翻訳|punishment
悪行や罪のつぐないとして科されるものを「ばつ」、神仏によって与えられるこらしめを「ばち」と区別するが、ともに「罰」の字音。
罰には,社会的規範にそむいた者に対して法的制裁を加える刑罰と,倫理的・宗教的規範を犯した者に加えられる超越的な制裁(天罰,神罰,仏罰)の2種がある。前者の刑罰については古くから,犯罪に対する応報的な刑罰と,犯罪の発生を予防するための抑止的な刑罰の2種の考え方があったが,罰として科せられる不快・苦痛の度合にもその考えにもとづいて軽重の差が設けられた。しかし原始社会では,法と宗教が未分化であったため,共同体の規範やタブーを犯した者は,神の怒りを鎮(しず)めるために罰せられた。西洋では,古く氏族制が生きていた時代は血讐による刑罰が行われたが,やがて国家の形成とともに体系的な生命刑や身体刑が設けられるようになった。
キリスト教では,罰は神の権威によって下された。旧約聖書では律法に対する違犯は律法にもとづいて罰せられるとしたが,新約聖書では,とくに〈最後の審判〉のときに神によって下される永遠の刑罰が重要視された。またインドでは,一般に業(ごう)(行為,カルマン)の理論と因果応報の観念が成立することによって,現世における悪しき行為はそれにふさわしい報い(罰)をうけるという考えが発達し,それが世俗法(《マヌ法典》)と宗教法(仏教の〈律〉)に影響を与えた。仏教においては,姦淫,盗み,殺生(せつしよう)などの罪の種類に応じて教団からの追放,一定期間の懺悔(ざんげ)謹慎,公の場での懺悔告白などの罰則が設けられた。それらの規則の集成がやがて律蔵のなかにまとめられた。しかし仏教における罰はキリスト教におけるのと同様,基本的には懺悔(悔い改め)によって赦(ゆる)されるという慈悲(愛)の精神にもとづいて定められた。中国では,古く《書経》や《周礼(しゆらい)》などの古典に死刑とともに身体を傷つける5種の刑罰(五刑)が記されているが,やがて国家の成立とともに西欧の場合と同様の体系的な刑法が制定された。その代表的なものが唐の律であるが,この考え方の基調は大化改新以後の日本にも導入された。
日本では,古く〈つみ〉を犯した者は〈はらい(祓)〉によって〈けがれ〉を浄(きよ)めなければならないと考えられた。〈はらい〉の方法には水浴や,爪髪を切り捨てることのほかに,臼や太刀などを神前に供えて神の怒りを和らげその赦しをこう方法などがあった。しかしのちに仏教が伝えられ,とりわけその因果応報の思想が民間に浸透すると,現実の不幸や災害や病気が人々の何らかの行為による結果ではないかと疑われるようになり,やがてそれを〈神罰〉であり〈仏罰〉であるとする観念が発生した。罰が,神や仏の怒り,祟り(たたり)による報いとして意識されるようになったといえるであろう。そしてその観念が儒教の説く天の思想と結びつくと,〈天罰〉という考え方が生じた。日本の刑罰に対する考えは,一方で唐律のそれにもとづき,また儒教思想の影響をうけて発達したが,しかし人知を超える天災や社会的な異変が発生した場合には,それを超越的な存在による〈たたり〉の現象として受けとり,神罰や仏罰として恐れた。今日の新宗教の多くが,病気や不幸の多くを神仏や先祖霊による〈ばち〉と受けとり,その解除のために神仏への祭祀と先祖供養を重視しているのも,以上のべた心意伝承にもとづいているといえよう。
執筆者:山折 哲雄
聖書では罪は何よりもまず神に対するもので,それゆえ罰も直接神からくるという性格をもっている。《創世記》3章によると,最初の人間アダムは神への高慢をもって禁止命令を破り,その結果,生と労働の苦しみと死が報いとして与えられたとされる。同10章の〈バベルの塔〉の物語でも,人類は高慢のゆえに散らされ,言語の混乱が生じたとされる。《出エジプト記》20章にしるされる十誡の第1誡は〈神以外のものを神とすることはありえない〉といい,これは断言法で罰則を伴わないのであるが,違反者にはとうぜん呪いがかけられる。祝福は生命の充実を,呪いはその減少を意味する。しかし十誡においてはこれは自然的なものではなく,神の恩恵と審(さば)きの下におかれる。
イスラエルがやがて国家共同体になると,行為とその結果は法的に規定され,律法が決疑法で書かれるようになった。それは日常生活の倫理化と合理化に仕える。しかしイスラエルでは法の担い手は王だけでなく祭司と知恵の教師も加わったので,罰則はそのままに行われず,祭儀的な赦しと倫理的な悔い改めとが広く認められた。罰則は〈同害同復〉を超えないだけでなく,死刑は実際上まれで,牢獄もあまり作られず,通常は鞭打ち,罰金であり,きびしい場合でも石打ちによる追放にとどまった。さらに王,祭司,知恵の教師とならんで預言者が登場し,国家の罪を弾劾するとともに国家の滅亡後に来る終末的な救いを予告した。その救いは審きによる赦しと回復である。エゼキエルは罰が子孫にまでおよぶことはないと断言し,また第2イザヤは〈ヤハウェのしもべ〉と呼ばれる義人の死を通しての贖罪を語った(《イザヤ書》53)。
〈山上の垂訓〉(《マタイによる福音書》5~7)は〈目には目を,歯には歯を〉の原則をつよく批判して後期ユダヤ教の律法主義と対決し,天国の福音を告げて奇跡こそ罪の赦しの現実であると述べる。もちろん初代キリスト教会にも裁判はあったが,罰することは悔い改めを拒否した者への最後の手段であり,しかもそれは〈最後の審判〉のための警告であるとして,執行を聖霊の働きにゆだねた(《コリント人への第1の手紙》5:4~5)。新約聖書はイエスの死を人類の罪の贖(あがな)いとし,これによって〈罪の根〉が除かれたと語り,しかしこれを信じず拒否しつづけるなら〈最後の審判〉はさけられないとする。〈罪のカタログ〉は多数書かれたが,罰はせいぜい〈こらしめ〉にとどまり,他方〈家庭訓〉などによって善行を勧めるのに積極的であった。
キリスト教はその後も,福音の秩序が国家の法の模範であるとの姿勢をもちつづけたといえる。しかしみずから世俗の法にならい,あるいは国家権力を借りて秩序の維持と勢力拡大をはかることが少なくなかった。とりわけ免罪符(贖宥状)のように赦罪の規定を勝手につくり出すとか,また,〈魔女狩り〉のような狂気じみた異端征伐を行うことがあった。これらは教会の律法主義化と終末希望の衰退の表れといえる。
→刑罰 →サンクション →罪
執筆者:泉 治典
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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罪すなわち規範に反した行為に対して与えられる制裁。法律上の事柄に関しては刑罰というが、宗教的・道徳的な規範を犯した者に対する罰は、天罰、神罰、仏罰などとよばれ、法的罰と区別される。
一般に原始社会においては、法的罰と宗教的罰との間の分化が明確でなく、社会的制裁は多くの場合宗教的意味づけを与えられていた。また原始社会だけでなく、多くの古代社会においても、罰は原則として違反行為による実害と同等の苦痛を伴うものとされた。たとえば「目には目を、歯には歯を」といったぐあいである。時代が進むにつれて、刑罰を裁定する場合に、当事者の情状が酌量されたり、教育的配慮がなされたりするようになった。通常、罰の程度は、実害の大きさと動機の善悪との両面から考慮される。
宗教の発達とともに、法的罰と宗教的罰とが分化してきた。一般に最高の刑罰は死刑であるが、宗教的な罪に対する罰の最大のものは、地獄に堕(お)ちて責め苦にあうとか、永遠の生命を失うといったように、死そのものよりも死後の魂の運命にかかわるものとされている。したがって宗教的使命感や信仰信念のゆえに迫害される場合には、この世での生命を失ってもあの世での救いにあずかるという希望に支えられて、法的・社会的罰はむしろ甘受される。だが逆に、この世での罰は免れても、自らの良心に違背した場合には、かえって苦しい自責の念に悩まされる。これは自らが自らを罰している姿である。精神分析学者S・フロイトは、この良心の働きを超自我とよんだ。超自我は内面化された社会的・倫理的規範で、内側から自我を厳しく監視し、違反に対しては罰を与える。それが罪悪感だという。
[松本 滋]
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