで沼地で、しばしば水害にみまわれた。近年でも1960年代に3回も被害を受けている。町屋は堤防により保護され輪中(わじゅう)集落のようになっている。江戸時代はワタの栽培が盛んで木綿市が開かれにぎわった。低山性地形を利用し養蚕も盛んであったが、近年は水稲を中心にシイタケやブドウの栽培、茶園開発などが行われ、兼業農家が多く、松江、出雲(いずも)両市への通勤者が増えている。古くから村落が発達したため、古代の遺跡も多く、神原神社古墳(かんばらじんじゃこふん)(「景初(けいしょ)三年」銘の三角縁神獣鏡などの出土品は国指定重要文化財)、国指定史跡の加茂岩倉遺跡(出土した銅鐸(どうたく)は国指定重要文化財)、国指定重要文化財の銅鐘がある光明寺などがある。
[小松 聰]
新潟県中北部、東山丘陵の西麓(せいろく)にある市。1954年(昭和29)加茂町が下条(げじょう)村を編入して市制施行。同年七谷村、1955年須田(すだ)村を編入。JR信越本線が通じる。国道は290号、403号が走る。古くは信濃(しなの)川支流の加茂川谷口の市場町として発生し、京都の賀茂(かも)社の地形に似たところからおきた地名という。延喜(えんぎ)式内社青海神社(おうみじんじゃ)があり、古代の青海首(おびと)の総鎮守であったといわれ、社叢(しゃそう)は県木ユキツバキの群生する加茂山公園になっている。
日本一を誇る桐だんすは近世からの名産で、建具、加茂紙を加工した渋(しぶ)紙・傘・屏風(びょうぶ)のほか、加茂縞(じま)などの家内工業も盛んであった。現在も木工、家具、金属製品、繊維、電気器具などの工業が盛んで、三条、燕(つばめ)と並んで県下の金属工業地帯をなしている。また、北部の丘陵麓は陣ヶ峰瓦(かわら)や土管の産地として知られ、南部の下条地区は名産ゴヨウマツ(五葉松)の植木村として有名であった。面積133.72平方キロメートル、人口2万5441(2020)。
[山崎久雄]
『『加茂市史』上下(1975・加茂市)』▽『『加茂市の歴史年表』(1967・加茂市)』
岡山県北部、苫田郡(とまたぐん)にあった旧町名(加茂町(ちょう))。現在は津山市の北部を占める地域。中国山地に位置し、吉井川支流の加茂川流域にある。旧加茂町は、1924年(大正13)町制施行。1942年(昭和17)東加茂、西加茂の2村、1954年新加茂町、上加茂村と合併。2005年(平成17)津山市に編入。谷底に水田があるが、積雪の多い寒冷地で、むしろ林業の盛んな地域といえる。中世の青柳荘(しょう)、美和荘、賀茂荘、知和荘の地で、近世には津山市の綾部(あやべ)まで通じていた加茂川舟運によって物資は運ばれ、木材の筏(いかだ)流しもみられた。JR因美(いんび)線が通じ、これに並行する主要地方道が鳥取県境を越えている。加茂川支流倉見川には多目的の黒木ダムがある。
[由比浜省吾]
『『加茂町史』(1975・加茂町)』
山形県北西部、鶴岡市(つるおかし)の日本海に臨む地区。旧加茂町。中世以来庄内(しょうない)地方では酒田港に次ぐ商港として、また庄内藩の外港として発展し、避難港の役割も果たした。大正時代の羽越線開通後は沿岸漁業の港町となった。加茂港近くの荒崎に加茂水族館がある。国道112号が通じる。
[編集部]
新潟県中央部,東山丘陵をきる信濃川の支流加茂川の流域に位置する市。1954年市制。同年下条村,七谷村を,55年須田村を編入。人口2万9762(2010)。古くから加茂川の谷口集落として発展し,江戸時代は在郷町であった。第2次大戦後,木工,和紙,織物などの伝統産業のほかに,戦前疎開工場として立地した電気器具,金属や皮革,メリヤス製造が加わり,木工団地も生まれた。北部の陣ヶ峯では窯業(瓦,土管)が行われ,西部の保内(ほない)は植木を特産する。市街地に接する加茂山公園には青海(おうみ)神社が鎮座し,公園内のユキツバキの群落は有名である。1967年加茂川の洪水で大きな被害を受けた。信越本線が通る。
執筆者:磯部 利貞
もとこの地域は青海荘といい,式内社青海神社2座がある。桓武天皇が山城国賀茂両社領を諸国に分散し,分霊を配祀した時,当地にも遷祀されたと伝える。1090年(寛治4)堀河天皇が賀茂両社供御田として石河荘(加茂市)公田40町歩を寄進した。これらよりおのずから賀茂と呼ばれるようになった(地名の初出は1355年(正平10・文和4))。石河荘は室町時代まで賀茂社領であったが,1471年(文明3)ころは上杉氏が支配した。加茂は1598年(慶長3)から新発田藩領,1789年(寛政1)から幕府直轄領,1847年(弘化4)から桑名藩預地となり明治維新を迎えた。町の萌芽は1595年(文禄4)には見られるが,1660年(万治3)町割直しが行われ,4・9の六斎市(現在も盛んである)や馬市も立ち,近郷流通の中心として繁栄した。特に七谷郷の紙は加茂商人によって集荷されたので,加茂紙とも称された。幕末期の特産品に元結,水引,戸障子,瀬戸があり,明治以後は紙製品,木工品(桐だんす,建具など),織物(加茂縞)の町として発展した。
執筆者:小村 弌
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…市街西方の大山は戦国時代の小城下町で,古くからの酒造地として知られる。日本海に面する加茂は鶴岡の外港として発達し,現在は県下第2の漁港である。南部には国指定名勝の金峰山(459m)がある。…
…富山平野の西部にあり,村域の大半は標高1m未満の低地である。中心集落の加茂は1662年(寛文2)加賀藩により宿駅が設置され,北陸道の宿場町としてにぎわったが,明治以降は停滞した。水田単作地域で米作が中心であるが,近年兼業化が著しく,富山・新湊両市への通勤者も多い。…
…吉野川南岸に位置し,徳島市に至る徳島線,国道192号線が通る。吉野川の沖積低地の開拓は古く,中心集落の加茂や中庄には条里制の遺構がよく残されている。近年国道が改良され,沿線の都市化が進んでいる。…
※「加茂」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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