堤村(読み)つつみむら

日本歴史地名大系 「堤村」の解説

堤村
つつみむら

[現在地名]小林市堤

細野ほその村の東にあり、東は野山のやま(現野尻町)、南は高原たかはるふもと(現高原町)、南西は広原ひろわら(現同上)。東を岩瀬いわせ川が南東流し、同川支流辻の堂つじのどう川が西を南東流し、さらに南を東へと流れる。水運の便はよい。広原村から北方真方まがた村と細野村の境に都城への道、真方村と細野村の境より当村の北側に沿い東へと肥後街道が通る。明治三年(一八七〇)の小林誌(赤木家文書)は村名について、この地は元来川沿いにあるが、俗称「中将井堤」という堰で水流が分れて、そのために堤を多く築いたゆえとしている。また同書によると古くは堤分つつんぶん村と称したといい、「日向地誌」には元禄(一六八八―一七〇四)の頃は温水ぬくみ村と称したとある。温水の地名については、「三俣院記」によると、天正一〇年(一五八二)頃の霧島王子六所権現の大宮司前原十郎太夫は、代々「三之山内温水」に居住していたとある。また同記に、これより早く元亀三年(一五七二)島津忠平(義弘)が「温水」を攻略してこの王子権現へ祈願、真幸軍衆を温水へ引入れて打破り、帰陣後水田一町八反を王子権現へ寄進し、前原十郎太夫をその大宮司に任命した由を記す。


堤村
つつみむら

[現在地名]豊田市堤町・堤本つつみほん町・本田ほんだ町・西岡にしおか町・大島おおしま町・前林まえばやし町・高丘新たかおかしん町・高岡本たかおかほん町・高岡たかおか町・ほん

市域の西南部に位置し、逢妻女あいづまめ川を挟んで広がる地。「碧海郡誌」によれば根岸ねぎしの里とよばれ、まち本地ほんじ本多ほんだ西山にしやま・大島・前林・新馬場しんばば今泉いまいずみ平松ひらまつの九区域で構成され、後に今泉は本多に、平松は町に合併。

近世を通じて刈谷藩領。寛永郷帳では一千六七八石余であるが、元禄郷帳では二千二五三石余と六〇〇石近い増加を示す。これは元亀元年(一五七〇)万五郎まんごろう池から元禄年間(一六八八―一七〇四)五月さつき池まで計九つの池が集中的に開発されたことによるとみられる(高岡町誌)


堤村
つつみむら

[現在地名]甘木市堤

大平おおひら山の南麓に位置し、村の南端を日田街道が東西に通る(林家文書)下座げざ郡に属し、西は夜須やす菩提寺ぼだいじ村、東は柿原かきばる村、南は日田街道を境に来春らいは村など。元和九年(一六二三)から秋月藩領。小早川時代の指出前之帳では堤村の田六〇町二反余(分米五六八石余)・畠一一町五反余(分大豆五一石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千六石余、うち大豆一三九石余(慶長石高帳)。元和四年の人数二八七(「水帳目録並覚書」秋月郷土館蔵)。寛政期(一七八九―一八〇一)の家数七一・人数三四〇、馬三二・牛一四(別本「続風土記附録」)。文政元年(一八一八)の年貢は米一千八二俵余・大豆一八一俵余(「下座郡御物成帳」秋月黒田家文書)。同二年の諸商売は藍染・瓦・売薬各一(「諸運上銀値帳」桑野家文書)


堤村
つつみむら

[現在地名]大河原町堤

たいら村の北西にあり、東面のやや平坦な地域を除き、大部分は丘陵地。西は刈田かつたみや(現蔵王町)。「安永風土記」に「往古当村東之方半分余堤ニ御座候」とみえ、半分以上が平村・大河原村の用水堤であった。その後宮村の定谷口じようやぐちに堰を築き、白石しろいし川支流のまつ川からの用水が新たに開削されると、堤跡は開墾され田地になったといい、湿田・深田が多かった。天文七年(一五三八)の段銭古帳に「十三〆七百五十文 つゝみかう」とみえ、同二二年集成の晴宗公采地下賜録によれば、いずれも柴田庄として「つゝミのうち、一かなかせ」が大町七郎に、「つゝミの内、しのほ(四保)よりかひち、一との内さいけ」が西大枝伯耆後家に、「つゝミの内、大き在け」が嶺七郎左衛門にそれぞれ与えられた。


堤村
つつみむら

[現在地名]茅ヶ崎市堤

南は赤羽根あかばね村・甘沼あまぬま村、北東から西へ駒寄こまよせ川が流れる。「和名抄」にみえる高座たかくら渭提いで郷の一部に比定される。鎌倉時代から南北朝時代の伊勢神宮領を記した「神鳳鈔」に、大庭おおば御厨とともに「堤郷ハ各別本神領也、出口・室田知行シ、縄上分十貫沙汰」とある。至徳元年(一三八四)閏九月三日の関東公方足利氏満寄進状(県史三)によれば「相模国大庭御厨堤郷内田地肆段」を亡父基氏の菩提を弔うため懐島の勝福ふところじまのしようふく光明こうみよう院へ寄進した。


堤村
つつみむら

[現在地名]福江市堤町

本山もとやま村の南東部、吉田よしだ村の南に位置する。西部の猪掛いかけ峠を越えた二里木場にりこば川筋に雨通宿うとうじゆくがある。吉田の明星みようじよう院にある白鳳仏の銅造薬師如来立像は当地の小山田おやまだにあった医王山東楽とうらく寺に安置されていたものという。同寺は寛永年間(一六二四―四四)小山田に創建されたが、のち久木山くぎやまに移ったとされる(五島編年史)。キリシタン禁教下での寺社再建の一環と思われるが、この寺に白鳳仏が伝来した経緯はつまびらかでない。近世初期まで吉田村と一村であったか、それに近い関係であったようである。


堤村
つつみむら

[現在地名]中主町堤・下堤しもつつみ

くち村・須原すはら村の西、野洲川右岸の平地に立地。一之坪いちのつぼ下七之坪しもしちのつぼなどの古代条里の数詞坪地名が残る。明応六年(一四九七)のいろいろ帳(安治共有文書)兵主ひようず一八郷の一として「つつみ村」がみえる。法専ほうせん坊蔵の絵像に永正一六年(一五一九)一一月一三日の紀年銘があり「兵主郷堤 願主祐願」とある。天正八年(一五八〇)九月の安治村指出(安治共有文書)によれば、安治あわじ村内の地一町一反余・高一〇石余分を堤住人新九郎ほか七名が出作していた。


堤村
つつみむら

[現在地名]高根町堤

八ヶ岳の南麓、標高八〇〇メートル付近に位置。東は朝日あさひ(旭)山、北は堤山に囲まれ南西に開け、東・西・南の三方を村山北割むらやまきたわり村に囲まれ、北は長沢ながさわ村。地名は村の北部に堤があったことにちなむという(甲斐国志)。天正一〇年(一五八二)一二月一一日に武田氏旧臣の津金衆小尾監物祐光が「堤之郷」五貫文などを安堵されている(「徳川家印判状写」譜牒余録)。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)では下田五反余・下々田七反余、下畑五反余・下々畑七反余、永不作田畑一町九反余、屋敷数一。


堤村
つつみむら

[現在地名]桐生市堤町一―三丁目・小曾根町こそねちよう宮本町みやもとちよう二丁目

吾妻あづま山の南麓に位置し、北東は村松むらまつ村、西は東小倉ひがしおぐら村、南は渡良瀬川を挟み下新田しもしんでん村。南辺の丘陵には縄文時代の遺跡がある。地名は灌漑用の堤塘のあったことによると思われる。貞和五年(一三四九)八月二八日、恩賞として「桐生郷堤村内田三町五段小、在家弐宇、屋敷壱所」が桐生又六(行阿)に与えられている(同日「足利尊氏下文写」新居文書)。永禄六年(一五六三)北条氏は本領の替として安中丹後守に「堤郷」などを宛行っている(同年四月一二日「北条氏照宛行状」市谷八幡神社文書)。また、年未詳の阿久沢能登守宛の北条氏邦書状(阿久沢文書)によれば、由良国繁に対して堤、吉田よしだ(現太田市)の検地を北条氏邦らが請負うこととしている。


堤村
つつみむら

[現在地名]青森市青柳あおやぎ二丁目・堤町一―二丁目・松原まつばら一―三丁目の各一部

青森町の東端堤川に沿い、南は浜田はまだ村に接する。堤村と青森町の堤町の区画が判然としないが、ここでは堤町も含むものとして記述する。

天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「包宿つヽみのしゆく」とある。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡に高三六・九八石、うち田方三四・七四石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳に田方九六町七反九畝二三歩、畑方二二町五反七畝二一歩、田畑屋敷合せて一一九町三反七畝一四歩、村高八五四・五八四石とある。屋敷地のうち一畝二歩は郷蔵屋敷であり、ほかに「末々田畑可致開発」田畑地一〇町三反二歩が記される。


堤村
つつみむら

[現在地名]日田市上城内町かみじようないまち城町しろまち一―二丁目・田島たしま二丁目・淡窓たんそう一丁目・中城町なかじようまち北豆田きたまめだ 上城内町

城内村の南東に位置する。のち上城内村と称した。弘長三年(一二六三)銘の墓があり、堤殿と通称される堤氏の墓というが未詳。同氏は「日田造領記」によると郡老の一人で、日田氏庶流といい、当時の惣領は堤越前守鑑智。すでに応永三〇年(一四二三)一〇月四日の財津氏宛日田永秀書状(大友家文書録)に堤氏がみえ、伊福民部兄弟の所領をたびたび所望していた。以後天正(一五七三―九二)末年まで散見されるが、天文年間(一五三二―五五)に起こった手城岳合戦では討死したようである(豊西記)。同氏の居城があったとされ、鑑智の城という跡が地内東方にあるという(「日田造領記」など)


堤村
つつみむら

[現在地名]直入町神堤かみつつみ

神鉢こうばち村の南、かめヶ岳北麓に位置。「豊後府内参府日記」天文一六年(一五四七)一一月一日条に「つつみへ御一宿」とみえ、筑後国鷹尾たかお(現福岡県大和町)城主田尻親種が豊後府中への途上当地に宿しており、当時から交通の要衝であった。江戸時代には肥後熊本藩主、岡藩主の参勤交代路の肥後往還が通る。近代まで大野郡に属した。慶長豊後国絵図に村名がみえ、高九九石余。正保郷帳では畑のみで高九九石余、阿志野あしの郷に属し、旱損がち。旧高旧領取調帳では高二二九石余。安永七年(一七七八)には梨原組に属し、当村に小庄屋が置かれた(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)


堤村
つつみむら

[現在地名]羽生市堤

下村君しもむらきみ村の東、利根川右岸の自然堤防上に位置する。現鷲宮わしみや鷲宮わしのみや神社の文禄四年(一五九五)八月付棟札に「発戸道原明堤此郷何三分一」とみえ、同社領があった。また、村内延命えんめい寺にあった寛永一三年(一六三六)の鐘銘に「崎東郡羽生北方堤村」とみえる(風土記稿)。田園簿によると幕府領、田高一三七石余・畑高三六〇石余、ほかに延命寺領一五石があった。宝永二年(一七〇五)一部が旗本藤枝領となり、天明五年(一七八五)上知(「寛政重修諸家譜」など)。化政期には旗本富田領と陸奥泉藩領(風土記稿)。同藩領は寛政二年(一七九〇)からと考えられ、幕末の改革組合取調書でも同じ。「風土記稿」によると家数六〇。「郡村誌」では七七戸・四二〇人、ほかに出寄留一五人。


堤村
つつみむら

[現在地名]棚倉町堤

逆川さかさがわ村の北、阿武隈高地西縁部丘陵とやしろ川北岸の平坦地に立地。水戸街道に沿う街村。貞和二年(一三四六)頃と考えられる新恩所領注文(白河証古文書)に、高野たかの郡北方のうち「堤」とみえ、堤を含む八ヵ村は中先代の乱の闕所地として伊達氏が得ていたが改めて結城親朝領とされた。

江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。正保郷帳では高七〇七石余、うち田五五七石余・畑一四九石余。元禄郷帳では高七一九石余。宝永二年(一七〇五)村差出帳(角田家文書)によれば、反別は本田七七町八反余・新田一町三反余、畑三三町三反余・新畑九畝、屋敷一町一反、家数七一(本家五四・栖在家一七)、馬九八。文化一五年(一八一八)の村差出帳(同文書)によれば家数五〇(本家四三・栖在家七)、人数一五四、馬五九。


堤村
つつみむら

[現在地名]前橋市堤町

南北に細長い村で、北は荻窪おぎくぼ村・中亀なかがめ村、東は江木えぎ村、南は上野うえの村、西は堀之下ほりのした村。丘陵地のため水利の便が悪く、地味は砂地である。村域北西部は丘状で畑地、東部には水田もみられる。「郡村誌」は宝永年中(一七〇四―一一)上泉かみいずみ村より分村したとするが、すでに元禄二年(一六八九)の検地帳(堤町有文書)があり、田方九町六反余・畑方六町四反余とあり、元禄郷帳にも村名がある。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)によれば、田九町九反余・畑一四町二反余、家数四三、男一〇二・女九三、うち下男二・下女一、馬一六とある。文政六年(一八二三)の旱魃の被害は大きく、翌七年堤村の田一〇町六反余のうち、七町一反余が種籾不足で植付けができないでいる(松平藩日記)


堤村
つつみむら

[現在地名]矢吹町堤・神の内かみのうち貝の久保かいのくぼ前久保まえくぼ東堤ひがしつつみ中野目西なかのめにし明新原みようしんはら

阿武隈川西岸にあり、東は中野目村、西は大畑おおばたけ村。文永二年(一二六五)八月二三日の北条時宗下知状(秋田藩家蔵赤坂文書)に「祖父光盛法師承元三年譲九箇村坂地・千石・富沢・谷俣・都賀・河部・給当・堤・廻谷於嫡子光重法師」とあり、承元三年(一二〇九)に堤など九ヵ村が石川氏の一族坂地光盛から嫡子光重に譲られている。石川郡に属した。会津領から寛永四年(一六二七)白河藩領、寛保二年(一七四二)越後高田藩領、文化六年(一八〇九)幕府領、天保八年(一八三七)旗本松平領、元治元年(一八六四)以降幕府領。


堤村
つつみむら

[現在地名]上中町堤

杉山すぎやま村の南方に位置し、丹後街道が通る。近世初期までは中村なかむら・堤・裟婆賀さばかの三集落があったと伝え、天保郷帳には裟婆賀村と出る。

文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写に載る「津々見保卅八町六反三百五十八歩」は当地のこととされる。肩に「関東御一円御領」、末尾に「地頭伊賀式二郎左衛門尉跡」と朱注がある。建久七年(一一九六)源頼朝は若狭二郡(遠敷郡・三方郡)の惣地頭として右衛門次郎忠季を送り込むが、忠季の拠点が当地であったらしく、のち忠季は津々見氏を名乗っている。


堤村
つつみむら

[現在地名]須賀川市堤

江持えもち村の東、阿武隈川東岸の段丘上に立地。同川を見下ろす小丘陵の南斜面に荒屋敷あらやしき仲屋敷なかやしき集落が並ぶ。前原まえはらに直刀・金銅製方頭柄頭太刀などが出土した前原高塚まえはらたかつか古墳群がある。「奥陽仙道表鑑」によれば、天正八年(一五八〇)田村清顕勢を迎え撃つため須賀川城勢が当地まで打出した。同一七年一一月二二日の伊達政宗充行状写(伊達家文書)に「つゝミ三百五十貫文」とみえ、二階堂氏旧臣矢部下野守に本領であった当地を与えている。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録に堤とみえ、高二八七石余、若松平六ほか一名の知行地。なお、もとは江持村と一村であったが、阿武隈川の曲流する北岸で度々洪水被害が起きたので、慶長年間(一五九六―一六一五)蒲生忠郷に請い川岸一帯に堤防を構築、以後当地を堤と称し、貞享年間(一六八四―八八)に分村したとの説がある(「堤村村誌」須賀川市史資料)


堤村
つつみむら

[現在地名]上里町堤

七本木しちほんぎ村の西に位置し、南は長浜ながはま町・安保あぼ町・よこ町。神流かんな川支流の新田しんでん川が流れる。田園簿では田方一一四石余・畑方三六四石余、旗本朝倉領(幕末に至る)。「風土記稿」によると家数八五、用水は楠川くすがわ堰を使用。鎮守の熊野神社は、「延喜式」神名帳にみえる賀美かみ郡四座のうちの「今木青坂稲実荒御魂イマキアヲサカノイナミアラミタマノ神社」の比定社の一つとされる(風土記稿)


堤村
つつみむら

[現在地名]那珂町堤

田彦たびこ(現勝田市)から額田ぬかだ村に通ずる棚倉たなぐら街道下町したまち通が村内を縦貫し、北東は横堀よこぼり村。文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「沢村 堤村」とある。古くはさわ(現勝田市)の内であったが、承応二年(一六五三)分れて一村となった。「水府志料」によると戸数およそ五四。


堤村
つつみむら

[現在地名]平戸市堤町

糸屋いとや村の西に位置し、西部は海に臨む。堤集落ではふか川・小田おだ川が流れ、その南の西浜にしはま集落では西浜川・山川やまかわ川が流れて古田こた浦に注ぐ。入江に恵まれ、地名は津々見より転じたといわれる。神功皇后の義弟十城別命が上陸した地という所伝がある。江戸時代は津吉中津浦つよしなかつら村のうちで、正保国絵図に堤村とあり、高一一九石余。慶安二年(一六四九)の肥前国道法帳によれば堤村内に一里山が築かれていた。


堤村
つつみむら

[現在地名]城南区堤一―二丁目・堤団地つつみだんち樋井川ひいかわ一丁目・同四丁目・同六―七丁目・長尾ながお五丁目

下長尾村の南にあり、東は上長尾村、西は片江かたえ村、南の東油山ひがしあぶらやま村から小河川(一本松川)が北流する。かつて大きな堤があったことが村名の由来といい、丸尾の西の辺りにあるイビノ口・土居ノ下などの字名は堤の遺名という(続風土記拾遺)。樋井郷一〇ヶ村の一。小早川時代の指出前之帳によると、堤村は田一四町五反余(分米一七八石余)・畠二町六反余(分大豆一二石余)


堤村
つつみむら

[現在地名]弥栄町字堤

芋野いもの村の東北に隣接しとの村へ続く所に位置する。東に山を負い、村の西端を間人たいざ街道が通り、竹野川沿いに田が開ける。

中世末の丹後国御檀家帳に、

<資料は省略されています>

のほか八人の名前がみえる。慶長検地郷村帳には高四三二・四四石「堤村」とあり、延宝九年(一六八一)の延高により五九九石余となった(天和元年宮津領村高帳)。宮津藩領であったが、寛文六―九年(一六六六―六九)、延宝八―九年の間、および享保二年(一七一七)以降は明治維新にいたるまで幕府領。


堤村
つつみむら

[現在地名]貝塚市堤

近木こぎ川左岸、橋本はしもと村の西にある平地部の村で、日根郡に属する。近世初頭の実報院諸国旦那帳(熊野那智大社文書)に「こき庄ノ内」として「つゝみ」がみえ、熊野那智大社御師実報院の旦那場であった。慶長九年(一六〇四)の検地による村高は二六〇石余(元和五年「万事入用留」要家文書)。寛永末年頃の状況を記したと推定される和泉国郷村帳では三二八石余で、うち五斗余は山年貢、四斗は茶年貢。村高はその後あまり変化はない。江戸時代を通じて岸和田藩領。慶応二年(一八六六)の表作作付構成は米八・五割、綿と砂糖一・五割で、甘蔗の植付けがあったようである。


堤村
つつみむら

[現在地名]瀬高町山門

藤尾ふじのお村の東にあるほぼ正方形(一辺約二二〇メートル)の集落。字を東塚原ひがしつかはら・西塚原といい、堤古墳群(確認基数一二)の上に形成された村。天文年間(一五三二―五五)と思われる年欠六月二四日付の田尻親種書状と田尻鑑種書状(大鳥居文書/大宰府・太宰府天満宮史料一四)によると、大鳥居氏より「堤之村」に安楽寺(太宰府天満宮)の社領があることを聞いた田尻氏は、社領安堵を約束している。天正一一年(一五八三)頃の年月日欠の田尻鑑種本領村数等覚書(田尻家文書/佐賀県史料集成七)には「堤」とある。


堤村
つつみむら

[現在地名]上峰村大字堤字堤・切通きりどおし

二塚ふたつか山丘陵の東、切通川の本支流が集まる盆地状平地に立地する。正保絵図に村名がみえる。集落の北方に、切通川をせき止める形に築かれた水城みずき状堤防(土塁)が東西に走り、村名はこれによると伝えられる。

近世綾部あやべ郷に属し、佐賀藩の配分地。


堤村
つつみむら

[現在地名]浜松市堤町

米津よねづ村の北に位置し、西は蔵松くらまつ村。永禄一二年(一五六九)二月一九日の徳川家康判物写(「古文書集」所収川口七郎右衛門家蔵文書)によれば、浜松庄のうち「新橋国本所堤共」などが松下筑後入道に与えられている。松平忠頼領郷村帳では高一八石余、田一町四反余・畑一町三反余、ほかに同所舟役として五石余、同村野銭として一石余。


堤村
つつみむら

[現在地名]巣南町古橋ふるはし

横屋よこや村の北に位置し、古橋輪中に属する。慶長郷帳・元和二年(一六一六)の村高領知改帳には村名がみえないが、西尾嘉教(揖斐藩)古橋北脇ふるはしきたわき村、高二四七石余にあたると考えられる。正保郷帳に堤村とみえ、田一四三石余・畑一〇四石余で、大垣藩領一九六石・旗本西尾領五一石余の相給(幕末に至る)


堤村
つつみむら

[現在地名]白石町大字堤

白石平野の西部に位置した田園地帯である。正保絵図に村名がみえる。

須古すこ城跡はこの村の中央部の低丘陵にある。鎌倉時代、この地方の地頭であった日向通益(のち白石氏と改姓)の所領となり、室町期に至って平井氏の領地となったが、後に平井氏は竜造寺隆信のため滅び、竜造寺氏が須古城主となって支配した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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