古代オリエントで使用され,字画のそれぞれが楔の形をした文字の総称。楔形(せつけい)文字とも読む。
三つの系列が知られている。一つはシュメール人の発明した楔形文字で,一般に楔形文字といわれるときは,この文字体系が意味される。他の一つはアケメネス朝ペルシアで使用されたもので,文字数は41個に減少し,アルファベット的に使用されることもあったが,基本的には日本のかな文字に似た音節文字であった。3番目のものはシリアのラス・シャムラで発見された古代ウガリト王国の楔形文字である。この文字体系は28~32個の文字からなり,完全なアルファベット文字として考案されている。古代ペルシアとウガリトの楔形文字はいずれもシュメール系楔形文字の強い影響のもとで,楔の意匠を用いて二次的に考案されたものであり,ともに自国内でのみ使用された。上記3系列の中で,シュメール系楔形文字は高度のシュメール文明を背景にして3000年近く古代オリエント全域で使用され,歴史的に最も重要な役割を果たした。シュメール語の表記に使用された文字数は約600程度である。この文字体系をシュメール人から借用して表記された言語には,セム系のアッカド語(またはバビロニア語),アッシリア語,エブラ語,系統不明なエラム語,カッシート語,系統的に親縁性が立証されつつあるフルリ語と古代アルメニアのウラルトゥ語,インド・ヨーロッパ語族系の言語である小アジアのヒッタイト語,パラ語,ルウィ語およびヒッタイト王国の原住民の言語であったハッティ語などがあり,エジプトのアマルナ,シリアのウガリト,イスラエルその他からも多数のシュメール系楔形文書が発見され,国際的に広く通用していたことがわかる。
シュメール系楔形文字の最古資料はメソポタミア南部の遺跡ウルクの第IV層で発見された絵文字に近い古拙文字で,前3100年ころに比定されている。同種の文字は他の遺跡から発見されていないので,文字の発明はおそらくこの時期にウルクにおいて行われたと思われる。前2700年ころに比定されるジャムダット・ナスルの遺跡からは線状に変化した文字が出土しているが,それ以後は特徴的な楔の形をとるようになり,前50年ころまで存続した。しかし前6,前5世紀にはアラム文字が優勢になり,併用時代のあと衰退に向かう。ウルク古拙文字の起源について最近シュマント・ベッセラトDenise Schmandt-Besseratが興味深い指摘を行っている。同女史によれば,古代オリエントでは新石器時代より〈トークンtoken〉と呼ばれる直径が1cm前後の粘土で作られたさまざまな形状の物体が,記憶の補助手段として使用されていて,その形状を粘土板の上へ移したのがウルク古拙文字,すなわち文字の起源であるという。実際〈トークン〉と古拙文字との間には顕著な類似性が認められ,シュメールの地において〈トークン〉から文字への飛躍が起こった可能性は高いと思われる(図1参照)。ウルク古拙文字およびジャムダット・ナスルの線状文字では表語文字logogram(表意文字ideogram)のみの使用が見られるため,文字数も1000に近いが,初期王朝末期(前2350ころ)からウル第3王朝(前2060-前1950ころ)には表音化が完成し,文字数も600程度に整理され,シュメール語が完全に表記されるようになっている。文字は粘土に葦の筆で書かれた。葦の筆は図2のごとく中空の葦の茎の外側を箸状に切り取って,その角を粘土に押しつけて書かれたため特徴的な楔形になった。そのため古拙文字,線状文字の曲線は鉤形または直線などに変化し,原形は失われた。シュメール語では書くことを〈植える〉といった。楔形文字がセム系のアッカド語とアッシリア語の表記に採用されると,バビロニア(シュメール・アッカド)地方とアッシリア地方で別個の発達を遂げ,やがてアッシリア地方では字画が統一されて簡明・優美なアッシリア文字が完成し,王宮の壁面などを飾ることになる。
楔形文字は原則として左から右へ書き,あらかじめ引いておいた罫線の中に文を収めるのが普通である。楔形文字の原形である古拙文字を構成の面で分析すると,その方法は漢字の六書(りくしよ),すなわち象形,会意,指事,形声,仮借,転注と類似の構成法が認められるが,シュメール独自の造字法として,既存の文字に複数の線を加える〈グヌーgunû〉,既存の文字を傾斜させる〈テヌーtenû〉,既存の同文字を二つ交差させる〈ギリムーgilimû〉と呼ばれる方法などが知られている。象形においては,対象の特徴的部分を抽象的に表現する傾向が強い。文字数が漢字に比べて少ないのは仮借と転注の方法が多用されているためである。音の類似による転用といえる仮借により表語文字の表音化が始まり,字義の類似による転用といえる転注により文字の多音化,多義化が発生した。例えば,太陽をかたどった文字は本来〈太陽utu〉を表したと考えられるが,転注により〈日ud〉〈白く輝くbabbar〉〈白いad〉〈清いzalag〉〈乾燥しているe〉などを同時に表した。このような文字の多音化,多義化による使用上のあいまいさを避けるために,シュメール人は限定詞determinativeと音声補記という方法を案出した。限定詞はいわば漢字の偏に相当し,エジプトの象形文字にも同趣の方法が認められる。例えば犂をかたどった文字は〈犂apin〉と同時に〈農夫engar〉を表したが,犂には木を示す限定詞が,農夫には人を示す限定詞が使用された。限定詞として最初に使用されたのは神を示すもので,次々と多数の限定詞が作られた。神,人,木を表す限定詞は限定する文字の前に置かれるので〈前置限定詞〉,土地・国,魚,鳥などの限定詞は後に置かれるので〈後置限定詞〉と呼ばれる。この方法は他言語の表記においても継承された。限定詞は実際には発音されなかったと思われる。音声補記はいわば日本語の送りがなに相当し,エジプトの象形文字にも同じくふうが知られている。この方法は問題の文字が子音で終わり,次に母音で始まる文法要素が接続する場合にのみ使用することができた。例えば文法要素aが接続する場合,このaはudの場合にはdaとなり,babbar,ad,zalagの場合にはそれぞれra,da,gaと書いて,前の文字がどの子音で終わるかを示したのである。この方法も他言語の表記に活用された。アッカド人,アッシリア人は楔形文字をセム語の表記に適応させるためさらに表音化と多音化の傾向を進展させている。例えば,山をかたどった文字は,シュメール語では〈山,国〉の意味でkurの音価をもつにすぎなかったが,〈国〉を意味するアッカド語のmâtuから新しい音価matを作り,〈山〉を意味するアッカド語šâduから新しい音価šadを作った。そしてさらにこの二つの音価を基礎にして次々にmat,maṭ,nad,nat,naṭ,lad,lat,laṭ,šat,šaṭ,sad,sat,saṭなどの音価を作り出している。したがって,アッカド語,アッシリア語の場合にはその判読がいっそう困難になる。
解読はまず古代ペルシアの楔形文字から着手された。古代ペルシアの遺跡で発見される3種類の楔形文字のうち字数が最も少ない碑文で,アケメネス朝時代のものと推定された刻文の中に,グローテフェントはある語がひんぱんに繰り返されることに気づき,これを〈王〉の称号と推定した。この語に規則正しく続く2群の語は父と息子という関係で結ばれた国王名と考え,その語が同じ文字で始まっていない点を考慮して,キュロスとカンビュセスを除外し,ダレイオスとクセルクセスの名を作業仮設として採用することによって解読の端緒を開いた。このあと多くの学者,特にヒンクスEdward Hincks,オッペールJules Oppert,ローリンソンらの努力により1846年にはペルセポリス碑文の全文字が解読された。対訳が得られたことにより,アッシリアの楔形文字もグローテフェント,ローリンソン,ヒンクス,オッペールらの努力で57年にその解読が公認されるにいたる。また1929年北シリアのラス・シャムラで発見されたウガリト王国の楔形文字は,ドルムEdouard DhormeとバウアーHans Bauerがフェニキア語の知識を援用して,その翌年,解読に成功した。
→アッシリア学 →粘土板文書
執筆者:吉川 守
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
古代メソポタミアで、粘土書板(ねんどしょばん)に葦(あし)などでつくった筆記具の尖端を押し付けて記した文字の総称。石板や金属板に彫り付けた場合もある。「せっけいもじ」ともいう。1712年にラテン語で『廻国奇観』という旅行記を公刊したドイツ人E・ケンペルが、この本のなかで、古代ペルシア文字を楔形文字litterae cunetaeとよんだのが名称の始まりとされる。しかし、1700年ごろにイギリス人Th・ハイドはすでにこの名称を使っていたともいわれる。
古代メソポタミアのもっとも初期の住民であるシュメール人は、粘土を固めてつくった書板に、主として神殿に奉納する品物(穀物、牛や羊、魚、奴隷など)を表す文字記号を刻み付けた。今日知られているもっとも初期のこの種の遺物は、シュメールの都市ウルクの遺跡で出土したもので、紀元前3100年ころのものと思われる。これらの文字記号は初期シュメール語を記しているようだが、まだ完全には解読されていない。当初は右から左、縦書きであった。その後1世紀ほどのうちに、粘土書板を左に90度回転させて左から右、横書きとなり、文字記号はすこしずつ簡約化されて楔形に近づいていった。しかし、当初はむしろ象形文字とよぶべきであり、完全な楔形文字となったのはだいぶ後代のことである。
楔形文字は前2500年ころにはセム語族のアッカド語、前2000年ころにはアッカド語の分枝であるバビロニア語とアッシリア語、さらに周辺のヒッタイト語やウラルトゥ語の表記に用いられた。また、構造の異なるウガリト(北シリア)や古代ペルシアの楔形文字を派生させたが、前後約3000年間の使用ののち、西暦紀元前後のころに使われなくなり、その用法も忘れ去られた。
楔形文字はもっとも初期には単語文字(一つの文字記号が一つの単語を表す表意的な文字)であったが、すぐに音節文字(ba, ab, badというような複音を表す表音文字)が生じた。シュメール語の段階ですでに多音性(一つの文字が複数の読みをもつ)が現れたが、この文字がアッカド語やヒッタイト語の表記に借用されると、その読み方はさらに複雑になった。文字記号の数は、初期シュメールでは2000ぐらい使われていたが、中期バビロニアでは600ぐらい、後期アッシリアでは350ぐらいに減少。ウガリト楔形文字(前14~前13世紀)は30個の子音文字のみからなり子音アルファベット方式(後代のヘブライ語・アラビア語の方式と同じ)、古代ペルシア楔形文字(前644ころ~前333ころ)は36個の半音節方式(一部の文字のみ子音のみを表すことができる)であった。
17世紀にヨーロッパ人がメソポタミア、ペルシアで楔形文字刻文を再発見して、著作などでこれを伝えた。1802年にドイツ人G・F・グローテフェントは古代ペルシア楔形文字をほぼ解読、1850年代にイギリス人H・C・ローリンソンは、ベヒスタン(ビストゥン)3か国語刻文を研究し、ここに含まれた古代ペルシア楔形文字とバビロニア楔形文字(シュメール・アッカド文字)を大幅に解明した。1857年にローリンソンほか3名の学者が未発表の刻文を読んでほぼ同一の成果を得たので、この年が楔形文字解読の年とされる。これ以後百数十年間の楔形文字および言語の研究には目覚ましいものがある。
[矢島文夫]
『杉勇著『楔形文字入門』(中公新書)』▽『矢島文夫著『解読――古代文字への挑戦』(1980・朝日新聞社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
シュメール人が考案し,古代オリエント世界に広く普及した文字。象形的な絵文字から出発したが,書記材料が粘土板と葦の尖筆であったため,やがて楔形になった。のちにセム系のアッカド人によって採用され,ついで同系のバビロニア人やアッシリア人に伝わり,さらにアナトリア,シリア,ペルシアの諸民族が自国語を記すのに用いた。セム系諸言語の表記に採用される過程で文字の表音化が進み,音節文字として用いられていたが,ウガリト文字に至って完全なアルファベット文字体系となった。古代ペルシア楔形文字もアルファベット的な機能を有している。しかし,やがてアラム文字とパピルスの普及に押され,前1世紀後半には用いられなくなった。
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…古代オリエントで使用され,字画のそれぞれが楔の形をした文字の総称。楔形(せつけい)文字とも読む。
[種類と分布]
三つの系列が知られている。…
…1857年に公式に成立した新しい学問領域。広義には古代オリエントにおいて発見される膨大な楔形文字資料の解読とその文献学的研究を中心課題とし,考古学的研究と並行して楔形文字を使用した民族の政治・社会・経済・法律・宗教・芸術・文学などの文化全般と歴史を研究する学問を意味する。しかし最近では研究が飛躍的に進歩したため多くの専門領域に分化した。…
…ドイツの古代言語学者。古代オリエントの楔形文字の最初の解読者の栄をになう。1795年ゲッティンゲン大学に入り,卒業後は,ゲッティンゲン,フランクフルト・アム・マイン,ハノーファーのギムナジウムで古典語などを教え,1821‐49年,ハノーファーのリュツェウム(フランスのリセのドイツ語訳)の校長であった。…
…爪判(そうはん),〈そういん〉ともいう。紀元前8世紀のメソポタミア楔形(くさびがた)文字の粘土版に見える。これは土地売買の契約証文であり,世界最古の爪印資料である。…
※「楔形文字」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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