( 1 )江戸時代に既に見えるが、「しばい」「かぶき」等の語の宛字であることが多かった。
( 2 )明治初期から二〇年代にわたって行なわれた演劇改革の運動で「演劇改良論」「演劇改良会」などの表現や固有名詞を造り出し、「演劇」という語の定着を促した。
〈演劇〉という単語は,たとえば清初に李漁が著した一種の演劇論《閑情偶寄》に用例がみられるように中国語起源であるが,日本語として用いられるようになったのは明治以後,西洋芸術の一表現様態(ジャンル)を前提にしてである。諸橋轍次《大漢和辞典》によれば,〈作者の仕組んだ筋書に本づき,役者が舞台で種々の扮装をなし,種々の言動を看客の前に演ずる芸術。しばゐ。狂言。わざをぎ。歌舞伎。演戯。又,劇を演ずる〉とあり,また〈劇〉については,〈劇曲〉の説明に〈故事を演唱し,首尾完備して,科白(セリフ)あるもの〉とあり,せりふのない〈散曲〉と対比されているから,〈劇〉という単語には〈せりふ〉と〈物語性〉が前提とされている。この釈義によれば演劇は舞台芸術全般を指すものではないことになるが,はたしてそれでよいのか疑問の残るところではある。
ところで演劇という語が日本で用いられた最初は,演劇学者の郡司正勝によれば江戸末期,式亭三馬の《客者評判記》であり,〈きようげん〉と仮名を振っている。さらに,1870年(明治3)《西国立志編》のB.リットンの伝に〈屢々宴会に赴き,演劇を楽しみ〉とあり,次いで公文書としては72年,教部省布告に出るのが最初である。《西国立志編》の〈演劇〉が小説や詩に対比して舞台芸術全般を指すのに対し,式亭三馬の〈演劇〉は歌舞伎であり,教部省布達を受けた〈演劇改良運動〉の対象も歌舞伎であった。つまり演劇ということばは,日本の舞台芸術の近代化=西洋化の内部では,西洋近代型演劇をモデルに歌舞伎を改良する企てと結びついて用いられたために,たとえば能は演劇ではないとする主張が能の側からなされたりもした。そのうえで,〈劇〉という漢字が虎と豕(いのしし)が闘う表意から〈はげしい〉の意をもつため,日本語の言語感覚としては〈激しい対立・葛藤を演ずること〉という読みかえが暗黙のうちに行われていて,それがおそらく,多数の人々の語感のなかで,西洋演劇のある種のものに照応する結果にもなったのである。演劇も劇も同じ舞台表現を指しうるが,演劇の方にはその視覚的展開が,劇の方には対立・葛藤する事件が強調され,劇はまた,比喩的に舞台と関係なく対立・葛藤の構造を指しうる(〈内心の劇〉など)。
演劇という語を用いるに際して,ヨーロッパ語による概念を前提としていたとすれば,そのヨーロッパ語は何であり,またどのような他の単語と対比されるのか。多くの辞典が一致して述べているように,〈演劇〉はほぼ英語theatre(シアター),フランス語théâtre(テアートル),ドイツ語Theater(テアーター)の訳語に当たる。いずれも〈見物する場所〉を意味するギリシア語theatron(テアトロン)に発して,部分で全体を表すことにより演劇の意となる。しかし各国語の間で意味の広がりは異なって,〈見物席〉が〈劇場〉となるのはどの国語も同じであるが,この語が同時に〈劇場〉と〈舞台表現の総体〉と〈一作家の戯曲の総体〉を指しうるのはフランス語においてである。また,ギリシア語語源からすればテアトロンと並んで重要であり,同じく部分で全体を表すことになるギリシア語drama(ドラマ。行動の意)は,英語drama(ドラマ)では筋と登場人物をもつ舞台表現を広く指すが(つまり演劇である),フランス語でdrame(ドラム)といえば,作品の内容を指すか,18世紀にディドロが主張した市民劇に発する19世紀ロマン派以降の劇作術上の一ジャンルを指す(ただし形容詞のdramatiqueはより広く用いうる)。日本語の文脈で用いる〈ドラマ〉は英語のdramaである。もっとも近年では,英語においても,戯曲としての劇作の価値より舞台表現の成果に焦点を合わせると,シアターの方が好んで用いられる傾向がある。
演劇を表す単語は他にも種々あり,イタリアの記号学者U.エーコが説くように,その単語の多様性は,対象そのものと,それを扱う視点の多様であることを示している。たとえばフランス語で〈舞台上演〉を表すreprésentation(ルプレザンタシオン)は,ある物語を,それを生きる人間ではない別の人間(あるいはそれに代わるもの,たとえば人形)が,なり代わって,〈再現して表す〉仕組みとしての〈再現=代行=表象〉である。それに対して英語のshow(ショー)あるいはフランス語のspectacle(スペクタークル。以下慣用に従いスペクタクルとする)は,〈見せるもの〉としての演劇の最も基底的な特性を表す。また,英語play(プレー)あるいはフランス語jeu(ジュー)は,舞台上で行われることの〈遊戯性〉とそれに基づく〈虚構性〉を強調するし,英語でperformance(パフォーマンス)といえば,そのような〈演戯〉に要求される特殊な身体的技能とその成果を問題にする。
日本語でも,テアトロン,つまり見物席とともに舞台芸術を指すことばは〈芝居〉である。平安末期から中世にかけて流行した延年舞曲で,見物=観客が寺社の境内の芝生に居て見物したことに基づくが,現代語でも〈芝居〉は舞台上演も戯曲の内容も俳優の演技も指すことができるうえに,比喩的に演戯的虚構をも表しうる。〈遊び〉や〈偽りの外見〉について〈あれは芝居だ〉というし,この点では〈狂言自殺〉などというときの〈狂言〉に通じる。しかし,江戸三百年の歌舞伎の記憶から,この芝居という語は歌舞伎だけを指すわけではないにせよ,ある種の古めかしさと職人的特殊技能という含みもあり,新劇などが意識的にこの語を用いるときには,歌舞伎の職人的技能に匹敵しようという暗黙の了解がある。〈舞台〉も,単に劇場内の特定空間だけではなく,そこで行われることの総体と演技そのものを指すし,〈芸能〉も,スペクタクルであるパフォーマンス芸術を一般に指すことができる。
演劇はそのヨーロッパ語の語源と日本語の〈芝居〉が示すとおり,何よりもまず〈見るもの・見せるもの〉であり,しかも〈見る者・見せる者〉を現実の一つの空間に集合した,本質的に社会的な営為である。その際,〈見せる〉といっても,絵画や彫刻の展示とは異なって,生き身の人間(あるいはそれに代わるもの,たとえば人形)が一定の広がりのある行為をすることを条件とする。〈見せるもの=見世物〉の限界としては,動物や奇型人間の見世物が一方の極に,他方には,古代ローマの闘技士(グラディアトル)のように当事者の生命が賭けられていたり,あるいはさまざまな儀式を伴う公開の処刑のようなものも想定しうるが,原則は,現実の生の行動そのものではなく,虚構の行動を演じて見せることである。〈演じる者〉には〈演じて見せるもの〉があるということである。
こうして,〈見る者〉すなわち〈観客〉(見物,観衆)と,〈演じて見せる者〉すなわち〈演戯者〉(演者,役者,俳優)と,この両者を一つに集める空間すなわち〈劇場〉(常設とは限らない)と,そして演戯者によって〈演じられるもの〉すなわち〈行動を組み立てる術とその成果〉という意味での〈劇作術〉Dramaturgie(ドラマトゥルギー,ドイツ語),dramaturgie(ドラマチュルジー,フランス語)の四つが,演劇にとって不可欠の4要素である。なお劇作術は文字で表されるとは限らないが,文字で表したものは〈台本〉または〈戯曲〉と呼ぶ。
これら4要素の具体的形態と4要素間の関係は,文化により,また時代と地域により異なるが,問題として想定できるのは,たとえば次のようなことである。〈観客〉は社会のどのような層に属し,どのような動機で劇場へ足を運ぶのか(演劇が社会全体に開かれているのか,一階級あるいは一階層の独占物か,また宗教的体験に近い何かを求めてくるのか,官能的快楽の追求か,単なる娯楽か,知的満足感か,等)。〈演戯者〉は素人か専門技能者か,さらには俳優としてそれを職業とするものか,その組織のされ方,社会的身分はどういうものか,またその演戯はどのような要素(言葉,身ぶり,歌,踊り等)をもち,どのような様式に従い,どのような訓練を必要とするものか。〈劇場〉は仮設か常設か,社会のどのような空間に位置し,社会生活のどのような時間に機能するのか,劇場内部の舞台と客席の関係はどのような構造か,舞台形象の構成要素はどのようなもので何が優先するか(装置,仕掛け,照明,衣装,仮面,化粧等。それと演戯との関係),劇場の組織・興行形態はどのようなものか(有料か無料か,観客動員の仕方,補助金等)。〈演じられるもの〉は前もって書かれているかいないか,書かれ方はいかなるものか,台本が戯曲として文学と保つ関係は何か,また,テキストと舞台表現の関係を決定するのは誰であり,どのようにしてか。最終的には一文化の内部で演劇が果たす機能は何であり,その位置はどのようなものか……。もちろん,これで問いが尽くされているわけではないし,これらの問いに具体的な事例に従って答えるためには厖大な知見と紙数を要する。したがって本項目では,演劇という営為と体験の基底をなすと考えられる特性について,上記4要素とその相関性についての問いを考慮に入れつつ,主として日本演劇と西洋演劇に具体例を借りて,概略を記述してみる。
現代イギリスの演出家で1960年代末から主としてフランスで活躍しているP.ブルックは,その《なにもない空間》の中で次のような趣旨のことを述べている。〈どこでもいい,なにもない空間。そこを一人の人間が歩いて横切る,もう一人の人間がそれを見つめる。演劇行為が成り立つためにはこれだけで足りるはずだ〉と。一つの根源的な演劇体験としていかにも魅力的な情景だが,しかしこの状況が演劇として成り立つためには,行動する者と見る者がいるというだけではなく,行動する者は見せる者であり,しかもそのように見せている者の現実とは何らかの形で距離のある行動を(その意味では非現実であり,虚偽ではないにせよその状況においては虚構(フィクション)の行動を)そのようなものとして両者が了解したうえで,なおかつそれを信じて見るという関係が成り立っていなければならない。ブルックの例を一歩進めて,一方が飢えや恐怖,恋の幸せや悲嘆を身ぶりをまじえながら演じて見せ,もう一人の人間がそれを見つめるとしてみよう。見る者がその男の飢えを現実ととりちがえてパンを与えれば滑稽であろうし,逆に現実に餓死しかかっている男を前にしているなら,黙ってそれを見ていること自体が問題になるだろう。その意味では,そもそもこの演じる者と見る者の関係自体が一つの遊戯なのであるが,この遊戯性としての虚構性は,少なくとも見ている者の側において相矛盾する二つの欲望に貫かれ,かつそれに脅かされている。それを〈同化〉と〈異化〉という概念で表すなら,まず観客の内部には,〈見ているものが限りなく現実に近く,現実そのものであれ〉という虚構と現実の同一視の欲望と,〈見ているものに完全に同化したい〉という欲望があり,前者はすでに触れた古代ローマの闘技士や公開の処刑,現代ならポルノ・ショーなどに見受けられ,後者は〈共同体の構成員が祝祭の狂喜乱舞のうちに一体感を味わう〉という演劇の始原的形態の幻想に通じる。と同時に,通常は,このような同化はあくまでも演劇という約束事の内部のことだと自覚されていて,それを異化して見る視点をどこかに保つものであり,それが意識的・知的な作業となればB.ブレヒトの説く〈異化〉作用であるが,多くの場合は,ちょうど夢の中にあって,自分が行為者であると同時に観客でもあり,かつしばしばそれが夢であることを知りつつ夢を見ているという,あの人格の二重化に似た同化と異化の使い分けをしているのである。フロイトが無意識の表象(ルプレザンタシオン)と演劇の上演(ルプレザンタシオン)に深い類縁関係を読んだのはその意味では正しかった。
これが演劇的幻想の本質的二重性であり,他の芸術表現の体験にも通底はするが,しかし演劇は現実の空間において生き身の人間の行動により時間と空間の双方の軸において展開されるから,〈再現=幻想〉としては最も生々しくかつ典型的な形態となる。しかし,演劇的幻想を他と区別して特徴づけるのは,このような幻想の視覚が,単に個人の,個人としての体験に終わるのではなく,集団の内部での体験であり,本来は集団的な体験として設定されたものだった,という点である。
素朴にであれ意識的にであれ,観客の一人一人は,そのときに同時に客席にいる観客の集合のいわば全体的気分との関係で舞台に対しているし,観客の側に肯定的であるにせよ否定的であるにせよあからさまな反応があるときには,それを度外視して一観客としての自分の幻想を立てることは難しい。そこから,観客というものを観客同士の間で消去するために,舞台のみが劇場空間に支配するように仕組んだ〈客席の闇〉という発想が生じるのであり,映画館がこれを徹底する前に,すでにワーグナーはそのバイロイトの祝祭劇場の客席を闇に沈めていた。いわば観客の横のつながりを絶ち切って,一人一人の観客の知覚を舞台だけに結びつけようとするのである(テレビやオーディオの世界の出発点である)。
しかし,本来,観客は劇場へ,特殊な集団的営為に参加するために来るのであった。そもそも社会全体が宗規的な時間構造と空間配置に従っている間は,いつどこででも演劇が見られるわけではなかったのである。古代アテナイの大ディオニュシア祭からヨーロッパ中世の聖史劇(〈宗教劇〉の項目を参照),修道院領内でその聖人の祝日との関係で開かれた市(いち)の見世物まで,演劇が暦と場所に縛られていた時代は長いのであり,ヨーロッパの場合,絶対王制による世俗的権力の成立と,文化の世俗化と,演劇の行われる時と場所の世俗化とは並行する。しかしそれにもかかわらず,劇場は,何かしらこのような祝祭的時・空の特異性,つまり日常の生からは切り離されたものという特性を保存していて(ラテン語では〈聖ナルモノ〉は本来〈切リ離サレタモノ〉を意味した),これは演ずる側にも見る側にも等しく共有されている。芝居見物は〈ハレ〉であり,江戸時代において芝居町が遊廓と共に反世界として都市の周縁部に囲い込まれていた場合には,一層刺激的な祝祭の記憶に通じていたのである。
しかし,観劇が集団的な体験だとはいっても,同時にそれは,祝祭がもっていた〈個人が共同体という全体に合体する〉あの一体感とは異なる。少なくとも劇場における合一感は,ディオニュソス(バッコス)の信女やカーニバル,永長(1096-97)の大田楽や念仏踊といった集団憑依や集団的狂気乱舞とは異なって,あくまで見ることを通して成立するのである。
しかし見ることによる同化はどうして起こるのか。この点についてドイツの演劇学者クッチャーArthur Kutscher(1878-1960)の〈身ぶり表現Mimik〉の論(《演劇学要綱》)は,一つの鍵を提供してくれる。すなわち俳優と観客は,本来,同一の身ぶり体験をするのであり,俳優は〈見える演技としての身ぶり表現〉をし,観客は〈見えざる演技としての身ぶり表現〉を心理的に行っているというのである。それはある点では演劇の始原的形態についての民族学や演劇史の知見とも一致する。たとえば,人間を超えた力を統御するためには,その力の象徴的行動を模倣することによってそれを人間に依り憑けようとし,その際に仮面が憑依の呪力をもつものとして重要な役割を果たすという〈呪術的模倣所作〉の論や,アフリカや新大陸のいわゆる未開民族の儀礼において〈歌・舞〉の果たす重要な役割がそれである(これは古代アテナイにおける大ディオニュシア祭においても,祝祭の冒頭2日間にはディテュランボスdithyrambosと称せられるディオニュソス讃歌が集団舞歌の形で演じられたことにも照応する)。言いかえれば,クッチャーの説は,単なる身ぶり表現を演劇の始原形態だとする始原仮説と切り離して,メルロー・ポンティの現象学が説くように〈言葉もまた身体所作である〉という観点に立って初めて有効性をもつので,〈歌・舞〉が集団的同化にとって決定的な役割を果たすことは疑いようがない。オペラのベル・カントにせよ謡にせよ,義太夫にせよ演歌にせよ,しばしば歌そのものが身ぶりであり,また舞踏は音楽に支えられて成立する(その意味ではニーチェが〈音楽の精髄の中からの悲劇の誕生〉を見たのは,歴史的一事実としてではなく,一般論としては正しかった)。
確かにこの〈模倣所作〉論は,個体発生が系統発生を繰り返すのにも似て,観劇体験の根幹をなす重要な局面を語っている。フロイトは悲劇を見て覚える快楽について,〈演劇上演を見ることに固有のマゾヒズム〉を語ったが,それを逆転させれば視覚的サディズムとしてのエロティックな視姦という関係もありうる。だからこそ,祭儀においては〈見ること〉自体が囲い込まれているわけであって,〈見てはならぬ神聖な情景〉はつねに存在したのだし,そのような記憶があればこそ,演劇を貫く〈見たい〉(そして〈見せたい〉)という欲望と〈見てはならぬもの〉(〈見せてはならぬもの〉)という禁忌との緊張関係も意味をもつのである。
ところで,舞台を見てそこで演じられていることに同化するには,まずそれが〈信じられるかどうか〉という,観客の内部の直観的・感覚的であると同時に知的でもある受容・参加の可能性が問題になるだろう。しかもそこで演じられている〈物語〉(アリストテレスはそれをミュトスmythosと呼んで悲劇の最重要の要素とした)が信じられるか否かだけではなく,それが信じられるような仕方で提示されているかどうかが問題になる。たとえばマラルメは,ワーグナー楽劇の作用は一種の宗教性を帯びるとして,ゲルマン民族の始原の謎を解きあかす〈神話〉とその〈形象〉へと,交響楽の始原回帰の作用に導かれて観客=聴衆が合体するのだと説いたが,このようにあからさまに宗教にとって代わる仕組みを作り出した場合でなくとも,演劇は一種の〈信仰の業(わざ)〉である。ただしそれを人間は,劇場と演戯と劇作術によって人工的に成立させようとするのである。
同化あるいは参加の観点から,客席と舞台の関係により劇場空間の構造は幾とおりかに分類できる。1960年代に流行した街頭演劇のように劇場という特殊ないれ物自体を拒否して,演戯者と観客を同じレベルに混在させ,かつ演じる者・見る者の区別をも廃絶しようとする限界的な企ては別として,仮設・常設を問わず,劇場が構築物としての劇場である限りにおいて観客の集団的同化を最も強く誘う形は,客席が舞台を取り囲む配置である。古典期ギリシアの野外劇場が一つの代表であり,中心にある円形のオルケストラを取り囲むようにして,半円形よりも広がりの大きい階段状座席を配する(いわゆる円形劇場)。それが半円形劇場となり,演戯の場が後退して客席と対面する配置になるのは,上演の枠組みの宗教性(都市国家を挙げての祝祭)が失われて,演劇が純粋に世俗的な娯楽へと変わるヘレニズム時代からローマにかけてである。あるいは中世ヨーロッパの新興都市を中心に,富裕な町民階級(ブルジョアジー)による聖史劇上演の場合,教会堂内部における典礼劇から教会前庭へ,さらに都市の広場へという空間そのものの世俗化は,上演そのものの都市を挙げての祝祭性を増幅する過程であった。イギリス14世紀のページェント型の山車(だし)による奇跡劇(ミラクル・プレー)は,やがて王侯の都市への入城行進という世俗的祝祭にも規範を提供するし,また広場を囲むようにして幾つもの屋台を組んだドイツ15世紀の受難劇は観客の移動による参加を前提とした祝祭空間である。さらに15世紀北西フランスの大聖史劇(3週間にわたり,5万行の詩句を語る)になると,劇場は中央に演戯の場を配し,客席がそれを円形に取り囲むものに変わり,すでにこのときthéâtre(テアートル)は〈閉ざされた場〉を意味していた。
都市全体を多型的(ポリモルフ)な劇場に変容させるページェントやパレードが,その一部に参加し一部を見ることで全体的祝祭を共有するのに対して,劇場が〈閉ざされた空間〉となることにともない,その内部で虚構的に再現される〈聖なる物語〉の総体を見ることによって,共同体の構成員が合体感を体験するという形になる。このような,社会の他の部分から切り離され閉ざされることによって,高度に象徴機能を集約した特権的でもあり統合的でもある空間は,16世紀末から17世紀にかけてフランスを中心に流行する公開の宮廷バレエの演戯空間にも現れ,同時代の共同幻想を,異教神話の象徴的表現を介して絶対王権の成立へとつなぐ役割をしている。日本でいえば室町期の能舞台は客席張出し型であり,それを囲むように桟敷が組まれたが,その記憶は江戸幕府の式楽となって以来の現行の能舞台にも残っているし,また歌舞伎も,〈悪所〉として常設劇場に囲い込まれた後でも,江戸時代には,単に花道だけではなく本舞台が客席に張り出していた。そこには舞台への吸収力と,舞台・客席の相互浸透という二つのベクトルがあるように思うが,ともあれヨーロッパで16世紀末に出現する一連の常設劇場の中では,エリザベス朝ロンドンのグローブ座(シェークスピアの常打ち小屋)などが,客席張出し型(張出舞台)によって中世末期の祝典劇の参加の構造を保っている。それに対して,A.パラディオ設計になるテアトロ・オリンピコ(オリンピコ劇場)やパリの最初の常設劇場であるブルゴーニュ館劇場(ブルゴーニュ座)は,すでに舞台・客席対面型の配置をとる。
これら常設劇場の出現で注目すべきことは,一方ではそれが文学戯曲の成立・完成による,言葉を中心とした演者・観客双方における新しい集中の仕方の優位と不可分であること,しかも他方では,オペラやバレエといった舞台機構の技術的洗練による大スペクタクルの実現と演劇内部へのその統合という,視聴覚両面における総合的幻想快楽の追求を可能にする事件でもあったことである。ヨーロッパに固有のこのような演劇内の分化を生んだ対面型舞台を,通常〈イタリア式額縁舞台〉と呼ぶが,それは舞台上の虚構空間を,遠近法の活用によって〈魔法の箱〉として閉じ込めることであったから,やがては第四の壁を通して密室を覗くという19世紀写実主義演劇の〈覗き〉の視角を生むことになる。また,対面型といっても客席は多くの場合馬蹄形に配された桟敷をもち,貴顕の席は前桟敷のような最も目につくところにあり,観客席自体が社会の階層構造を奇妙に反映するスペクタクルとなるのであった。そのような〈客席の芝居〉を,ワーグナーの祝祭劇場は,祝祭的合体の場であった古代ギリシアの劇場の階段状座席を模し,さらに客席を闇に沈めることで否定しようとした。先に触れた多型的な関係は,市(いち)の露天の見世物の演劇体験にも通じるものであるが,それをたとえばムヌーシュキンAriane Mnouchkine(1939- )の太陽劇団は,《1789年》(1970)などで,広い弾薬庫の空間を使って活用してみせた。逆に,A.アルトーが残酷演劇の一要素として主張した,文字どおりに演戯が攻撃的に観客を取り囲む形は,もはや見ること自体の破壊であり,演劇を呪術的な〈行為〉に変貌させようとする。
ともあれ,舞台上に見せられているものがそのままで全体の縮図,あるいは全体に重なるものだという関係(それを修辞学では隠喩(メタフォールあるいはメタファー)の関係という)であるか,それともそこに見せられているものは部分であり,部分から全体を,見る側が構成する必要がある関係(換喩(メトニミー)の関係)であるかという対比が存在することは指摘しておいてもよいだろう。この二つの関係は,演戯や舞台形象のあり方にもかかわるものであり,たとえば装置や衣装の全体を本物らしく作るか,一部をきわめて質感の厳密な本物にするか,といった対比である。フロイトが無意識の幻想表象を舞台上演にたとえたのは隠喩の関係においてであるが,しかしJ.ラカンも説くように,そこを貫く欲望は換喩的構造をもつのであり,事実,換喩的な舞台表象は,観客の幻想欲望とでもいったものをつねに目覚めさせ,活性化する仕組みであって,観客の想像力も知力も,より多く,強度に舞台表象の受容に参加させることになるのである。
〈演じる者〉と〈演じられるもの〉との関係で,舞台表現は大きく二つの傾向に分かれる。〈再現=代行=表象(ルプレザンタシオン)〉の関係であり,演者が彼自身を表している場合と,彼以外の人間を,それになり代わって,再現=代行して表している場合との二つである。たとえば日本の14世紀の芸態には,田楽と猿楽があって,共に〈能〉を演じていた。しかし田楽は上演の前半で刀玉(とうぎよく)などの曲芸や美少年の集団歌舞を演じ(これが田楽の元芸である),次いで〈登場人物〉と〈物語=筋〉のある能を演じたのに対し,猿楽は翁猿楽という豊穣祭祀の演劇化を元芸として能を演じていた。折口信夫によれば〈能〉は〈態〉の略字であり,本来〈物まね〉を意味していたから,その意味では,〈能〉とは舞台上演の物まねに基づく部分,つまりアリストテレスならミメーシスmimēsisと説く部分を指すのであって,田楽元芸のようにショー的な部分を〈純粋演戯〉と呼ぶなら,それに対して〈代行型演戯〉を意味していた。
このような二分法は,実は古代ギリシアにも存在したので,すでに触れたディテュランボスは,ディオニュソスへの讃歌をオルケストラにおいて円形に舞われる舞歌によって表すものであり(他のジャンルではコロスは四角に展開した),仮面も衣装もつけず,役を演ずるのでもなかったから,この点で,代行型演戯である悲劇,サテュロス劇,喜劇とは対比されていた。しかし作品としては悲劇と喜劇のうちの傑作とされたものの一部が残り,アリストテレスの《詩学》も悲劇論が演劇論として残ったために,西洋世界では代行型演戯のみを演劇と見なす伝統が根強く,物語性のない踊りや純粋にショー的演戯はその視野に入ってこないことが多かった。しかし20世紀に入ってからの,特に1960年代以降の演劇の再検討と変革の中では,〈他者の視線を前に演戯する人間〉そのものが実践と反省の両面で思考の対象とならざるをえなかった。したがって本項目で〈演劇〉というときにも,再現=代行型という狭義の演劇と純粋演戯あるいは純粋スペクタクルを含む舞台表現全般とを共に視野に入れていこうと思う。
代行型演戯において,演戯者は基本的に二重性を負わされている。舞台上で行動しているのは〈本物のハムレット〉(というものがあると仮定しての話だが)ではなく,〈何某の演ずるハムレット〉である。その際,登場人物という外見あるいは仮面の下に,役者が完全に消え去るべきであり,虚構の人物とそれを演ずる人間とが過不足なく重なり合わなければならない,というのが,代換不可能の近代的個我の表現たろうとした近代の写実主義の俳優術の要請であり(その典型はスタニスラフスキー・システムである),近代劇作術もそのような登場人物と演戯者の関係を前提とした。しかし舞台上に人が見にくるのは,〈何某の演ずるハムレット〉であることが多く,良きにつけ悪しきにつけ,人は登場人物と役者とを同時に見ているのである。
今,比喩的に〈仮面〉といったが,祭儀においては仮面が変身を保証していた。神の面をつけた者は,神そのものと見なされていたのであり,面が見るのは神が見るのであって,神の面の下から人間の目が見ているなどということは瀆神行為以外の何ものでもなかった。しかしそのような祭儀の仮面が演劇の仮面となったとき,仮面は虚構を再-現前させるための〈仕掛け〉に変わる。仮面が人間を使うのではなく,人間が意識的に仮面を使うのだ。その意味で,世阿弥が完成したいわゆる複式夢幻能は,仮面による憑依・変身の手続きと成果を,劇作術の仕組みそのものに置きかえたものだともいえる。
ともあれ,ルネサンス以降の西洋世界では,仮面(マスク)はいかがわしい虚偽の外見であり,真実はその下に隠されているという思想が定着していたから,逆に外に現れたものは徹底的に真実に似ていなければならなかった。それは演劇的幻想を生み出すすべての要因(演戯,劇作術,舞台形象等)について要求されたわけだが,しかしそれは演劇的幻想という虚偽を真実と取り違えさせようという組織的な企てだと考えれば,一つの偽瞞である。たとえばブレヒトは,そのような演劇的偽瞞が社会的偽瞞につながるとして,役者も観客も自己のうちに批判的距離を保つことの必要を説いたが,この異化作用の論は,演劇的幻想を括弧に入れるものだともいえる。それをさかのぼればロシア・フォルマリズムの〈仕掛けの露呈〉にもなるが,作業のレベルを見せることが舞台的要素となるという〈二重性〉は,後でまた触れるように,日本の伝統演劇に共通して見られるものである。
このような基本的二重性に加えて,代行型演戯には〈生成的二重性〉とも呼ぶべき構造がある。すなわち演者は,当然そこに演じられる物語のすべてを知ったうえで,あたかもまったく知らないような顔をしてそれを演じなければならない。これは古典劇のように観客が熟知した作品の場合には,観客の内部でも引き受けられる〈遊戯〉であるが,このように全体構造を〈宙吊り〉にして,あたかもそれが不在であるかのように振る舞いつつ,しかもつねにそのような全体構造との関係で部分を,しかも時間の軸に沿って作っていくという,演劇に固有の体験を,S.K.ランガーは〈未決の形式〉と呼んだ。このような生成構造を前もって仕組んでおくものが劇作術にほかならない。しかしこの〈未決の形式〉は,演戯者の内部で,演戯者相互ならびにそれと舞台の全体との間で,観客の内部で,舞台と客席の間で演じられるものであるから,一つの複雑な〈遊戯〉(英語ならgame,フランス語ならjeu),いやむしろ〈勝負〉や〈勝負事=賭〉に近い。そこに現れるのは,演劇という営為につきものである〈他者〉という,結局は予見不可能な偶然性の働きであり,その〈他者〉とは,まずは演戯者自身の二重性にひそんでいる。世阿弥が〈離見の見〉という語で言おうとしたことは,このような他者の視線に身をさらして演戯することの条件そのものに対する戦略であった。
劇作術とのかかわりで付け加えれば,代行型演戯による演劇は,アリストテレスも定義するとおり,作者が報告者の立場に終始する〈歴史〉とも,作者が報告者でありかつ物語中の人物にもなる〈叙事詩〉とも異なって,作者が現実の人間を行動させることによって物語を語るのである。しかし,そのようなアリストテレス型の演劇の内部においても,登場人物自身による〈語り〉は,ギリシア悲劇においても17世紀フランス演劇においても重要な見せ場だったばかりでなく,日本の能や人形浄瑠璃のように,〈語り物〉構造を保有しながら演劇の一様式として完成しえたものもある。ブレヒトの叙事演劇も発想のヒントは能であったし,現代作家のうちにはS.ベケットや特にM.デュラスの近作のように〈語り物〉構造の上に立つ作品も多く,このような作品にあっては,演戯者は演戯のレベルですでに〈語り手〉と〈行為者〉という二重性を担わされるのである。
それでは,代行型ではない演戯,物語や筋の展開などのない踊りなどの純粋演戯においては,演戯者は単純に彼自身であろうか。これも,ショーの踊り子からバレエのダンサーに至るまで,日常生活においてはへんてつもない人間が,舞台に立つとまったく別人のごとき輝きを発するという現象はしばしば経験するところである。そのような,登場したとたんに人の心をパッととらえて離さないような魅力,ほとんど呪縛力というべきものを,世阿弥は〈花〉と呼び,能の美的規範としてはその内実を〈幽玄〉(優美艶麗)とした。それは単なる現実の身体的資質の函数ではなく,他者の視線の前に自分の身体を演出する才能であるが,しかしその演出が見えてはいけない。それを,〈秘すれば花〉と世阿弥は説いた。そのうえで,舞台上で行動をするわけだから,この行動の仕組み,組み立てが必要である。踊りについては,それを〈振付〉と呼ぶが,たとえばストリップティーズのように再現=代行構造が明らかであれば,虚構の行動の組み立てとして劇作術といってもよい。ともあれそのような〈行動の仕組み〉そのものが〈花〉を活かしも殺しもするのであり,身体演戯はそれを仕掛けとして持っていなければならない。言いかえれば,純粋演戯においてすら演戯者は彼自身ではないのであり,さらには,純粋演戯においてこそ,このような〈虚構の身体〉を作ることが不可欠の前提となっている。この位相は,実は代行型演戯の場合にも,役あるいは登場人物によって覆い隠されることが多いとはいえ,存在しているのであり,初めに〈何某の演ずるハムレット〉と言い,演戯者と登場人物とを共に見ているのだと述べたが,その演戯者はすでに現実の何某ではないので,現実生活の一市民でもなくまた登場人物でもないこのレベルを,観客は演戯的存在の現象する場として見ているのである。
こう考えれば,たとえばコメディア・デラルテのように,演じられる内容が近代劇のように登場人物のレベルでは分化していず,〈役柄〉という形で〈役者〉そのものと重なっている演戯が,即興を中心とする職業劇団として,ヨーロッパで最も早く成立したことも納得がいく。即興とは当てずっぽうにでたらめをやることではまったくなく,その日の舞台という内容も時・空も限定された場で,劇団内構造の原理に従って,自己の持つ厖大な演戯力(そこには当然おびただしい台詞がある)を,瞬時にかつ的確に引き出して,それを活きた物として見せることであり,それはそのような演戯的知を内蔵しかつ担いうる総合的身体の訓練を前提としたからである。
コメディア・デラルテの〈仮面=役柄〉は,西洋近代劇作術における登場人物の徹底した個性化(同じ人間は絶対に二人とはいないという原則)からすれば未分化の,遅れたものであるが,近年とみにそれが再評価されるのもこの点にかかっている。確かにそこには,人間が実人生において演じている役割は,各人の個別性にもかかわらず,関係構造として幾つかの類型に分けられるにすぎないという認識が働いているが,しかしコメディア・デラルテにおいては,類型の仮面の下に(というかその上に)きわめて多様な表現が可能にもなるのである。同じようなことは,近代戯曲の登場人物としてみれば顔立ちも心理も定かではない能のシテの役にもいえる。そこでは,同じ増(ぞう)の面をつけて《野宮(ののみや)》の六条御息所と《定家》の式子内親王を演じ分けることが要求され,かつ可能なのであって,それはことごとくシテ=演者の演戯のレベルでの変奏にかかっている。歌舞伎の女形の場合も同じであり,絶対に女優の代用などではなく,また単に女装した男というのでもなく,踊りと音曲で作り上げた女形という特殊な体のあり方,現れ方の上に立って,多様な演戯的変奏をするのである。舞台の成果が劇作術以上に俳優の作業にかかっているこれらの演劇が,現代における西洋型演劇の地平で脚光を浴びているのもいわれのないことではない。
コメディア・デラルテの場合,文字で表されたテキストは,まずカノバッチョと呼ばれる舞台袖に貼り出された筋の運びと場面ごとの役者の仕事とを要約したものであり,これは戯曲ではないにしても台本と呼べるものであった。しかし役者が持っている〈書かれたテキスト〉はこれだけではなく,状況に応じて用いられるべきさまざまな台詞(俗語による流行の地口からプラトン〈対話編〉の引用まで)があった。それらが統括的な戯曲になっていないという意味では戯曲を欠く演劇であるが,演戯に先立って書かれたテキストがなかったわけでもなく,いわんや劇作術を欠いたわけでもない。歌舞伎にしても初期は口立て(くちだて)の形がとられ,それは現在でも旅回りの大衆演劇などに残っているし,能役者にしても世阿弥以前は文盲の芸能者は多かった。しかし,他方では,ギリシア悲劇やヨーロッパ中世の大聖史劇,日本なら世阿弥の能といった,文字言語によるテキスト作製が演劇に飛躍的隆盛をもたらした例はきわめて多い。さらには,作品の文学的価値の飛躍的な向上が,その文化にとって演劇が占める主導的な役割を決した例を,上記のほかにも,たとえばエリザベス朝イギリス,16世紀後半から17世紀末にかけてのいわゆる黄金時代のスペイン,17世紀中葉のフランス,カーリダーサを生んだ古代インドのチャンドラグプタ朝,中国なら元曲,日本なら近松門左衛門の人形浄瑠璃を思い浮かべるだけでも十分かもしれない。演劇についての理論的省察が劇文学についてのそれであるというのは誤りであるが,特に西洋世界では,ギリシア悲劇以来,文学戯曲が演劇の王道に重なる傾向があったから,アリストテレスの《詩学》とホラティウスの《詩論》以来,ルネサンスから17世紀にかけての劇作術論争を経てヘーゲルの《美学》に至るまで,演劇論の主流が戯曲論であった時代も長い。
文字による劇作術の表記・定着が,そのままで演劇作業の内部における劇作術の自律性も戯曲の優位も意味しないことは,身近な例でいえば能や歌舞伎によって明らかであるが,それにもかかわらず,戯曲が劇作術の最も統合的で整合性のある証言である場合が多いことも事実である。また演劇の多様性も,演戯媒体(人間,人形,仮面,影絵等)や表現要素(台詞,しぐさ,黙劇所作,舞踏,歌唱,音楽,衣装,舞台形象等)あるいは劇場構造による以上に,劇作術の多様性であって,それについては〈戯曲〉の項目と,各国あるいは各文化地域の演劇史の項目を参照されたい。
アリストテレスは《詩学》のなかで悲劇を構成する6要素として,何を描写するかにかかわる3要素(出来事の組み立てである〈物語(ミュトス)〉,行為者=登場人物の資質をきめる〈性格(エートス)〉,その言語行動を支える〈知性(ディアノイア)〉)と,描写に用いられる2手段(〈措辞・語法(レクシス)〉と〈音曲(メロポイア)〉)ならびに描写の1方式(〈視覚的効果(オプシス)〉)を挙げたが,今ここで劇作術と呼ぶものもこの6要素を含みうる。
アリストテレスは悲劇を,〈それ自体まとまりのある,全き一つのものを形作り,しかもある大きさをもった,人間の行為の模倣(ミメーシス)〉であると定義した後,そこで最も重要な要素は〈物語〉であり,それは〈緊密な構成〉をもつ〈統一性のある全体〉であること,〈真実らしさ,あるいは必然性に従って,起こりえたかもしれない可能事を語る〉こと,それが〈快い言葉で表現されること〉を要求した。ところで,このアリストテレスの理論的整理と世阿弥による自己の能の実践についての反省とは,ある意味では通じ合うものをもつ。世阿弥は,父観阿弥によって確立された大和猿楽の方法を,〈物まね〉(言動の模倣)と〈儀理〉(筋道の立った,筋道の立つような言葉の使い方)を本とし,〈幽玄の風体〉(優美艶麗な舞台姿)を実現することにあると説くからである。さらに世阿弥による〈よき能〉の定義は,その劇作術上の普遍的配慮によって注目を引く。すなわちそれは〈本説正しく,めづらしき風体にて,詰め所ありて,かかり幽玄〉なものであり,言いかえれば,主題・物語の典拠が正しく,それに忠実であり,またその物語の提示の仕方がめずらしく・面白く,しかもその中に見所(みどころ)となるような構成上の工夫があって,そのうえで全体が美的感覚に貫かれ,美的な感興を与えるようなものでなくてはならないというのである。世阿弥はその能作の主題を王朝文学,中世叙事詩,伝統詩歌の世界に求め,その主題と言語の本歌取り的活用を,序破急五段に配分するに至るわけだが,世阿弥におけるこの能作という言語の実践が,彼の〈花〉の公案の中でもきわめて重要なものであり,それが能そのものの質を飛躍的に高めたことは注目しておいてよいだろう。
言いかえれば,劇作術の動機もまた,その主題の選択,物語の組み立て・提示の仕方,その言語表現によって,いかに観客の心をとらえるか,つまりいかにして虚構を観客に信じさせるかにかかっている。先に引用したアリストテレスの〈真実らしさ〉の論を中心に,17世紀フランスにおいて頂点に達したいわゆる三統一などをめぐる規則論議も,劇作家の実践としてはこの点にかかっていたのである。当時の理論家の一人ドービニャック師François Hédelin,abbé d'Aubignac(1604-76)はその《演劇作法》の中で,〈規則は理性に基づく〉べきものであり,また〈真実らしさこそすべての戯曲の根拠である〉と説いたし,それはフランス古典主義演劇の方法における合理性的志向の強調の例としてしばしば引かれるが,しかし,理性を〈万人にひとしく分かち与えられている良識(ボン・サンス)〉と了解するなら,それはいくら芝居は約束事の噓だからといって,ただ荒唐無稽なことをやってよいということにはならないという,ごく単純な原理の確認にほかならないし,世阿弥の伝書が〈儀理〉の伝統を継いで,田楽や近江猿楽のような無償の幽玄至上主義を排した動機に通じるものでもあるのだ。
ギリシア悲劇が先行叙事詩などによって語られてきた特定の王家の物語に主題を限り,世阿弥が〈本説〉の正しさを主張し,17世紀フランス悲劇が典拠への忠実さを論じたのは,いずれも観客に共有されている物語を用いることによって,その信憑性を確保しようとする配慮である。そこから,現代では,物語自体の背後にある大きな〈神話〉構造が演劇の機能を保証するものとして説かれることが多い。それは神話研究や民族学に固有の視点から,精神分析や権力の分析哲学に至るまで見られるところだが,しかしこれらの神話とて,劇作術的再編成を通過し演劇上演の形をとったからこそ,そのような神話として新たに共有され機能し始めたのだと考える必要もあるのであり,むしろ劇作術そのものがどのようにして個人と集団を通底する〈深層の言葉〉に幻想=表象として形を与えているかを見る必要があるだろう。それを〈無意識〉と呼ぶか〈共同幻想〉と呼ぶかは視座の相違だが,確かなことは,フロイトの〈エディプス・コンプレクス〉はソフォクレスの戯曲《オイディプス王》によって命題化されたのであり,また〈忠臣蔵〉は《仮名手本忠臣蔵》を代表とする劇作術によって,共同幻想の神話としてその作用を獲得したのである。
ところで劇作術の根幹は劇を組み立てることである。〈劇〉はdrama(行動)であるが,その限りではこの漢字から日本人が無意識に受けとめている〈はげしさ〉の意はない。しかしそれにもかかわらず,ギリシア悲劇以来,ドラマを典型的な形で表すには対立・葛藤が必要であった。これはギリシア悲劇が〈非業の最期を遂げた英雄の墓のまわりで行う鎮魂歌舞〉に発したと考えられることから,そもそも死すべき者としての人間の条件との闘いは構造的に存在していたのであろう。その意味では,世阿弥も大和猿楽の伝統として指摘する〈鬼〉は,人間を超えた異形な力の発現であり,これは日本の芸能には限らないが〈聖なるもの〉を〈異形な力の発現(クラトファニー)〉としてとらえる観点に通じるものであり,共同体を外部から脅かすそのような力は,人間がその擬態・演戯をすることでその領分を限る必要があった。それが御霊神と結びつけば,まさにギリシア悲劇の始原的形態に近づくわけだし,江戸歌舞伎の荒事(あらごと)は〈御霊神〉としての曾我五郎の化身であり,さらに〈怨霊物(おんりようもの)〉は,能から歌舞伎を経て1960年代末のアングラ演劇まで,一つの系譜学を形作るほどである。
こうしてみると,日本演劇にも〈劇(はげ)しい力〉は遍在していて,ただそれが,古代ギリシアに発する西洋劇作術のごとく,人間と人間を超える運命の対立・葛藤であれ,個人と個人のそれであれ,分節・構築される視座と手段が異なった。たとえば相対立する弁論の展開である裁判や法廷という言説の特殊な実践や場が,西洋演劇のように劇作術に深く結びついている場合とそうでない場合とでは,劇そのものの表現も作用も受容も異なってくる。
もっともこのような対立・葛藤は,演劇作業のあらゆる局面に存在しうる。すでに触れたように,演者と観客は不可分な共同作業を担うものだが,その遊戯的合意・均衡は,どちらかの意志によってたちまちに破られうるもろい関係であり,この危うい緊張関係を,演者の側ではしばしば〈真剣勝負〉にたとえた。演者相互の間ではなおさらであり,能には,かつて〈立合(たちあい)〉という文字どおりの勝負があった。このような作業レベルでの対立・葛藤や拮抗・緊張をそのまま一つの儀式=演戯に仕組むことは可能であり,能をはじめ日本の伝統演劇にはその例は少なくない。最も極端な例は,能《道成寺》前段,乱拍子(らんびようし)のシテと小鼓の気迫のこもった引っぱり合いである。このような演戯(パフォーマンス)レベルでの調整された力関係が,そのまま劇行為の強度に転換される例は,能のみならず人形浄瑠璃,歌舞伎にも多い(歌舞伎の《勧進帳》はその分かりやすい例であろう)。
逆に世阿弥の複式夢幻能前段の居グセ(居曲)のように,シテ(と地謡)の長い回想的語りの場面は,行動も対立も零に等しいが,その語りによってシテの変身が可能になり,言葉が面(おもて)にかかり,依り憑くのであるから,重層性の美学に従えばきわめて演劇的な意味作用の濃厚な部分であるし,一般に,直接的な対立・葛藤を超えた視点から得られる重層化や拮抗は,日本人にとっての劇や演劇を考えるうえにも,見落とすことはできない。
また,すでに述べてきたような演劇そのものの条件ともいうべき〈二重性〉を逆手にとって,〈芝居の芝居〉あるいは〈演劇の上に立てられた演劇〉という仕組みが,劇作術の一つの系譜ともなっていることは注目してよいことである。シェークスピアの《テンペスト》やコルネイユの《芝居の幻想》から,L.ピランデロを経てブレヒトやJ.ジュネまで,その傑作は多いが,《ハムレット》のような戯曲も同じような観点から読み直すことが可能だと考えると,単に劇作術の一形式以上の意味をもつ。さらに,古くはラテン語の表現から,近くはクローデルの《繻子(しゆす)の靴》まで,演劇が好んで〈世界劇場〉を自らの紋章とするのも,演劇に最も魅惑的な宇宙論を託しているからにほかならない。
劇作術が演劇作業の総体の中で占める位置や形も,時代と地域によって異なるし,その際,劇作術の責任をとるのが独立した個人であるとは限らない。しかし作者が同時に座長役者であったり,あるいは役者との協力のうえで舞台上における劇作術の実現が果たせるうちは,〈演出家〉という独立した機能は必要がなかった。言いかえれば演出は,演戯と劇作術とが暗黙のうちに自己の作業の一部としていたものであった。19世紀後半のヨーロッパで,文学の先鋭的部分が劇場と乖離し,劇文学の質の低下と名優の芸術的独善が横行した時に,劇作術の全体構造を舞台上に復権する役割として演出家が生まれ,やがて20世紀を〈演出家の世紀〉と呼ばしめるまでにその権利を確立する。舞台表現のすべてを,その機械技術(テクノロジー)の高度化・完璧化も含めて,統轄し動員する者としての演出家が脚光を浴びるのである。劇作術が〈演出の譜面〉となって初めて意味をもつのは当然であるが,それが〈演出家の譜面〉になったのだといってもよい。それは17世紀イタリアやフランスのオペラに君臨した〈舞台の魔術師〉たるあの建築家兼装置家に似ているが,20世紀の演出家は,すでにJ.コポーやE.G.クレーグ,V.E.メイエルホリドらの場合に顕著であったように,俳優の演戯とその具体的技術(演技)についてのラディカルな探求を支えにすることが多かった。その論理的帰結は,1930年代にA.アルトーが予言者的な過激さをもって主張し,60年代にいわゆる肉体演劇が実現したように(J. グロトフスキの実験室劇場,ジュリアン・ベックのリビング・シアター等),単に戯曲や劇作家の廃絶ではなく,舞台に先立って書かれたすべての分節言語の廃絶を志向し,舞台を,叫びと異形な身体運動の充満する,存在論的混沌の支配する場と変じようとする。それは俳優の身体訓練の中から一つの劇作術を造型していく手続きだともいえる。その意味では,A.ムヌーシュキンの太陽劇団による集団制作は,特権的な演出家そのものをも廃止しようとする企てであったが,ここでも最終的には上演を貫く〈劇作術の統一〉をはかる存在は必要であり,事実存在したのであって,集団制作とは,誰もが勝手に思い思いの芝居を持ちよることではなく,集団構成員の自発性を引き出し,それを表現の契機とするための一つの仕組みだったのである。
肉体演劇は演戯者の存在そのものを裸形の身体として露呈させたが,その対部のようにして舞台上の〈言葉〉の存在そのものをも露呈させることになった。もはや演戯者の身体が意味へと乗り超えられることによって消え去るのではないように,言葉も単に意味を伝える一手段ではなく,言葉の存在そのものが舞台上の事件となるのである。
これは一つには,演劇における言葉の特異性そのものを逆手にとったものといえる。すなわち,舞台上では原則としてつねに一人の人間しか言葉を発することができない。複数人が同時に言葉を発しうるのは,同じことをそろって言うか(たとえばコロス),あるいは意味が観客に了解できなくてもよいことを前提としてである。考えてみれば随分と奇怪な〈言葉の暴力〉だが,それは登場人物間にだけ認められるのではなく,舞台と客席の間にも存在する。少なくとも近代以降は,舞台に言葉がゆだねられている限りは客席は沈黙を強いられるのであり,歌舞伎の掛け声にしても,舞台の言葉との関係でしか掛けられないし,その間を外せば,〈半畳を入れる〉に等しい破壊的違反行為になる。こう考えると,舞台上で言葉を発している限りは舞台という空間に存在できることになるのであり,それを存在論的比喩に仕組んだのがS.ベケットの劇作にほかならない。同じことは,ラシーヌ悲劇についてR.バルトが指摘していて,ラシーヌ悲劇においてはその暴力的な力関係をただ言葉だけが担うことによって,言葉が劇的関係を表現しつつ,そのような劇的関係そのものを舞台上に見せておくのである。現代における古典の読み直しの契機は,単なる文学戯曲の再発見ではなく,演劇における言葉の特異な存在そのものに問いかける企てであり,このような形での新しい言葉の戯曲も生まれつつある。
演劇は再現と繰り返しをその条件とする。それは〈再現=代行型演戯〉における模倣による再現・繰り返しばかりではなく,そのような演戯自体が繰り返されるという意味においてである。この点では,一方では音楽の演奏会に通じ,他方では映画,テレビ,レコード芸術などに通じるが,前者が原則として楽器を持つのに対し演戯は演者自身が自分の身体を楽器=道具とする点が異なるし,後者は再現さるべきものが物質的媒体によって固定されている点が違う。
そこには無いものを模倣することで現実のものとするというのは呪術の根本であるが(それは過去のことではなくてもよい,たとえば象狩りに出発する前に象を倒す模倣所作をするとか),しかし最も重要な呪術は,すでに過ぎ去ったものを,特に死という決定的な境を超えてしまったものを,現世に呼び戻すことだろう。演劇の始原を語る神話の幾つかが,生産力の象徴と考えられていた太陽や大地の〈死と再生〉の神話であり,それにまつわる祭儀であったことは,演劇の機能・作用についての反省にやはりヒントを与えてくれる。よく知られているように,《古事記》《日本書紀》に語られる太陽女神天照大神(あまてらすおおかみ)の岩屋戸隠れと,天鈿女(あめのうずめ)命の呪術による太陽女神の再臨とは,一年の終りにおける〈太陽神の死とその復活=再生〉の物語であり,天皇家における大嘗会の儀礼の根拠を語る神話である。ウズメが太陽神をよみがえらせるために用いた呪術は,記紀を統合して読めば,さまざまな俳優(わざおぎ)をし,火を焼き〈うけ〉を踏みならし,神懸りし,乳房と性器を露出し,神々の笑いをひきおこすことであり,しかもその戦略の頂点には〈鏡〉という影像反映の,つまり影像をとりかえす道具が用いられた。現代の比較神話学者が説くように,性器の露出とそれによってひきおこされる笑いが大地の生産力再生の呪術であることは,エレウシスのデメテル大女神の神話に通ずるものだし,大斎会も母なる太陽女神の聖婚と天子の誕生の呪術的擬態であり,またエレウシスの秘儀もゼウスとデメテル大女神との聖婚と神子誕生を筋書とする。ニーチェは悲劇の根拠をなす神話として〈植物神ザグレウス=ディオニュソスの死と再生の劇〉があると説いたが,ギリシア悲劇の物語との関係としてではなく,演劇の始原神話としては的を射ている。ウズメの俳優が猿女(さるめ)の祖つまり日本における芸能者の祖とされるのは周知のとおりであるが,そこでは性器の露出と笑いによる宇宙の生産力の復活という交感呪術にあわせて,それをより象徴性の高い鏡の影像再現呪力につなげているのである。
この再現呪術は,降霊術ともなるのであって,死者の魂に語らせるための祭祀は,たとえばギリシア悲劇の始原に予想され(アイスキュロスの《ペルシア人たち》におけるダレイオス王の降霊舞歌はその痕跡を伝えている),あるいは御霊信仰に基づく能の鎮魂構造にも認められる。
ニーチェが〈ザグレウス=ディオニュソスの受苦と死と復活〉を〈悲劇的神話〉としたのは,ギリシア悲劇の英雄をすべてこの始原的事件に重ねたからである。この考えは宗教史的には正当化されないが,一つの比喩としては有効であり,事実,悲劇に限らず演劇の主人公を〈供犠〉すなわち犠牲の儀礼の対象と見なすことは可能だからである。たとえばフランスの神話学者ルネ・ジラールRené Girard(1923- )のように,〈贖罪の牡山羊〉をはじめとする供犠に,社会の無意識の層に集積する暴力の発露とその調整を見る論者もいるし(この点ではアリストテレスの〈カタルシス〉論に通じる),あるいはフランスの古典神話学者ベルナンJean-Pierre Vernant(1914- )のように,この〈穢れ〉を具体的な儀礼と結びつけて,たとえばソフォクレスの《オイディプス王》を,アテナイの古い宗教的習慣である〈汚穢を担う者(パルマコス)〉の追放と,同時代の政治的選択である〈貝殻追放〉とを重ねて読んだものとし,犠牲に選ばれる者の両義性すなわち人並み優れていると同時にすべての人より卑しく穢れている者という様相を強調する学者もいる。その〈穢れ〉がいずれにせよ人間の社会を成立させるために必要な排除の原則によって人間以外の領分に排除された〈反-世界〉であってみれば,ソ連の文芸学者M.M.バフチンのように,始原的混沌の侵入による社会的生の活性化であるカーニバルや道化に,演劇の真の作用を見いだそうとする視点も生まれてくるのである。
このように演劇の始原を語る神話や言説が,演劇という行為そのものを〈死から生への転換〉の営みとして見ていることは,演劇の作用を考えるうえでやはり無視することはできない。そこでは演ずる側も見る側もほかならぬ生身の人間でありながら,生も死も一度括弧の中に入れたうえで,現実には不可能なことを,あるいは現実の生では完全には生きえないことを,現に生きているかのごとくにして見せ,かつそのようなものとしてそれを見る。そこには現実には体験することが難しい生の集約された体験と,それを意味の構造へととらえかえす作業とが並行して起きていて,この二重の作用が,演劇の体験の質を支えている。
その出発点は,擬態=戯態に呪力を見ることに発していたとはいえ,そのような〈聖なるもの〉とのつながりを失った演劇においても,演戯者は再現=幻想そのものの現象する場として,特権的な立場を占めている。他者の視線に自分の体をさらしてするこの演戯は,オイディプスという〈供犠の劇作術〉の主人公に似た両義性をもっている。さらにそれは見られることで見返すという両義性をも生きている,幻惑的であると同時に挑発的な謎である。多くの社会において,演劇や劇文学が文化の頂点を占めた場合においてすら,役者が社会的に特殊な両義的感情の対象であり,その栄光の身体が同時に呪われたものであったのも,いわれのないことではなかった。
→戯曲 →ギリシア演劇 →劇場 →俳優
執筆者:渡辺 守章
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ことばと身ぶりによって表現される芸術の一形態で、人間社会においてつねに、どこにでも存在する文化の一様式でもある。日本で「演劇」の語が用いられたのは明治以後のことで、それまでは「芝居」であった。平安時代から中世にかけて栄えた延年(えんねん)舞曲が、寺院の庭の芝生に座って見たものだからである。「劇」の文字も使われず、当時は中国に倣って「戯」が用いられ、劇場も「戯場」といわれた。西洋では、英語でtheatre(シアター)、フランス語でthéâtre(テアトル)、ドイツ語でTheater(テアター)などであるが、これも古代ギリシア劇において「見る場所」を意味するtheatron(テアトロン)からおこった。これらの語源には、演劇の本質としての観客の重要性が暗示されている。
[河竹登志夫]
ギリシアでは、詩、音楽、絵画、彫刻、建築を五芸術とし、演劇という分野はなかった。ギリシア劇は詩の朗唱であって、悲劇、喜劇は叙事詩とともに詩の分野とされていたのである。舞踊、ついで演劇が、人間の肉体を表現材料とする独自の芸術様式として成立するのは近代以降で、その意味では第七芸術ということになるが、五芸術のすべての要素を含むので「総合芸術」ともいわれる。演劇は肉体を媒材とする点では舞踊と同じだが、舞踊はかならずしも劇的な筋をもたなくともよい。しかし、演劇となると、どんなに短いものでも人間をテーマとする一連の劇的な筋の展開、すなわち「劇的な行為(アクション)」が描かれていなくてはならない。「劇」という文字は「虎(とら)」と「豕(いのしし)」と、刃物を示す「刀」の合成で、たけだけしい対立者が相戦うさまを意味している。人間と運命、神、境遇、社会悪、あるいはほかの人間や、人間自体に潜む相反する性情など、つまり人間と他の何物かとの矛盾、対立がしだいに表面化して激しく戦いながら、次々に行為を生んで一つの結末に至る過程、それが劇的行為である。そして、その原型がすなわち上演台本、ドラマ(戯曲)である。それらはかならずしも文字で書かれる必要はないが、原始的、即興的なものから高度な演劇へと発達して文字で定着されるようになるにつれて、戯曲は文学の一種ともなっていく。
発達した演劇の要素としての戯曲は、俳優の行為によって現在眼前で進行しつつある形で、つまり人物の出し入れ、場面、状況、動きの設定などを補足しながらも、あくまで台詞(せりふ)を主体として書かれるところに、他の文学形態との違いがある。
[河竹登志夫]
俳優と戯曲(劇的行為)と観客を、演劇の三要素という。演劇の場としての劇場はもとより必要だから、これを加えれば四要素となるが、忘れてはならないのは観客が演劇に果たす役割である。観客は、舞台がよければ感動を表明し、悪ければ不満を示す。その反応の波動はただちに舞台に及び、劇の成果を左右する。つまり観客は単なる鑑賞者ではなく、積極的に、また同時的に演劇創造に参加するものだといえる。この直接的な交流共感は、そもそも俳優と観客が根元的には一体であることによるもので、ここが他の芸術との大きな違いでもあり、機械による再生芸術である映画、テレビなどとも本質的に異なる点である。
[河竹登志夫]
演劇はごく素朴な踊り、あるいは物真似の身ぶり手ぶりから発達したと考えられるが、その起源は人類が社会生活を営み始めた太古にまでさかのぼり、宗教的行事との深い関連を見過ごすことはできない。ブドウと酒の神ディオニソスに感謝して、その徳をたたえる円舞合唱からおこったギリシア劇、日本の神楽(かぐら)の祖とされる太陽崇拝の祈祷(きとう)舞踊としての天鈿女命(あめのうずめのみこと)の岩戸の舞、あるいは各地に残る民俗芸能や、未開民族の原始的演劇にもこのことは認められる。生産の向上と確保、死や病魔や自然の脅威の退散、克服、戦勝や恋愛の成就などを願い、生活不安を除き、日々の安泰を感謝し、さらによりよい生活を求めるとき、歌う者と踊る者が一体となってわれを忘れ、超自然力としての神を招いて同化することは有力な手段であった。それは共感呪術(じゅじゅつ)の原理とよばれる。いわゆるシャーマニズムもその典型例だが、この真剣な営みであった無意識劇の状態のなかに演劇の根元的な原体験が潜んでいたのである。それがしだいに見る者、見せる者に分かれ、叙事詩や戦記文学などが豊富な内容を与えて専門的な劇作家も生まれ、劇場も発達した。とりわけ近代に近づくと舞台装置や照明などの補助的要素も分化発達し、それらを統一する立場が求められるようになる。その仕事が演出であり、それを行う人が演出家である。
前述のように演劇は総合芸術といわれるが、それは単に種々の要素を重ね合わせたのではなく、優れた演出によって多くの要素が渾然(こんぜん)と調和、融合して生まれる一個の独特な芸術世界ではなくてはならない。
[河竹登志夫]
紀元前5世紀のギリシアにおいて、西洋演劇の源流をなす古代劇が完成されている。神ディオニソスをたたえる円舞合唱を起源として、都市国家(ポリス)の確立とともに大野外劇場における国家的祭典行事となったのである。やがて内容もディオニソスの一代記から脱して神話や英雄伝説を取り入れ、俳優も1人から2人、3人に増え、演劇的形態を確定してアテネを中心に最盛期を迎えたのが、前5世紀のペリクレス時代である。春の祭典からは荘厳な悲劇(トラゴイディア)が生まれてアイスキロス、ソフォクレス、エウリピデスなどの作家が輩出し、冬の田舎(いなか)祭りからは滑稽(こっけい)な風刺の喜劇(コモイディア)が生まれてアリストファネスが出た。
それからやや遅れた哲学者アリストテレスの著作『詩学』は、悲劇の名作を分析して緻密(ちみつ)に論究した優れた労作で、西洋の演劇論の源流としていまなお重要な位置を占めている。ことに悲劇はそれ自身で完結した、つまり初めと中と終わりをもつ厳粛な行為の模倣であり、演じ出されることで恐怖と同情を引き起こし、情緒のカタルシス(浄化)を行うものだという、悲劇の定義は有名である。
ギリシアを受け継いだローマの演劇は、より動物的、現世的で、スペクタクルを好み、悲劇の伝統を生かすよりは、むしろ卑俗な喜劇や即興的パントマイムのたぐいへ流れて、豪華な大野外劇場の装飾を誇った。したがってギリシア劇の流れをくむ劇詩人たち(セネカ、テレンティウス、プラウトゥスら)の作は、貴族や学者の間で朗唱される程度で大衆のものとならず、質的にもギリシアの模倣の域を出なかった。演劇論にはホラティウスの『詩論』があるが、アリストテレスの『詩学』の分析的美学的理論体系に対して、実用的技法が主である。
中世に入ると、いわゆる暗黒時代一般の傾向として古代劇の伝統は表面から消え、僧侶(そうりょ)がキリスト教布教のために教会で行う宗教劇が支配的となる。それらは、初めはラテン語によっていたが、しだいに各国各様になって庶民も参加する一方、ギルドの発達とともに民俗的演劇(世俗劇)が興隆して近世劇の母体をつくり始めた。たとえばローマのミモスの流れをくむ卑俗だが専業的な玄人(くろうと)芝居は、やがてイタリアのコメディア・デラルテとなって、モリエールその他に重大な影響を及ぼす。しかしこの時代には、演劇論としてはみるべきものはない。
ルネサンスを迎えると、まず16世紀のイタリアでアリストテレスの『詩学』翻訳をはじめとして古代研究が進み、遠近法を採用した舞台装置も発明されて屋内劇場が発達、オリンピコ座やファルネーゼ座などがつくられ、近世、近代の額縁舞台をもつ劇場の基礎が確立した。17世紀には古代劇の伝統がフランスで復活し、ルイ14世治下の古典劇全盛時代の幕が開き、コルネイユやラシーヌの悲劇、モリエールの喜劇を生む。いずれも合理的、調和的な構成に特徴があり、筋・時・所の単一を旨とするいわゆる三単一(三一致)が鉄則とされた。これはイタリアでしだいに形づくられたものが、17世紀フランスの宮廷文化を背景に、合理、調和、秩序の理念によって完成された観念で、その頂点にたつ理論がボアローの『詩法』である。
16、17世紀の西欧では、これとは別にスペインにローペ・デ・ベーガやカルデロン・デ・ラ・バルカが現れて自由奔放な戯曲を書き、イギリスではシェークスピアが自由な作劇術に溌剌(はつらつ)とした詩情と修辞を織り込んで生き生きと人間を描き、エリザベス朝演劇の花を咲かせた。しかし当時は古典主義が支配的で、シェークスピアの天才も高く評価されたわけではない。だが18世紀後半に至り、ドイツにレッシングが出て『ハンブルク演劇論』において古典主義の行き詰まりを批判するとともに、正しい古典復活とシェークスピアの評価を行い、さらに続いてゲーテ、シラーがドイツ・ロマン派を導き、フランスのディドロも市民劇の理念を提唱して、近代劇への動きを促した。総じて近世演劇は、職業的俳優の劇団活動が盛んになり、屋内劇場での多幕物上演が増え、劇的内容はしだいに各国各様の、いわば国民劇の性格が醸成されて、神や英雄にかわって一般的な人間が描かれる方向へと展開していったのである。
19世紀初頭のロマン主義演劇を経て、後半には進化論の提唱や物理、天文など自然科学および機械技術の発達に伴い、近代自然主義の演劇がおこった。イプセン、ストリンドベリ、ハウプトマン、チェーホフらの作家が現れ、写実主義的近代劇運動の牙城(がじょう)としてアントアーヌの自由劇場、グラインの独立劇場、ブラームの自由舞台、ネミロビチ・ダンチェンコとスタニスラフスキーのモスクワ芸術座などが創立された。俳優中心の商業主義演劇を脱して人生探究を第一義とし、作の内容尊重と調和ある全的表現を求めて、演出という仕事が重視され確立されたのはこの時期であった。もちろんそれは、一つには装置、照明などの技術的発達により、それら各要素を統一する必要が生じたためでもある。
しかし20世紀に入ると、さらにそれを超えて、人間の内的本質に直接迫ろうとする反自然主義の傾向が現れ、第一次世界大戦ごろからは急速に活発化し、象徴主義、表現主義、構成主義などの諸様式が試みられるようになる。また、プロレタリア演劇運動にその典型をみるような、自らを社会機能の一つとしてとらえる思想的・革命的演劇活動も盛んとなり、これらは日本の新劇運動にも大きく影響した。今日の演劇的課題は、イプセン的近代古典劇をいかにして乗り越えるかであり、ドイツのブレヒトの叙事演劇、イギリスやフランスの詩劇、フランス現代のアンチ・テアトル(反演劇)、各国に波及している肉体主義の演劇、観客参加による前衛的小劇場運動など、いずれもその多様な現れとみることができよう。またアメリカでは、オニール以後の近代的演劇のほかに、独自のミュージカルという様式が創造されて隆盛の一途をたどり、各国の現代演劇にも摂取されている。
[河竹登志夫]
東洋においても演劇は古代の原始信仰に基づく祭祀(さいし)芸能からおこったと考えられるが、その発達の歴史や様式は、国ごとにきわめて雑多である。西洋演劇は中世の存在によりキリスト教文化という共通の基盤をもち、戯曲のうえでも様式の点でも相互に密接に影響し合って発達した。これに対して、東洋演劇は互いに相似点はあるものの、とくに密接な相関関係の発達史的裏づけはむずかしい。そのうえ原始的ないし民俗芸能的な段階にとどまるものが多く、いわば各個並存的であるから、西洋に比して戯曲や劇文学の発達は希薄で、主体は歌舞であり、その発展が芸能様式史としてしかとらえられないところに特徴がある。たとえば、ジャワ島のワヤンという影絵人形劇や宮廷舞踊、バリ島の踊り、スリランカの悪魔仮面舞踊、朝鮮や中国東北、モンゴルの跳鬼舞踊やシャーマン芸能など、それぞれ風土や生活様式を反映した芸能で、それ自体独自の高い芸術的、美的価値をもつが、劇的構成として発達しているとはいえない。東洋において西洋に比すべきドラマと演技演出の歴史をもつのは、日本、中国、インドであり、朝鮮がこれに次ぐくらいであろう。
中国の演劇の起源は明らかではないが、固有の歌舞雑芸(ぞうげい)に加えて、六朝(りくちょう)時代に西域方面から異国的歌舞音楽が輸入されて多彩さを加えた。唐(とう)代(7世紀以降)には宮廷に教坊や梨園(りえん)が設けられて歌舞は芸術的に向上(日本の雅楽、舞楽はこの系統)し、さらに北宋(ほくそう)、金代(10世紀以降)になると劇的構成は複雑化して俳優の役柄も確立し、西洋的概念の演劇がここにほぼ確立したといえる。北宋では雑劇(ざつげき)、金ではこれを院本(いんぽん)といった。そして元(げん)代(13世紀以降)に至り、演劇は元曲(北曲)として完成された。これは歌と台詞(せりふ)による4折(4幕)の音楽劇で、元代末にはより自由な様式の南曲南戯がおこり、さらに明(みん)代に入ると崑曲(こんきょく)とよばれていっそう栄えた。今日の京劇(きょうげき)は、清(しん)朝末から北京(ペキン)を中心におこったもので、これがそれまでの崑曲その他を圧倒し、南方の越劇(えつげき)とともに現在の二大古典劇をなしている。20世紀以来、日本の新派や新劇を範として話劇が生まれ、人民共和国成立後は国家管理のなかで改良、創造が続けられている。
インドの演劇も原始様式は明らかではないが、3世紀ごろから発達し始め、5世紀にはインド最大の劇文学者カーリダーサが現れて、その後400年間の全盛時代を生んだ。古叙事詩『マハーバーラタ』に取材した『シャクンタラー』そのほか、構想雄大にして詩情あふれる7幕または5幕の作品を残し、ドイツの文豪ゲーテにも影響を及ぼしたといわれる。しかし演劇の発達は8世紀ごろまでで、その後はみるべきものがなく、今日もなおそれらの伝承以外に近代劇的なものを生むには至っていない。
日本では、神話時代の神事的民俗芸能に発し、7世紀以降大陸からの楽舞輸入と消化の時代を経て、平安時代の雅楽確立、中世の能、狂言、近世の文楽(ぶんらく)、歌舞伎(かぶき)などの創造大成により独自の発達を遂げた。近代に入ると西洋の文学、演劇をいち早く移入して新派、新劇を生み、近代劇芸術については東洋における先駆的役割を担ってきた。なお、仮面劇、人形劇、影絵芝居が特異な発達を示していることも、東洋演劇の一特徴といえよう。
[河竹登志夫]
古今東西を通観すると、演劇の種類はきわめて多種多様で、その分け方も一様ではない。たとえば、時代別に分ければ古代劇、中世劇、近世劇、近代劇などであり、表現手段からは科白(かはく)劇(台詞(せりふ)としぐさによる普通の劇)、黙劇(パントマイム)、舞踊劇、音楽劇、人形劇などに分けられる。普通に行われる悲劇、喜劇、解決劇、笑劇(ファルス)、メロドラマなどの分け方は、劇的ムードとか運行結果からみたものであり、そのほかに文学形態から(韻文劇、散文劇)、表現手法から(写実劇、詩劇、表現主義演劇、象徴主義演劇)、劇的動機から(運命劇、境遇劇、性格劇)、素材から(歴史劇、神話伝説劇、社会劇、家庭劇、民話劇)、目的から(政治劇、宗教劇、教育劇、娯楽劇、祝祭劇、慰問劇、公共劇)、形式から(室内劇、野外劇、円形劇場)などと、演劇の分化発達に即してほとんど無限に分けられる。むろんギリシア演劇、イギリス演劇、アメリカ演劇などの各国別分類、あるいは日本を中心に大きく分けて、国劇と西洋演劇とに区別するなどの分け方もできる。そしてもっとも大局的な見地にたてば、これらのうちで世界の演劇の主流を占めてきたのは、いわゆる西洋演劇である。その西洋演劇はギリシアに出発し、フランス古典劇からイプセンへつながる古典主義演劇の流れと、中世に出発してシェークスピアからゲーテ、シラーを経て今日の反自然主義に至る非古典主義演劇の二つの流れがあり、この二大潮流の相克の歴史によって形づくられているとみることができよう。
[河竹登志夫]
演劇が単に娯楽や鑑賞のためではなく、人生に必要不可欠なものとして発生したものであることは前述のとおりである。つまりそれは、生産とか、病、死とか、戦いや天災地変などの生活の危機に直面したとき、なんとかしてその不安を乗り越え、かき消し、自らの生を体ごと確認しようとする人間の無意識な働きだったのである。それは現在でも、原始的な生活をしている未開人種の間に明らかにみられる。そしてその演劇的行為に、重大な要素として模倣と遊戯性が含まれていることはいうまでもない。
模倣とは、アリストテレスによって位置づけられた概念である。その師プラトンは、演劇、文学をはじめ造形美術などいっさいは、イデアすなわち理想的な存在(真存在)の模倣である現実や実物を、さらに模倣したものにすぎないから、真実から遠いもの、堕落したものだとして否定した。アリストテレスはそこで、模倣ということを解釈し直すことによって、演劇肯定説を打ち立てた。つまり、人間は赤ん坊のときから模倣本能がある、と同時に、模倣されたものをみて喜ぶ本性がある。模倣ということはかように人生にとって不可欠のものであり、演劇はこの本能に結び付いたものにほかならない。演劇の場合の模倣は、しかも事実そのものでなく、人生の真実らしいもの、あるべき姿を描くことだ、と論じたのである。この模倣説と、前に記したカタルシス説とは、演劇の機能の本質をとらえた重要な見解だといえる。人間は、このようにして、わざわざフィクションの世界をつくりあげ、そのなかに遊びながら、いっそう高い別の次元の人生を味わい、そこにこそ人間の生きる意味や喜びを実感としてとらえる。その意味で、芝居(演劇)は人生の真実の投影だともいえよう。『ハムレット』のなかの「芝居は人生を映す鏡だ」という台詞(せりふ)や、ラテン語の「全世界は劇場なり」ということば、中国にいう「乾坤(けんこん)一戯場」の語など、いずれもその本質を示している。
優れた演劇は、したがって、見る者の心を楽しみのなかに清め、人生の真実、理想へと高め導くものとなる。能の大成者世阿弥(ぜあみ)は、これを「そもそも芸能は、諸人の心を和らげ上下の感をなさんこと、寿福増長(じゅふくぞうちょう)の基(もと)、遐齢延年(かれいえんねん)の法なるべし」と述べている。
しかし芝居は俳優の肉体により、実人生に酷似した形で、しかも感覚的に訴えかけるために共感陶酔の度合いが強く、現実と虚構との境界が失われる場合もある。日本では若侍が歌舞伎(かぶき)の悪役に切りつけ、止めに入った男を殺害した例もあるし、アメリカでも軍人が『オセロ』のなかの悪漢イアーゴに扮(ふん)した俳優を銃殺して自殺するという事件が起こっている。また強く集団心理に作用するため、政治運動や教育にも役だつかわり、堕落や危険を招くおそれも生ずる。プラトンの憂いにも一理あるわけで、歌舞伎が徳川幕府に遊廓(ゆうかく)と並ぶ悪所として取り締まられ、役者や作者は河原者として低い地位に置かれたこと、また大正から昭和前期にかけて新劇運動が革命運動として弾圧されたことなども、演劇の社会的影響の大きさを裏づけている。東西ともに、演劇が本質的な人生との関係において評価され、芸術として肯定的に位置づけられたのは比較的近代のことである。
日本では明治以来、坪内逍遙(つぼうちしょうよう)や森鴎外(おうがい)らの先覚者によって演劇の重要性が高唱されたが、それが一般社会に認識されたのは第二次世界大戦後である。戦時中に軍隊や勤労者の慰問で地方にまで演劇への関心が行き渡ったことも、戦後の地方演劇や自立演劇、観劇組織、学校演劇などの普及発達に役だった。視聴覚教育ということばも生まれ、現在では「文化の顔」とさえいわれて国際交流にも大きな役割を果たしつつある。ことに科学技術の急速な発達により、人間自身の機械化、非人間化の危機が叫ばれる現在において、演劇の使命はますます大きい。演劇は究極において人間をその「生の根元」に連れ戻し、人間性を確認、回復させる芸術だからである。
[河竹登志夫]
『河竹登志夫著『演劇概論』(1978・東京大学出版会)』▽『R・ピニャール著、岩瀬孝訳『世界演劇史』(1955・白水社)』▽『菅原太郎著『西洋演劇史』(1974・演劇出版社)』▽『河竹繁俊著『概説日本演劇史』(1966・岩波書店)』▽『安堂信也他編『世界演劇論事典』(1979・評論社)』
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…俳優術ともいう。演技は,その発生時には,無意識な踊り,物まねにすぎなかったが,演劇の分化,発達につれて独立の表現形式となった。日常の言動に近い写実的なものから,抽象的な様式のものまで,その演劇形態に応じて様式はさまざまである。…
…戯曲を上演するためには,その中心となる俳優の演技をとりまく舞台装置,照明,音楽,音響効果などさまざまな要素が必要であるが,そのすべてを統一して調和させるのが演出の仕事である。演出家の使命は現代演劇の発展とともに重要性を増してきたが,この役割は演劇の歴史とともにあったといえる。ギリシア時代には,作者がしばしば演出,俳優,合唱隊長を兼ね,執政官は富める市民を選び出して合唱団の組織,衣装の調達など劇上演の管理にあたらせた。…
…演劇あるいはこれに類する技芸を上演する建物で,大きく分けて演ずる場である舞台と,それを享受する観客席から成る。演劇の場としての劇場の空間構成には,屋外,室内の別を問わず,大別して二つの形態が認められる。…
…観客を集め,また多くは入場料をとって,演劇(芸能),音楽,映画,スポーツなどの催しを行うこと。以下,その代表的存在といえる演劇興行について記述する。…
…このような〈コードのないメッセージ〉はほかに存在するだろうか。たとえば,一見,似たような視覚メディアとしては,絵画,映画,演劇などをあげることができる。確かにこれらのメッセージが伝えるものは,たとえば日本語における〈犬がほえている〉という発話が,ある特定の小動物の,ある特定の時間(現在)における,ある特定の行動として,ほとんどすべての人々にかなりはっきりと理解されるというほど明解ではない。…
…広くは演劇観一般を意味し,狭くは具体的な劇作法・劇作術をさす言葉であるが,これが一つの術語として確立していることが,演劇という芸術の本質的な一面を暗示しているといえる。現代語には文学観の全体を示す〈詩学poetics,Poetik(ドイツ語)〉という言葉はあるが,個々のジャンルについて,たとえば抒情詩観を一語で表す成語はないし,小説作法を意味する単独の術語もないからである。…
…一般に俳優とは,演劇のなかで自分の身体を素材にして,他の何かになりかわる者と定義できるだろう。その際,せりふと身ぶり・表情が原則としてその演技者の手段となる。…
※「演劇」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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