社会(society)(読み)しゃかい(英語表記)society 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「社会(society)」の意味・わかりやすい解説

社会(society)
しゃかい
society 英語
Gesellschaft ドイツ語

社会ということばは訳語であって、原語は結合、交際、寄り合い、仲間、社交などの意味をもち、共同の集会の場における諸個人相互間の交流(コミュニケーション)という集合行為を示すことばである。そして、この集合行為が一群の人々の間で繰り返され、安定し固定していくと、社交界とか上流社会そのほか地域や職域における人々の間柄、社会関係または集団を形成することになる。したがって、社会というヨーロッパ起源のことばは、一群の人々がある共通の目的のために互いに自由な主体として対等の立場で相会し、共同の行為に参加する(団結、結社)という事態を意味していた。これとほぼ似通った「社会」の用例は、中国の古い文献にも出ており、「郷民為社会 為立科条」という表現が『近思録』(1176)にみられる。この場合には、社会とは、土地の神を祀(まつ)るために地域の共通の祭祀(さいし)の場に集合した人々、ひいては地域集団をさすものであったが、一定の土地とそこに住む人々との情的・社会的結合が強調されたため、地域的閉鎖性を乗り越えるには至らなかった。

 この地域的狭隘(きょうあい)さを乗り越えて人々が一定目的のために対等の立場で交流するという事態が成立するのは、狭い共同体的諸関係が解体し、人類大の規模で広がる市民社会が形成されて以後のことである。それゆえ、明治維新以後に社会(ソサエティ)という原語がわが国に導入されたときも、市民社会が確立していなかったためもあって、国民感情になじまず、仲間、社交、交際、会社、社中、世態などの語があてられていた。1875年(明治8)に福地源一郎(桜痴(おうち))によって社会という語が初めて用いられはしたものの、社会という語が訳語として定着するにはかなりの時間を要し、絶対主義体制のもとでは日本の国情にそぐわないもの、ときには外来の危険思想を連想させるものとして冷遇された。

 それはともかく、社会(科)学の用語としての社会には、次のようないろいろの意味がある。(1)人間の結合・関係、生活の共同一般といった抽象的な意味、(2)身の周りの家族や地域・職場の集団などの具体的な集団、(3)日本の社会などというように、それらを包括した全体社会(国民社会)、(4)歴史的には封建社会とか資本主義社会というように一定の発展段階にある社会体制または社会構成体、(5)理念的には近代以後市民層によって担われ、国家という狭い地域的限界を超え、これに対立して展開する、人類大の広がりをもった市民社会、などである。

[濱嶋 朗]

社会概念の発見と発展

普遍的人間結合・盟約関係(団結、結社)という意味での社会、とくにその人類大の広がり尽くした分業・交通の世界としての市民社会という概念の発見は、いうまでもなく絶対主義的国家体制やその基底にある後れた共同体的諸関係の解体以後のことに属する。近代的な意味での社会概念は、市民層によって担われた一連の政治的、経済的、精神的変革の過程でしだいに鮮明な姿を現すことになる。その端的な現れは、近代自然法思想における社会概念であるが、そこでは自由で自律的な諸個人の間の契約関係(したがって目的的な社会結合)が想定されていた。ホッブズ、ロック、ルソーらの見解はかならずしも同じではないが、自由で平等な諸個人の自然権の発動によるほしいままな幸福追求が「万人の万人に対する戦い」をもたらすという矛盾を克服し解決するために社会契約を結び、この合意に基づいて公権力(ひいては規則)への自発的服従と、より自由な諸個人の連合体の形成を目ざす、という発想の点では、ある程度共通するものをもつ。

 自然法思想または社会契約説にみられる人間相互の自由な契約関係は、市民社会の理念の原像であったが、そこには、人間と社会との間の、したがって個人の福祉追求(欲求充足)と社会の秩序維持との間の対立と依存という逆説的な問題が提起されており、その点でそれは社会の発見とよばれるにふさわしいものであった。この個人と社会、私的利益と公共の福祉との間の対立は、イギリスの経験的社会論や功利主義者たちによって表向きは解決され、両者は調和し両立しうるものとみなされた。自由競争におけるフェアプレーと神の「見えない手」による私益と公益の一致ないしは予定調和(A・スミス)、「最大多数の最大幸福」(ベンサム)などといった考えがそれである。

 しかし、個人と社会、私益と公益との間に予定調和をみる見解に対して、ドイツ観念論哲学においては、私的な利益を中心に形成される市民社会の積極面よりも消極面に力点が置かれる。たとえばヘーゲルの場合、市民社会とは利己的諸個人が群がる欲望の体系にほかならず、諸個人はただその欲望(私的利益)の追求過程で互いに他を必要とし社会を形づくるにすぎないものとみた。彼にとって、市民社会はいわば人倫の欠如態であり、人倫の完成態としての国家によって克服されるべきものなのであった。社会(市民社会)に対する国家の優位を主張し、国家の手によって社会の矛盾を解消しようとする立場は、自律的人間(市民)の自由な活動を抑圧して、国家=社会という全体の秩序のもとに有機的に編入し、統合しようとする方向を示すものでもあった。

 このような、社会観における二つの見解の対立は、同時にイデオロギー上の対立を伴う。自然法理論や社会契約説は自由主義または個人主義に立脚し、ドイツ観念論哲学(ヘーゲル)の流れをくむ社会観は、どちらかといえば全体主義につながる考え方であった。前者の立場は、社会を諸個人の活動の落とした影にすぎないとする社会名目論の立場に通じ、後者の立場は、社会を目して、個人を超え、その外部に存在する全体とみ、個人は全体の一部分としてのみ意味をもつとする社会実在論の立場に通じあう。

[濱嶋 朗]

社会学における社会概念

この社会名目論と社会実在論との対立は、個人(部分)が先か社会(全体)が先かという見解の対立にほかならないが、社会学の歴史を通観するとき、個人と社会との関係の把握をめぐってこの種の対立が社会学における社会のとらえ方を彩ってきたといえるほどである。それというのも、個人と社会との関係をどう考えるかということが、社会学の根本問題をなしているからであろう。初期の社会学(コント、スペンサーらに代表される総合社会学)は、社会を生物有機体になぞらえ、それ自身独自の生命をもった生きた全体、それを構成する各部分・各要素に分解し還元することができない実体であるとした。つまり、個人の離合集散を超えて存続し、成員の変転消滅にもかかわらず生き長らえる超個人的実体として社会をとらえる立場であるが、これは普通、社会有機体説とよばれる。この社会有機体説的発想はのちにデュルケームに受け継がれ、個人の外部にあってこれに対立し、拘束力を及ぼす「行為の、思惟(しい)の、感得の様式」または集合表象こそは社会の本質をなすものとされた(ただし彼の場合、個人の活動の分化・個性化と社会の活動の活発化・統合化が同時併行的・相互補完的に行われる事実に注目しているのではあるが)。

 デュルケームの強い影響を受けたラドクリフ・ブラウンは、社会がなんらかのまとまりをもつのはそれを構成する諸要素が有機的、機能的な関連にたって全体の均衡と統一性を維持するからであるとして、機能的社会観を提示した。この機能主義の立場はパーソンズに受け継がれ、構造機能主義あるいは社会システム論の展開をみることになる。彼は社会構造の中核を価値およびその外在化としての規範や制度に認め、個人の外部から拘束力を及ぼす共通の価値規準や標準的行為様式がコミュニケーションや社会化の過程を通じて個人のうちに内面化され、個人は規範的要求や社会的期待に沿って同調行動に出るように水路づけられるものとみた。このように、パーソンズにおける人間は、共通の価値、規範、制度に規定されて社会のなかに統合される社会化された人間なのであり、この立場は個人よりも社会(価値、規範、制度)にウェイトを置く規範パラダイムとよばれている。

 以上のような、社会を個人に優先させ、それをなにほどか実体化する見地(社会実在論またはそれに近い立場)に対し、社会を形成し変革する主体としての個人に着目し、個人を社会に優先させて、社会は個人の活動の所産にすぎないとする見地(社会名目論またはそれに近い立場)が他方の極に存在し、つねに前者と対立してきた。前にあげた自然法理論や社会契約説は、旧制度からの人間の解放を目ざすブルジョアジーのイデオロギーであったが、総合社会学の社会有機体説に対しては、形式社会学の社会観・人間観が社会名目論の立場からする批判を代表するものであった。それによると、社会は個人を超え、個人の外部にある完結した実体ではなく、人々の間の心的相互作用に基づいて成立する動的、相対的な統一であるにすぎない。行為の主体としての人間が相互に働きかけ、行為を交換するところに社会は成立する。人間は社会によって形成されながら、逆に社会に働きかけ社会を形成していく、とみるわけである。個人と社会をともに完結した実体とみなさない点で、これは原子的個人だけを実体化して、これを究極の実在とみなし、社会を単なる虚構にすぎないとする社会名目論とは若干異なるが、どちらかといえば個人優先の考え方である。

 これと関連して、フッサールの現象学的方法によって形式社会学を批判したシェラー、リットらは、個人と社会は不可分に浸透しており、社会は個人のなかに、個人は社会のなかに表現されるとして、「視界の相互性」を社会の本質と考えた。また、パーソンズの提起した規範パラダイムに対しては、人間の社会性と同時に主体性を強調するクーリーやG・H・ミードの流れをくむシンボリック相互作用論やエスノメソドロジーなどのいわゆる現象学的社会学の解釈パラダイムが対立する。この解釈パラダイムによれば、人間は社会の単なる所産でもロボットでもなく、自己意識をもった存在であり、他者を含む状況に対しつねに意味を付与し、解釈し、それを再構成しつつ主体的に行為する。この解釈過程を通じて、人間は初めて主体性を獲得し、他者と積極的にかかわり、社会を形成する、というわけである。いずれにせよ、人間は孤立的個人でも抽象的個体でもなく、つねに関係性における存在であり、相互授受という互酬性reciprocityの原則のもとで行動し、社会を形成する。そこに人間の社会性と主体性の相即があり、また個人と社会の相即関係がある。社会とはそのような視界の相互性として考えることができる。そのような社会は一定の構造をもち、一定の方向へと変動する。

[濱嶋 朗]

『F・テンニエス著、杉之原寿一訳『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』全2冊(岩波文庫)』『G・ジンメル著、阿閉吉男訳『社会学の根本問題』(社会思想社・現代教養文庫)』『T・パーソンズ著、佐藤勉訳『現代社会学大系14 社会体系論』(1974・青木書店)』

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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