ホフマン(英語表記)Ernst Theodor Amadeus Hoffmann

デジタル大辞泉 「ホフマン」の意味・読み・例文・類語

ホフマン(August Wilhelm von Hofmann)

[1818~1892]ドイツの有機化学者。コールタールからアニリンを発見するなど、タール染料工業の基礎を築いた。また、アリル化合物やホルムアルデヒドなどの研究でも業績をあげた。

ホフマン(Albert Hofmann)

[1906~2008]スイスの化学者。幻覚剤LSDの開発で知られる。マジックマッシュルームの幻覚性成分の特定にも成功した。

ホフマン(Johann Joseph Hoffmann)

[1805~1878]ドイツの東洋語学者。シーボルトの助手として日本語を研究する一方、中国人について中国語を学んだ。ライデン大学の日本語教授となる。著「日本文典」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ホフマン」の意味・読み・例文・類語

ホフマン

  1. [ 一 ] ( Ernst Theodor Amadeus Hoffmann エルンスト=テオドール=アマデウス━ ) ドイツの小説家、司法官、音楽家。空想豊かな耽美的な夢幻の世界を描き、深い人間性を追求した。代表作は「黄金の壺」「牡猫ムルの人生観」など。(一七七六‐一八二二
  2. [ 二 ] ( Johann Joseph Hoffmann ヨハン=ヨーゼフ━ ) ドイツの日本学者。オランダでシーボルトの助手を勤め、のちライデン大学に日本学講座を開き、ヨーロッパにおける日本研究の基礎を築いた。著書に「日本語文典」など。(一八〇五‐七八

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改訂新版 世界大百科事典 「ホフマン」の意味・わかりやすい解説

ホフマン
Ernst Theodor Amadeus Hoffmann
生没年:1776-1822

ドイツの小説家,また作曲家でもあった。東プロイセンケーニヒスベルク(現,ロシア領カリーニングラード)に生まれる。同地の大学で法律を学び,司法官の道を進むが,音楽と絵画に熱中,また遺伝的に神経症を背負う。1802年高等官として任官,しかしナポレオン軍侵攻の動乱で失職,08年以降,バンベルクその他で音楽指揮者をつとめ,音楽評論も執筆。それらの評論はロマン派的音楽把握の頂点をなすと同時に,近代的音楽批評の先駆となる。この頃から文学にも手をそめ,16年ベルリン大審院判事に任命されたのちも,昼はすぐれた司法官,夜は文学仲間と飲酒にふける二重生活を送り,怪奇と幻想にみちた数多くの小説を書いた。それらの根底には芸術家的幻想と実務的現実という分裂的二元性があり,そこからアイロニカルな社会批判も生まれている。立身出世を求めながらも美しい蛇の化身への恋ゆえに夢幻の国のとりことなる大学生の話《黄金の壺》(1814),ある修道士の奇怪な運命とその一族の消滅を描いた長編《悪魔の霊液》(1815-16),自動人形への恋を仕組まれて破滅する青年の話《砂男》(1816),そのほか,シューマンのピアノ曲集表題に用いられた音楽論的小品集《クライスレリアーナ》(1814-15),犯罪小説《スキュデリー嬢》(1819),長編《牡猫ムルの人生観》(1820-22),《ブランビラ王女》(1821),官憲風刺の問題作《蚤の親方》(1822)などの作品がある。短編は上記のものも含めて大部分が《カロ風の幻想画集》(1814-15),《夜の画集》(1817),《ゼラーピオンの兄弟たち》(1819-21)にまとめられている。彼はアメリカの作家ポーなどに影響をあたえたほか,オッフェンバックのオペラ《ホフマン物語》の主人公ともなっている。作曲家としてのホフマンは,交響曲を含む多数の曲を書いたが,オペラ《ウンディーネ》(1816初演)がロマン派オペラの先駆的作品として大成功をおさめ後世まで上演された。
執筆者:


ホフマン
August Wilhelm von Hofmann
生没年:1818-92

ドイツの有機化学者。ギーセン生れ。法律を学ぶつもりでギーセン大学に入学したが,リービヒの感化を受けて化学に転じ,リービヒの助手を経て,1845年ロンドンに新設された王立化学大学に招かれ,20年間教授をつとめる。65年ドイツへ呼び戻されてベルリン大学教授となり,そこで没するまで研究を続けた。アニリンの本体をきわめ(1843),アミン類をアンモニア型の有機化合物として体系づけた(1850)。そのほか,〈ホフマン則〉(1851),〈ホフマン分解〉(1881)の発見,フクシンの研究に基づく合成染料〈ホフマンバイオレット〉の合成(1863),酸アミドを次亜塩素酸塩あるいは次亜臭素酸塩の作用でアミンに変える〈ホフマン反応〉の発見(1882)などの業績がある。これらの窒素化合物の合成と反応の研究は,その後ドイツで隆盛をきわめたタール工業や合成染料工業の基礎となった。ドイツ化学会を創設(1867),初代会長として活躍した。
執筆者:


ホフマン
Theodor Eduard Hoffmann
生没年:1837-94

ドイツの医師で,御雇医師としてL.B.C.ミュラーとともに1871年来日した。ブロツワフ,ベルリンの両大学に学び,トラウベL.Traubeについて内科学を修めた。海軍軍医となり,普仏戦争のため当初の予定より来日が2年遅れた。日本がドイツ医学を採ることを決したときの最初の招聘(しようへい)者の一人で,東校(東京大学医学部の前身)で内科学,病理学,薬物学などを教授した。74年より宮内省御雇に転じ,翌75年帰国した。ミュラーが13歳年長のゆえもあって主導権をもったため,日本側の対応も両者に差があった。日本で最初の穿胸(せんきよう)術・肋骨切除術を行ったとされ,脚気の研究をし,日本医学についての論及もある。
執筆者:


ホフマン
Josef Franz Maria Hoffmann
生没年:1870-1956

オーストリアの建築家,工芸デザイナー。O.ワーグナーの弟子でウィーン分離派(ゼツェッシオン)の創立者の一人。1903年モーザーK.Moserとともにウィーン工房を設立し,建築,室内装飾,家具調度品の多方面にわたる創作活動をし,アール・ヌーボー以後のデザインに深い影響を与えた。代表作ストックレー邸ブリュッセル,1905-11)には画家クリムトらが協力し,合理主義建築の空間造形をふまえながら細部には豊かな装飾を残している。プルケルスドルフ・サナトリウム(1904),パリの現代装飾・工業美術国際展オーストリア館(1925)などの建築作品のほか,いす,食器など工芸作品をデザインした。
執筆者:


ホフマン
Johann Joseph Hoffmann
生没年:1805-78

ドイツのビュルツブルク生れのオランダ人で,初期の日本学者。1830年アムステルダムでP.F.vonシーボルトに会ってその助手となり,のちライデン大学教授として日本学の講座を担当した。彼はシーボルトの大作《日本》(1832-51)の編集・刊行に協力したほか,日本書のオランダ訳の刊行にも尽力したが,とくにその著《日本文法Japansche Spraakleer》(1867)は,この方面における画期的な労作として記憶さるべきものである。本書はオランダ版と同時に英語版(再版1876)が,1877年にはドイツ語版も出ている。
執筆者:


ホフマン(ファラースレーベンの)
August Heinrich Hoffmann von Fallersleben
生没年:1798-1874

ドイツの詩人。ブラウンシュワイク近傍ファラースレーベンの生れ。1830年ブレスラウ大学の教授となるが,急進的な詩集《非政治的歌謡》(1840-41)のために罷免された。自由精神にあふれた愛国的な抒情詩のほか,歌いやすい民謡調の子供の歌や恋の歌で知られる。ドイツの国歌Deutschland,Deutschland über allesの作者としても名高い。
執筆者:

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化学辞典 第2版 「ホフマン」の解説

ホフマン
ホフマン
Hofmann, August Wilhelm von

ドイツの化学者.ギーセンに生まれる.1836年法律を学ぶために同地の大学に入学するが,J. Liebig(リービッヒ)の分析化学にひかれ化学に進む.1841年学位を取得し,コールタール中に得られた塩基性物質にアニリンの名称を与えた.1845年Liebigの推薦を受けてロンドンに新設された王立化学カレッジの教授になった.その後20年もの長い間,ロンドンで研究し,教育の面で多くの業績を残した.とくにコールタールとその誘導体の研究が重要である.かれの弟子の数は多く,W.H. Perkin(パーキン),S.E. Frankland(フランクランド),W. Odlingなど,のちのイギリスの化学に貢献する人材を輩出した.1865年ベルリン大学の教授となり,ドイツ化学会を創立し,機関誌Berichteを創刊するなど,ドイツ化学会,工業会の発展に尽力した.かれの研究室からは900の報告がなされており,アニリンの塩素化による置換説の実証(1845年),ヒドラゾベンゼン(1863年),ジメチルアニリン(1873年)の研究など,多くの発見があげられる.ホフマン反応(ホフマン転位)やホフマン分解もかれにちなむ.これらの研究の成果は,純理論的というよりは化学工業に顕著な貢献をした.1877年に出版された“近代化学入門”は好評を博した.1872~1874年,わが国の薬学の開祖長井長義が指導を受けている.


ホフマン
ホフマン
Hoffmann, Roald

ポーランド生まれのアメリカの理論化学者.第二次世界大戦下,ユダヤ人として収容されていた収容所から母と逃れ,解放後,各国のキャンプを経て,1949年にアメリカに渡る.1955年コロンビア大学に入学し,1958年ハーバード大学大学院に進学し,1962年学位を取得.在学中に9か月間モスクワ大学に交換学生として滞在.1965年にコーネル大学に移り現在に至る.大学院時代に理論化学を専攻し,W.W. Lipscomb(リプスコム)のもとで拡張ヒュッケル法プログラムを開発し,ホウ素化合物など無機化合物に応用したが,エタンの内部回転障壁が計算できたことから,有機化学への理論化学の応用を本格的に進めた.R.B. Woodword(ウッドワード)とともに化学反応における軌道対称性の保存則(ウッドワード-ホフマン則)を見いだし,電子環化反応における異性体の生成機構などの説明に成功した.さらに有機金属化合物や無機化合物,結晶系などの性質を軌道概念にもとづいて研究し,化学反応経路に関する理論的研究の業績で,1981年福井謙一とともにノーベル化学賞を受賞.近年は詩集や哲学的随筆も著している.

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百科事典マイペディア 「ホフマン」の意味・わかりやすい解説

ホフマン

オーストリアの建築家,工芸デザイナー。ウィーンでO.ワーグナーに学んだ後,1898年ゼツェッシオンを結成,1903年にはウィーン工房を設立した。建築設計のほか,諸芸術の融合を理想として,家具,什器(じゅうき)類,じゅうたん,ランプ等工芸のあらゆる面にわたって革新的なデザインを試みた。代表作であるストックレー邸には画家クリムトらが協力した。
→関連項目アール・ヌーボーウィーン工房ストックレー邸ドイツ工作連盟ロース

ホフマン

ドイツの後期ロマン派の小説家,音楽家。父母の離婚後,廃人同様の母のもとで,音楽,特にモーツァルトに陶酔して育つ。プロイセンの判事となるがナポレオン軍の進入により失職。オペラ作曲家,指揮者,音楽教師になる。弟子の少女ユーリアへの霊感的愛を体験,小説《黄金の壺》を書いた。1814年復職,以後昼は厳正で進歩的な判事を務め,夜は怪奇な幻想の赴くままに執筆。《悪魔の霊液》(1815年―1816年),《砂男》(1816年),童話《くるみ割り人形とねずみの王様》,自伝色の濃い未完の大作《牡猫ムルの人生観》などが代表作。E.A.ポーなど後の作家に影響を与えた。
→関連項目怪奇小説くるみ割り人形幻想文学コッペリア

ホフマン

米国の化学者。ポーランド生れ。1958年コロンビア大学卒業,1963年分子軌道法の〈拡張ヒュッケル法〉を発表,1965年にはR.B.ウッドワードとともに,有機分子の反応性と分子軌道の対称性とを関係づけた〈ウッドワード‐ホフマン則〉を発見。これらの業績により,1981年,福井謙一とともにノーベル化学賞を受賞。

ホフマン

ドイツの有機化学者。初め哲学・法律を学び,のち化学に転じリービヒのもとで研究。1845年ロンドンの王立化学大学設立とともに招かれ以後20年間同校教授,1865年ベルリン大学教授。アニリンおよびその誘導体を研究し,多くの有機化合物を発見。酸アミドに臭素などを作用させてアミンをつくる反応(ホフマン分解)を発見した。ドイツ化学会の創立に貢献し,初代会長。

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朝日日本歴史人物事典 「ホフマン」の解説

ホフマン

没年:1945(1945)
生年:1875
明治期に来日したお雇い外国人。オーストリア人技師。明治37(1904)年7月から42年6月まで東京帝大農科大学教師として招かれ,オーストリアの砂防治山技術を日本にはじめて伝えた。38年瀬戸市で林学科学生川添孝蔵の卒業論文の課題として造った施設(ホフマン工事)がその名残り。この工事の特徴は「植樹をせず山地の崩壊を自然にまかせ,流砂の止まるのを待つところ」にあった。しかしその後,このホフマンの考える土工的方法は採用されず,「堰堤を造るのは一時の応急手段,水源地に植樹して土砂の流出を止める」という土工と植樹を合わせた工法が定着した。帰国後ウィーン高等地産学校教授,イタリア国有林の長官に就任した。

(筒井迪夫)


ホフマン

没年:1894.4.1(1894.4.1)
生年:1837.10.17
明治期に来日したお雇い外国人。ドイツ人医師。フリードベルク生まれ。ベルリン大などで学び,内科学を修める。海軍軍医。明治4(1871)年,陸軍軍医のミュラーと共に最初のドイツ人教師として明治政府に高給をもって招かれる。大学東校(東大)で内科学,病理学を中心に,ときには薬物学をも教授した。ミュラーの権限が大きく,かつ年齢も13歳離れていたので,ややもするとその陰に隠れたが,穿胸術,肋骨切除の他,脚気研究を行い,日本医学についても論及した。7年秋より宮内省に勤務し,在日約4年で明治8年帰国。ベルリンで死去。

(長門谷洋治)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者) 「ホフマン」の解説

ホフマン

ケーニヒスベルク大学で法律を専攻し、陪席判事や高等裁判所の判事を本職とした。その傍ら、小説家や音楽評論家、作曲家としての顔ももった。大学時代に法律と並行してピアノや対位法を学び、司法修習生時代にはベ ...続き

出典 (社)全日本ピアノ指導者協会ピティナ・ピアノ曲事典(作曲者)について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ホフマン」の解説

ホフマン Hoffmann, Johann Joseph

1805-1878 ドイツの日本学者。
1805年2月16日生まれ。1830年ベルギーのアントワープでシーボルトにであい,その助手となり「日本」の編集,刊行に協力。1855年オランダのライデン大日本学初代教授となった。1867年日本語文法書「日本文典」をあらわした。一度も来日しないまま1878年1月19日死去。72歳。ビュルツブルク出身。

ホフマン Hoffmann, Theodor Eduard

1837-1894 ドイツの医師。
1837年10月17日生まれ。ベルリン大などでまなぶ。新政府のドイツ医学採用で,明治4年(1871)B.ミュラーとともに来日。大学東校(東大医学部の前身)で内科学,病理学,薬物学をおしえた。のち宮内省にうつり,8年帰国。1894年4月1日死去。56歳。フリートベルク出身。

ホフマン Hohuman, Amerigo

1875-1945 オーストリアの砂防工学者。
明治37年(1904)東京帝大農科大学の教授としてまねかれ来日。砂防ダムを中心とするオーストリアの高山系砂防技術を日本に紹介した。42年帰国。享年70歳。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ホフマン」の解説

ホフマン
Theodor Eduard Hoffmann

生没年不詳。明治初期の御雇外国人。ドイツ人医師。ブレスラウとベルリン両大学で内科学を修めたのち,1871年(明治4)外科医ミュラーとともに来日。海軍軍医少尉。大学東校で内科・病理学を教授。73年,脚気と間欠熱で死亡した男性をデーニッツとともに解剖した。日本の特志者以外の病理解剖第1号。75年帰国。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「ホフマン」の解説

ホフマン
Ernst Theodor Amadeus Hoffmann

1776~1822

ドイツのロマン主義の小説家。昼はまじめな司法官として勤め,夜は酒に溺れながら,怪奇な幻想,鋭い風刺,痛ましい悲劇の交錯する特異な作品『黄金の壺』『悪魔の妙薬』などを書いた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ホフマン」の解説

ホフマン
Ernst Theodor Amadeus Hoffmann

1776〜1822
ドイツ−ロマン主義の小説家・音楽家
幻想と風刺に満ちた作品を書いた。著書『牡猫ムルの人生観』。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

367日誕生日大事典 「ホフマン」の解説

ホフマン

生年月日:1837年10月17日
ドイツの海軍軍医
1894年没

ホフマン

生年月日:1805年2月16日
ドイツの日本学者
1878年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のホフマンの言及

【怪奇小説】より

…怪奇と超自然を栄養分とした文学は,人間精神を理性や道徳の枷(かせ)から解放し,想像力の自由なはたらきを助長した点で,ロマン派芸術運動の目覚めをもたらしたのである。例えば,ドイツではL.ティーク,E.T.A.ホフマン,J.C.F.シラーなどが,ゴシック・ロマンスに影響を受けた作品を多く発表した。ホフマンの《悪魔の霊液》(1815‐16)が,イギリスの作家M.G.ルイスの《修道僧》(1796)を下敷きにしていることは有名であるが,ホフマンの文学は逆にロベルト・シューマンなど,ドイツ・ロマン派の音楽家に構想の素材を提供した。…

【児童文学】より

…ベヒシュタインL.Bechsteinの《ドイツ童話の本》(1844)がそれにつづく。一方では,L.ティーク,ブレンターノ,F.de la M.フケー,E.T.A.ホフマンが不思議な物語を手がけ,その流れから創作としてぬきんでたW.ハウフの《隊商》(1826)が生まれた。T.シュトルムやA.シュティフターにも子どもに向く作品はあるが,レアンダーR.Leanderの《フランス風暖炉のそばの夢想》(1871)とザッパーA.Sapperの《愛の一家》(1906)が大きな収穫となった。…

【ホフマン物語】より

…フランスの作曲家J.オッフェンバックが作曲したプロローグとエピローグをもつ3幕のオペラ。J.バルビエとM.カレーの台本により,ドイツ・ロマン派の作家で作曲家のE.T.A.ホフマンの小説のいくつかから自由に題材をとって作られている。主人公のホフマンを中心に三つの恋の物語を展開するという筋で,ニュルンベルクのとある酒場を舞台に繰り広げられる。…

【ロボット】より

…人間が機械から区別される要因は,魂や理性をもつことにもとめられたが,18世紀にはこれすら機械的な本質をもつとする考え方も生じた。 これらの動向を背景に19世紀に入ると,文芸の方面でE.T.A.ホフマンの《砂男》(1816)に機械の舞姫オリンピアが登場する。また,M.シェリーの《フランケンシュタイン》(1818)の怪物は,人間や動物の死体の不細工な寄集めだが,この作品は,擬似科学的な書きぶりと,人間のつくったものが人間に反逆するというSFの基本テーマをふまえている点で,正統的なロボット文芸の始祖と目される。…

【ロマン主義】より

… ドイツでは,1770年ころからフランスの文化支配を脱し,啓蒙主義に対抗して個人の感性と直観を重視する反体制的な文学運動シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)が展開されたが,そのほぼ20年後にシュレーゲル兄弟,ティーク,シュライエルマハーらによって提唱されたロマン主義文学理論は,この運動の主張を継承し,フランス古典主義に対抗するものとしてのロマン主義を明確に定義づけ,古代古典文学の再評価とドイツに固有の国民文学の創造を主張した。フィヒテやヘーゲルの観念論哲学と密接な関係をもったドイツ・ロマン主義文学は,自我の内的活動の探究,夢と現実あるいは生と死の境界領域の探索,イリュージョンの形成と自己破壊(アイロニー)などを主題とするきわめて観念論的かつ神秘主義的な色彩を帯び,ノバーリス,J.P.リヒター,ホフマンらの幻想的な作品を生み出した。 フランスにおけるロマン主義は,ルソー以来の前期ロマン主義の精神風土の上に,スタール夫人のドイツ文学理論の紹介《ドイツ論》や,ゲーテやバイロンの作品の翻訳の刺激を受けて,両国に比べやや遅れて始まったが,よりいっそう激しい華やかな展開を見せた。…

【ロマン派音楽】より

… 上記の認識自体,ロマン主義芸術観の所産であった。ティークE.T.A.ホフマンら多くの作家が,音楽のうちに詩(ポエジー)の究極的理想像をみている。したがって音楽にロマン主義が浸透すると,それが果たす役割は他の芸術に比べても著しいものがあった。…

【日本研究】より

… 来日せず日本を論じた学者としてはまずルネサンスのフランス人文学者G.ポステルがあり,《東インド会社遣日使節紀行(モンタヌス日本誌)》(1669)を書いたオランダの宣教師モンタヌスArnoldus Montanus(1625‐83),上記のシャルルボアがある。シーボルトの助手を務めたJ.J.ホフマンは1835年ライデン大学教授となり,40年に《千字文》,42年に浅野高蔵の《和漢年契》のオランダ語訳,48年には上垣守国の《養蚕秘録》のフランス語訳をパリとトリノで出版,67年には《日本文法》を出し日本学に多大の寄与をしたが,1848年に柳亭種彦の《浮世形六枚屛風》を訳し,72年《万葉研究》を刊行,78年オーストリア学士会員となったフィッツマイヤーAugust Pfizmaier(1808‐87)と同じく,来日はしていない。中国学Sinologyが早く確立したフランスでも,中国学者S.ジュリアンの弟子ロニーLéon de Rosny(1837‐1914)は日本研究に移り,1863年からパリ東洋語学校で日本語を教え始め,68年から正規となったこの講座の教授を1907年まで務めたが,来日はしなかった。…

【ウィーン工房】より

…19世紀末に,全欧を巻き込んだ新しい芸術創造を目ざす気運の一環としてゼツェッシオン(分離派)が組織されたが,その理念の工芸面における実践を図ろうとしてつくられた。1903年ウィーンの建築家J.ホフマンやモーザーKolo(man) Moser(1868‐1918)らによってウィーン分離派所属の工芸品製作所として設立。05年独立の工房となり有能な美術家と工芸家をともに擁し,建築,室内装飾,家具,織物,ガラス細工,陶器,金銀細工,皮革,宝石,レース,ししゅう,本の装丁,喫煙具に至るまで新しいデザインを凝らして製作し,工房マークの〈W.W.〉を記し,さらにその販売組織をもって当時の流行を大きく支配した。…

【デザイン】より

…同時にそれは社会・経済的には,資本主義が〈レッセフェール(自由放任主義)〉から制限された方向に向かうことに対応していた。またウィーンのゼツェッシオン(分離派),とくに建築家J.ホフマンらを中心に1903年設立されたウィーン工房は,機能性と直線の合理性を強調し,建築と工芸各分野で近代の新しい造型を目ざしたが,いまだ装飾芸術の範囲にとどまっていた。装飾性を切り捨て,生産主義,機能主義に立つ近代デザインの思想が現れてくるのは,イギリスの住宅の調査から機能主義をひきだした建築家ムテジウスHermann Muthesius(1861‐1927)によるドイツ工作連盟Deutscher Werkbundの設立(1907。…

【医学】より

…たとえば,ハーベーの血液循環論は,静脈内に直接薬物を注入すれば,内服や外用よりはいっそう早く全身へ運ばれるであろうという期待を生み,1660‐70年にかけて,血液をはじめ種々の物質の注入が患者に対しても試みられ,多くの事故を生んだ。また物理的医学派の一人F.ホフマンは,身体の単位的な構成要素としての繊維という概念に達し,あらゆる機能を,この繊維の緊張・弛緩によって説明し,病気は,それぞれのゆきすぎ状態としての過緊張か低緊張,あるいは無緊張であると理論的に単純化したうえで,過緊張に対してはアヘンを,低緊張に対しては酒精(スピリッツ)を処方すべきであると主張し,多くの賛同者を得た。化学的医学派としては,パラケルススJ.B.vanヘルモントF.シルビウスらがいる。…

【ミュラー】より

…ハイチ国に招かれたのち普仏戦争に従軍,陸軍軍医正となる。1869年,日本はドイツ医学の採用につき同国に教師の派遣を依頼したが,普仏戦争で来着が遅れ,71年(明治4)にミュラーと,彼が選んだ13歳年少のT.E.ホフマンの2人が来日した。ミュラーは文部卿のすぐ下にあって,他の日本人の指示を受けない絶大な権力をもって医学教育と診療にあたり,予科3年,本科5年の本格的な医育制度を推進した。…

【化学工業】より

…コークスや石炭ガス需要が増大するにつれ,それまで廃物として取扱いに困っていたコールタールを有効に利用することが考えられるようになった。A.W.vonホフマンを中心にコールタールの分析が進み,芳香族炭化水素であるベンゼンが発見された。1856年には弟子の一人であるW.H.パーキンが,ベンゼンからアニリン染料〈モーブ〉を合成するのに成功した。…

【コールタール】より

…昔は木材の防腐剤などの用途しかなかったが,コールタールの成分に関する化学的研究が進むにつれ,その工業的な利用の道がしだいに開かれ,19世紀から20世紀前半にかけては,コールタールを中心とする石炭化学は有機合成化学工業の花形として不動の地位を占めていた。 コールタールの化学成分の研究を回顧すれば,1819年にA.ガーデンがナフタレンを発見,また45年にA.W.vonホフマンがベンゼンの分離に成功したのをはじめとして,56年にはW.H.パーキンがコールタールから初めてふじ色の染料モーブ(アニリン紫)の合成に成功した。これらに続いて19世紀後半からは合成染料,医薬品工業が発展し,コールタールはその基礎原料として不可欠の重要な資源となったのである。…

※「ホフマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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