プロレタリア文学(読み)プロレタリアブンガク

デジタル大辞泉 「プロレタリア文学」の意味・読み・例文・類語

プロレタリア‐ぶんがく【プロレタリア文学】

プロレタリアートの階級的自覚と要求に基づき、その思想と感情を描き出した文学。日本では、大正10年(1921)の「く人」の創刊を出発とし、のち「文芸戦線」「戦旗」などにより、昭和9年(1934)弾圧で壊滅するまで続いた。

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精選版 日本国語大辞典 「プロレタリア文学」の意味・読み・例文・類語

プロレタリア‐ぶんがく【プロレタリア文学】

  1. 〘 名詞 〙 プロレタリアートの階級的自覚に基づき、その思想・感情を描き出した文学。社会主義革命運動の展開に伴って二〇世紀初頭から一九三〇年前後にかけて行なわれ、のち、社会主義リアリズムの文学に発展した。日本では、大正末期の「種蒔く人」を出発点とし、度々の組織の分裂・統合を経て、「文戦」派と「戦旗」派に分かれて隆盛を見たが、政治的弾圧を受けて昭和九年(一九三四)に壊滅。

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改訂新版 世界大百科事典 「プロレタリア文学」の意味・わかりやすい解説

プロレタリア文学 (プロレタリアぶんがく)

プロレタリアートの階級的自覚の高まりとともに,その思想,感情,生活の表現を目ざした文学潮流。

ドイツの労働者詩人ウェールト,《インターナショナル》の作詞者ポティエEugène Pottier(1816-87)らが源流と目される。20世紀初頭のロシア革命の中で,ブルジョア文学に対立するものとしてその概念が明確化され,1905年レーニンは《党の組織と党の文学》で,〈プロレタリアートと公然と結びついた文学〉の必要を強調した。実作的にはゴーリキーの戯曲《敵》(1906),長編《母》(1907)がその草分けとされ,14年にはゴーリキー編で労働者作家の作品集も出る。D.ベードヌイの風刺,扇動詩も読者を獲得した。

 17年のロシア革命後,プロレタリア文学は組織的な文学運動の性格を強める。まず〈プロレトクリト〉がその母体となり,ここからは〈鍛冶場Kuznitsa〉派のゲラシモフMikhail P.Gerasimov(1889-1939),カジンVasilii V.Kazin(1898-1981)らのプロレタリア詩人群が生まれた。しかし,その観念的ロマン主義にあきたりないD.A.フールマノフ,F.V.グラトコフ,ベズイメンスキーAleksandr I.Bezymenskii(1898-1973)らの作家,詩人が,22年にプロレタリア文学グループ〈十月Oktyabl'〉に結集し,それがVAPP(ワツプ)(全ロシア・プロレタリア作家協会)に発展するあたりから,ソ連共産党の文芸政策と密接なかかわりをもつようになる。ロシア・プロレタリア文学は,Yu.N.リベジンスキーの《一週間》(1922),フールマノフの《チャパーエフ》(1923),A.S.セラフィモービチの《鉄の流れ》(1924),A.A.ファジェーエフの《壊滅》(1927),ベズイメンスキーの詩作など,しだいに実作面での成果をあげていくが,全体としては〈同伴者文学〉や,LEF(レフ)(正称は芸術左翼戦線Levyi front iskusstva)を中心にしたアバンギャルド文芸運動の創作水準に立ちおくれていた。24-25年には,L.D.トロツキー,A.K.ボロンスキーらをまきこんで,党の文芸政策が大きな論争の的になり,25年の党中央委員会決議では,創作分野での〈自由競争〉の原則が打ち出された。しかしその後も,VAPPを引きついだRAPP(ラツプ)(ロシア・プロレタリア作家協会)は,非プロレタリア系作家への政治主義的な攻撃をやめず,世界観偏重の創作方法をかかげたため,32年RAPPその他の文学団体を解散して,全ソビエト作家を単一の作家同盟に結集する方針が打ち出された。以後,〈プロレタリア文学〉ということばは,ソ連ではほとんど使われなくなる。

 ロシアのプロレタリア文学運動は,国際的にも大きな影響を与えた。すでに第1次大戦時から,ドイツの〈表現主義〉文学運動,フランスのH.バルビュスやバイアン・クチュリエPaul Vaillant-Couturier(1892-1937)の創作が,広い意味でプロレタリア文学の先駆けとみなされ,アメリカのU.B.シンクレア,J.ロンドンの文学にも同じ傾向が看取されたが,それが自覚的な文学運動となるのは,やはり1917年のロシア革命後である。ドイツでは19年に〈プロレタリア文化同盟〉が結成され,E.トラー,B.ブレヒト,J.R.ベッヒャー,A.ゼーガースらがプロレタリア作家として活躍した。フランスでも同19年にバルビュスによって反戦と国際主義の立場に立つ〈クラルテClarté〉グループがつくられ,またL.アラゴンのようにシュルレアリスムからプロレタリア文学陣営に加わる詩人も出た。アメリカでは,ロシア革命のすぐれたルポルタージュを書いたジョン・リードを中心に〈ジョン・リード・グループ〉が結成され,ゴールドMichael Gold(1894-1967),J.ドス・パソスらが参加した。ほかにハンガリーのイレーシュIllés Béla(1895-1974),チェコスロバキアのフチークJuliu Fučik(1903-43)の存在も見落とせない。中国でも20年代後半からプロレタリア文学運動が興り,〈文学革命から革命文学へ〉の道が探究された。郭沫若(かくまつじやく),蔣光慈,茅盾(ぼうじゆん),郁達夫(いくたつぷ)らがその担い手である。30年には魯迅を中心に中国左翼作家聯盟が結成され,〈無産階級革命文学〉の旗をかかげて抗日戦時代まで活動をつづけた。

 プロレタリア文学の国際的な組織としては,1920年に設けられたプロレトクリト国際ビューローがあり,25年にそれが革命文学国際ビューローに改組される。30年,22ヵ国のプロレタリア作家を集めてハリコフで開かれた同ビューローの第2回大会で,組織は革命作家国際連合Mezhdunarodnoe ob'edinenie revolyutsionnykh pisatelei(MORP(モルプ))と改称され,以後35年に解散となるまで,プロレタリア・革命文学の国際交流において大きな役割を果たした。
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日本のプロレタリア文学は,1920年代の初めからしだいに注目され,30年ころには文壇を圧する活気を示し,31年の満州事変以後は弾圧激化で解体に向かい,35年前後にその形としては消滅したもので,労働者や下積みの人々の生活とその声の素朴な表現から,共産党主導の革命運動の一翼としての文学活動という面までを包含する。1921年創刊の《種蒔く人》誌に結集した小牧近江らは,反軍国主義とその4年前に実現したロシア革命の擁護ということを掲げて,広く進歩的な思想家,作家たちに結集を訴え,明治・大正以来の社会主義文学(木下尚江,石川啄木,宮島資夫(すけお),平沢計七ら)とはちがう新しい運動として出発した。第1次大戦以来のデモクラシーの潮流と,労働者階級の増大,その自覚の成長,小作争議の頻発に見られる農民の新動向などに支えられて,まず進歩派の知識人の運動として始まったのであったが,《種蒔く人》の運動がしだいに進むに伴って,労働者階級と文学の関係,解放運動と文学の役割などについて理論的な手さぐりが進行し,平林初之輔,青野季吉を中心に革命文学の主張が行われるにいたった。しかし〈革命〉ということばは当時の検閲下では禁句であり,伏字にせざるをえなかったので,革命文学という代りにプロレタリア(労働者階級,無産者)の文学ということばをもち出し,22年ころから〈プロレタリア文学〉ということばが掲げられるにいたった。しかしはじめのうちは,このことばで労働者階級の貧しい生活,虐げられ,さいなまれている生活についての訴え(その最もすぐれた記録文学的表現が細井和喜蔵の《女工哀史》(1925))や自然発生的な反発・反逆などをも意味していた。

 《種蒔く人》は23年の関東大震災でつぶれたが,翌年《文芸戦線》として再出発,やがて大正末~昭和初年の革命運動の高揚に伴ってプロレタリア文学運動も活気を呈した。一方で葉山嘉樹の長編《海に生くる人々》(1926)のような傑作が刊行されるとともに(この作は日本プロレタリア文学の最初の記念碑的作品として今なお生きている),他方では青野季吉の《自然生長と目的意識》(1926)や蔵原惟人の《プロレタリア・レアリズムへの道》(1928)などの論文を通して,革命と文学との関係が問いつめられるようになった。青野のそれはレーニンの《何をなすべきか》の文学運動への適用の試みであり,蔵原のはプロレタリア文学においてのリアリズムの主体に〈党(共産党)の観点〉をすえつけようとしたものである。革命運動内の政治党派のせめぎ合いも激しくなり,青野たちは山川均を中心とする労農派支持に進み,蔵原たちはこれと対立した共産党の側に立った。当時共産党は非合法下の最前衛の党派で,三・一五事件などの大弾圧のなかでそれに屈せず活動していたので,本来,美的にも徹底的なものを追求する文学者は,中野重治をはじめとして多くの部分が共産党支持に向かい,三・一五事件直後にその弾圧に抗するようにして結成された全日本無産者芸術連盟(のち〈連盟〉が〈協議会〉に変わるが,略称はともにナップ。中野たちの日本プロレタリア芸術連盟(略称,プロ芸)と蔵原たちの前衛芸術家同盟(略称,前芸)との合体を中心に成立。機関誌《戦旗》)は,革命の理想と情熱との徹底性をめざして制作と運動に当たった。そこから小林多喜二の《一九二八年三月十五日》(1928)や中野重治の詩《雨の降る品川駅》(1929)や三好十郎の戯曲《疵だらけのお秋》(1928)などの緊張した美をふくむ革命文学を生みだすとともに,小林をはじめ佐多稲子,徳永直のようなすぐれた新人を輩出させた。これに対して青野らの《文芸戦線》を中心とする労農芸術家連盟(略称,労芸。文戦派)はしだいに色あせて見えるようになり,やがては実力派だった平林たい子,黒島伝治,細田民樹(1892-1972)らが脱退し,その多くはナップに参加した。なお,明治・大正以来の文壇作家で大正末年から社会主義運動ないしプロレタリア文学運動に参加した作家として,藤森成吉,江口渙(きよし)(1887-1975),江馬修(ながし)(1889-1975),宮本百合子,細田民樹,細田源吉(1891-1974)らがおり,彼らも結局はすべてナップに参加した。ほかに〈同伴者作家〉として広津和郎,野上弥生子,山本有三,芹沢光治良らがいた。

 プロレタリア文学は,明治・大正の私小説的な日本文学の体質を破りはじめ,思想と政治に生死する人間を描きはじめて,人民解放のために闘う新しい人間像,その思考や感覚の生き生きとした表現に多様な成功を示した。さきに名を掲げた諸作はその実例の一部となっている。それまでの個人主義文学に対する社会主義文学の成立である。しかし,その高揚は満州事変後の弾圧の激化によって,主要な作家たちの逮捕・投獄,一部の者の地下潜入とその後の逮捕,蔵原や宮本顕治ら文学運動の指導に当たった共産党中枢の政治主義的なごり押し,などによって文学運動は急激に退潮に向かい,主要な作家の大部分が転向した。共産党の指導に忠実だった小林多喜二は,特高警察の手で虐殺された。しかし宮本百合子や転向した作家のうちでも《村の家》(1935)などの作で立ち直ってきた中野重治たちは,満州事変の一応の終結後から日中戦争開始の37年までの3,4年に《文学評論》などの雑誌を中心にプロレタリア文学を再建した。中野の《汽車の缶焚き》(1937),宮本百合子の評論《冬を越す蕾》(1934),久保栄の戯曲《火山灰地》(1937-38)などが,より沈潜した形でのプロレタリア文学の新段階を示している。しかし日中戦争の開始は,プロレタリア文学という名称そのものを禁句にするまでの状態になり,日増しに激化する弾圧と取締りでしだいに手も足も出せなくなったが,それでも中野の《歌のわかれ》(1939),宮本の評論と短編小説,窪川鶴次郎の《現代文学論》(1939)など,プロレタリア文学系の芸術的に高度な作品は発展され,また平野謙,本多秋五,荒正人らその系統に属する若い文学者を生みだしてはいた。敗戦直後に蔵原,中野らはつぶされたプロレタリア文学運動の再建として民主主義文学運動をただちに発足させるが,それは政治主義の自己批判の不足などからジグザグの道をたどらざるをえなかった。
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百科事典マイペディア 「プロレタリア文学」の意味・わかりやすい解説

プロレタリア文学【プロレタリアぶんがく】

主として日本文学において,労働者階級の立場に立ち,社会主義思想に基づいて,現実を描こうとした文学をいう。労働運動の発達とともに1920年代小牧近江らの《種蒔く人》,《文芸戦線》の文学運動として現れ,昭和初期,労農芸術家連盟(労芸)とナップに分裂した後,1934年弾圧によって敗退し,転向文学があいついで書かれる事態を現出させた。が,そのさなかにも日本の近代以降の文学として特筆すべき作品を生んだ。しかし戦後,〈政治と文学論争〉などによって,プロレタリア文学運動,またその延長上にある民主主義文学運動のあり方,とくにその政治主義的な側面が強い批判を受けた。《海に生くる人々》の葉山嘉樹,《太陽のない街》の徳永直,《蟹工船》の小林多喜二がその代表的作家。→社会主義リアリズム
→関連項目青野季吉大宅壮一鹿地亘片上伸勝本清一郎蟹工船(文学)近代文学窪川鶴次郎傾向文学小林秀雄今東光佐多稲子市民文学白柳秀湖新興芸術派太陽太陽のない街日本浪曼派農民文学林房雄針生一郎平林初之輔文芸時代

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「プロレタリア文学」の解説

プロレタリア文学
プロレタリアぶんがく

大正末期頃からの,社会主義思想による文学運動および文学作品。芸術の階級性と歴史性を主張して,1921年(大正10)創刊の「種蒔く人」を先駆けに,革命党派の組織論・運動論に影響されながら展開した。24年に「文芸戦線」を創刊した日本プロレタリア文芸連盟を源流に,分裂と統合をくり返し,28年(昭和3)に結成されて機関誌「戦旗」によった全日本無産者芸術連盟(ナップ)派と,青野季吉・葉山嘉樹(よしき)らの「文芸戦線」派の対立のうちに推移。蔵原惟人(これひと)を理論的支柱とする小林多喜二・徳永直らナップ派が優勢を占めたが,弾圧と転向により,34年以降衰退した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「プロレタリア文学」の解説

プロレタリア文学
プロレタリアぶんがく

大正末期・昭和初期の文学運動
プロレタリアート(労働者・農民)の立場から,その思想や生活を描き現実を発展させようとする文学運動で,第一次世界大戦後の労働運動・社会主義の発展に伴って現れた。1921年創刊の『種蒔く人』に始まり『文芸戦線』『戦旗』などを中心に展開。葉山嘉樹 (よしき) ・徳永直 (すなお) ・小林多喜二・中野重治・青野季吉 (すえきち) ・蔵原惟人 (これひと) ・宮本顕治らがその中心となった。'34年ころ弾圧によって組織は解体。第二次世界大戦後,民主主義文学として復活した。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「プロレタリア文学」の解説

プロレタリア文学(プロレタリアぶんがく)

共産主義イデオロギーにもとづいて書かれた文学。ロシア革命後のソ連を中心に,1920~30年代には全世界でプロレタリア文学運動が活発に展開された。しかし,32年以後ソ連ではこの用語に代わって「社会主義文学」という言い方が採用され,戦後の日本などでも「民主主義文学」という用語が使われた。

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世界大百科事典(旧版)内のプロレタリア文学の言及

【日本プロレタリア作家同盟】より

…プロレタリア芸術運動団体〈ナップ〉の文学部が,1928年12月〈ナップ〉の改組に伴い,独立して日本プロレタリア作家同盟として結成されたもの。〈ナップ〉を構成する各領域のプロレタリア芸術団体のうちの中心的な部分となり,また,労農芸術家連盟(文芸戦線派)の社会民主主義的傾向に対立して共産主義文学運動の立場をかかげ,明治以来の絶対主義支配の圧倒的な重圧のなかで,ラディカルな文学闘争を展開してプロレタリア文学運動のヘゲモニーを握った。機関誌《戦旗》《ナップ》誌上を中心にはげしい論争を通して従来の文壇的な文学観念や理論を批判し去り,プロレタリア文学の創作方法理論,芸術運動理論を深化し,また革命文学のすぐれた作品と新しい個性をつぎつぎと提示し,これらによって日本の進歩的文学と大衆との結びつきをひろげるとともに,文壇をゆり動かして一時それにとって代わる勢いをさえ示した。…

※「プロレタリア文学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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