鐘(楽器)(読み)かね

日本大百科全書(ニッポニカ) 「鐘(楽器)」の意味・わかりやすい解説

鐘(楽器)
かね

楽器。金属を打ったときに発する音を利用する打楽器の一種。発音体が共鳴体にもなる体鳴楽器で、容器を逆さに吊(つ)るした形をしている。発音操作は、鐘(しょう)のように、撞木(しゅもく)や槌(つち)で外側をたたく方式と、鐸(たく)のように、内部に吊り下げた舌(ぜつ)を振り動かして内側に当てる方式とがある。音を出すために中に入れた丸(がん)が落ちないように口を狭くした鈴とは、これらの点で区別される。東アジアでは、大形の鐘は撞木式、小形の鐘は舌式が普通であるが、ヨーロッパでは舌式が一般的である。用途の限られた音楽的な演奏用の鐘のほかは、大部分は報知用の鐘で、時刻を知らせる時鐘や、非常を知らせる警鐘がある。鉄製のものもあるが、多くは銅の合金である。

 日本語のカネは金属を意味する語で、金属製の体鳴楽器の一般的呼称にもなっている。そのなかには、板状の磬(けい)、盆状の銅鑼(どら)、さらに口のつぼまった金鼓(きんこ)など、さまざまな形態のものが含まれ、固定の仕方にも、鐘を取っ手の先につけたハンド・ベル型、伏せて置いた形でたたく鉦(しょう)型、口を上に向けて置いてたたく鉢型などがある。

[小島瓔

日本

日本に金属製の体鳴楽器が出現するのは、弥生(やよい)時代である。弥生時代中期から後期にかけて西日本で用いられた銅鐸(どうたく)が、最古の事例である。日本の銅鐸の源流は、朝鮮の独得な形式をもつ鈕(ちゅう)がつき、舌を伴う有鈕・有舌の小銅鐸であろう。この青銅製の鐸は、もともと木などに吊るし、揺り動かして、内側に下げた舌で本体をたたいて音を出したものらしい。中期の銅鐸には、青銅製の舌を伴って出土するものもある。鳥取県東伯郡湯梨浜(ゆりはま)町出土の銅鐸は、本体が約43センチメートル、舌は2本で、約14センチメートルと9センチメートルである。銅鐸の内側の裾(すそ)近くには、幅1センチメートル、厚み1センチメートルぐらいの凸帯が1条ないし3条あり、磨滅した部分がわかるものもある。これは、舌が当たった跡で、古い形式の銅鐸ほど多くみられ、当初、銅鐸が楽器として用いられた証拠である。後期には、銅鐸は単なる宗教的な儀器になるが、本来は楽器として宝物視されたものであろう。鳥取県の長瀬高浜遺跡からは、古墳時代前期のものという、高さ8.7センチメートルの小銅鐸が舌を伴って出土している。古墳時代は、体鳴楽器は鈴の全盛時代で、鐘鐸(しょうたく)の類は少なく、馬鐸(ばたく)がこの時代の代表である。馬鐸は朝鮮で発達し、日本にも入ってきた。長崎県対馬(つしま)の弥生時代後期の遺跡から、鉄の舌を伴う、約4センチメートルの青銅製の馬鐸が出土しているが、一般には古墳時代後期以後にみられる。15センチメートル前後の鐸で、馬の胸繋(むながい)に下げ、揺れると中の舌が鐸に当たって音を出す。

 歴史時代の鐘は、仏教文化とともに広まっている。日本で鐘といえば、まず寺院の鐘楼にかける大鐘、すなわち梵鐘(ぼんしょう)を思い浮かべるが、ほかに、仏堂の檐(のき)に吊るす喚鐘(かんしょう)、すなわち半鐘(はんしょう)や、堂塔の檐の角に下げる風鐸(ふうたく)がある。梵鐘は青銅を材料とし、高さ4~5尺(約1.2~1.5メートル)、径2尺(約60センチメートル)前後の大きさが普通であるが、1614年の京都の方広寺(大仏殿)の鐘のように、高さ4.12メートル、口径2.26メートルという巨鐘もある。梵鐘の本来の目的は、時を知らせる合図である。半鐘は真鍮(しんちゅう)製のものが多く、高さ2尺(約60センチメートル)、径1尺(約30センチメートル)ぐらいが普通である。やはり寺院の法会や座禅などの時を知らせるのに用いた。風鐸は一種の風鈴で、舌の下につけた風招(ふうしょう)が風を受け、舌を動かして音を出す。最古の寺院建築である飛鳥(あすか)寺(元興寺(がんごうじ))にも鐘楼があったと伝えられており、これらの鐘は仏教建築とともに古代社会に浸透していった。

 日本の梵鐘の原形は中国の鐘であろう。中国の陳(ちん)の太建7年(575)の銘がある奈良国立博物館所蔵の鐘は、形式が日本の奈良時代の梵鐘に近い。鐘身の断面も中国古代の鐘のぎんなん形と違って円形であり、竜頭(りゅうず)、鐘身の表の袈裟襷文(けさだすきもん)、撞座(つきざ)なども同形式である。鐘身の外面を縦横(たてよこ)に走る線を紐(ちゅう)といい、紐と紐に挟まれた部分を帯といい、この紐と帯とによって区画構成された文様を袈裟襷文という。朝鮮にも古くから梵鐘はあるが、形式はやや異なる。袈裟襷文がなく、撞座も3個や4個のものがあり、竜頭のそばに旗挿(はたさ)しという円筒がついている。新羅(しらぎ)の恵恭(けいきょう)王7年(771)鋳造の新羅の旧都慶州の奉徳寺の梵鐘「聖徳大王神鐘(国立慶州博物館蔵)」は逸品として知られている。筑前(ちくぜん)葦屋の金屋(鋳物師)の大江貞家がつくった応仁(おうにん)3年(1469)の対馬(つしま)仁位(にい)村の清玄寺の旧鐘や、同大江宣秀の享禄(きょうろく)5年(1532)の山口市興隆寺の鐘のように、和朝混交形式の鐘もある。初期の梵鐘には中国や朝鮮からの渡来品が多いが、日本での鋳造の歴史も古い。京都の妙心寺所蔵の梵鐘には、文武(もんむ)天皇2年(698)に筑前国の糟屋郡造(かすやのこおりのみやつこ)、舂米連広国(つきしねのむらじひろくに)が奉納したとの銘がある。

 奈良時代以前の鐘には、銘文の長いものはないが、興福寺観禅堂の鐘の銘のように、すでに文学的、宗教的意図の加わっているものもある。平安時代になると、神護寺(じんごじ)の梵鐘「三絶(さんぜい)の鐘」のごとく、当代随一の文人や書家の手になる銘文を刻むなど、鐘銘の意味はますます重くなった。鎌倉時代の『平家物語』の巻頭にある「祇園(ぎおん)精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という句も、当時の鐘銘によく引かれた四句の偈(げ)「諸行無常、是生(ぜしょう)滅法、生滅滅已(めつい)、寂滅為楽」を踏まえている。初夜(そや)の鐘をつくと諸行無常、後夜(ごや)の鐘は是生滅法、晨朝(じんじょう)の鐘は生滅滅已、入相(いりあい)の鐘は寂滅為楽と響くなどともいわれた。鐘をつくことにも宗教的意義を与えるようになり、大津市の三井寺(みいでら)(園城寺(おんじょうじ))では、鐘の声が百八煩悩(ぼんのう)の夢を破ると言い習わし、現に、除夜の鐘も、百八つの鐘の音で煩悩を消滅させるといわれている。特別の祈願を込めて鐘をつく風習もでき、無間(むけん)の鐘といって、これをつくと、死後、無間地獄に落ちるが、現世では富裕をほしいままにできるという信仰も生まれた。鐘の音は、寺院の法域を越えて庶民にもなじみ深く、鐘に関するさまざまな信仰も、このような鐘の宗教性の展開とともに発達したものであろう。

 鐘の伝説で類例が多いのは、鐘が水の中に沈んでいるという沈鐘伝説である。三井寺の鐘は竜宮から将来したものであるという伝えは、鎌倉時代からある。水の中で鐘が蛇(へび)に変わっていたという伝えもある。鐘の取っ手を竜の頭の形につくり、竜頭とよぶのも、竜蛇信仰と鐘との深いかかわりを示している。鐘と水界とを結び付ける信仰は外国にもあり、世界史的課題である。鐘を土の中に埋めたとか、土の中から鐘を掘り出したとかいう伝説もある。『今昔物語集』には、鐘を土の中に埋めておくと、自然に時を告げるようになるという話がある。これは、弥生時代後期の銅鐸が土の中に埋めてあったことを連想させる。

 金属器を土の中に埋める信仰は東南アジアにもある。鐘に霊性を認めた伝えもある。凶事の前には鐘が汗をかいて、ついても鳴らず、吉事の前には自然に鳴るとか、鐘が元のところに帰りたがったとかいう話は多い。

 梵鐘の鋳造には、惣型法を用いた。粘土でつくった原型から型をとって、鋳型の外型をつくる。外型は3段ぐらいの輪切りにする。内型は鐘の厚みを考慮しながらつくる。これが梵鐘の音色に大きな影響を与える。外型と内型を組み合わせ、上方に湯口をつくり、外型と内型の間に、湯壺(ゆつぼ)で溶かした青銅を湯口から流し込む。溶かした金属を湯という。湯が冷えて固まると、鋳型を外し、湯口など余分な湯が流れ込んでいる部分を整形する。鋳物師が、鐘を奉納する寺院のある現地に出向いてつくることもあった。道具と、鐘の原型・鋳型などの材料は鋳物師が用意し、傾斜地を利用して鐘鋳場(かねいば)をつくる。低い土地に鋳型を置き、上方に湯壺や湯壺に風を送るたたらを設ける。たたらは全身で踏む形式で、1か月も練習した村の若者が交代で勤める。2人が調子をとり、交互にたたら唄(うた)にあわせて踏む。鐘鋳場には桟敷(さじき)を設けて住職や村役人が着座する。村人はじめ、大ぜいの見物人が集まる。人々が喜捨した銭を鋳込むと鐘の音がよくなるといい、参集者から銭を集めて鐘に鋳込んだ。女は身に着けた髪挿しなどを寄進したという。女の湯巻(ゆまき)を1枚鋳込まなければ本当の鐘にはならないといい、その湯巻の持ち主の女は、かならず災いがあって死ぬという。一種の生贄(いけにえ)の信仰で、朝鮮の奉徳寺の鐘にも、鋳工の妹の申し出で、妹の娘を人柱として鐘に鋳込み、ようやくりっぱな鐘をつくることに成功したという伝説がある。鐘を鋳るのに女性を忌むというが、鐘供養(くよう)のつき初めの式で、住持に次いで、若い女性が白服に垂れ髪で鐘をつく習慣もあり、かえって、女性の特別な役割を認めていた。女の鏡を集めて鋳た鐘をつくと、鏡を惜しんだ女の執念で、鏡の形に鐘に穴があいたという鏡抜けの鐘の伝説もある。三井寺では、女人禁制の寺内で、女性がひそかに、鐘から鏡の分だけもらいたいと祈念して、鏡の形の地金を得たのが盆の7月15日であったので、この日だけは女性が寺内に入ることを許すようになったと伝える。

 寺院以外で、時を知らせるために鐘を用いた歴史は古い。天智(てんじ)天皇10年(671)4月25日に、初めて時を知らせるために鐘と鼓を用い、古代の令(りょう)制でもこれに倣っている。神社の境内に鐘楼をつくり、時を知らせた土地もある。これを、梵鐘に対して、宮鐘(きゅうしょう)、社鐘(しゃしょう)という。鎌倉時代、街道の宿場で、時報に宮鐘を用いた例がある。江戸時代には、城内の鐘楼の鐘で時を告げた所も多い。江戸城の場合は、のちには江戸市中に鐘楼をつくって時を知らせた。時刻を示すのに、子(ね)・午(うま)を九つ、丑(うし)・未(ひつじ)を八つ、寅(とら)・申(さる)を七つ、卯(う)・酉(とり)を六つ、辰(たつ)・戌(いぬ)を五つ、巳(み)・亥(い)を四つとよぶのは、その時刻に打つ鐘の数で、最初、捨て鐘といって三つ鳴らして注意をひき、そのあと時刻の数を鳴らした。この時刻を表す鐘の数は、『延喜式(えんぎしき)』にみえる朝廷の方式と変わっていない。警鐘には、江戸時代以来、半鐘が普及した。火事の場合、近火がスリバン(すり半鐘の略。連打)、以下、距離により、三つ、二つ、一つと打ち分けた。警防団や消防組の招集の合図でもあり、水害などの非常の場合にも用いた。町中(まちなか)の火の見櫓(やぐら)の半鐘や、村の中の柱の上にかけた半鐘は、一つの風物詩でもあったが、警防組織の近代化に伴い、姿を消した所が多い。

[小島瓔

中国

古代中国では、鐘は支配者たちの祖先の霊廟(れいびょう)の祭礼において用いられる重要な楽器であり、鼎(てい)(かなえ)とともに国家の宝物であった。鐘には呪術(じゅじゅつ)的な力があり、その音によって邪悪な力を退け、祭場を清めることができると信じられていたのである。鐘を鋳るとき、犠牲の動物を殺してその血を塗ったとされたり、災害が起こる前に鐘がひとりでに鳴り出したとかいう伝説が残っていたりするのも、鐘が不思議な力をもつと考えられていたことの表れである。中国古代神話のなかでは、黄帝(こうてい)の工人垂(すい)や、炎帝(えんてい)の孫の鼓延(こえん)が最古の鐘を鋳造したとされている。また、鳧氏(ふうし)が鐘を鋳造したという伝説もあるが、鳧氏というのは、鐘を鋳た古代の職能集団と関係があるらしい。歴史的にみると鐘の使用は殷・周の青銅器時代を通じてもっとも盛んであった。鉦(しょう)とよばれた殷代の鐘は甬(よう)という柄の部分を差し込んで、逆さに立てて用いたが、周代になると、甬を上にして吊るして使うようになった。古代の鐘は、大きいものから小さいものへと順番に並べて音階をつくり出し、木槌で打つことによって音楽を奏でる楽器であった。これを編鐘(へんしょう)というが、やがて単独で吊るして鳴らす特鐘(とくしょう)もつくられるようになった。槌で打ち鳴らす鐘のほか、中に舌(ぜつ)があって柄を持って振り鳴らす鐸(たく)も鐘の一種といえる。とくに馬鐸(ばたく)などは殷代の遺跡からも発見され、日本古代の銅鐸との関係が注目されている。これら古代中国の鉦、鐘、鐸は、いずれも横断面が円形ではなく紡錘形であるという共通の特徴を示す。

[清水 純]

西洋

西洋の鐘はカップを伏せたような末広がりの形をもち、普通、内側の空洞に吊るした舌(ぜつ)を、紐(ひも)や針金で引いて鳴らす。バビロンの近くで3000年以上前の世界最古の鐘が発掘されている。この近東が舌付きの鐘の発祥地で、鐘や鈴はここから西へ伝播(でんぱ)し、聖と俗の二つの世界で使われた。神をよぶ合図、預言者の声、儀式の時鐘、御守り、装飾品となった。その後、鐘はギリシア正教会から北アフリカの修道院に伝えられ、そこから6世紀から8世紀にヨーロッパに入った。各国の鐘(フランス語でcloche、ドイツ語でGlocke、オランダ語でklok、古英語でclucge)の語源がケルト語clocであるのは、当時アイルランドの鋳造技術がもっとも進んでいたからである。鐘の鋳造は長い間修道僧によって行われたが、13世紀になってから職人がするようになった。そして14世紀には、形も大きさも今日知られるような鐘になり、15世紀にその技術は頂点に達した。一般には78%の銅と22%の錫(すず)でつくられ、フランドルが鐘の産地として名高い。世界最大の鐘はモスクワのクレムリン宮殿の鐘で、200トン以上の重さがある。ただし、吊り下げられる前に壊れて、一度も鳴らなかった。鐘は鐘楼に吊るすが、アルプスの北側の国々では、ピサの斜塔のような独立の鐘楼はまれで、教会や市役所の塔に吊るした。

 鐘の歴史はキリスト教と深いかかわりがある。カトリックではプロテスタントと違って、教会と礼拝堂に鐘をつけることが法で決まっている。敵襲、火事、洪水などの非常、災害時の警鐘を鳴らすのも、教区司教の許可を必要とした。時間と国家の祝日を知らせることは今日も行われている。この鐘には伝承が多い。鋳造段階ではよく親方が弟子の技量をねたんで殺す血なまぐさい話になっている。しかし鐘は聖別の儀式を済ませると、悪魔を支配できるようになり、巨人のトロルも小人も魔女もかなわない。こうして鐘は魔除(まよ)けになり、さらに教会の神聖と正義、奇跡を象徴するようになる。ひとりでに鳴ったり、公正な裁きを受けようとした蛇が鐘の紐を引いたりする。鐘が地中、水中に沈んでいる沈鐘伝説も各地に多く、見えない所で鳴ったり、わからないままだったり、出現したりする。鐘はまた天候を変え、水の出る場所を教え、いろいろ効く薬になるとも信じられている。このほか鐘は楽器としても用いられる。7世紀のフランスに始まるカリヨンは、小さい鐘をたくさん並べ、音色が美しい。

[飯豊道男]

『青木一郎著『鐘の話』(1948・弘文堂)』『佐原六郎著『塔のヨーロッパ』(1971・NHKブックス)』『坪井良平著『朝鮮鐘』(1974・角川書店)』『坪井良平著『梵鐘』(1976・学生社)』『坪井良平著『日本の梵鐘』(1970・角川書店)』『坪井良平著『梵鐘と古文化』新訂(1993・ビジネス教育出版社)』『J・G・フレーザー著、江河徹他訳『旧約聖書のフォークロア』(1976・太陽社)』


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